十五、六歳になってからは、しばらく釣りから遠ざかった。学校の方が忙しかったからである。
 二十歳前後になって、またはじめた。
 母と共に、二年続けて夏を相州小田原在、松林のこんもりとした酒匂村の海岸に過ごしたことがある。炎天を、毎日海辺の川尻の黒鯛くろだい釣りやはや釣りに専念して、第一年の夏は終わったのであったが、第二年は六月のはじめから鮎釣りをやってみた。
 五月下旬のある日、ふと東海道の木橋の上手かみてにある沈床の岸に立って瀬脇をながめると、遡りに向かった若鮎が盛んに水面に跳ねあがるのを発見した。
『この川にも、鮎がたくさんいるのだな』
 と、昔の友に会ったように感じた。
 子供の時から利根川で、父と共に若鮎に親しんでいた私であるから、ここで鮎の跳ねるのを見て、矢も楯もたまらなくなったのは当然であった。すぐその足で、小田原町本町一丁目の『猫』という異名を持つ釣り道具屋へ訪ねて行って、竿と毛鈎を求めたのである。まだその頃は、関東地方へきている加賀鈎や土佐鈎の種類も少なく、私は青お染、日ぐらし、吉野、そのほか二、三を選んだのであった。
 竿は、若鮎竿として我が意を得たものがなかったから、長さ二間ばかりの東京出来の鮒竿で、割合にしっかりしたものを買った。その頃、小田原地方では静岡地方と同じように、加賀鈎や土佐鈎を使う沈み釣りを、石川釣りといって、ドブ釣りとはいわなかった。ドブ釣りとは、多摩川を中心とした釣り人が造った言葉であったからだろう。
 石川釣りをやる人も、まだ酒匂川筋では稀であって、多くは石亀いしがめ(川虫)を餌にした虫釣りか、十本五銭位で買える菜種鈎なたねばりという黄色い粗末な毛鈎で、浮木うき流しをやっているのと、職業漁師が友釣りとゴロ引きをやっていた。
 六月一日の鮎漁解禁日がくると、引き続いて毎日出かけた。利根川式の鈎合わせで釣ると並んで釣っている誰よりも、一番数多く私に釣れた。深い場所では青お染、浅い場所では吉野が成績をあげたのである。
 解禁後、一週間ばかり過ぎると、余り釣れなくなった。そこで、人々はあきらめたと見えて、川へ姿を見せる者は少なくなった。けれども、私は根気よく続けていた。ある日、朝飯をゆっくりすませて、国道の木橋の上手の釣り場へ行ってみると、一人の職漁師風の老人が私の佇む岸より少し上手の荒瀬で友釣りをしていた。私はいつものとおり、道具を竿につけて、静かに竿を上げ下げしたが、その日はどうしたわけか全く駄目で、田作ごまめほどの小鮎が、二、三尾釣れたばかりであった。私は竿を河原へ投げ出して、木床の上へうずくまった。
 梅雨がくるにはまだ四、五日がある。空は、からからと晴れている。
 うずくまったまま、友釣りの老人の竿さばきを眺めた。一時間ばかりの間に、五、六尾釣りあげて宙抜きに手網で受けるのを見た。技術も上手じょうずであるが、鮎も沢山いるらしい。
 私は、老人の魚籠びくを覗いた。老人は囮箱でなく、竹で編んだ魚籠を使っていたのである。大きな籠の中には、四、五十尾の鮎が、生き生きと群れていた。私が毎日釣っている若鮎に比べると、幾倍というほど大きい。十四、五匁から、二十匁近くもあろうと思われる鮎ばかりであった。私は、例えようのない興奮を感じた。
 毎年、夏になると私の村の傍らを流れる大利根川の上流で、職業釣り師が勇壮な姿を速瀬の真んなかに躍らせて、友釣りを操っている風景を想いだした。五間もある長竿で、一歩踏みあやまれば溺れねばならないほどの奔流へ、胸のあたりまで立ち込む利根川の釣りは楽しみよりも苦しみであろう。こう想像して若鮎釣りだけで満足し、大川の友釣りには手を出さなかった自分であった。
 ところが、いま見るこの友釣りは三間か三間半の短い竿で、大きな鮎が掛かっても三、四歩下流へ足を運ぶだけで、宙抜きで手網へ入れている。これなら、自分にもやれそうだ。私の胸は、異常に躍ってきた。
『おじさん、友釣りってむずかしいものだろうね』
 私は、一心不乱に釣っている老人のうしろから、こう問うてみた。けれど、老人はうるさいといったような一瞥を与えただけで、何とも答えてくれなかった。
 しばらくすると、釣れ方が遠くなった。老人は腰からかますを抜き出して、一服つけた。私はこの機会を逸してはと考えた。
『私に友釣りを教えてくれませんか』
 と、率直に申し込んだ。
『いままで、石川釣りをやっていたんだが、どうも面白くない』
 と、つけ加えたのである。
『お前さんはどこだい?』
『酒匂へきているんですよ。上州の方から』
『ふん。だが、友釣りはむずかしいよ』
 老人はようやくこれだけ口をきいたのであるが、お前のような青二才に友釣りなどが、そうたやすく覚えられるものか、といった態度と口吻こうふんである。
『どうか、手ほどきして貰いたいと思うんですが』
 私も、執拗であった。
『夜、おれの家にきな。教えるから――』
 この場で、一通りの説明だけをして貰いたかった私は、この言葉を聞いてしゃくにさわった。老人の住所を、聞いておこうかと思ったが、止めにした。
 けれど、試みに老人が河原に倒して置いた竿を握ってみた。長さは三間あまり、全体の重量が手にこたえるほどの調子で先穂の硬い、二、三十年も使い古したと思われるような、男竹の延べ竿であった。
『竿に、手をかけちゃいけない!』
 老人は、のどから絞り出すような声で私を叱った。そして、ひったくるように私の手から竿を取ったのである。何と憎々しい爺だろう。
 私は、黙ってその場を立って、自分の竿のあるところへ行き、道具をかたして堤防の上へ登った。広々として、果てしのない酒匂の河原を望んだ。足柄村の点々とした家を隔てて、久野の山から道了山の方へ、緑の林が続いている。金時山の肩から片側出した富士の頂は、残雪がまだ厚いのであろう、冴えたように白い。遠く眺める明星ヶ岳や、双子山の山肌を包む草むらは、まだ若葉へもえたったばかりであるかも知れない。やわらかい浅緑が、真昼の陽に輝いている。
 酒匂の川尻の、砂浜にくだける白い波涛は、快い響きを立てている。東から吹く初夏の風を帆にふくらませて、沖合はるか西の灘へすべって行く船は、真鶴港の石船であろうか。
 翌日は、午後から小田原在足柄村多胡の釣り道具屋へ行った。店主に頼んで、友釣りの釣り道具一切をこしらえて貰ったのである。
 鼻環はなかんは、木綿もめん針を長さ八分ほどに切り落とし、真んなかを麻糸でくくった撞木しゅもく式。テグスの鈎素はりすへ、鈎を麻で結びつけた鈎付け。鈎は袖型であったが、鮎掛け鈎としてはモドリのついた珍しいものであった。いまから考えると、まことに旧式な仕掛けの出来であった。
 私は、喜んでその道具を蟇口がまぐちへ入れ、きのう『猫』で買った鮒竿をかついで、足どり軽く飯泉橋を酒匂川の東岸へ渡った。飯泉橋はいまの小田原行き電車の足柄駅から遠くはないが、その当時と、この頃では酒匂川の様子が、まるで変わっている。
 道了大※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)さったの奥から出てくる狩川と、酒匂川とは飯泉橋の上手で合流している。その橋の東の袂に、飯泉村を貫いて流れて出てくる清澄な小川があった。その小川が、酒匂川と狩川の合流点へ注ぐ角に木床工があって、深さ一尺五寸ばかりの巻き返しになっていた。そこに、大小無数の鮎が群れているのを発見して喜んだ。急いで、竿へ毛鈎の道具を結びつけ、抜き足して岸へ近づいた。そして、一尾のおとり鮎を釣りあげようとして、熱心に鈎を上げ下げして、一時間も辛抱したが、鮎は鈎の方を見向きもしない。場所を替えて、そこから三十間ばかり上流の沈床のかげを試みたが、やはり釣れなかった。
 けれど、ためになるものを見た。それは、熱心に川面かわもを見つめながら鈎を上げ下げしていると、沈床のかげから二、三尾の大鮎が追いつ、追われつして、互いに絡まりながら泳ぎ出してきた。そして、沈床の肩の瀬の落ち込みへ突進してゆくのである。いつぞや父から、友釣りというのは、鮎の闘争性を利用した釣りであると教えられたが、では今この沈床のかげから出てきた鮎のように、おとり鮎と川鮎とが激しく闘ううち、ついに囮鮎に仕掛けた鈎に川鮎が引っ掛かってしまうのであろう、と考えた。
 ようやくにして、五寸ばかりの鮎を釣った。雀躍じゃくやくして、上流の沈床の上へ取って帰って竿へ友釣りの仕掛けをつけ、この鮎を囮にした。師匠もない、道具も揃わない、にわか仕立ての友釣りを試みる自分である。手網も、囮箱も、通い筒も持たぬ。魚籠のなかの鮎は掌で捕らえ、そこでそのまま、かねて聞き覚えの通り撞木しゅもくの鼻環を鼻の穴へ突き通して、瀬のなかへ放り込んだのであった。長さ二間の鮒竿、川幅はおよそ五間。沈床の肩に立って斜めに上流へ向かい、瀬の吐き出しへ囮鮎を遊ばせた。ぎこちないフォームで待つこと五分間ばかり、だしぬけに竿先が重くなると一緒に、下流へ猛烈な勢いで引いていくものがある。
『やっ、掛かった!』
 と、直感した。いままで、一度も経験したことのない魚の強引さが腕にこたえる。
愚図ぐず々々していれば、逃げられてしまうかどうか分からない』
 下手しもてへ十歩ばかり下がった時、こう考えて、やにわに瀬のなかから、牛蒡ごほう抜きに掛かり鮎、囮鮎共に宙へ抜きあげた。と、同時に右の手が無意識に働いて、麦藁のカンカン帽が頭から離れると、二尾の鮎は帽子の底に、音を立てて跳ね続けた。
 こんな機会から、私は旅先で鮎の友釣りを学んだのであった。

底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
   1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣りの本」改造社
   1938(昭和13)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月30日作成
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