呑仙士

 筆者は酒が一滴も飲めないのに、友達は皆酒豪ばかりと言っていい。しかも現代を超越した呑仙士ノンセンスばかりで、奇抜、痛快の形容を絶した逸話をノベツに提供して、筆者の神経衰弱を吹き飛ばしてくれる。
 福岡の九州日報社という民政系の新聞社にいる頃、社員で酒を飲まないのは私一人であった。
 私と一緒に地方版の編集をやっていた松石という男は、月末近くなると、茶褐色に変色したカンカン帽を持って、一巡する。一銭入れる者もあれば、十銭入れるものも在る。運よく原川社長(旧民政系代議士)が来合わせると五十銭ぐらい入れて貰ったりして感激の涙にむせんで帰って来る。
 むろんその金で飲みに行くのだ。飲まないと頭が変テコになって仕事が続かないので、止むを得ない義金募集なのだそうだ。
 ある時、松石君、大枚三円なにがしを収穫したので、帰りみちのウドン屋に寄って大いに飲んだ。そばで飲んでいたサラリーマン風の男と非常な親友になって、スッカリ肝胆照してしまった。将来、死生を共にしようと言う処まで高潮したので、とにかく今夜は俺の家に来いと言う事になって、グデングデンになっている奴を引っぱって帰ると、出迎えた細君に残りのバラ銭を一掴み投げ与えた。大至急に酒を命じて二階に上った。
 それから二階で又盛んに飲んで、歌って、死生の契りを固めているうちに、とうとう飲み潰れて二人ともグウグウ寝てしまった。
 あくる朝松石君が眼を醒ますと、傍に知らない男が寝ている。ハテ、何処の宿屋に泊ったのか知らん……と思って天井や床の間を見廻すと、たしかに自分の家である。
 松石君は仰天して二階から駈け降りた。台所で赤ん坊を背負って茶漬を喰っている細君を捕えて詰問した。
「二階の男はアリャ何だい」
 細君も仰天した。
「……まあ……アナタ御存じないの」
「知るもんか。あんな奴……」
「あら嫌だ。昨夜ゆうべ、貴方が親友親友って言って連れて来て、二階でお酒をお飲みになったじゃないの。そうして仲よく抱き合ってお寝みになったじゃないの」
「馬鹿言え。俺あ今朝初めて見たんだ」
 細君は青くなってしまった。
「まったく御存じないの」
「ウン。全く……」
 そんな問答をしているうちに、松石君はやっと昨夜の事を思い出したので、思わず頭を掻いて赤面したと言う。
「困るわねえ。貴方にも……まだ寝ているんでしょう」
「ウン。眼をウッスリと半分開いて、気持よさそうに口をアングリしていやがる」
「気色の悪い。早く起してお遣んなさいよ。モウ十時ですよ」
「イヤ。俺が起しに行っちゃ工合が悪い。お前、起して来い」
「嫌ですよ。馬鹿馬鹿しい」
「でもあいつが起きなきゃあ、俺が二階へ上る事が出来ない。洋服も煙草も二階へ置いて来ちゃったんだ」
「困るわねえ」
「弱ったなア」
 そのうちに二階の男が起きたらしくゴトゴトと物音がし始めた。
 ……と思ううちに突然、百雷の落ちるような音を立てて、一気に梯子段を駈け降りた。玄関で自分の靴に足を突込むと、バタバタと往来へ走り出て、いずこともなく消え失せて行った。
 夫婦は眼を丸くして顔を見合わせた。
 腹を抱えて笑い出した。
「よかったわね、ホホホホ」
「アハハハ。ああ助かった。奴さん気まりが悪かったんだぜ」
「それよりも早く二階へ行って御覧なさいよ。何かなくなってやしないこと……」
 松石君の古いカンカン帽が、その日から新しくなった。昨夜の親友が間違えて行ってくれたものだったという話。

 同じ社友で、国原三五郎というのがいる。これに準社友の芋倉長江画伯を取り合わせると古今の名コンビで、弥次喜多以上の悲惨事を到る処に演出する。
 大正何年であったか正月の三日に、国原がフロックコートで初出社をすると、左手の甲に仰山らしく繃帯をしている。見ると夥しく黒血がニジンで乾干ひからび付いている。トテモ痛そうである。
「どうしたんだい。正月※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそう……」
 と聞いてみると国原は、酒腫れに腫れた赤黒い入道顔を撫でまわした。
「ウン。昨日社長の処で一杯飲んで帰りがけに、芋倉長江が嬉しいと言ってここに喰い付きやがったんだ。俺を西洋の貴婦人と間違えてキッスするのかと思っていたら、飛び上る程痛くなったから大腰で投げ飛ばして遣ったんだ。まだズキズキするが、右手でなくてよかった」
 と言って涙ぐんでいる。
 そこへ当の芋倉長江画伯が、死人のような青い顔に宗匠頭巾、灰色の十徳という扮装で茫々然と出社して来た。見ると向う歯が二本、根元からポッキリ折れて妙な淋しい顔になっている。私は驚いて、
「ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずいぶく」]非道くい付いたもんだね」
 と慰めて? 遣ったら、長江画伯イヨイヨ茫然とした淋しい顔になって眼をパチパチさせた。
「イヤ。これはいつ打たれたのか、わからないのです」
 と謙遜? するのを横合いから国原が引き取った。
「ウン。それは僕が知っとる。僕が君を投げ飛ばして遣ったら、君はイヨイヨ嬉しいと言って横に立っていた電信柱に喰い付きよった。その時に柱に打ち付けて在る針金に前歯が引っかかって折れたんだ。僕は君の熱心なのに感心して見ておったよ」
 という話。
 トタンに私は酒が飲みたくなった。いまだ嘗て電信柱に啖い付くほど嬉しい眼に合った事がなかったから……。

底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「モダン日本 6巻2号」
   1935(昭和10)年2月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月23日作成
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