諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向つて断定した男が近頃現れた。勿論このやうな言葉は取り上げるに足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはも早や説明の要もない。しかし乍ら、かかる言葉を聞く度に私は、かつていつたニイチェのなげきが身にしみる。
「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知つてゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれといふ、公正の苦悩を知つてゐるか。」
 全療養所の兄弟諸君、御身等にこのニイチェのなげきが判るか。

 しかし、私は二十三度目の正月を迎へた。この病院で迎へる三度目の正月である。かつて大海の魚であつた私も、今はなんと井戸の中をごそごそと這ひまはるあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ井の中に住むが故に、深夜冲天にかかる星座の美しさを見た。
 大海に住むが故に大海を知つたと自信する魚にこの星座の美しさが判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであらう。況や――。
 だが思へばここ数年来、私の迎へた正月はなんといふ新年であつたことか。年あらたまる毎に私の苦痛は増すばかりであつた。
「俺はお前に頭を下げるのぢやない。全人類の苦痛の前に頭を下げるのだ。」
 とロヂオン・ラスコリニコフは売春婦ソニヤの前にひざまづいて泣いた。しかも、人生は愚劣なのだ。現実はあくまでも醜悪なのだ。この愚劣な、醜悪な人生を生きねばならぬ人間の苦痛が、私には堪らない。生きることは虚偽であるかも知れないのだ、だが、たとへそれが虚偽であるにしろ、生きねばならぬのが人間の宿命だ。いのちの姿を真に感得し得た者のみがこの言葉の意義を知つてくれよう。自殺の無意義さを真底から知つてゐる者はゐないか。
 今年もまた、私の苦痛は一段と深まることであらう。

 だが、苦痛とは何か、われわれの精神を虐げ、われわれの観念にひびを入れるこの苦痛とはそもそも何か。苦痛とは単なる神経刺戟だといふのか、さうではあるまい。

 苦痛は私に夢を与へた。苦痛によつて私はただひとつの夢を得た。
 一九三六年は私にとつて生涯記念すべき年であつた。或意味に於ては、この年は私の持つてゐたものの凡てを失ふためにのみ費されたといへる。実際私は、私の持つてゐたものをみな失つたのだ。それはみな、この新しい夢を得るための代償であつた。ああしかし、その夢が悪夢でないと誰がいはう。一九三七年の私の苦痛はここから始まるのだ。
 夢を有つたが故に夢に虐げられるとは、
 ――それなら苦痛が救ひだとでもいふのか!
 何も云はぬ、私は作家だ。

 小説に対して、人々は明るいとか暗いとかいふ。だが新しい小説に於ては、明るいとか暗いとかいふ言葉は意味をなさぬ。

 夜の更けわたる頃、私は机を前にしてじつと坐つてゐた。私をつつんだ空間は液状になつて、私の肉体は徐々にばい爛して行くやうに思はれるのであつた。
 それは恐るべき瞬間である。その時私は明瞭はつきりと聴いた。私を蝕む病菌の呼吸の音を。
 新年早々、ろくでもない言葉を吐いた。もうこのやうな言葉は一切吐かぬことに定めた。さて私は仕事をしよう。それ以外に何がある。なんにもありはしないのだ。
――柊の垣のうちから――

底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
   1980(昭和55)年12月20日初版
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月12日作成
2011年4月15日修正
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