自殺を覚悟するとみな一種の狂人か、放心状態に陥る。これが僕には不快なんだ。ただただ不快なんだ。さういふ状態になつて自殺するのは決して自殺とは言へないんだ。それは殺されたのだ。病気に、運命に、殺されたのだ。僕は自殺を希んでゐるけれど、殺されるのは断じて嫌だ。僕は自殺したいんだ。死の瞬間まで、自己をじつと見つめて、理性で一切を統禦する時、初めて「自殺」は可能なのだ。それは理性によつて運命を、病気を、征服したことなんだ。勝つにはこれ以外にない。

 どんな、どん底の人間だつて希望は残つてゐる。さう、それは正しい。どんなどん底の人間も希望を失ふことが出来ないのだ。それが生命の、いのちある証拠なのだ。判るか、俺の言ふことが――。人間は生きてゐる限りこの希望といふ生物いきものを背負ふべき宿命をもつてゐるのだ。だが、さう言つたからつて、どうして人生が明るいと言へるんだ。どうして幸福だと言へるんだ。
 俺は希望を憎悪する。俺は希望に、希望あるが故に、苦しみ悶えてゐるのだ。ああ俺が、全き絶望に陥ち込むことが出来たらなあ、その時こそ、俺は自殺が出来るのだ。

 俺はなんだつて小説なんか書く気になつたのだらう。小説を書いて、それが何になる。生きるために書く、そんなことはみな嘘だ。小説を書いたとてこの俺の苦痛はやはらぎはしない。

 朝から晩まで一室に閉ぢこもつてゐると、夕方には激しい孤独を覚えて、居ても立つてもゐられなくなる。神経は妙に鋭くなつて、ちよつとした物音にも、空気の動きにもぴりぴりと顫へる。そして無精に人間が恋しくなる。窓下でことりと下駄の音がすると、俺のところへ来るのではあるまいかと緊張し、非常に、それが来訪してくれることを希みながら、しかし来ることが、腹立たしく不快になる。そしてこの孤独な気持を乱されるのが恐しく思はれる。そのくせ下駄音が窓下を素通りしてしまふと、たまらなく失望した気持になる。その音の消えるまで耳をすませながら、なんとなくうらめしいやうな気持さへ味ははずにはゐられない。もうじつと坐つてゐるのに堪へられなくなり、立ちあがつて部屋の中を歩き廻る。しかしどこへも行きたくはない。行つたとて愚劣だと思つてしまふ。
 やがて日は暮れてしまひ、電燈の光りだけになると、少しづつ気分が落着き、静かな、平和な気分になる。そして暫くじつと目を閉ぢてゐると、なんとも言ひやうのない満ち足りた法悦境に這入つて行く。その時には自分のまはりのものが凡てなつかしい。凡て好きになる。一つ一つ手にとつて接吻してみたくなる。インクスタンドも、灰皿も、ペンも原稿紙も、凡てがたまらないほどなつかしく、恰も命あるもののやうに見え、つい話しかけてみたくすらなつて来る。花瓶にさした草花など特にさうだ。一切のものが自分の兄弟か何かのやうに見え、自分と血を分け合つたもののやうに見えるのだ。凡てが良い。宇宙に向つて感謝し、神の御心を感じる。とはいへ、それだけではない。もつと恐しいことも感じる。そしてあるものは自分だけとなる。激しい、強い、力を感じる。何もかもが可能と思はれる。お望みとあれば即座に自分の心臓にメスをぶち込むことも出来さうになる。また即座に人を刺し殺すことも出来さうに思へる。
 美しい、まだ十五六の少女が現はれる。この少女を直ちに殺すことも、また限りない愛情をもつて抱きしめることも、可能となる。しかも凡ては美しく、なつかしい。

 聖書は何にも増して我々に源泉の感情を示してくれる。我々が現代において欲するものは何よりもこの感情、源泉の感情だ。

 俺は俺の苦痛を信ずる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ。

底本:「定本 北條民雄全集 下巻」東京創元社
   1980(昭和55)年12月20日初版
入力:Nana Ohbe
校正:伊藤時也
2010年9月12日作成
2011年4月15日修正
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