私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆てっぴつつつって職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島ゆしま男坂おとこざかの方へ曲って中ほど(今は黒門町くろもんちょうか)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂寄りの方に住んでいる。何処どことなく顔の容子が狐に似ているとかで、こんこんさんと綽名あだなをされた人で、変り者でありましたがこの人も定次郎氏と一緒に朝夕遊びに来ていました。お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合いました。ところで、もう一人、やはり高橋氏の隣りに住んでる人で野見長次という人がありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で、果物くだものの標本を作っていました。枇杷びわ、桃、かきなどを張り子で拵え、それに実物そっくりの彩色さいしきをしたものでちょっと盛り籠に入れて置き物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。この野見氏の親父おやじさんという人は、元、熊本時代には興業物に手を出して味を知っている人でありましたから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲善なかよしで一緒に私の宅へ遊びに来て、互いに物を拵える職業でありますから、話も合って研究しあうという風でありました。

 或る日、また、四人が集まっていますと、相変らず仕事場の前をぞろぞろ人が通る。私たちの話は彼の佐竹の原のうわさに移っていました。
「佐竹の原も評判だけで、行って見ると、からつまらないね。何も見るものがないじゃありませんか」
「そうですよ。あれじゃしようがない。何か少しこれという見世物みせものが一つ位あってもよさそうですね。何か拵えたらどうでしょう。うまくやればもうかりますぜ」
「儲ける儲からんはとにかく、人を呼ぶのに、あんなことでは余り智慧ちえがない。何か一つアッといわせるようなものを拵えて見たいもんだね」
「高村さん、何か面白い思い附きはありませんか」
というような話になりました。
「さようさ……これといって面白い思い附きもありませんが、何か一つあってもよさそうですね。原の中へ拵えるものとなると、高値なものではいけないが、といってっぽけな見てくれのないものでは、なおさらいけない……どうでしょう。一つ大きな大仏さんでも拵えては……」
 笑談じょうだん半分に私はいい出しました。皆が妙な顔をして私の顔を見ているのは、一体、大仏を拵えてどうするのかという顔附きです。で、私は勢い大仏の趣向を説明して見ねばなりません。
「大きな大仏を拵えるというのは、大仏を作って見物を胎内へ入れる趣向なんです。どのみち何をやるにしても小屋を拵えなくてはならないが、その小屋を大仏の形で拵えて、大仏をまねぎに使うというのが思い附きなんです。大仏の姿が屋根にもかこいにもなるが、内側では胎内くぐりの仕掛けにしてひざの方から登って行くと、左右のわきの下が瓦燈口かとうぐちになっていて此所ここから一度外に出て、いんを結んでいる仏様の手の上に人間が出る。其所そこへ乗って四方を見晴らす。外の見物からは人間が幾人も大仏さまの右の脇の下から出て、手の上を通って、左の脇の下へ這入はいって行くのが見える。それから内部の階段を曲りながら登って行くと、頭の中になって広さが二坪位、此所にはその目のあな、耳の孔、口の孔、並びに後頭に窓があって、其所から人間が顔を出して四方を見晴らすと江戸中が一目に見える。四丈八尺位の高さだから大概あらましの処は見える。人間の五、六人は頭の中へ這入れるようにして、先様お代りに、遠眼鏡とおめがねなどを置いて諸方を見せて、客を追い出す。降りて来ると胴体の広い場所に珍奇な道具などを並べ、それに因縁を附け、何かおもしろい趣向にして見せる。この前笑覧会というものがあって阿波あわ鳴戸なるとのお弓の涙だなんてびんに水を入れたものを見せるなどは気がかない。もっと、面白いことをして見せるのです……」
「……そうしてきりの舞台に閻魔えんまさまでもおどらして地獄もこの頃はひまだという有様でも見せるかな……なるほど、これは面白そうだ」
「大仏が小屋の代りになる処が第一面白い。それで中身が使えるとは一挙両得だ。これは発明だ」
など高橋氏や田中氏は大変おもしろがっている。ところが野見氏は黙っていて何ともいいません。考えていました。
「野見さん。どうです。高村さんのこの大仏という趣向は……名案じゃありませんか」
 高橋氏がいいますと、
「そうですな。趣向は至極賛成です。だが、いよいよやるとなると、問題は金ですね、金銭かね次第だ。親父に一つ話して見ましょう」
 野見氏は無口の人で多くを語りませんが、はらでは他の人よりも乗り気になっているらしい。私は、当座の思い附きで笑談半分に妙なことをいいましたが、もし、これが実行された暁、相当見物をいて商売になればよし、そうでもなかった日には飛んだ迷惑を人にかけることになると心配にもなりました。

 野見長次さんは早速親父さんにその話をしました。
 野見老人は興業的の仕事の味の分っている人。これは物になりそうだ。一つやって見たいというので、長次さんが老人の考えを持って来て、また四人で相談して、一応、私はその大仏さまの雛形ひながたを作って見るということになりました(実の所は雛形を作っても大工や仕事師に出来ない。また金銭問題でやめになるに違いないとは思いましたが、とにかく、自分でいい出したことだから雛形に掛かりました)。
 その日は竹屋へ行って箱根竹を買って来て、昼の自分の仕事を済ますと、夜なべをやめて、雛形に取り掛かりました。見積りの四丈八尺の二十分一すなわち二尺四寸の雛形を作り初めたのです。まず坪を割って土台をきめ、しほんといって四本の柱をもって支柱を建て、箱根竹をめて円蓋えんがいを作り、そのしほん梯子段はしごだんを持たせて、いつぞやお話した百観音の蠑螺堂さざえどうのぐるぐると廻って階段を上る行き方を参考としまして、漸々と下から廻りながら登って行く仕掛けを拵えて行きました。最初が大仏の膝の処で、次は脇の下、印を結んでいる手の上に人間が出られるようになる。それから左から脇を這入はいって行くのが外から見え、段々と顔面へ掛かり、口、目、耳へ抜けるように竹をねじって取り附けます。……雛形は出来たがこれは骨ばかり、ちょっと見ると何んだかさっぱり分らない。変なものが出来ましたが、張り子がみで上から張って見ますと、案外、ありありと大仏さまの姿が現われて来ました。
「おやおや何を拵えているのかと思っていたら大仏様が出来ましたね」
と家の者はいっております。
「大仏に見えるかね」
「大仏様に見えますとも」
といっております。大仏が印を結んで安坐している八角の台の内部が、普通の見世物小屋位あるわけになります。出来上がったので、それを例の三人の友達に見せました。
「旨く行った。これならまず大丈夫勝利だが、今度はこれを拵えるに全部で何程いくら金が掛かるかこれが問題です。そこで、この事は仕事師に相談するのが早手廻しでこの四本の柱をたよりにして、仕事をするものは仕事師の巧者なものよりほかにない。早速当って見よう」
ということになりました。で、御徒町にいた仕事師へ相談をすると、これは私どもの手で組み立てが出来ないこともないが、こういう仕事は普通の建物とは違い、カヤかたの仕事師というものがある。それはお城の足場をかけるとか、お祭りの花車小屋だしごや、または興業物の小屋掛けを専門にしている仕事師の仕事で、一種また別のものですから、その方へ相談をしたらよろしかろうというのでありました。それではその方へ話をしてくれまいかと頼むと、早速引き受けて友達をれて来てくれました。

 私はそのカヤ方の仕事師という男に逢って見ました。
 私のはらの中では、この男に逢って雛形を見せたら、恐らくこれは物になりません、というだろうと思っておりました。もし、そういってくれたらかえって私にはかったので、この話はそれで消えてしまう訳。もしそうでもないと、話が段々大きくなって大仏が出来るとなると、私の責任が重くなる。興業物としての損益は分りませんが、もし損失があっては資本を出す考えでいる野見さんに迷惑が掛かることになります。どうか、物にならないといってくれればいと思って、その男に逢いますと、仕事師は暫く雛形を見ておりましたが、
「これはどうも旨いもんだ。素人しろうとの仕事じゃない。この梯子はしごの取り附けなどの趣向はなかなか面白い。私どもにやらされてもこう器用には出来ません」
といってめています。それで、これを四丈八尺の大きさに切り組むことが出来るかとくと、訳はないという。この雛形ならどんなにでも旨く行くというのです。そして早速人足にんそくを廻しましょう、といっております。その男の口裡くちうらで見ると、十日位掛かれば出来上がりそうな話。野見さん初め他の友達もこれでいよいよ気乗りがして来ました。

 しかし、この仕事はカヤ方の仕事師ばかりでは出来ません。仕事師の方は骨を組むのでありますが、この仕事は大工と仕事師と一緒でなければ無論出来ません。そこで大工を頼まなければならないので誰に頼もうという段になったが、高橋氏が、私の兄に大工のあることを知っているので、その人に頼むのが一番だという。なるほど私の兄に大工があるが、しかしこういう仕事を巧者にやってのける腕があるかどうか、それは不安心、けれども、いやしくも棟梁とうりょうといわれる大工さん、それが出来ないという話はない、漆喰しっくいの塗り下で小舞貫こまいぬきを切ってとんとんと打って行けば雑作もなかろう。兄さんを引っ張り出すに限るというので、私もやむなく兄を頼むことに致しました。
 そこで、兄は竹屋から竹を買い出して来る。千住せんじゅ大橋おおはしで真ん中になる丸太まるたを四本、お祭りの竿幟のぼりにでもなりそうな素晴らしい丸太を一本一円三、四十銭位で買う、その他お好み次第の材料が安く手に這入りました。そこで大工の方で、左官に塗らせるまでの仕事一切を見積って幾金いくらで出来るかというと、(無論仕事師の手間賃も中に這入っていて)百五十円でやれるということです。それで、兄の友達の左官で与三郎という人が下谷町にいるので、それに漆喰塗りの方を頼んでもらいました。
 黒漆喰で下塗りをして、その上に黒に青味を持ったちょうど大仏の青銅のはだのような色を出すようにという注文……それが五十円で出来るというのでした。すると、まず二百円で大仏全体が出来上がることになります。そうして、胎内に一つの古物見立展覧場を作るとして、色々の品物を買いこむのだが、この方には趣向を主として実物には重きを置きませんからまず百円の見積り……足りない所は各自てんでの所持品を飾っても間に合わせるという考えです。それで何から何まで一切合切での総勘定が三百円で立派にこの仕事は出来上がるというのでありました。
「よろしい。三百円、私が出します」
と野見さんはいうのです。何も経験、当っても当らなくても、こうなっちゃ、損得をいっていられない。道楽にもやって見たい。もうかれば重畳ちょうじょう……いよいよ取り掛かりましょう、ということになりました。
 それが三月の十五日で、梅若うめわかさまの日で、私が雛形を作ってから十日も経つか。話ははやく、四月八日釈迦しゃかの誕生日には中心になる四本の柱が立って建て前というまでに仕事が運んでいました。最初はまるで串戯じょうだんのように話した話が、三週間目には、もう柱が建っている。実に気の早いことでありました。

 さて、カヤ方の仕事師は人足にんそくを使って雛形をたよりに仕事に取り掛かって、大仏の形をやり出したのですが、この仕事について私の考えは、まず雛形を渡して置けば大工と仕事師とで概略あらまし出来るであろう。自分は時々見廻り位で済むことだと思っておりました。で、膝を組んだ形、印を結んだ形、肩の丸味の附けよう……それから顔となって来て、顔には大小の輪などを拵えて、外からどんどん木をつけて……旨く仕事は運んでいることだと思っておりました。
 或る日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行って見ると、これはどうも驚いた。まるで滅茶々々なことをやっている。これには実に閉口しました。

 大工や仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。先には苦もないようなことをいっておったが、実際に臨んでは滅茶々々です。また、兄貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば、大仏が膝を曲げて安坐をしているその膝頭ひざがしらがまるで三角になっている。ちっとも膝頭だという丸味が出来ておりません。印を結んだ手が手だか何んだか、指などは分らない。肩の丸味などはやはり三角で久米くめ平内へいないの肩のよう……これには閉口しました。
「これはいけない。こんなことは雛形にない」
と私がいうと、
「どうも、こうずうたいが大きくては見当が附きません」
 仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままで、やられた日には衣紋竿えもんざおを突っ張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ這入はいって一緒に仕事をすることに致しました。
「私のいうようにやってくれ」というので指図さしずをした。
 膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板しぶいたを切り抜いて、細丸太を切って小口こぐちから二つ割りにして指の形を作る。鼻の三角も両方から板でせって鼻筋を拵え小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、一々仏の形のきまり大握おおつかみにつかんで拵えて行かせるのですが、兄貴の大工さんも、がねを持って見込みの仕事をするのなら何んでも出来るが、こんな突飛とっぴな大仕掛けな荒仕事となると一向見当が附きません。仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形に型取った一つの建物の骨を作るのですから、当って見ると漠然ばくぜんとして手が出ません。此所ここをこうといい附けても間に合わないという風で、私は大いに困りましたが困ったあげく、芝居の道具かたの仕事をやっている或る大工をれて来て、これにやらせて見ますと、なかなか気がいていて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。

 それで、私はよすどころでなく毎日仕事場へ行かねばならなくなった訳であります。が、毎日高い足場へ上って仕事師、大工たちの中へ這入って仕事をしていますと、なかなかおもしろい。面白半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日では思いも寄らぬことですが、まだとしも若し、気もさかんであるから、高い足場へ上って、差図さしずをしたり、竹と丸太を色々に用いてあごなどの丸味や、胸などのふくらみを拵えておりますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先でいじっているとはまた格別の相違……青天井の際限もない広大な野天の仕事場で、拵えるものは五丈近い大きなもの、陽気はよし、誰から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意ほついから仲のい友達同士が道楽半分にやり出した仕事ですから、別に小言こごとの出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金槌かなづちの音をさせて荒っぽく仕事をするので、どうも、はなはだ愉快で、元来、まかり間違えば自分も大工になるはずであったことなど思い出してひとりでに笑いたくなるような気持にもなったりしたことでありました。
 段々と仕事の進むにつれて、大仏の頭部になって来ましたが、大仏の例の螺髪らはつになると、ちょっと困りました。俗に金平糖こんぺいとうというポツポツの頭髪でありますが、これをどうやっていか、丸太を使った日には重くなって仕事がえず、板ではしようもない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹笊たけざるを拵える家が並んでおりますから、其所そこへ行って唐人笊とうじんざるを幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれがちょうどはまりますけれども、額際ひたいぎわとか、み上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合ころあいの笊を注文して、頭へ一つ一つくぎで打ち附けて行ったものです。仏さまの頭へ笊を植えるなどは甚だ滑稽こっけいでありますが、これならば漆喰のかじり附きもよく、案としては名案でありました。
「やあ、大仏様の頭に笊が乗っかった」
などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわいいっております。突然にこんな大きなものが出来出したので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありました。

 或る日、私は、遠見とおみからこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうと思いましたので、上野の山へ行って見ました。ちょうど、今の西郷さんのある処が山王山で、其所そこから見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根からずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛かって笊を植えた大きな頭がぬうとそびえている形は何んというていか甚だ不思議なもの……しかし、立派な大仏の形が悠然ゆうぜんと空中へ浮いているところは甚だ雄大……これが上塗うわぬりが出来たらさらに見直すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地したじは出来ましたので、いよいよ、左官与三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒ッぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気の好い時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました(この大仏に使った材料は竹と丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです)。
「どうも素晴らしいものが出来ましたね。えらいものを拵えたもんですね」
など見物人は空を仰いでびっくりしております。正味は四丈八尺ですが、吹聴ふいちょうは五丈八尺という口上、一丈だけさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口上看板を仮名垣魯文かながきろぶん先生に頼み、立派なわくを附け、花を周囲に飾って高く掲げました。こんな興業物的の方は友達の方が受け持ちでやったのでありました。
 それから、胎内の方は野見の親父おやじさんの受け持ちで、切舞台きりぶたいには閻魔えんまの踊りを見せようという趣向。そこでまた私は閻魔の顔を拵えさせられるなど自分の仕事をそっち退けにして多忙いそがしいことで、エンマの顔は張り子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛けにして、中へ野見の老人が這入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も古代な布片きれとか仏像のような何んでも時代が附いていわく因縁のありそうなものを並べ、鳴戸のお弓の涙などと小供こどもだましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老人がやって、一切、内外ともに出来上がりまして、いよいよふたを明けましたのが確か五月の六日……五日の節句という目論見もくろみであったが、間に合わず、六日になったように記憶しております。
 この興業物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしまうので、見世物としては大勢を入れるに都合のいやり方であります。大仏の頭が三畳敷位の広さで人間が五、六人位ははいれますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客は後からかれて出て行くので、入りかわり立ち交るという手順で、手ッ取り早く出来ております。蓋が明いた六日の初日には果して大入りでありました。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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