私は、この三月七日に、故郷の村へ移り住んだ。田舎へ移り住んだからといって、余分に米が買えるわけではなし、やたらに野菜が到来するわけではない。
 近い親戚の人々や、家内の者と相談し、麦は今年の秋から、稲は来年の夏から、蒔いたり植えたりすることにして、まず手はじめに屋敷の一隅と屋敷に続く畑へ野菜を作ることにした。つまり、帰農のまねごとというのであろう。
 しかしながら、野菜といっても愚かにならぬ。人間は、野菜なくして一日も生きていけないのだ。魚獣の肉はさることながら、この一両年、青物が甚だ好物になった。殊に家族の者共は菜っ葉大根を愛好し、香の物といえば、舌鼓打って目もないほどだ。
 私の家も、先祖代々百姓である。私の代になってから、故郷を離れ文筆などというよからぬ業に親しんで、諸国巡歴に迷い出たが、中学時代までは鍬も握り、鎌も砥いだものである。だから、全く耕土を持たぬわけではなかった。
 上手ではないけれど、うねも切り、種ものも指の間から、ひねりだせる。
 第一着に、屋敷の一隅へ鍬を入れたのが、三月中旬である。それから五月中旬までに、蒔いたり植えたりしたものに、時なし大根、美濃わせ大根、甘藍、里芋、夏葱、春蒔白菜、春菊、胡瓜、唐茄子、西瓜、亀戸大根、山東菜、十二種類、なんと賑やかではないか。僅か十八坪か二十坪の庭が、野菜の百貨店となった。
 屋敷続きの畑には第一に馬鈴薯を植えた。それから茄子、トマト、蔓なし隠元、岩槻根深、小松菜、唐黍など。
 そしてこの、園芸の師匠は本家の邦雄さんと呼ぶ農学校出の青年である。恐らく、この夏から秋にかけては、素晴らしい果菜が、山のように食膳を賑やかすことと思う。
 楽しいものだ。おかげさまで、朝は四時に離床して、畑の土に覗き入り、蒔いた種のご機嫌を伺う。初夏は、朝が早い。私が、飽かず胡瓜の貝割葉に興を催していると、四時半には野州の山の端から、錦糸にまがうの光が散乱する。光景を受けた喜びに、物の葉が微風に震う。
 夜七時が、夕めし。食べ終わると枯木が倒るるが如く、畳の上で大いびき。
 合計百二、三十坪の野菜畑に過ぎないが、下肥汲みまでやるのであるから、なれぬからだには相当の労働だ。快く疲労すること、まことに健康そのものだ。
 さて、種を蒔き、苗を植えたからといって二十日や一ヵ月で、収穫があるというものではない。しからば、畑から物がとれるまでの間、一体なにを食っているのかという問題になる。日常、配給を受けるものは米、味噌、醤油だけ。そのほか、副食物とか魚類、野菜に類した品はこの農村には全く配給がないと称してよろしいのである。
 三月上旬に転住してきて以来、ただ僅かに一回、一人当たり生鰊が半身とお茶の葉が少量だけ。ほかの品は、まるでお顔を拝さぬ。
 だが、いまは戦局重大な折柄である。そんな次第でも、われら家族になんの不平も、愚痴もない。政府がいうところの、足りないところは工夫くふう塩梅あんばいして腹を満たせの妙案を遵奉して、その日に処している始末だ。
 家庭の女房たるもの、ここが大いに腕の揮いどころだ。女の腕が、の目を見たというものであろう。
 されど、私の家庭だけは、心配ご無用である。親が、この上新田の農村に私を生んでくれただけに、先祖の顔もあり、村人の温情もあり、朝な夕な、やれほうれん草はどうか、葱だ、にんじんだ、牛蒡だ、といった風に、人々が私の勝手許へ提げ込んできてくれる。殊に、馬鈴薯や里芋などの到来したときの嬉しさ、ありがたさ。
 たまには麦粉、乾麺、白米、大豆など寄贈に接することもある。これで、食いものが足りないの、腹が減って堪らないと口外しては、甚だ相すまない。
 これでどうやら、六月末頃から収穫に入る馬鈴薯の鮮醤に対面するまで、腹を継いでゆける次第であるが、しかし世間の人がすべて、私の家庭のように幸福に暮らしているとは思われないのである。
 工夫塩梅して腹を満たせ、という言葉は、まことによき思いつきである。私のように、脳のうとい者には、着想不可能であった。昔から、無い袖は振れないとか、いかに巧みな手品師でも種がなくてはどうにもならぬ。と、いう諺があるけれど、戦争となってみれば、無い袖も振らねばならないし、種がなくても、生活を続けねばならぬ。不平、不満はもってのほかじゃ。
 果たして然らば、どんな身振り手真似で、無い袖をひらひらさせるかという難問に逢着するのであるが、人民の悉くが母乳を欲するように心から憧憬あこがれているのは、人間味豊かな為政者の思いやりである。末端官吏の反対である。また指導者と呼ばれる人とか、統制事業に従う半官半商の人達の、思い上がりを棄てて貰うことだ。
 人間同志、お互いに溢れるような思いやりをもってすれば、無い袖を振るのは、苦もなきことだ。種はなくとも、手品師はちゃんとやってみせる。
 嫁にやってある私の娘は、幼な児を二人抱え、老姑と四人で、最近伊勢崎へ疎開してきた。嬰児えいじを持てば、二人前のご飯を頂かないと、お乳が出ないものである。それに四、五歳の幼児でも、今は大人並みに食う。菓子も果物も、自由に買えぬ時代であるから、子供の間食といえば、味噌をなすったお握りを、一日に二、三回はむすぶ。
 おひつが、いつもからからであるのは当然だ。そこで、第一にこの辛苦のしのぎについて相談に行けるところは、私の家庭である。だが、これが大問題である。実は、私や家内は、近所や親戚の者に対し、日ごろ腹鼓を打っているような面して体裁をつくっているけれど、私は専ら家内の手腕に信頼している場合である。嫁に行った娘が、悲しそうな顔して相談に忍び込んできたところで、どうにもならぬ。
 思案の揚句あげく、娘は勢多県粕川村月田の親戚を訪問した。伊勢崎から月田へ行くには、一旦いったん前橋へ出で、前橋中央駅から上毛電鉄に乗るのであるが、親戚の家は月田の村の奥の奥、赤城山の中腹にある。粕川駅から、一里半はたっぷりあろう。
 月田の親戚では、私の娘が泣きごとを申さぬ先に、それと察して甘藷を風呂敷に包んで与えた。嬰児といっても割合に体重のあるのを背中へくくりつけ、左の手に四歳になる子供を吊るようにしているのであるから、いかに欲張っても七、八百匁しか甘藷は提げられない。それでも彼の女、満悦の姿でいそいそと帰途につき、前橋中央駅の改札口をでた。
 ところが、哀れなる事件が起こった。
「おいこら、まてまて」
 お巡りさんである。
「その包のなかには、なにが入っている」
「はい」
 娘は、面喰ってしまった。
「包をあけてみろ」
「いえ、少しばかり野菜が――」
「あけなさい」
 生まれてはじめて、娘はお巡りさんにとがめられたのだ。手をふるわして、小風呂敷を開いたのである。中に、少量の甘藷があった。
「これは飛んでもない。一体、どこから持ってきた。うん」
「粕川の親戚から、頂戴してきました。子供の食べものが足りないものですから――」
「いかん、藷は移動禁止の品だ。ここへ、置いて行け」
 置いて行けといわれて、娘はあおくなった。頑是がんぜない子供が、夜が明ければ空腹を叫ぶので、止むに止まれず親戚へお縋りに行った。そして、赤城の中腹から一里半の路のりを、子供三人と風呂敷とを提げて、粕川駅まで辿りつき、前橋中央駅の改札口を出て、やれやれと思った途端に、おいおいちょいと待てである。揚句に、この藷を置いて行け――。
 彼の女は、泣きだしそうになった。
「どうぞご勘弁くださいまし、決して再び親戚から貰ってまいりませんから――この藷を置いて行きますと、うう……」
 娘は微かに泣きじゃくって、子供の頭を撫でながら、哀願に努めたのである。
「……二度と再び、藷なぞ提げ回れば承知しないぞ」
「はい」
 幸運にも、彼の女は許されて、まだふるえやまぬ手で、風呂敷のこばを結んだ。電車のなかでは、藷を膝の上にのせ、無上の悦楽に耽っていたのだが、お巡りさんの一喝に逢って、心は奈落の底へ転倒した。
 娘に掛かり合った事柄であるから、かれこれ私が愚痴をこぼすわけではない。この場合、
「――ああそうか。親切な親戚を持っていて、お前さんは幸福だ。だがね、藷は統制品なんだよ。まあこの小風呂敷程度から、目にもつくまいがね。この次は、遠慮した方がいいね」
 こんな具合ぐあいに、やさしく言って貰いたかった。大空襲の東京からの野菜の買い出し部隊の殺到で、千葉県と埼玉県では、その取り締まりに手を焼いた。そこで、一人二貫目までは黙認することに定めたのであった。
 群馬県ではどうなっているか知らないけれど、子持ち女がさげて出る僅か七、八百匁程度の風呂敷など、欲をいうなら見逃して貰いたかったのである。それでもまあ、没収を受けないで娘は倖せ者の部類に入ろう。
 親戚の者が、困っているのに対し、藷や菜っ葉を少しずつ分けてやるのは、日本人の美風である。群馬県の若きお巡りさんといえど、この美風には理解がいくと思う。
 こんな場合、若いお巡りさんの融通の有無について云々したくない。お巡りさんの指導者、つまり上役の苦労人が、定規のことは定規にして置いて、味のある思いやりにつき、部下の者に噛んで含めて、日ごろの教えとしたら、どんなものであろう。
 庶民は、喜ぶであろう。一層、自制心を強めるであろう。その筋の人の、滋味ある扱いに決して、つけ上がるような人間は一人もあるまい。
 統制や、配給ということについては、政府は随分苦心していることであろう。国民をもれなく平等に、欠くるところなく賄うのは、まことに困難なわざだ。
 さればこそ、このむずかしい、世相になっても、主食物だけは心配しないで過ごしていられる。ほんとうにありがたい政治である。我々は、からだの動けるうちは、軍需の方にも、生産の方にも、能うだけの力をだして、国の求むるところに添うて行かねばならないのである。まだまだ国民には、体力的にも精神的にも、蓄積と源泉とがある。
 そこで、全国には我々以上に、配給制度に対して、感謝しているものが発生した。統制経済の恵みに浴して、はじめて人並みの食べ物を頂戴できる人達が現われた。
 私の家には、群馬郡清里村大字青梨に親戚がある。青梨は、私の村から一里半ばかり北方の榛名山の裾にあり、わが村から指してこの方面を上郷といい、岡場とも称した。岡場に対して私の村の方は米を産するから田場と称するのである。米の稔らぬ岡場に対し、米を産する田場の者は、子供までが優越感を持っていたのだ。つまり、田場のひとりよがりなのだ。
 もう、五十年も前の話だ。青梨の親戚から、時折り私と同年輩の子供が客にくる。私らはその子供に、君が来ると上新田の頬白ほほじろがひどく喜ぶよ。と、いっていつもからかうのである。青梨の子供は、それをいわれるのをひどく嫌ったものである。
 そのわけは、青梨は山の麓であるから稲田がなくて、畑や開墾地を耕作する地方だから、粟と稗を常食にしている。そこで、これも粟と稗を常食にしている頬白が、君の姿を見て仲間が来たといって喜ぶという悪口だ。
 夕方がきて、風呂を沸かす。青梨の子供が、着物を脱ぎはじめると、おいおい君、おいおい君、抱き石をやろうかと、また悪まれ口を叩く。
 と、いうのは日ごろ上郷の連中は、稗や粟ばかり食べているから下腹が軽石のように軽い。風呂に入ると、からだが転倒して、お尻が湯の上へ出てしまうという謎なのだ。そして、おいおい君、米のめしをうんと食って帰りな。でないと、勉強ができないよ。などと子供であるから、ふざけ放題。
 世の中が配給制度になる前の、群馬郡北部地方である国府、駒寄、清里、金古、上郊の久留馬、車郷、桃井その他の榛名の中腹、あるいは山麓地方に連なる村の食糧状況を調べてみると米は一日一人一合当たりしか食べていなかった。他はその地方の農産物の都合で甘藷や里芋、麥と馬鈴薯、粟、稗、唐黍といった類の穀物を混食してきたのである。
 だから、山麓地方の農民は米を主食しなかったのである。つまり、雑穀をところの産物によって、選り好みせず大いに食って、大いに働いてきたのだ。
 そして、水田はないけれど桑畑が見渡す限りひろがっている。それで蚕を養って繭を売り、その金で米を移入して、米の滋味に浴してきた。
 しかるところ、配給制度になってからというもの、平野の農民と同じに、一人当たり二合以上の割りあてを受けることになったのだ。つまり、従来に比して、倍以上の米を頂戴する幸運にめぐり合ったわけで、統制経済は岡場の人々の雑穀時代を、新世紀に導いたのである。
 岡場の人に取っては、戦争のおかげといったようなものであったろう。
 これを飜って考えてみると今日まで米を常食しなかった地方にまで、米を配給することになったのであるから、米の需要はますます増加するばかりである。群馬郡の北部などはまだやさしい。
 多野、北甘、碓氷、吾妻、利根など、群馬県は殆どその大半が山間部だ。黍粉きびこのお焼きや、粟粥の本場だ。
 利根郡の奥には、振り米の話さえある。東村や片品村の南会津に近い山家では、病人の死際には、少量の米を竹の筒に入れ、これを病人の耳許で振って、せめて米の音でも聞かせたのであるという。
 生まれて以来米を食ってみることができない地方であったという例え話である。実際はそれほどでもあるまいが、片品川の畔の追貝付近や、尾瀬に近い戸倉あたりは、昔から水田に乏しく、歌留多ほどの山田が、峡のかげに僅かに見えるばかりである。
 多野郡の奥の裏秩父に接する中里村、上野村、万場方面へ行くともっとひどい。米など愚かなこと、砂糖を知らなかった昔があったという。だのに、三、四年来は米の配給、砂糖の配給、牛豚肉の配給、魚の配給、時には、洋服の下へ着るワイシャツの配給、靴下の配給、山の人々は眼を丸くした。はじめてのほどは、砂糖など平常用いると、山人の自然生活を損なうものであるといって配給を拒絶した。海の魚など、おっかねえと叫んで手も触れなかった。
 海の魚といえば、我々上州の中央の平野に生まれたものでも、大都会である前橋ではじめて電灯ちう怪物を、腰をかがめて見物するところまでは、蒲鉾かまぼこは板にはり付いて泳いでいるもの、にしんは頭がなく乾いたままで生活するもの、鮭の塩引きは切り身のままで糸に、ぶら下がってくるものと考えていた程であるから、南会津に近い山間の人達や、裏秩父に隣住む山人が、海の魚を気味悪く思うのも、まことに無理ない次第である。
 そこで、私も一ヵ月半ばかり前、生鰊を半分配給を受けたのであるが、これは私の村にだけでなく、殆ど全県下へ同時に配給したのだそうである。してみると、生鰊の量は、莫大なものとなろう。
 米でも魚貝類でも、食うと食わざるとを問わず、食う習慣と食わざる習慣を持つとを問わずこれを一切平等に配給する、骨の折れることではある。
 ひとりこれは、群馬県ばかりではない。飛騨、信濃、陸奥そのほかの、山国へ行っては皆同じことだ。従来の土地の風とか慣わし、美俗醇風に重きを置かないで、無闇矢鱈むやみやたらと配給したのでは、ますます物が足りなくなるばかりか、運輸、交通も混乱する。日本全国としては無駄、無用の食糧を、無意義に消費しているのではあるまいかと、おせっかいであるが、深く心配になる。
 私はこの頃、歳のせいか、何か彼かと無用のことが心配になったり、差し出口を挿んだりするのでいけない。自分の家庭の配給に影響のないことであるなら、おかみの行なうことを頭痛にやむのは、愚の骨頂だ。お上は、国家の食糧事情の大所高所から観てよいあんばいにやっているのであろうから、私如き俄百姓が、疝痛せんつうを起こすなど、甚だ僣上至極。慎まざるべけんや。
 だが、無用の配給に検討を加えたら、有用の配給が国力に意義をなすのであろうがなあ、と思う。老人、愚痴多き哉。
 以上のような次第で、私は夏がくれば、大いに野菜を食える見込みがついたから、親船に乗った気持ちでいられるのである。それにつけて思うのは、もっと都会の人々に、野菜を食べさせたいことだ。
 だからといって、私の百坪前後の野菜を根こそぎ舁ぎだしたところで、九牛の一毛にも値せぬ。さらに多くの野菜を都会人に食べさせたいと思えば、もっともっと農民全体が、心を揃えて野菜の栽培に勉強することより外に、すべはない。
 ところが、一歩足を農村へ踏み入れてみると、葱でも薯でも菜っ葉でも、青々と茂って畑から盛り上がっている。であるのに、なぜ都会では野菜が不足しているのであろう。
 そのために、いずれの家庭でも主婦が苦心惨憺しているのである。肉類や魚類が、殆ど皆無に近い状態のところへ持ってきて、なお日ごと欠くことのできない野菜が不足であるならば、人間は精神的にまいってしまう。
 健康にもよろしくないのは誰が考えても分かっている。はち切れるような健康を持てない。
 農村には野菜が山ほどあるのに、なぜ都会では、これを充分に食べることができないのか。この説明は、簡単だ。
 試みに、私の手もとにある昭和十九年十二月二十日現在の、群馬県青果出荷統制組合発表、青果物関係公定価格表を、一覧してみよう。なるほど、青物は安いものじゃ。
 主なるものを、抽出してみる。いずれも一貫目当たりで、出盛り期の農家が青物組合の買上値段である。
 胡瓜が六十四銭、南瓜が四十五銭、茄子が五十六銭、トマトが六十二銭、大根が十九銭、里芋が五十八銭、葱が五十二銭、結球白菜は四十一銭、ほうれんそう五十銭、莢碗豆八十八銭、きゃべつは四十一銭。
 右の公定値段で、青果組合は百姓の手から持って行くのである。
 次に、女や子供の最も歓迎するところの薯類の値段を書いてみよう。
 馬鈴薯は六月十六日から七月十五日の最も出盛りの時期に三円三十銭、一月から五月までの品が少なくなってから四円四十銭。これは、一貫目当たりではない。十貫目当たりですぞ。つまり、農家は出盛り期に、一貫目三十三銭で売るのである。
 甘藷は十月の出盛りに一等三円二十銭であるが、十一月から一月の腐りやすい時に三円、二等品は二円九十銭と二円七十銭。これも馬鈴薯と同じに、十貫目当たりである。
 そして政府や県、または組合が指定した集荷所までの運賃は農家の負担であるから、値段のうち運賃を差し引いた金が、農家に渡される。また青物の方は、青物組合が斡旋料と称するものを、公定値から差し引いて、それだけの金を農家に渡す。
 皆さん、なんと安いものではありませんか。さつまいもでも、じゃがいもでも、大口開いて大に食うべしである。あまり安いのに驚いてご婦人方よ。よだれを流しながら、眼を回してはいけません。
 だが、ほんとうは都会人の口に入らないのである。まことに安いものだときいて、よだれは流し損、眼はまわし損ということになるのである。
 仮に、農家が茄子なすを出盛り期に一貫目青物組合へ出したとする。公定価は五十六銭であるが斡旋料をその二割十一銭二厘というものを差し引かれるから、農家の手に入るには僅かに、四十四銭八厘となるのである。
 そこで私は、農家の人々に問うてみた。
「野菜の公定価は、どこを標準にしてきめたものでしょうね」
「そりゃ、わし共にも分かりゃしねえがの」
「飛んでもねえ、納得なんか爪の垢ほどもいっていねえよ」
「それじゃ、組合の値段が安過ぎるというのかね」
「馬鹿馬鹿しくって、話にならねえ」
「でも皆さんが、精々青物組合へ出すようじゃありませんか」
「えへ、へへえ」、甚だ意味ありげに笑うのだ。
「大きな声じゃ言えねえがね、ほんとうは組合から買いにきても、いい顔はしねえだよ。もう畑は、空っぽだよ、ちうわけなんだ」
「なるほど」
「町の人にや気の毒だがの、やむを得ねえ、ちうわけだんべ」
「そうだね、都会の人には気の毒だね。ところで、それならあれほどあっちこっちの畑に葱や菜っ葉が山ほどあるのに一体どこへ売るということになるのだろう」
「そこを、きいて貰っちゃ困る」
「でも、農家で、食った余りを組合へ出さなければ、野菜は畑で腐ってしまうじゃないか」
「そこは、けっこう腐られねえよ」
「そうかねえ」
 この問答では、大して要領を得ぬ。
 私は十数年前、この上新田で野菜を作っていたことがある。村に青物市場があって、前橋から八百屋が買い出しにきた。ある朝、茄子の食い余りが百個ほどあったので、これを市場へ持って行ったところ、八百屋はこれを三銭五厘で持って行った。
 百個ですぞ。一個三毛五糸にしか当たらない。金の価の高い時であったが、百個の茄子が三銭五厘にしかならぬのを見て、私は頗るたまげたのである。
 一貫目の茄子が、何個ほどあるか知らない。しかしながら、一貫目四十四銭八厘に売れるとすれば、いかに金の価値が低くなった現今においても百個三銭五厘当時に比べ、随分うまい話じゃないか。少なく見積もっても、百個の茄子は、一貫四、五百匁はあるであろう。
 しからば、農家は青物組合へ盛んに荷を出す筈であろうと考えるが、実際はそうじゃない。都会から、買い出し部隊が列をなしてやってくるからだ。
 背負い袋、大風呂敷、配給籠などを提げたおかみさん連が、子供までぞろぞろ連れて、都会の方から幾組も幾組もやってくる。そして、農家の庭前に立って、
「なにかありませんかね」
「ねえこともねえ」
「あったら、少し分けておくんなさい。なんでも結構です」
「面倒だな」
「そんなこといわないで、お慈悲ですから少し分けてくださいよ」
 そこで百姓は、迷惑らしい仕草よろしくあって、のろのろと家の中へ入って行った。
 都会のおかみさんは、にこにこした。
 農家の親爺さんが、家の中の土間から持ち出したのは、一括りの野菜である。
「これだけ、やるべえよ」
 おかみさんは、満悦である。
「すみませんね、お手数かけて――それでお代はいくら差しあげたら、よろしいのでしょう」
「なあに、これんばかりの品だから、いくらでもかまわねえよ」
「でもね、おっしゃってくださいよ」
「おれにや、値は分からねえだよ。まあいいから持ってくさ」
 実際問題として『いくらでもかまわねえ』というのはまことに相手にしにくい。いくらいくらと言って貰えば、高かろうが安かろうが[#「高かろうが安かろうが」は底本では「高からうが安からうが」]、その通り支払うのであるが、この返答には当惑する。まるで見当がつかない。しかも『いくらでもかまわねえよ』といった親爺さんの顔には、それとはまるで反対の表情が、ちらちらしているのだ。
 寸時の間、沈黙が続いたがおかみさんは横を向いて蟇口のなかから十円紙幣一枚だして、
「少しですみませんが、これ取って置いてください」
「これじゃ、お剰銭つりせんがねえがの。いまちょうと細けえのがねえんで――」
「お剰銭なんぞ、いいんですよ」
「それじゃ済まねえの」
 このときはじめて、農家の親爺さんの頬と小鼻の脇に、笑いの表情が動いたのである。「それじゃ、お剰銭がねえがの」という手に対しては、都会のおかみさんは馴れたものである。万事、心得たものだ。
「おじさん、またきますから、こん度おじゃがなんか、売って頂戴ね」
「あいよ。この相場なら何でもやるよ。おれのうちになければ、近所から都合してきてもやるべえよ」
 野菜買いだし問答は、こんな調子のものであろう。
 先日、私はこの夏食べねばならぬ時無し大根の種を蒔き終わり、縁に腰かけて煙管で一服やっていると、三十歳前後の見知らぬ男が庭先づたいにやってきた。そしてだしぬけに、しかも、なにか憚るように、
「おじさん、なにかありませんか」
 と、いうのである。私は、この青年見当違いをしてやってきたなと思った。
「なにかありませんかって、どんなもの」
「米でも、じゃがいもでも結構なんですがねえ、少し――」
「なんだ君は買いだしか――だが僕のところには生憎なにもないんだよ」
「うそ言わないでさ」
「うそだもんか、僕の方でほしい位だ」
「じょうだん言わないで、ほんとに――あっちでもこっちでも、かすを食うんで、僕悲観しちゃったあ」
「それは気の毒だな、けれど、僕も最近ここへ疎開してきたばかりで、米や麦は愚かなこと、汁の実にする青いものさえ不足しているので、困っている最中だ」
「そうですか、それは見損なった」
 青年は、こういったからもう帰るのかと思っていると、なれなれしく、私のかけている縁側へ、私と並んで腰を下ろした。そして、古い国民服の隠しから、短く喫い残った巻煙草をだして火をつけた。
「煙草も、貴いですね」
 というのである。
「おじさんなんぞ、畑のまん中に住んでいて食べものが足りないなんて、へんですね」
「不思議なことはないのさ、足りないのは都会ばかりじゃないよ」
「実はね、私は徴用で工場へ勤めているのですけれど、根は下駄屋なんですよ。きょうは電休日ですから、食いもの探しに出かけたわけですよ。自分でこしらえた下駄をぶら下げて――」
「ふふん」
「下駄と食いものと交換して貰うという算段なんです――この近所に、誰か下駄の入用の人はありませんかね」
「僕のところに何かあれば、喜んで交換してやるのだが、生憎あいにくで気の毒だな。ところで、君はちょいちょい買いだしに歩くかね」
「ええ、電休日がくると必ず家内にせきたてられますので――」
「そこで、君たちは農村から食べものを、どんな相場で買って行くのです」
「品により相手により土地により、相場などときまったものはありませんよ。その日の運不運行き当たりばったりですよ。まあ、品物を分けていただいたその礼に、いくらかの金を差しあげるというわけになるのですから、農家から闇で買うというわけでもありませんね」
「なるほど」
「つまり、農家の親切に対し金で謝意を表するのですから普通の取引のようには行きません。ですから、家へ帰って計算してみると、随分高価な食べものもありますし、割合に安いものもあります」
「ふふん、貴公はなかなか、うまいことをいうね。ところで高価であるといっても、どの位高いのか、僕には見当がつかないが、一体八百屋から買った方が高いか安いか――」
「そりゃ、八百屋から配給を受けた方が、安いにきまってるじゃありませんか」
「そうだろうな、気の毒だね。――お礼はどんな程度に差しあげるのかね」
「まず、公定の十倍位には当たるでしょうね」
「驚いたな」
「驚くなんて野暮やぼですよ。八百屋の配給だけで健康を保って行けないのは、いつかも議会で農商大臣も認めていましたね」
「君は、甚だ記憶がいいね」
「そこで、政府でも地方の官庁でも、都会民に一坪農園とか二坪農園をやれといいますが、一坪や二坪でなにができますかね。第一、農具もなければ、肥料もない。土地もない」
「君、不平いっちゃいかん、創意と工夫ちうことがあるじゃないか」
「恐れ入りました――あっ、間もなく日没、家内に叱られます。どこかで、この下駄に物をいわせにゃなりません」
 この男は、狼狽して村の往還の方へ、出て行ってしまった。
 顧みれば、実際において八百屋の配給は少なかった。彼の男が女房の命令で、電休日を待ちかねて、買い出しというのか、交換というのか、物をあさりにでかけるのは、無理ないと思う。
 昨年の暮れから、今年の一、二月頃へかけての冬枯れには東京の配給もまことに乏しいものであった。家族四人に対し、四、五日目に大根がひと切れ、直径一寸五分ばかり、厚さは一寸の五分の一ほどの大根の輪切り。今から、三、四年昔の二銭銅貨の方が大きかったと記憶するのである。
 しかし私は、ないよりよいと思っていた。

底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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