肌の色はダボ沙魚に似て黝黒のものもあれば、薄茶色の肌に瓔珞[#ルビの「ようらく」は底本では「えうらく」]のような光沢を出したのもあるが、藍色の肌に不規則な雲型の斑点を浮かせて翡翠の羽に見るあの清麗な光沢を出しているのが一番上等とされている。川の水温と鰍は密接な関係を持っている。北風に落葉が渦巻いて、鶺鴒の足跡が玉石に凍るようになれば、谷川の水は指先を切るほど冷たくなる。その頃、鰍押しの網で漁ったものならば、ほんとうの至味という。また、早春奥山の雪解けて、里川の薄にごりの雪代水が河原を洗う時、遡りで漁った鰍も決して悪くない。鱒も山女魚も鮎も同じであるが、冷たい水に棲んでいるものほど、頭と骨がやわらかい。殊に鰍は冬が来ると、こまやかな脂が肉に乗って骨がもろく、川魚特有の淡泊な風味のうちに、舌端に溶けるうま味を添えてくる。
雪の武尊山の谷間から流れ出る発知川と川場川を合わせる薄根川、谷川岳の南麓に源を発して法師温泉を過ぎ、高橋お伝の生まれた村の桃野で利根川に合する赤谷川に産するものは東京近県の絶品といわれている。常陸国の久慈川上流白根連峰の東側に流れる早川で漁れるものも見事である。どの川も水温が低いためであると思う。
鰍は一月、二月が産卵の季節である。この卵は奥山の早春の山女魚釣りにはなくてはならぬ餌である。漁師が谷川の底石を金熊手で引き起こすと、地蜂が幾重ねにも巣をかけたように、矢倉石の天井に鰍は卵を生みつけておく。これを漁師は、一塩漬けの日陰干しにして山女魚の餌に使うのであるが、人が食べてはうまいものではない。
産卵が終わって雪代水を迎えると愛嬌のある頭につぶらな眼をのせて、上流へ上流へと川底の玉石に絡まり遡って行く。まことに可憐な姿である。
姿は沙魚より丈が短く、頭が比較的大きく尻がこけている。大きいのは四、五寸くらいまで育って、腹に吸盤のないものが本ものである。大きな川の川尻に鮎食いまたはタキタといって二十匁以上にも育つ同じ種類のものもいるが、これは至って不味である。
北陸地方では鰍のことを鮴と呼んでいるが、変わった種類ではない。天明頃、長崎へ来ていた和蘭陀人が調べたところによると、日本には四十幾種類の鰍がいるという。その写生図さえ残している。今ではわが国の学者によって、一層種類が増したことであろう。
山小屋の囲炉裏に、串に刺した鰍を立てならべ榾火で気長に烙って、山椒醤油で食べるのが最もおいしい。焼きからしを摺鉢ですり、粉にして味噌汁のだしにすれば、これまた素敵である。
さらに、背から開いて骨と頭と腸を去り、玉子に饂飩粉を薄くといた衣をつけて、天ぷらに揚げた味は、どんな種を持ってきても、これには及ばないのである。たっぷりと鍋にたぎる油に、ジュウジュウと落としても泡を立てつつ浮かび上がってきた天ぷらは、衣に波形の皺がよって――塩で食べれば大いにうまい。
甲州鰍沢の街は、笛吹川と釜無川と合して富士川になるのど口である。鰍沢というくらいであるから、昔は鰍が名物であったであろうと思う。しかし今では釜無川の鰍も笛吹川の鰍も珍味とはいえない。明治四十三年の大洪水で、水源林が坊主になるほど荒らされ、水量が減った上に水温が高まったためである。
だが[#「だが」は底本では「たが」]石和町地先の、冬の笛吹川で漁れた鰍は食べられる。長者若尾家が華やかなりし頃はこの川の蟹喰いの沢鰻と共に、鰍の味を讃美したものである。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月2日作成
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