一

 私は、明治四十三年四月二十三日の午前十時ごろ、新聞記者を志望して、麹町区有樂町にある報知新聞社の応接間に、私の人物試験をやりにくる人を待っていた。これより先、学校の先輩である詩人で既に報知新聞社会部記者であった平井晩村の紹介によって、履歴書を出して置いたが、一応人物試験してみないことには、採否は決められないという話であったのである。
 そこで、その日人物試験に出頭したわけである。応接室には、私一人しかいない。待つことしばしにして、近眼で鯰髭があって、背が低く痩せて貧弱な四十歳ばかりになる人物が現われた。私は立って、黙ってお辞儀した。
「君が、佐藤君ですか」
「はい」
「僕は、編集局長の村上政亮です。君ですな、新聞記者になりたいというのは」
「はい」
「どんな考えで、新聞記者を志望するのですか」
「えー、そのー、実はそのー」
「よし分かった、それでいい――ところで君の性質は、短気の方ですか、気永の方ですか」
 と、質間するのである。これには困ってしまった。私は、そのときまでかつて一度も自分が気短であるか気が永い人間であるか、考えたことがなかったのである。だが、なんとか答えなければならぬと思ったから、
「私は、生来気永であって気短の人間であります」
 と、答えたのである。あまり頓智に乏しい、人を愚にした答えであったけれど、その場合私として、これ以上の才覚が浮かばなかったのである。そこでもう、われながらこの人物試験は落第であると観念した。
「ああそうですか、分かりました。ちょっと待っていてください、入社していただくかどうかを直ぐご返事しますから、ちょっと待ってくださいよ」
 こういって村上編集局長は応接間からそとへ出て行った。私は当てにしないで待っていた。待っていろというのに、挨拶もしないで帰るのは失礼であると思ったから、とにかく村上編集局長が、再び応接室へ現われるのを待っていた。すると、十分間もたたぬうちに、村上さんはひょこひょこと応接室へ入ってきた。
 私は、諦めていたのであるが、それでもなんと村上さんはいうであろうと考えて、興味をもって村上さんの顔を見た。
「お待ちどうでした――それでは、明日から出社してください。えーと出勤時間は十時前後でよろしいでしょう。それで所属ですが、とりあえず社会部にして置きましょう。分かりましたね、明日からですよ。では、失礼」
 それだけいったら、村上さんは室から出て行ってしまった。
 私は、あっけに取られて、ぼんやりしたのである。新聞社というところは、なんと不可解のものである哉と思った。
 私は喜んで、途中で想いだし笑いをしながら丸の内の野っ原を歩いて、駿河台の南甲賀町の下宿へ帰った。

  二

 入社してみると、社長が箕浦勝人、社主が三木善八、主筆は須崎默堂、編集局長村上政亮などという偉い人物ばかり。中堅から少壮記者には五、六年前まで京成日報の社長であった高田知一郎、いま進歩党の幹事長である田中万逸、元AKの放送部長煙山二郎。趣味方面には相撲の生駒※(「皐+羽」、第3水準1-90-35)翔、美術の佐瀬酔梅などという錚々たる記者がいて、なにがなんだかただ眼が眩んで仕事のことなどさっぱり分からない。
 現在小説を書いている矢田挿雲、野村胡堂、料理屋通の本山荻舟、朝日新聞の前重役原田讓二などという記者は、私よりいずれも二、三年おくれて入社してきたのであった。野球の飛田忠順などまだ早稲田の学生で、小遣い稼ぎに報知新聞の野球記事の嘱託をやっていて、夜になるとスコアーブックを持って編集局へやってきた。いつもあまり、新しくない紺絣の着物を着ていたと記憶する。
 私が入社した五、六年は、まだ大隈伯が頗る元気で、毎年暮れになると社の会議室へ姿を現わし、社員を集めて一場の訓話を施す例になっていたが、大隈さんが来社するほんとうの用向きは、報知新聞から毎年定まって贈るところの金十万円のお歳暮を取りにくるのであるという話であった。
 中堅記者は、誰も彼もが飲む、買う、喧嘩の猛者であった。私は、入社前までは虫も殺さぬ順良な青年であったのであるけれど、純美な花蓮(?)もとうとう、見よう見まねで泥水に染まってしまった。
 とうとう身を持ち崩した果てに、社を無断でずらかってしまったことがある。
 故郷に帰って一年半ばかり暮らした。しかし、いまさら百姓になったところで、うまく米を作れるわけではなし、村役場の書記で一生通したのでは、まことに心細い。
 そこで私は再び上京し、報知新聞社へ勤める決心をした。

  三

 編集局へ入って行ったところ、誰も私に言葉をかけてくれる者がいない。しかし、私はそんなことには平気である。
 見ると、もと私の机であったところに知らぬ若い記者が座っている。
「君、ここは僕の机だよ、どいてくれ給え」
 と、いうと若い記者は驚いて私の顔を見上げた。
「分からんね君は、ここは僕の机なんだよ」
 こう荒々しくいうと、若い記者は怪訝な顔して露台の方へ出て行った。
 そこで私は、その机へしがみついて動かばこそ。誰も相手にしなかろうが、冷たい眼で見ようが関せずと構えて、朝はほかの記者の出勤前から夜半は組版が下のステロ場へ下りるまで頑張った。
 それまで見て見ぬ振りしていた村上編集局長が、ある日私の前へきて、
「君、君はもう社をやめたのじゃなかったのかね」
 と、まことに静かにいうのである。
「いえ、僕はやめません。辞表をだしたことはないと思います」
「そうかね、でも君は社の方ではやめたことにしてあるがね」
「そうですか、でも私はまだ解職の辞令を受け取っていません」
「そうだったかね」
 こういって、村上さんは自分の室へ行ってしまった。
 そうこうしているうちに、幸徳秋水の大逆事件の検挙がはじまった。編集局は猫の手も借りたいほどの多忙である。
 そのどさくさ紛れに、私はまたもとの報知新聞記者になったのである。

底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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