実さんの精神分析と言っても、私が実さんの精神を分析するのじゃない。実さんが自分の精神を分析して見せる事が多いことを言うのである。モウ一歩進んで言うと、実さんの能は非常に精神分析的であるという……そのことを言うのである。
「喜多」の第何号であったか、誰であったか記憶しないが、いずれにしても最近の事のように記憶する。実さんの能は、喜多流内のほかの人のと違って一種異妖な感じがする……とタッタ一コト書いてあった。それを見た刹那に私は何かしらヒヤリとさせられるものがあった。さてはアレに気付いているのはオレ一人じゃないな……と思ったので……。同時にその異妖な感じの本源を、誰かが突き止めて明るみにサラケ出したら、妖怪実さんが、「ギャッ」と叫んで寂滅しはしまいか。平々凡々の喜多実となって、二度と能が舞えなくなりはしまいか……といったような気がしたので……。
 女というものの気持はエタイがわからない。だから魅力があるのだ。と西洋の頭のいい奴が言ったそうである。だから実さんの能にあらわれる妖気もエタイがわかったら魅力がなくなるかも知れぬ。
 実さんの風采は何だか能楽師らしくない。剣劇の親分か、ジゴマのエキストラみたいなスゴイ処がある。しかしよく気を付けてみると実さんの舞台上の妖気はその風采から出て来るのではない。その証拠には平常向い合って話していると、あの風采がソックリそのまま、実にタヨリない、涙ぐましい位のお坊ちゃんに見えて来る。無論、喧嘩なんぞは絶対に出来ないヘロヘロ腰の臆病者で、精神的のスゴミなんぞはミジンもない。
 ところが実さんの能を見ると、六平太先生や粟谷、後藤の諸先生はもとより、他流の諸先生の何人とも全然違ったスゴ味が全体に横溢している。桜間金太郎氏の演出なぞは素人眼にはスゴミが横溢しているようであるが、よく見ているとそのスゴ味は金春一流の意識的な気合い(アテ気と言っては過ぎる)から生まれたものであることが次第次第にわかって来る。これに反して実さんのは表面的にパッと来るスゴ味はない代りに、能全体が見れば見るほど悽愴たる感じがして来る。その間からシンシンと一種の妖気がほのめき出る。アレは何であろうか。
 六平太先生のお能を見ていると花園の中を行くような……又は名画の連続を見るような有難い……トテモ気楽な気持になる。文句なしにいいお能だなと思わせられる。そのほか粟谷さんの宛転自在さ。後藤さんのお手本のようにコックリとした演出味なぞ、いずれも立派な明るい、舞台表現として頭を下げさせられるが、実さんのお能を見ると、そんなものがちっとも感じられない。サッパリ面白くない。暗い。つまらない。荒地の中で建築の骨組だけ見せられているような気持になることが多い。どうかすると面と装束を着た骸骨が、型通りに謡い舞っているように見えたり、又は何処かの拳闘の選手が、昔の大家の霊に魘されながら、醒めよう醒めようと苦悶しいしい演じているようにも見える。舞台の何処かで眼に見えない鬼火がトロトロと燃えているような……ソンナ時のスゴイこと……。そうしてただそれだけである。実さんのお能から感受されるものはソレ以外に何物もない。白い骸骨と青い鬼火だけ……これは何故であろうか。
 これは説明しない方がいいかも知れない。又説明出来ないものかも知れない。現代の能楽界でタッタ一人そんな能を舞い得る青年として、ソッと取って置く方がいいかも知れない。この考えは同感の人が些くないであろうと思う。
 ところが豈計らんやである。実さんは日常到るところで、そうした妖気の出て来る原因を公表している。そうして泣きそうな顔をしたり、アハハと笑ったりしている。わかったとかわからないとか言って……。つまり自分でもわかっていないのじゃないかとも思うが。
 実さんと交際して第一に気付くのは世間的の知識がゼロと言うことである。銀座の往来の左右に電気ストーブを並べてパーッと暖かい空気を放射させる設備をなぜしないのだろう……などと真剣に質問する。内弟子の末輩とムキになって喧嘩したり、芸の上の議論でズブの素人と口角泡を飛ばす位の事は日常茶飯である。極端に言えば能以外の事は一種の痴呆と言っていいであろう。
 ところが能の事となると、まるで違う。世間の事に対して非常識な程度にまで無関心であるのと正反対に、非常識な程度にまで突っ込んで研究する。勿論、能楽としての常識や技術は人の知らない間に知りつくし備えつくしているのは、十五の年に六平太先生の道成寺の鐘を引いた一事でもわかる。ホントか嘘か知らないが、他人に聞かれた時の用心に楽の中の拍子の数を数えたと言う話である。これなんかは一方から見たら馬鹿馬鹿しい話かも知れないが、とにかく万事がそんな風で、どこまで研究が行き届いているのか、吾々素人には見当が付かない。そうしてその上にその上にと自分の尻ベタに鞭打っている。家元としてコレ位出来ていればまず……なんて考え方は毛頭ない。しかも実さんの舞台上の妖気はそこから生まれて来るのだ。
 実さんは「僕から能を除けばゼロだ。今に能では喰えなくなる時代が来たとしても仕方がない。ほかの事はやる気がしないからね」と淋しそうに言う。しかも内心は安心し切っているらしいので、死ぬまで謡いそうな決心がほの見える。そこに実さんの舞台上の妖気が生まれる第一の根本原因がある。
 そんな気持だから実さんは毎日毎日寝ても醒めても自分の尻をタタイて、能の世界の奥へ奥へと盲進していなければ生きていられない。その結果、見物の批評とか、家元としての資格とか言ったような、世間的、もしくは人間的な研究の対照標準をトックの昔に超越してしまっている。そうしてこの頃では芸術とか非芸術とか言ったような相対的な批判区域までも一気に駈け抜けて、一望漠々たる砂漠を息のあらん限り走っては倒れ、倒れてはよろめき走りしているように見える。甚だ想像を逞しくした言い現わし方であるが、実さんの芸を見ているとソンナ気がするから仕方がない。実さんが舞台上に発散する妖気のあらわれは、そうした心境の奥の奥からほのめき出る痛々しい感じを多分に含んでいるのだ。
 実さんは自分の一刹那の気持を分析する力が極めて強い。サシの型一つを練習するのに何十遍となくサシてみても、そのサシが純粋にならないと、忽ち両脚を踏みはだけて、両手を肩の処から振り千切るように振りまわす。それから又繰り返してサシてみても息が切れて、汗が出るばかりでうまく行かない。トウトウ悲鳴をあげて「誰か背後から突き飛ばしてくれ」と叫んだりする。それが十六、七の時代のことである。毎晩袴を穿いて、扇を抱いて寝ていてハッと眼をさますと、すぐに舞台に飛び上ったのもその頃の事だ。だから今でも実さんが舞台に立つと臓腑がキリキリと巻き締まって、毛穴がピッタリと閉じるのが眼に見えるように思う。血の気がなくなって、奥歯がギューと締まって夏も冬もわからなくなる……それが実さんの妖気の正体だ。能ではない。芸術でもない。悽愴たる鍛練の妖気だ。抜いただけで人が斬りたくなる剛鉄の妖気だ。
 こうした性格の反映として実さんは非常に大先生の言葉を気にする。素人評を問題にもする。甚だ矛盾しているようであるが、実はチットモ矛盾していない。吾々から見ると何でもない事を飽くまで突張ったり、考えたりして持ち悩む。しかしそうしていろいろと分析して成る程というドン底がわかると、アトはケロリとして忘れてしまっている。つまり非常に欲が深いからで、一物も余さず分析しつくさねば止まぬ。一物も余さず分析しつくして見せる……という確信を持ってかかっているのだから、恐ろしい。その恐ろしさが、やはり舞台面の妖気となって随所に発散している。化学分析に伴う異臭と同様に精神分析の異臭が、実さんの舞台表現となって発散するのだ。硫酸か塩酸のようにスゴイ……。
 だから実さんの恃むところは唯一つ「不退転の勇気」そのものである。鉄壁でも切りまくる。骨が舎利になっても前進する。そうしなければ一刻も生きていられないからだ。……昨日の成功は今日の不満になっている。讃められたり方は二度とやらない。わかったらそれ以上のどうしていいかわからない処まで突き抜けて来なければ安心出来ない。或る時は口に凝り、或る時は扇に凝る。どうしていいかわからないから結局そんな事になるのだ。馬鹿も承知。キチガイも合点。決勝点なんか無論ない。お前は何処へ行くと聞かれても、何故そんなに走ると問われても、無論返事は出来ない。
 かくして人間世界の戦場は通り越して、他人は勿論のこと自分でもわからない暗黒世界にグングン斬り込み斬り込んで行く。そのうちに夜が明けたら外に誰もいない。自分が相手だったことがわかるかも知れないが、その夜がナカナカ明けない。業劫以前から尽未来際に亙る虚無世界だから。だから実さんのハコビがあらわす妖気には、そうした虚無と暗黒のほのめきが深い。
 自己分析の強い人間は自然ニヒリストになる。だから実さんは、自己の代りに能を否定し尽していると言える。同時に自己をドン底まで能として肯定すべく、自己芸風のすべてを破壊すべく努力している能楽界の闘士と言える。「僕は何もかもぶち壊してウッチャッてしまうんだ。その代りに拾い上げる時は何もかも一時だよ」と嘗て筆者に言った事がある。筆者はその時に笑って「スッカリ捨ててしまった時が拾い上げた時だ。しかし捨て切れるものじゃない。捨てても捨てても捨て切れないものが残ったまま一生を終るのが落ちだろう……」と笑ったことがある。それが実さんのヤハリ十七、八の時だ。
 ところがこの頃、実さんに会って話しているうちに、「一声ってものは引っ張り加減がわからないので困るね」と言ったら、実さんはあの大眼玉をギョロ付かせて「一声はやさしいよ。次第が一番六カしい」と言った。それから間もなく或る人に次第を稽古しているのを聞いたら、何よりも先にそのモノスゴイ大きさの中から感ぜられる底知れぬ妖気に驚かされた。修羅道で敵手を喪った大将軍が、血刀を提げてクラ暗の中を見まわしているような悽愴たる感じが一パイに籠っていた。むろん曲柄とは全然合わない感じであったが、実さん自身は「こうしか謡えない」という顔をしていた。
 実さんの中には芝居気もあればアテ気もある。お能気分はむろん充満している。しかし実さんはそんなものを皆タタキ殺して、その上に存在する絶対永久の虚無と闘っているのだ。うしろを振り向かずに前進しているのだ。しかもその虚無はあらゆる哲学、宗教、道徳、芸術の行き止まりに存在するものでなければならぬ。一切の机上の空論、中途半端な観念が何等の用もなさぬ真実の無間地獄……と聞いてはいるが、まだ実際に見た事はない。しかも実さんの舞台上の妖気は如実に、そうした虚無世界の存在を証明している……否……その意味で見なければ実さんの能は何等の価値をもあらわさないのだ。
 南無阿弥陀仏と言いたくなるその妖気……その虚無世界……その中にさまよう実さんの芸的ルンペンぶり。
 実さんは嘗て、いろいろな人の芸風を評した後にコンナ事を言った事がある。「アトに印象の残る能は能とは言えないね」と……これは一切の芸術界に対してこの上もなく不遜※[#「にんべん+濳のつくり」、450-上-6]越な反逆的言辞とも思われようが、しかし筆者は思わず頭を下げたのであった。万古の真理と思ったからである。そうして付け加えた。「能はそうした表現を生み出すために存在しているのだね」と。敢えてここに記して置く。
 これを要するに実さんの芸は下手である。下手も下手、この上に洗練しようのない下手である。どうにも救いようのないルンペン的下手である。だから六平太先生も、あまり実さんには苦情を言われないのじゃないかと思う。
 どうです実さん。ここいらで成仏してくれませんか。たまらないオイシイ能を見せてくれませんか。オムレツの焼き立てのような……タッタ一度でもいいです。

底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「喜多」
   1932(昭和7)年9月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
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