くびだけ 今は方言と言はれぬ語であるが、くびだけは首ばかりが水面に出てゐる様子で、沈湎・惑溺の甚しい事を言ふのだ、と思うてゐた処、大阪天満女夫池に、妻を追うて入つた夫の歌と言ふのに「水洩らぬ契りの末は首たけに思ひしづみし女夫池かな」極めて要領を得ぬ物であるが、首ダケとは着長キタケに対した語で、頭をもこめたタケの義であらう、と思ひあたつた。首が出る段でなく、ずんぶりつかつて了ふことであらう。東京人のくびつたけの促音は、くびのたけの積りであるので、だけ(而已)に力をこめたのではなからう。
さくら 縁日などに出る香具師の仲間では、客の買ひ方を速める為に、囮になつて、馴れあひで物を買ふ。此類に限らず、其外にも、人目は関係ない様に見せかけて、実は、脈絡をもつて悪い事をする第三者、譬へば、手品師に於ける隠れ合図をする者・すりのすつた品物を途中で受けとる人間など、すべて相掏り(あひずり)と言はれるものを、大阪ではさくらと言ふ。此は、花合せの札の三月の分が、殊に目につく藍刷りであつた為かと思ふが、他に案があつたら、教へて下さい。
○祭りの翌日 祭りの前の日のよみや、祭日のホンまつりなどは、何処でも通用するが、祭りの翌日には、行事のあるところと、ないところとがある様だし、用語も、地方によつて、まち/\な様である。熊本のおけあらひ(桶洗ひか)大阪のごえん(後宴か御縁か)などは聞いた。祭りのなごりを惜しむ人々の残つてゐる今の間に蒐めておきたい。
もろに 東京でも、今は諸国の人々の寄り合ひになつて了うた為、大抵の国々の語の包括を遂げた様に見える。其でも、下町の年よりの早口の会話を聞くと、かなり意の通ぜぬ語に出くはす。今の間に、小説家などが、もつと書きとめて置いてくれゝばと思ふ。もろになど言ふ副詞は、実の処、私にはまだ、的確に意義が掴まれぬ。初めは「モロに」で、両手でさしあげたりする意の、相撲とりの仲間からとり入られたものと考へて、其まはし両手モロテでひいて、軽々とさしあげる意から、軽々と・たやすくなど言ふ意が、胚胎せられて来たものと思うた。
処が、事実はすつかり違ふ様である。もろには「脆く」と一つで、上方のぼろくそぼろいなど言ふ語と密接な関係があつたのである。其について思ひ起すのは、友人永瀬七三郎君が、北河内サンクチ(野崎の近辺)に住んだ頃、こもろいと言ふ形容詞をよく耳にした。だから、大阪のぼろいこもろいと一つで、脆いと言ふ語が語原であらう、と言うてゐたことである。ぼろいと言ふのは「手もなくうまい事をした」場合などに言ふ語で、過大な好結果を示すのである。言ひ換へれば、さのみの苦労をせずに、思ひがけぬ利益を得ることをいふ。今日の言語情調からすれば、ぼる(貪)と言ふ語と親類らしく感ぜられるのであるが、事実は、やはり別であらう。
其は、ぼろくそと言ふ語が、同時に行はれてゐるのを、参考して見ても知れる。ぼろくそは「苦労なくはかどる」或は「努力せずして思ひの外に速かに願ふ結果を獲る」意である。当方でなく、対象が脆く自分の思ふまゝになる、と言ふのが本義なので、るが語原とすれば、ぼろいの意は訣つても、ぼろくそは解釈がつかぬのである。ぼろい――こもろい――もろにと並べて見れば、今も東京に行はれてゐるもろにといふ語の原義は、ほゞ辿られる様である。
へそくりしがいせん 雑誌郷土研究時代では、随分へそくりしがいせんなどが、問題になつた。わたしは、へそくり綜麻繰ヘソクりで、家族の私有の利得は、其辺から得たものと信じてゐるので、しがいせんも、しんがいしがいなど言ふ、糸鞋を作つて、めい/\の小遣ひ銭を作つた為と考へる。まつぼりなども、かういふ方面から、探りを入れて行くべきだらうと思ふ。
がしん 岡山辺では、飢饉年をがしんと言ひ、京阪ではいくぢなしがしんといふ。私の様に弱かつた子供は「がしんやな」「がしんたれ」など言ふ語で、批評せられ通しであつた。処が、狂言記に二个処ほど(一个処は餌さし十王)がしんを見た。其用語例は、岡山の凶年とまでは行かずとも、不景気の意であつた。さうすると餓死など言ふ宛て字が、相当の値うちを持つて来る様に思はれる。
てんごおてんごてご 浄瑠璃にしばしば見るてんごおと言ふ語は、今も京阪に生きてゐる。多くの場合、てんごてごなど短くつめられるを常とする。戯れ・いたづら、まじめな態度を欠いた総ての動作を表す語である。転業・手業など言ふ節用集流の宛て字は、おもしろくない。同じ系統の語らしいものに、口ごはいと言ふ語がある。思ふ存分人にあらがひ、罵倒することであるが、てんごおほどには、書物の上に残されずに、もう亡びかゝつてゐる。此語は、馬などにも言ふ口強クチゴハと言ふ語の、謂はゞ、連体法のくちごはいが、くちごはい事など言ふ接続を忘れて、(<なる)を落す上方修飾語の常習と誤認して、名詞と思うたのである。「親に向うて口ごおはい。罰があたるぞ」或は「口ごおはいわんぱく坊主」など使ふ。即が重母音になつたのだ。扨、かのてんごおもやはり、此と同じく、手強テゴハの義で手ゴハうする>てごわうする>てごお(する)>てごお>てんごお、と言ふ風に、名詞化して来たと見るべきであらう。京阪の行音は、勿論、鼻音であるから、てごおになる迄の間に、既に、撥音のわりこみのあつたことゝ思はれる。
○晩と夜 晩と夜とは、今では多くの地方皆、おなじ事に考へてゐる様である。狂言記あたりに見える「晩ずる」といふ動詞は「夜になる」の意としか解かれてゐぬが「クラくなる」位の意であらう。家忠日記天正十八年二月二十二日の条に「伊可御茶屋之普請は、晩より夜まで雨ふりかみなり」とあるのは、たそがれ・夕景などの意であらう。
よさもと 紀伊北牟婁郡長島辺を歩いてゐた頃に、行き逢うた人の話では、午後をよさもとと言ふ由。八つ下りなどの意であらうか。右の地方の方の教示を乞ふ。尚午前・正午・午後・夕・夜などを表す方言を蒐めたい。
つろく 東京・大阪の間を往来する者にとつては、東京と大阪とでは、すつかり語が違つてゐよう、と考へてゐた漠然たる予期が、思ひがけない語に会うて、其が外れて行くのに、驚くことが度々です。無機的な名詞の同・不同に就ては、さのみ意も牽かれぬが、動詞・副詞の同じものゝ多いのには、全く驚きます。相応・つりあひ・適当などの意のつろくといふ語、此も「身代につろくせぬおごり」或は「からだにつろくした着物」など言ひます。又、前のぼろいも、実は東京にも、下町辺の語の荒い人々の間には行はれてゐます。
よどいたじきばらひ 日向児湯郡納辺で宵祭ヨミヤよど、祭りの翌日を、いたじきばらひと言ふ。前のをけあらひと、成り立ちが似てゐる。
ぜんじやく―に―おうれんじやく―に―おうぢぞお―の―かんけかたくまちゝくま 負ひ方擁き方の名を蒐めたい。大阪辺では、子供を脊負ひ帯で負ふのをぜんじやくにおうと言ふ。たまにはれんじやくと言ふ人もあるから、連尺に見立てたのだ、と言ふことは疑ひもない。但此場合、胸の方はやはり、帯が十文字に交叉してゐる。後向けに負うて、脊と脊との合うてゐるのをぢぞおのかんけ(け、清音)と言ふ。地蔵の勧化なることは明らかである。「地蔵のかんけくわんとは言はぬ)」と節をつけて、子どもどうし負うて、遊んだことを覚えてゐる。肩車をかたくまと言ふ事は、手習鑑以来変らぬが、多くはちゝくまと言ふ。
たしむたしなむ たしむたしなむとは、如何にも関係の深かりさうな語である。蕪村の「蓼の穂をま壺に蔵す法師かな」が、一書には、たしむとなつてゐた筈である。夜半翁も必、たしむと蔵すとの間に、関係ある事を認めてゐたに違ひない。紀州日高では、物を貯へたり、用意したり、一部分残しておくと言ふ風な用語例に、たしなむを使うてゐる。女のたしなみなど言ふのは、用意・心掛けなど言ふ意が、姿・形の上にも転用せられたので「芸事について、何のたしなみがある」など言ふ事もある。思ふに「嗜」と言ふ字にくつゝいて残つてゐる、たしむと言ふ語の意味は、酒呑みが塩辛でも舐める様に、ちび/\玩味することを言ふのではなからうか。たしと言ふ語根は、と言ふ体言副詞語尾の有無に係らず、動詞語尾に続いたので、たしむたしなむ同じ語と言ふことが出来る。此語根たしは可なり古いもので「タシか」系統のたしとは、別に展びて来たものらしい。今も、京阪にも東京にも言ふ、少量で、使ふにも気のへる様な程度なのを、たしないと言ふのは「足しない」ではなくて、物惜しみする意のたしの古意を存してゐるのであらうか。尚人をたしなめるなど言ふ場合は、心掛け足らぬを叱つて、注意を喚び起す意とも思はれるが、どうやら、はしたなむの略転らしく考へられる。
おいによ 大阪では、夫より妻が年がさな場合に、其の妻をおいによと言ふ。又さうした夫婦関係をも言ふ様で「ムコのうちは――や」などゝも使ひます。おいによおぼお(老い女房)の略語なる事は勿論です。おい(連用)おゝ(終止)の二つの活用は見られます。連用はに接して、おゝておゝたなどゝなります。おいおゝは勿論老ゆなのですが、単に老年を現すことはなく、齢を比較して、誰は誰よりもおゝてると言ふのが、此語の普通の用例です。又、さう言ふ夫婦を、嘲笑の気味合ひで、だんじりと呼んでゐます。あの地では、地車ダンジリを囃すのに「おゝた/\」と言ふ語で、煽り立てゝ、地車を進めるのです。「追へ/\」「追うたり/\」などゝ同じ用語例です。だから、おゝた(老うてる)と言ふから、だんじりを聯想したのです。此語は、二つともに、四十以上の人の外には使ひません。
もろに もろにと言ふ語、前にあゝは言うたものゝ、尚、不安な処があるので、いろんな人に問うて見た。清水組にゐる鈴木は、やはり「モロに」の義で、全体の意とし、その使うてゐる為事為シゴトシが、最近に「足場がもろに倒れるといかぬ」と言うたと教へてくれ、村田春雄君は「電柱がもろに倒れて来た」との例を寄せられた。山中共古先生の御相談願ふと、鈴木と同じく「諸・両」説で、恐らく、大工仲間の術語だらうと言はれた。此頃の色物席は恐ろしく不純で、お上品になつた為に、自在な東京下流の対話は、講釈場でなくては聞けぬ様になつた。わたしは、四五日方々の席に出かけて、下の用例を筆記して来た。
なにしろ千鈞の鼎をもろにさうと言ふ力だからたまらない。(三国志、宝井馬琴)
為懸シカけてあつた崖だから、孔明の合図と共に、もろにこいつが畳めると、魏の総勢が谷間へ落ちこんだ。(同じく)
砂袋切つて落すと、恐しい勢で、城の裏山から城を目がけて、もろに水が流れこむ。(同じく)
片岡は御家人ゴケニンだ。穢れ役人に、調べを受ける筋はねえ、とぐつと裾を捲つて、褌をもろに出して、坐りこんだ。(河内山、神田伯治)
ぶつ倒れた奴の頭を、左手を伸して、もろにつかんだ。(清水次郎長、神田伯山)
杉の市が杖でもつて、川の水を払つたからたまらない。近江屋勘次、頭からもろに水を浴せられた。(藪原検校、小金井蘆州)
一・二の例は、脆系統の軽々とたやすくとも、受け入れられる。三・四・五は、無雑作と広義に拡充させて見ると、どうかかうか、説明はつくやうである。村田君の場合もまづ、訣りはするが、尚、不安心である。其で、一度「両・諸」の方から探りを入れて見る。全体・すつかりと拡げて見ると、一層訣り易い事は事実である。「電柱がもろに倒れた」なども「根柢から」と言ふ考へを下に持つた、全体・すつかりと、説けばよい様だ。併し、現在の用語例は、全体・すつかりにあるとしても、勢籠つた・鋭い・すばやいなどの言語情調を度外してはならぬ様である。今日の用語例は、語原的に言ふと、確かに「モロに」で、相撲などの術語から出たものと思はれる。さうでないとすると、近世的の語として「モロに」など言ふ語の発生は疑はしい。此処に尚、聊か「モロに」語原の可能が許されさうに思ふ。さうとすれば、全体・すつかり・根柢からなど言ふ用語例は、聯想から「モロ」に結びつく為に出来たもの、と説明すべきであるやうだ。尚、序に注意すべきは、江戸語では副詞の語根を強くする為に、三音・四音になるのを避けようとしてゐる傾きが見える。「右の腕がぶらになつた」「ぽかとぶつ」「仰(あお)に倒れた」など言ふ類で、もろにが、脆くもに、一縷の関係を繋いでゐるのである。
○女の家 節供セツクは和漢土俗習合して出来たものと考へる。そして季節の替り目を恐れる風、及び祭り・物忌みに、男は皆宮社に籠り、女ばかりが家にゐて謹んで籠つたことがあるであらう。此は古いことだが、万葉集巻十四に、
誰ぞ。此家のオソぶる。新嘗ニフナミに我がをやりて、イハふ此戸を
鳰鳥ニホドリ葛飾早稲カツシカワセ新嘗ニヘすとも、そのカナしきを、外に立てめやも
とある。近世まで、かういふ風に男女別居して、物忌みする風は、必、あつたであらう。西宮の居籠ヰゴモりなども、宮籠りに対した語で、祭りに宮に籠つた風のなごりを逆に見せてゐるのである。それで恐ろしい季節の替り目を別つ節供の日に、男が宮籠り、女の居籠ることがあつたので、五月五日を女の家(女殺油地獄)と言ふ様な――男だけの祭り故――諺もあつたであらう。尤、近松の頃には、此語の意味は訣らなかつたであらう。
おとごぜ 伝教大師・性空上人・皇慶律師などに使はれた、乙護法オトゴホフといふ護法童子は、恐らく別々の者でなく、術者の手に転々して役せられて居た者、と考へられたであらう。さすれば、頗長命な役霊(すぴりつと)である。此護法の名が、民間に遍満して、一種滑稽な顔をした、ぱつく風の小魔と考へられ、乙護々々と略称されたのが、乙御と言ふ風の民間語原説から、乙御前オトゴゼと還元する様になつて、一種の妖怪と考へる事になつたのであらう。
○髪形と子ども 子どもを、髪の形で類別すること、古代・近代一列である。うなゐめざしをはなりひさごばなかぶろは、あまりに古い名である。わらはなども、とり上げずに、乱れたい儘に、短くはらゝかした髪である事は、わらゝばはらゝなどいふ、H音・V音の音価動揺時代を知つた人には訣りきつた、所謂ばらけ髪である。大童などいふ語も、子どもの髪に見立てたのでなく、わらは其者が、ばらけ髪を言うた事を示してゐる。河童の事を河郎カハラウかつぱと言ふのが、河わらは河わつぱから来たのだ、と言ふことは疑ひがない。だから、河郎・かつぱが、絵にある形の頭をした者に定つた事は、ゴクの近代でないと知れる。唯、あんな小さな形にしたのは、例の民間語原と言うてよからう。山わろなどは、爺さんの様に考へてゐた者も、多いではないか。此場合も、尠くとも、山住みの気安さに、髪をふり乱してゐたのを斥したものであらう。がつそ(<かふそ)が川獺から出た物で、河童と一類に考へられた事も、明らかで(山島民譚集)ある。大阪では、四五十からの上の人は、昔の医者・修験などの頭の、所謂総髪をがつそといひ、其に似て、子どもの四方へ髪を垂れた頭をも、がつそと言ふ。其脳天を小さく円く剃つたのが、けしこけし房主である。東京の子どもの、おかつぱさんがつそとが、おなじもので、名も関係深いのはおもしろい。
さるぼ 虹が、雉の尾の様に見えた事は、推古紀かにあつたと思ふが、かの天象を、動物の尾に譬へる事は、外にもある様である。大和北葛城郡志都美シツミ村辺で、虹の片脚の僅かに立つてゐたのを見て、七十歳の老婆が、さるぼといふ名を教へてくれた。は VO の発音で、大和人は、を正しく WO とは言へぬのである。即、猿尾の義かと思ふ。
あおち貧乏 稼いでも/\世帯のよくならぬのを、大阪では、あおち貧乏と言ふ。あおつは煽つである。戸が風にあふられる事にも言へば、団扇で音たてゝ扇ぐ場合にも使ふ。思ふに、ばた/\と立ち働いて、ぢつとして居る間もないのに、而も貧乏すると言ふ意味の考へ落ちだらう。
○祭りの日 徳島市中では、本祭りをほんま、其前日がよみや、祭りの翌日がしよおじりである。しよおじりの日は、午後からお宮が賑ふ。尚、三月節供翌日を、やはり、しかのあくにちといふ。
れ※[#小書き平仮名ん、87-16]れ※[#小書き平仮名ん、87-16] 此語は、大和国中に限る様である上に、殊に北南葛城郡が中心になつてゐる処を見ると、其処に、起原があると仮定しても、よい様だ。此で思ひ当るのは、当麻寺の練供養ネリクヤウである。此は、頗名高い法会で、大和歳事記を拵へれば、春の部の王様とも言ふべき行事ゆゑ、此地方の人には、祭りとも、休日とも言ふ風の聯想が起つたのであらう。恐らく練道レンダウ供養のれんどおが、れんどれんぞとなつたものであらう。練道と言ふ語は、行道など言ふ語があるから、言はないとは思はれぬ。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日
初出:「土俗と伝説 第一巻第一―三号」
   1918(大正7)年8〜9月
※底本の題名の下に書かれている「大正七年八―十月「土俗と伝説」第一巻第一―三号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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