いよいよ狆の製作が出来ました。
 せんのと、それから「種」のモデルの方が三つです。一つはって前肢まえあしを挙げている(これは葉茶屋の方のです)。一つは寝転んでいる。一つは駆けて来てまりじゃれている。今一つは四肢よつあしで起っている所であった。この四つの製作はいずれも鋳物の原型になるのであるから、材料を特に木彫りとして勘考することもいらぬので、私は檜で彫ることにしました。いうまでもなく、檜の材はなかなか鑿や小刀を撰むもので、やわらかなくせに彫りにくいものですが、材としては古来から無上のものとなっている。荒けずりから仕上げに掛かり、悉皆すっかり出来上がって、彫工会へ納めました。
 木型が出来ましたので、大島如雲氏はそれを原型として鋳金にしましたが、なかなかく出来て、原型をさらに仕生しいかすほどの腕で滞りなく皇居御造営事務局の方へ納まりました。私は、すなわち鋳物の原型を作ったというにとどまるわけであった。

 そこで、毎度余り物の値をあらわにいうようでおかしいが、これも参考となるべきことですから、いって置かねばなりませんが、私の原型を作った手間がどうかといいますと、狆の丸彫り四つで百円であった。一つが二十五円……今日の人が聞くと不思議と思う位でありましょう。その当時、檜の最良の木地が一つで一円五十銭二円もしたか。材料などのことは何とも思わない時分、今日で見れば木の値にも及ばぬ位のものでありましょう。しかし技術家としてはそういう問題は別のことで、製作に掛かってはただ一向専念で、出来るだけ腕一杯、やれるだけ突き詰めて行くことで、随分私もこの時は苦心をしました。彫工会の方でも余り気の毒だというので後で五十円御礼が参りました。
 四頭の狆の製作は、彫工会の幹部の人たち、また実技家の方の人々の見る所となりました。私が、自分の口からいうのはおかしいけれども、これは大変に評判がよかった。というのは、第一見た所がいかにも派手で、あざやかで、しかも図の様が変って珍しい。非常に綺麗なものであるから見栄みばえがある。材が檜であるから水々しく浮き立っている。これを見て幹部の人々もよろこんだことでありましたが、しかし、今日から見れば、まだまだすべてが幼稚なもので、今であったら彫り直したい位に感じますが、当時はこうした作風はまず嶄新ざんしんであって、動物を取り扱うことはこれまでもあるとしても、その行き方が従来の行き方と違って、実物写生を基として何処どこまでも真を追窮したやり方でありますから、本当のものを目の前に出されたような気がる人にも感じられて「これはどうも」といって感服されました。
 私は、今も申した如く、人より早くから写生ということを心掛け、西洋のり物のようなものから物の形をかたどったものは何んでも参考材料とし、一方にはまた自然に面して自然をそのまま写して行くことを長い間研究したことでありますが、……しかし、これもまだ解剖的に内部を根から掘り返して窮理的に看極みきわめて行ったという所までは行かず、外観から物の形を見て研究した程度にとどまることではありますけれども、何しろ、写生という一生面はまずとにかく作の上に現われて、従来とは、別の手法を取っているものでありますから、非常に賞讃を博し、私も普通の注文品と異なり、畏きあたりの御たのみで、名誉の仕事でありますから、面目を施したような訳でありました。

 すべてこの製作が完了致したのが、その年の秋。ちょうど第二回の競技会の開催される間際まぎわつかりました。確か、二十一年の十一月であったと覚えます。そういう時期であったから彫工会の幹部の方々たちが、右の製作を見られて満足に考えておられる時でありますから、折角、これまでの出来であるから、折もし、これを一つ競技会へ出すことにしたら好かろうということになりました。
 けれども、他の事とは違い、まだ御造営の方へ納めない前にわたくしに陳列してこの製作を公衆へ発表するということは、どうも僭越せんえつなことではないかと気遣う向きもありましたが、その心配は山高さんにお聞きすれば直ぐ分ることだと幹部の方で是非出したい方の人の考えで御造営事務局長の職にあられた山高信離氏のいけはた七軒町の住家すまいへ人を遣って氏の意向を聞かせますと、それは差しつかえないだろうとの事であったので、とうとう競技会へ製作が持ち出されることになったのでした。
 こういうことは皆他のしたことで、私は、出された方がいものか、悪いものか、最早製作は済んで彫工会へ渡したもので自分の自由にはならない。とにかく同会の幹部たちが出せというので陳列することになりました。
 会場の中でも大きな四方硝子ガラスの箱のとびらをはずして真ん中へ敷き物を敷いて四ツの狆を陳列ならべました。数が四つというので、見栄みばえがする。見物が大勢それにたかってなかなか評判がよろしかった。
 この競技会の審査員は学芸員の人々また、実技家の主立おもだった人々で、私もその一人でありました。で、いよいよ審査することになると、審査員は困りました。この作品は高村が競技的に自分の作を出したのでなく、彫工会が出品したのであって、御造営の方からの命令で出来た品であるから、それを審査するというはどんなものかというのが頭痛になったのであります。で、問題になると面倒臭いから、これだけはけた方が好かろうという審査員たちの考えもあったことと見える。しかし高村の作として出品されているものを、審査しないということも、競技会の性質として工合が悪い。それで審査員の方では一案を考えて、これは我々は傍観態度で、この作の始末は幹部の方へ一任しよう。そうすれば、理事、会長の考えで処置されるであろうというので、幹部へ持ち込んだものですから幹部の山高信離、松尾儀助、岸光景、山本五郎、塩田真、大森惟中諸氏の手に掛かることになりました。
 幹部の方々はその事を協議されたことですが、どういう風になったか、私は自分のことでもあり、また審査員の一人ではあるが、まだ年も若しするので、何事も控え目にしているのですから、ただ、傍観していましたが、自分考えでは、なるべくならば審査してくれない方がよろしいと思っておりました。審査の結了の時は、審査員すべてがさらに寄り合って、今一度精選して万一の疎忽そこつのないように審査会議がありますが、その際、万事済んで行った後で、一つ事項が残っている。
「高村のこの作品をどうするか」
という問題。
「どうするといって、既に出品した以上、競技会だから審査せんという訳には行くまい。それに故人でもあることならとにかく、現存でまだ年も若い人であり、しかもこの作は丹誠のこもったものだ。審査せんわけに行かん」
 こう幹部の意見が一致した。
 そこで審査することになりました。

 すると、まだ審査の結果が発表にならない前日に金田氏に逢いますと、氏のいわれるには、審査の結果、君の狆は、金賞になるということを聞き出して来たが、どうもお目出たいとの話。どうもこれはお目出たいかも知れませんが、私は困りました。その困るというのはちょっと理由わけもあったことであります。話が大変管々くだくだしくなって煩わしいが、委曲話すだけは話しませんと自分の思惑おもわくが通りませんから話して置きますが、ちょっと話しが少し戻って、私の狆の作が陳列されて幾日目かに会場へ後藤貞行氏という馬車門の彫刻家が見物に来ました。この人は私の弟子ではないが、物を彫ることは私が教えたんで親しい間柄。私の作の前に立って、つくづく狆を見ている。
「後藤さん。こんなものが出来たんだが、どう見えますか。狆に見えますかね」
 私が批評を聞くと、
「まことに結構です。しかし只今、お作を拝見して、この彫刻の結構なことを思うにつけて、いと残念に思うことは、この狆をお彫りになる前にその事を私が知っていたらよかったが残念なことをしたと思いますよ。実をいいますと、このお作はどういう狆をモデルになすったか、なかなか狆としては名狆の方ではあるが、どうも大分年をっているように見受けます」
 こういう答え。私は後藤氏の言葉を聞いている中に、なるほどさすが馬専門の人で、動物を平生ふだんからいじりつけているだけに、なかなか詳しい。この狆を老年と見た目は高いと思いながら、黙って聞いていますと、氏は言葉を次ぎ、
「それで、残念なことをしたと思いますのは、このモデルの狆よりも、もっと上手うわてで、恐らく日本一の名狆と思われるい狆を私の知り合いのお方が持っておられます。その狆をあなたに参考としてお見せしたら、必ずこの作以上のものがお出来だったろうと、只今、感じながら拝見している処でありますが、惜しいことをしました」
「……御尤ごもっとものお言葉で……その狆は誰方どなたがお持ちなんですか」
「それは侍従局の米田さんの狆です。何でもよほど高価でお求めになったとかで、東京にもこれ以上のものはまずなかろうという評判で、年齢もまだ若し、それは実に素晴らしいものですよ」
というような訳。
 そこで、私も、良きモデルを得ることに苦心した前述の話などしまして、さらにこの次狆を彫る時には、右の米田さんの狆を是非見せて頂きましょうなど話しましたことであったが、それにつけても考えられることは、モデルを選むということは、世間を広く見た上にも広く、深く探し求めた上にも深く探究しないで、い加減の所で、もうこれで好いと自分一人決めにするようなことがあっては意外な欠陥を製作の後に残す悔いがある。これは注意の上にも注意すべきことだと深く感じたことでありました。

 こういう事などもあって、私は、どうも、今度の製作には、まだ充分という確信が持てない。それに自分も審査員に加わっているにもかかわらず、審査の結果は金賞になるとの事。金賞といえばこの会では上のない賞で、またこれを貰う人はほかにないという事でもあり、どうも、自分の確信のない作に、金賞とあるのは少し過賞過ぎるように感じられて心苦しくなりましたから、これはやめにしておもらいしたいと、その夜、岸、塩田氏その他の幹部学芸員のお集まりの処で、「薄々承りますと、私の作は金賞になるとかいうことでありますが、まだ充分という所まで行っているものでありませんから、この賞はこの次さらに努力しました時までお預けすることにお願いして、今回は無賞に願いたいが、折角の御厚志でありますから、せめて銀賞を頂くことになりましたら、私も至極満足に思います」云々と自分の心持を正直に申し述べた上、後藤氏との談話の結果、モデルが充分でなかったこと、米田さんに充分なものがあることがわかり、この次それを参考としてさらに力作をしたい下心であることなどお話しました。

 幹部の人々も、至極もっともの話で、心持はよく分ったが、それは君のモデルの穿鑿せんさくが足りなかったといえばいえもしようが、彫刻という美術上の技倆の上には別に大した関係のないことで選んだモデルをモデルとしてやった結果が優秀と認める以上、そういう遠慮は君の謙遜けんそんした心持としておもしろいと思うけれども、我々の考えは一に製作その物の出来栄如何いかんを批評鑑賞するのが任務で、当然君の作が金賞に値すると審査した結果であるから、これは我々の意見に一任されたがよろしかろうとのお言葉であった。なるほど、承って見ればこれもまた一理あり、先輩はまた先輩の見識もあることで、まだ私も後進のことなり、今度は何もいわずお任かせしようと思いましてそのままにしたことで、ついに金賞となりましたが、今日から考えても、随分努力の作とは申しながら、まだ考えが足らず誰方どなたにもやれそうな仕事で、今見れば銅賞にも及ばぬものかとも思われます。
 しかし、大島如雲氏の手に掛かって鋳物にして、また見直したことで、その年の中に鋳造も出来しゅつらいして御造営事務局へ彫工会から納めました。
 その後においても、今日に至るまで、宮城は度々拝観も仰せつかりましたが、貴婦人の間というのは拝観人にはお許しにならぬ御場所でもありますから、どういう工合に飾られてあるか、さらにそれは知りません。

 それから、右の木型の原型は彫工会の事務所に保存してありますが、その中四肢で立っている分(この分一番出来がよかったと思う)が、何処かへ貸した際紛失してしまって、今は三つだけ残っております。その頃、私が狆を作ったため、それが珍しかったか、一時諸方に狆を拵えたのを見受けたことがありました。

 今度の製作については、随分幹部の方々にもお世話を掛けたようなわけで、別して山高氏には御心配をかけました。同氏は先申す通り、博識で、美術界のために大いに尽くされた方で、池の端に宏壮こうそうな邸宅を構えておられました。今日でもその建築は池の端に高くそびえ立っております。何んでも、かね勾配こうばいをもう一層高くしたほどの高い屋根の家でありますから、山高さんのことを「屋根高やねだか」さんなど人はいった位でありました。
 これから引き続いてとりの話をする順序となります。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年1月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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