一

 先日、長野県下水内郡水内村森宮の原の雪野原で行なわれたラジオ映画社の「人食い熊」の野外撮影を見物に行ったとき、飯山線の森宮の原駅の旅館で、この地方きっての熊撃ちの名人に会った。そして僕は、この名人と一杯やりながら、吹雪の夜を語りあかした。
 この名人は、同県上高井郡仁礼村字米子の住人で、上原武知君と呼び、本年未だ四十五歳の壮者である。この野外撮影は、北海道から持ち来ったひぐまと朝鮮牛とを格闘させて両者の猛撃振りを実演させるのであるから、万一羆が柵外へ跳り出して人に飛び掛からぬとも限らない。
 そこで映画会社では、この上原名人に出馬を乞い、万一の場合、一発のもとに羆を射殺して貰う手段を立てた。上原名人はこれを快諾して米子から森宮の原まで命と同じくらい大切な猛獣狩り用の鉄砲を肩にしてやってきたのである。
 上原君は、熊撃ちをはじめてから未だ僅かに七年しかたっていない。であるのに、去る二月二十七日までに四十四頭の月の輪熊を斃している。この地方の山村には、信州側にも越後側にも幾人もの熊撃ちがいる。ところが上原君は数年にして他を圧して一躍名人となってしまったのは、同君が豪胆にして射撃が正確、そして健脚であるからであった。
 この名人が縄張りとして跋渉している山は、上州と越後と信州の三国が境する白砂山からはじまり、西へ大高山、赤石山、横手山、渋峠、万座山、猫岳、四阿山、六里ヶ原などの深い渓谷と密林と懸崖であって、その健脚の歩く速さは熊よりも速いと称されるのであるから、この地方の熊共は上原君の体臭を嗅ぐと逸早くどこかへ姿を隠してしまうという。
 それでも上原君は、一度熊の臭いを鼻にするとそれを追って追って、追い抜くのである。
 だが上原君は獰猛な面構えは持っていない中肉中背で、愛嬌のある黒い丸い顔の持ち主、小さなくりくりした丸い眼がまことに可愛らしい。名人はぼつぼつと語りはじめた。
 昔は、槍で熊を突いたそうですが、私は槍を使ったことはありません。専ら筒の短い鉄砲を用いています。筒の短い鉄砲を選んだというのは、私は遠撃ちをしませんからで、また叢林や藪や※(「山+険のつくり」、第3水準1-47-78)しい崖を這ったりするので、筒が長いと邪魔になるからです。
 遠撃ちでは、一発のもとに仕止めることは不可能です。ですから私は、熊を自分の近くへ引きつけるだけ引きつけて置いて、これを撃つのです。三尺から六尺ほどの間隔。熊の手が私のからだに届く一歩手前のところでぶっぱなすのが、最も正確で安全であると思います。
 しかし、熊撃ちをはじめた最初のころは、随分怖ろしくて、からだががたがたふるえたものです。そのため幾度が撃ち損じたものですが、この頃は度胸が据わったためか、撃ち損じということはありません。幸いのことに、今まで幾度か危険な場合に遭遇したこともありますが、一度も怪我したことがありません。これは私の身が軽く、咄嗟の間に身をかわすことができるからだと思います。

  二

 二、三年前、こんなことがありました。猫岳の裏山の崖になっているところです。そこで穴を見つけました。入口は直径五尺ほど、なかなか深い穴です。臭いを嗅いでみると、たしかにいる。
 穴の入口で火を焚いて穴のなかへ煙を送り込みました。熊は煙にむせると、穴から飛び出すものです。私は穴から四、五尺はなれて鉄砲を構えて待っていた。
 矢庭やにわに、穴の入口に顔を出した。大物です。四十貫もある巨熊です。私は、熊の額へ銃口を押しつけるようにして、引金を引いた。ところが、不運にも不発なのです。
 私は二連銃は使いません。二連銃ならば続いて撃てたのでしょうが、私のように崖を這い岩をよじ登る猟人であると鉄の薄い二連銃では銃口が傷ついて使えなくなるので常に単発ばかり用いていました。
 熊は穴から飛びだし、後脚で立って前脚で私につかみかかろうと、疾風のように向かってきました。なにしろ熊と私との間隔が僅かに三、四尺、五間か、十間も離れているのなら、弾を詰めかえる余裕もあるのですが、僅かに三、四尺の間隔では、どうすることもできません。
 この巨熊に体当たりを喰えば、ひと堪りもない。私のからだなど、八つ裂きにされてしまいます。私は突嗟の間に、一歩身をかわしました。私に身をかわされたので、熊は肩すかしでも喰ったように、僅かに前脚の掌が私の腕の筒袖に触れただけで、前の方へ突っ走りました。それは間髪を容れないほどでした。
 前の方は崖になっていたので、熊はそのまま崖の曲がりを縫って大きな岩のかげの方へ走って行きます。これから熊の進んで行く方面は、私に分かりました。そこで私は、充分に装填して熊の先回りをして、谷の底で待っていると熊は三十間ばかり上方の沢を渡ってくさむらの残雪のなかへ這い上がりました。
 三十間の間隔では少し遠い。これを一発で仕止めるわけには行かない。それは、熊はこちらへ尻を向けている。尻を撃ったのでは彼らは対して痛痒を感じない。
 しかし、このまま見遁せば熊はいずれへか逃げてしまう。いつまた出逢うものか分からぬと思いましたから、尻を目がけて一発ぶっぱなしました。たしかに手応えがあった。すぐ次の弾を装填した。
 ところが、熊はくるり私の方へ向き直って逆襲してくるではありませんか。よろしいと私は思いました。逃げる熊は仕止めるのは困難ですが、向かってくるのなら、こっちのものだ。よしこい。私は引きつけるだけ引きつける作戦です。熊は私の前方四、五尺の点まで近づくと、大きな真紅の口を大きく開き、二本の前脚をあげてひとひねりにひねりかかろうと猛然と突っ込んでくる。矢頃やごろを見はからって、撃った。なにしろ、三、四尺の距離しかないのですから、外れっこありません。頭の真ん中へ、弾は命中しました。四十貫の巨体は地響きたてて倒れました。
 熊を正確に撃つには、熊の頭へ銃口が触れるまで、近く引き寄せるだけの度胸を養うことです。熊の頭に銃口が触れていれば、弾が外れるわけはありません。

  三

 これは、私の命拾いでありました。実は前日、修繕にやって置いた銃が鉄砲屋から届いたのを、そのまま試しをやらないでかついで猟に出たために不発であったのです。修繕したら必ず試してみなければなりません。
 私は、上信越国境の山々で五、六十の熊の穴を知っています。熊の穴は、もっと他にも数多くあるのでしょうが、人間に発見されるのはそのうちの少部分であると思います。穴の数を多く知っていることが、つまり熊を数多く撃てるという結果になるのですから、随分危険な崖や叢林を跋渉しなければなりません。この地方では私が一番熊の穴の数を知っているのです。
 穴といいましても、どの穴にも必ず熊が入っているというわけではありません。その穴で一度熊が撃たれると他の熊は七、八年から十年間くらいは寄りつきません。血の臭いや、火薬の臭い、焚火の臭いなど穴の入口に残っているからでしょう。穴の近所の樹の肌に、熊は歯や爪で印をつけます。これは、縄張りを示すためであろうと考えられています。立派な穴があって、それを大きな熊が発見しても、先住者がいるそこへ侵入しないものです。先住者が小さな熊であっても先住者の権利は尊重する習性を持っているように見えます。
 熊にも、居付きの熊と渡りの熊とがあります。渡り熊というのは遠方から旅してきたものです。旅からきた熊には、小さいものはいません。
 私がいままで撃ち取った四十四頭の熊の約半数は雌熊でありました。そのうち数頭は、仔連れの雌熊であります。しかし、どの雌熊の腹を割いてみましても孕んでいるのを見ませんでした。そんなわけで、熊がいつ交尾し、いつ穴のなかで仔を産むかを知りません。仔連れの熊は二、三貫目より小さいものは伴っていません。それより小さいのは足が幼いため親と歩行を共にすることができないから害敵に出会った場合に危険に陥る場合を考えているためでしょう。
 十二、三貫にも育った仔熊を伴っている場合もあります、十二、三貫目に育つには三年かかりますから、熊は毎年仔を産むとは限っていないようです。雌熊は普通二匹を産み、その二匹は必ず雄と雌であります。
 三月末から四月にかけた雪解けのころ熊は穴から出ます。穴に入るのは十一月下旬から十二月はじめで、初冬が山を訪れる季節です。穴に入って春まで冬眠を続けるために、穴に入る前に大いに食べて体力を養います。肉がついて丸々と肥え、脂肪も厚く乗っているので、晩秋に撃ち取ったものが最もおいしいようです。春になって穴から出るときは、長い冬の間に体の脂肪を消費しているので、晩秋のものほどおいしくありません。
 真夏の熊の肉は、殆ど食べられないといってよいでしょう。
 肉は、普通すき焼きと味噌漬けにして食べるのが結構です。春の熊は穴の中にいて食べ物を摂りませんから内臓はきれいです。内臓のうち肝臓が一番おいしいと思います。

  四

 熊には相場が定まっていません。私は、相手の希望に委せて売っておりまして、決して無理はいわないのです。無理に高い相場をつけて、売り損なっては大変ですから、安く早く売って一日も早く次の猟に出る準備をいたします。
 しかし、大体相場はあるものです。私は肉を、百匁百円から百二、三十円に売ります。仮に一頭三十貫の熊を撃ったとすると皮と骨と腸を去って、肉だけにすると十五貫になります。十五貫の肉を百匁百円で売ったとすると、肉だけで一万五千円になります。
 胆嚢は、三十貫の熊であるとすると百匁ほどあります。生胆は平均一匁百円で売りますから一万になります。先日、大阪の薬屋から、乾燥した胆嚢を一匁六百円で買いたいといってきました。
 毛皮は、三十貫のものならば畳二枚程の大きさがあります。私はこの程度の皮ならば五、六千円から、一万円近くで売ります。そんな次第で、三十貫の熊を一頭撃つと、三万円以上になります。なかなか馬鹿にしてはいられません。一所懸命です。命を的に、熊を追うのですから、三万円位では安いではありませんか。
 私は自分で皮を剥ぎ、腹を割いて肉を取ります。幾頭も熊の腹を割いてみて、驚くべき事実を発見しました。
 それは、熊の陰茎には骨が入っていることです。軟骨ではありません。普通の硬い骨です。太さは竹の箸ほどで、長さは三寸ほどです。これが、ほんとうの鉄筋入りというのでありましょう。
 平素は、鉄筋と共に陰茎を下腹のなかへ入れて置きます。
 熊の陰茎で想いだしたのですが、犬の陰茎にも筋金が入っています。やはり、硬い骨で長さは三寸ほどあります。犬の交尾の時間を計ってみましたが、一番長いので四十七分でありました。犬の親戚である狸の陰茎にも筋金が入っております。大体、犬科の動物の陰茎には筋金が入っているものです。
 狐は随分夫婦仲がよい動物ですが、この陰茎には骨が入っておりません。猫も虎も、その陰茎には筋金が入っていません。
 ある動物学者にきいた話ですが、動物のうち人間のように相手と正面に向き合って性行為を営むものは、鯨と象だけであるそうです、春の情を催してくると、まず雌の象は、土に穴を掘ります。背を埋め得るだけの穴です。穴を掘り終わると、雌はその穴に背中を埋め、体を動かぬようにして空向きになり、雄の来るのを待つのであるそうです。
 熊の皮のなめし料金は、米子付近で十貫目のものが五、六百円、三十貫のもので千円、四十貫の熊ですと千五百円の相場です。
 信州のこの地方の深山には、猿も羚羊かもしかも数多くおります。羚羊は禁獣ですから私は撃ちません。猿は十五、六頭から、三十頭くらいの群れをしています。猿の肉の味は獣類の肉のうちの王さまであります。
 つまらぬ話で、長い間お耳をけがして、まことに申しわけありませんでした。

底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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