さてその後からは、鉄のおりに入ったライオン、虎、熊などの猛獣が車に乗せられて来ます。つづいて馬が十頭ほど、みんなかわいい少女や少年を一人ずつ乗せて、ひづめの音をぽかぽかと鳴らしながら来ます。最後に赤や黄や青の旗をかついだ人たちが大ぜい、ぞろぞろとつづいて来ます。その旗にはそれぞれ「東洋一大曲馬団」「東洋一移動大動物園」「世界的大魔術」「世界的猛獣使」などという字が白く、染めぬかれてあります。
まっ先の一寸法師から、最後の旗持ちまでは百五十メートルほどもあり、その長い行列は、楽隊の吹き鳴らす行進曲で、何ともいえない気持ちよい調子につつまれ、何ともいえないにぎやかな色どりをあたりにふりまきながら、八月の朝のきらきらした太陽の光の中を進んで来ました。
ここは東京から北の方へ二十里ほどはなれた、ある湖の岸の小さな町。汽車も通らず電車もなし、一日にたった二度乗合自動車が通るきりの、しずかなしずかなこの町に、だしぬけにこんな行列が来たのですから、大へんです。町は一どきに目がさめたように活気づき、町の人々は胸がわくわくして仕事など手につかず、みんな往来へ出て、目をみはって行列を見ています。わけても、夏休みでたいくつしていた子供たちは、一年中のお祭りが一どきに来たようによろこび、もうじっとしてはいられず、行列の後からぞろぞろぞろぞろとついて行きます。元気のいい男の子たちは足も地につかぬ思いで、飛びまわり、はねまわり、一寸法師の前へ立って背くらべをしたり、象のそばへ来て袋の下から長い鼻をのぞいたり、楽隊といっしょに足拍子を取ったり、ライオンや虎や熊をこわごわと見たり、馬の上の少年少女たちに失敬してみたり、旗持ちの旗をかついだり、もうまったく夢中になっています。なにしろこの町はじまって以来の出来ごとで、一寸法師はもちろん、象もはじめて、ライオン、虎、熊もはじめて見る、という子供たちが多いのですから、こういうさわぎをするのも無理はないのです。
火の見の立っている町の四つ角の、いちじくの葉が黒いかげをおとしているところに、一軒の鍛冶屋があります。ここに新吉という十一になる丁稚がいます。その朝も早くから、土間の仕事場で意地悪の親方にどなりつけられながら、トッテンカン、トッテンカンとやっていました。
すると、遠くから、ききなれない楽隊の音が鳴りひびいて来ます。はじめは、たまに来る活動写真の楽隊かな、と思いながら金づちをふりあげていましたが、だんだんその音が近づくにつれ、これはあたりまえの楽隊ではないぞと思いました。そのうちに楽隊の音は、軒下からのぞけば見えそうなところまで近づいて来ました。が、こんなとき、うっかりのぞいたりしようものなら、親方の金づちがこつんと向こうずねにぶつかって来ます。新吉は、いっそのこと、耳がなければいいなと思いながら、下くちびるをかみしめて、金づちをふり上げていました。
曲馬団の行列は、鍛冶屋の横手の火の見の下までやって来ました。と、まっ先の一寸法師が、くるりとうしろへ向きなおり、赤いトルコ帽を片手に取って差し上げ、
「とまれーっ。」と叫びました。からだに似合わず、太いしゃがれ声を出したので、見物人はびっくりしました。人間の言葉などはしゃべれないものと思っていた子供たちは、なおさらびっくりしました。
一寸法師は、目の前の象の袋のすそをめくりました。一尺ほど象の鼻の先があらわれると、一寸法師はそれへ片手を掛けました。かと思うと、くるりと宙がえりを打つようにして、象の背中の三人の少女たちの中へ、すっぽりとのっかってしまいました。子供たちはいうに及ばず、大人たちもこれにはまたびっくりしてしまいました。
一寸法師はそこで、ズボンのポケットから拍子木を取り出し、それをチョンチョンと鳴らし、
「オーケストラ、ストップ。」と叫びました。と、楽隊がぴたりと鳴りやみました。
「チョンチョンチョン。とざい、とーざい。」と一寸法師は、胸を張り、あたりを見まわしながら口上をのべはじめました。
「さぁて皆さん。皆さんは今まで、私を世界一の小男と見て、子供さんまでが私と背くらべをしたりしまして馬鹿になさいましたが、ただ今は世界一の大男となりました。なんと皆さんは、私の足もとにもとどかぬかわいそうな一寸法師となったではありませんか。くやしかったらここへ来て私と背くらべをしてみなされ、エヘン。
チョンチョンチョン。とざい、とーざい。さぁて皆さん、この世界一の大男の一寸法師が、曲馬団一同になりかわって、ごあいさつ申し上げることと相なりました。外でもござりません。当曲馬団は、日本中はおろか、東洋中に名を知られた大曲馬団、大動物園でござります。象、ライオン、虎をはじめ、動物の数が九十八種、曲芸の馬が十八頭、曲芸師が三十と六人、劇とダンスの少年少女が二十と八人、それに加えて世界的大魔術師、世界的猛獣使い、オーケストラが日本一、そうして、小生の私の我が輩の僕が、エヘン、日本一のいい男の一寸法師、チョンチョンチョン。
さぁて皆さん。これらの面々が、いかなる芝居、いかなるダンス、いかなる曲芸、いかなる魔術、いかなる猛獣を演出いたしますか、今晩六時より当町御役場裏の大テントで相もよおすこととなりました。これにつきましては、当町長さまはじめ、警察の方々さま、当町有志の皆々さまから一方ならぬご後援をいただき、一同感謝にたえない次第。よって当初日は、そのおん礼といたしまして、大人小人各等半額をもってごらんに入れることと相なりました。なにとぞ皆さん、それからそれへとご吹聴下され、にぎにぎしくおはやばや、ぞくぞくとご光来ご観覧の栄をたまわらんことを、一座一同になりかわり、象の背中に平に伏しておんねがい奉るしだぁい。チョン、チョン、チョン。」
そこで一寸法師は、象の背中へくるりとしゃっちょこ立ちをしました。かと思うとまたまたくるりと起き上がり、行列を見かえって、
「オーケストラ、ゴォー。行列、進めー……」
鍛冶屋の新吉は、頭ががーんとするほど、うちょうてんになり、今の曲馬団について、何でもかまわず、めちゃくちゃにしゃべってみたくなりました。けれど仕事の最中に一言でもよけいなことを口に出したら、親方の金づちがごつんと飛んで来ます。仕方なく新吉は、大金づちを力いっぱいふり上げて、トッテンカン、トッテンカンと打ちおろしていました。そうして、曲馬団の楽隊の音が、遠く町はずれへ消え去ってから、ようやく頭の中がしずまりました。
鍛冶屋の仕事は、夕方暗くなってからやっとしまいます。その仕事のしまわないうちに、役場裏の大テントの方からは、はたして、曲馬の楽隊が鳴りひびいて来ました。そうして遠くからきこえて来る楽隊の音は、また何ともいえない、やわらかい静かないい調子となってひびいて来ます。クラリオネットとラッパの音とが、離れたりもつれたり、何か見知らぬ遠い国からきこえて来る夢のようなひびきを伝えて来ます。
そのうち店の前を、三人五人と、楽隊の音に吸われるようにして、急いで行く人たちが通りはじめました。兄弟同士が手をつないで走って行く子供たちもありました。それを見ると新吉は今の自分の身の上が急に悲しくなりました。
新吉は、両親がなく、たった一人の姉さんは東京のおじさんの家へ奉公に行ってしまい、自分は小学校へ二年ほどかよったきりで、この鍛冶屋の丁稚になってしまったのです。兄弟で曲馬を見に行くなどはおろか、一人ぽっちでも見に行ける身の上ではないのです。新吉は、三日に一度、町の風呂へ行くとき、おかみさんから一銭銅貨を三つだけうけ取るきり、お小使銭としては、ただの一銭ももらえない約束になっているのです。
「せめて、曲馬の外まわりだけでも見てこよう。」
新吉はわずかにそれだけで、がまんしようと思いました。
仕事がしまいになると、新吉はいそいで仕事場をかたづけ、大いそぎで冷やめしをかっこみはじめました。と、毎晩寝つきのわるい赤ん坊が、いつものとおりぎゃんぎゃん泣き出しました。
「新吉、いつまでめしを食ってるんだえ。さっさとお守りをしな。」
おかみさんがかん高い声でどなりました。
新吉は、かさぶた頭の赤ん坊をおぶって、耳もとでぎゃんぎゃん泣かれながら、その声のしずまるまで、店の前を何十ぺんでも行ったり来たりしていなければなりませんでした。そのうちに曲馬はおしまいになってしまうだろう。
新吉はとうとう、火の見の下の暗いところへ立って、ぽろりぽろりと涙をこぼしました。
しかしつぎの夜は、新吉は町の風呂へ行ける番でした。曲馬の楽隊はもうとっくから、すばらしいにぎやかさで鳴りひびいて来ています。新吉は夕飯をかみながら外へとび出しました。そして風呂屋とははんたいの曲馬の方へ、自分にもこんなにはやく走れるのかと思うほどはやく、まっ黒な顔をふり立てながら、まるで風のようにすっ飛んでいきました。
行って見て新吉はびっくりしてしまいました。何というすばらしい光と色のお家でしょう。テントのてっぺんからは四方八方へ、赤と青の電灯の綱がはりわたされて、それが湖から吹いて来る夜風にゆらりゆらりとゆれかがやいています。テントの正面には、金と銀との垂れ幕が下がり、絵看板がならび、赤と黄と青との旗がそれをかこみ、きらきら光る電灯が何十となく照りかがやき、その中に楽隊がわきたつようなひびきをまき起こしているのです。
「さーぁ、いらっしゃい、いらっしゃい。空中の曲芸は大飛行のはじまり、はじまぁり。」
客呼びが、片手を頬っぺたにあててどなります、すると正面の幕がさっと上がり、中から、胸に金銀の星の輝く赤い服をきた少女を、二人ずつ乗せた馬が三、四頭出て来ます。かわって同じすがたをした少年少女たちが中へ入って行きます。出て来た馬は右と左へ分かれます。見ると、そこには、同じような馬がずらりとならび、その背にはそれぞれ、それこそ造りつけた人形のような少女たちが、まばたき一つせずじっとしています。そうして見ていればいるほど、新吉はびっくりするものばかり見つけ出し、海の底の竜宮か、雲の上の天国か、自分はもうこの世の中にいるものとは思えなくなってしまいました。
「さぁー、いらっしゃい、いらっしゃい。猛獣つかいがライオンとすもうをとります。さぁさぁ。」
中からは見物人の拍手が、あらしのように鳴りひびいて来ます。楽隊の音は、大なみのように鳴りわたります。
新吉は、からだが宙に浮かんでいるような気持ちで、テントのまわりを何べんとなくまわり歩きました。と、ある場所にちょっとしたすき間があり、ちらりと中のようすが見えました。新吉はそこへ吸いついて中をのぞきました。すると、今、竹わたりの芸をやっているところです。玉虫色の服をきた美しい女が、片手に絵日傘を持ち、すらりとした足をしずかにすべらせようとしています。二丈もあろうと思われる高いところです。両はしを綱につるされた長い竹竿はぶるぶるとこまかくふるえています。
「あっ、あぶない!」新吉は思わずそこを飛びはなれました。胸がどきどきしている。
「たいへんな芸当なのだ。あんなところからのぞいたら、ばちがあたる。」
新吉は胸をおさえて正面の方へ来ました。
いつか時間はたっていました。風呂へ三度も入ったほどの時間がたっていたかも知れません。ぐずぐずしていたら、またおかみさんにどなりつけられます。新吉はくやしそうにふりかえりふりかえり、家の方へかえりかけました。
テントのあかりが、かくれてしまう町かどまで来ると、新吉は両手を地べたへついて股のぞきをして見ました。またの下からさかさまに見ると、曲馬小屋はまた一段と美しくはなやかに、まるで空中に浮かんだ御殿のように見えました。
つぎの一日、新吉はからだ中がぞくぞくするほど幸福な気持ちでいました。どうしてこう幸福なのか、自分でもはっきりわけがわかりません。そして、いつもの親方の怒り声もろくに耳へ入らず、重い金づちをふりあげることもつらいとも思いませんでした。
つぎの日も、またそのつぎの日も、新吉の気持ちは同じようでした。というよりは一日ごとに、幸福な気持ちが胸の中にひろがっていきました。
さてそのつぎの日の夕方には、いつもの曲馬団の楽隊の音がきこえて来ませんでした。新吉の知らぬ間に、あの曲馬団はどっかへ行ってしまったのだろうか。考えていると、新吉は急にあかりがきえたようにさびしくなって来ました。
すると、店の前を、いく台もの馬車ががらがらと通りかかりました。馬車の上にはおりに入ったライオンや熊がのせられています。例の象が、例の袋をかぶって歩いています。それから大ぜいの少年少女たちが、馬車いっぱいに乗っかっています。最後にいろんな荷物をのせた馬車がいくつもつづいて行きます。
いよいよ曲馬団は停車場の方へ引きあげて行くのです。その停車場は、湖の岸づたいに一里あまり北の方へ行ったところにありました。
新吉は火の見の下に、ぼんやり立って見送っていましたが、もういても立ってもいられないほど、さびしくなって来ました。あの曲馬団が今の自分の幸福をみんな持って行ってしまうような気がするのです。
とうとう新吉は、曲馬団のあとを追って走り出しました。曲馬団といっしょにいたい、と思うきり、外のことは何一つ考えられなかったのです。顔も手も足も、まるでインド人の子のようにまっ黒けの鍛冶屋の新吉が、幸福そうな目をかがやかせながら、あかりのつきはじめた町をひとり遠ざかって行くすがたは、まったくただごとではありませんでしたが、町ではこれをだれ一人知るものもありませんでした。
新吉は、曲馬団の荷物をつんだ馬車に追いつくと、うしろからこっそりと馬車のすみっこへ乗っかりました。
空には星が光りはじめました。その星空をぼんやりと眺めながら新吉は、曲馬団の仲間に加わってからのことをいろいろと想像しました。その想像はみんな、はなやかな、幸福なことばかりでした。
すっかり夜になってから、曲馬団の一行は停車場へつきました。
「なんと言って頼んだら、仲間に入れてもらえるだろうな。」
新吉はそれを考えていました。するとそこへひょっこりと、赤いメリンスの着物をきた少女があらわれました。馬乗りの少女ですが、着物をきているので、ふつうの町の少女のように見えました。少女は、新吉を見つけると、
「おや、こんなところに黒ん坊の子がいるよ。」と言いました。新吉はどぎまぎして、馬車からずり下りました。
「お前さん、どっからついて来たの?」
「ぼ、ぼ、ぼくね。」と新吉はどもってから「僕、曲馬の仲間に入りたいんだよ。」
やっとそれを言いました。
「いやーだ。」
そう言ったかと思うと、少女はくるりと背中を向けて走り去ってしまいました。と間もなく、少女はもっと年の多い女の人をつれて、またやって来ました。
「お前、曲馬団へ入りたいんだって? いったいどこから来たの?」
「昨日まで曲馬をやってたろう。あの町からついて来たんだ。」
「それで、あんたの家は。」
「僕、鍛冶屋の小僧だよ。」
「どうりで、まっくろけの顔をしていると思った。それで、だまって鍛冶屋を出て来たんだね。悪い子だね。親方に怒られるから、さっさとおかえんなさいね。」
「でも僕、鍛冶屋へかえるのいやなんだよ。親方もおかみさんも意地悪で、しょっちゅうひどい目にあわせるんだもの。」
「曲馬団の中だっておんなじことだよ。曲馬団の中はもっとつらいことばかりだよ。ね、だからそんなつまらない考えを起こさずに、おとなしくおかえんなさい。わかった?」
「…………」
新吉が返事に困っていると、
「おーい、時間だよ。ぐずぐずしていると、汽車が出ちまうよ。」と大きな叫び声が聞こえて来ました。女の人は少女の手を引いて、改札口の方へ走って行ってしまいました。
やがて曲馬団の一行を乗せた汽車は出発してしまいました。一人あとに残された新吉はがっかりしてその場につっ立っていました。まもなく曲馬の荷物は倉庫の方へ引かれて行きました。倉庫の前のレールには貨車が三つほど引きこまれていました。荷物は、象やライオンや虎やその他の動物といっしょに、積まれて行くのです。
それと知った新吉は、貨車の戸が開いているのを幸いに、暗い方からそっとしのんで行って、ちょろりと鼠のように素早く、貨車の中へ飛びこんでしまいました。
そうしてとうとう新吉は、東京の北の端の町まで来てしまったのです。
はじめ、貨車の中へ飛びこんだとき、新吉はすみの方に円くなっていました。するとそこへ象が乗りこんで来たのです。これには新吉もびっくりしてしまいました。うっかりしたら、象の足に踏みつぶされてしまうからです。新吉は夢中になって子鼠のようにちぢこまりました。
象は、長い鼻の先でフウフウと息をしながら、新吉の頭や肩へさわってみました。新吉は生きた心地がしません。けれど象はそれっきりおとなしくなりました。
「おや、ここに人間の子が寝ているぞ、かわいそうに。」
象はそう思ったのかも知れません。そのうちに新吉はそのままぐっすりと寝こんでしまったのです。
「こら小僧。」
大きな声がしたので、新吉はびっくりして目をさますと、目の前に、洋服を着た大きな男が、目をぎろぎろ光らせながら立っていました。これが曲馬団の団長でした。いつの間にか夜が明け、いつの間にか貨車は東京の北端れの町の停車場へついていたのです。象はもう貨車から下ろされていました。
「おい小僧。」
団長はもう一度そう言って、
「てめえ曲馬団の仲間へ入れてやろうか。」とやさしい顔をしました。
「おじさん、ほんとに入れてくれる?」
新吉は元気よく立ち上がって、そうききかえしました。
「ああ。おとなしくいうことをきいて、そして一生けんめいに働けば、入れてやってもいいよ。」
「僕、一生けんめい働くよ。何でもするよ。」
「よしよし、いい子だ。」
団長はにこにこして、新吉の頭をなでました。
これで新吉は、自分の思う通り、曲馬団の仲間に入ることが出来たのです。
曲馬小屋は、町の通りへ、もう立派に出来上がっていました。屋根にはイルミネーションがつき、前面には金銀の垂れ幕が下がり、幾本もの旗がにぎやかに立ち並び、すべて新吉の町に造ったものと少しも変わりませんでした。
つい昨日までは、この小屋の中をのぞいて見ることも出来なかったのに、今日の新吉はもう曲馬団の一人となってしまって、この立派な小屋が自分の家なのです。新吉は、あんまりうれしくて、これは夢ではないかとさえ思いました。
新吉はうれしさのあまり、おがくずの敷いてある円い演技場を、ぴょんぴょん飛びまわっていると、出入り口の垂れ幕のかげから、一人の少女と、それより年の多い女の人が出て来ました。よく見ると、昨日の夕方、田舎の停車場でいろいろと新吉に忠告してくれた二人でした。二人はちょっとおどろいたように目を円くしていましたが、
「お前はとうとう仲間入りをしてしまったのね。」と年の多い方の女が言いました。それからまた、
「もういやになっても、この仲間から出られやしないよ。」と言いました。
「ほんとねえ、かわいそうね。」と少女も同情するように言いました。
曲馬団というものは、はなやかな幸福なものとばかり思っている新吉には、この二人の女たちは、昨日も今日もどうしてこんなことばかり言うのだろうと、ただ不思議に思うばかりでした。
新吉はなんとも答えずに垂れ幕をすりぬけて、象のいる方へ走って行きました。象は、大きな耳をばさばさ動かし、長い鼻を左右にうちふり、足をばたばたさせました。なんにも知らぬ新吉が見ても、象はたいへんよろこんでいることがわかりました。昨夜一晩、同じ貨車の中ですごしたので、象は新吉を友だちのように思っている風なのです。
それから新吉と象は、すっかり仲よしになりました。象の名はファットマンといいました。太った男という意味です。
十時頃になると楽隊がはじまりました。そして十二時頃から曲馬ははじまりました。人はぞろぞろと通りましたが、中へは新吉の町でやったときほども入らず、やっと、見物席の三分の一がふさがっただけでしたけれど、馬の曲乗り、自転車の曲乗り、竹渡り、綱渡り、空中飛行、象の曲芸、猛獣使いの芸当、少女たちのダンスと、演芸はそれからそれへ、かぎりもなく演じられました。
新吉は見物したくてたまらないのですが、そうは出来ません。十幾頭という馬のかいばをつくらねばなりません。何十種という動物の食べものをつくらねばなりません。それから、小屋の裏手の小さなテントの中で、何十人という曲馬団員の御飯のしたくをしなければなりません。これらの受け持ちの人は外に幾人もいましたが、その人たちは道具方の男で、みんな意地悪の横着ものばかりでした。だから新吉は、それ、水をくんで来い、それ、お米をとげ、それ、じゃがいもの皮をむけ、それ、たくあんを買って来いと、次から次へ目のまわるほどこき使われるのでした。
けれど新吉は、一生けんめい働きます。どんなことでもします。団長へ約束したのですから、いやだなどということはもちろん、ちょっとでもなまけることは出来ません。ですから新吉は、いなかの鍛冶屋にいた時分よりは、もっとまっ黒けになって、朝っから夜まで、その夜も十一時から十二時頃まで働きつづけました。朝の働きはそれほどつらくはなかったが、夜、演技がおわって、見物人がかえって、それから後かたづけをするときのつらさといったらありませんでした。おなかはすき、からだはへとへと、そして頭がおっこちそうに眠い。新吉はただもう、無我夢中で働いていました。
十日ほどでそこを打ち上げた曲馬団は、今度は東京の南の端の町へうつり、そこでまた十日ほど打ちました。それから横浜へ行きました。次に小田原へ行きました。次に静岡、次に浜松、それからさらに大阪、神戸、京都、金沢、長野とまわって、最後に甲府市へ来たときは、秋も過ぎ、冬も越し、春も通りぬけて、ふたたび夏が来ていました。
新吉の曲馬団の生活も、もう一年になったのでした。そしてその間に、新吉はりっぱな象使いの名人になっていました。次から次へうつって行くときの長い旅を、新吉はいつも象といっしょに貨車に乗せられたのです。はじめから仲よしだった新吉と象はこのような長い旅のあいだに、もう兄弟のようになってしまい、象のファットマンは、新吉のいうことなら何でもわかり、新吉の命ずることなら何でもするようになったのでした。
団長もこれにはびっくりもし、よろこびもしました。そこで新吉を、象使いの名人として見物人の前へ出すことにしたのです。
これまでの象使いは例の一寸法師でしたが、一寸法師には、片足を上げさせたり、ラッパを吹かせたり、碁盤の上へ乗せたりするぐらいしか出来ませんでした。けれど新吉がやると、ファットマンは、象のからだで出来ることは何でもやりました。中でも一番面白い芸当は、新吉と二人で鍛冶屋をやることでした。大きな木琴をつくり、その木琴を新吉が持ってぐるぐるまわり歩きます。ファットマンはその後からついて歩きながら、鼻の先に持った棒で木琴をたたくのです。
新吉が、トッテンとたたくと、ファットマンはカンとたたきます。トッテンカン、トッテンカンと実に調子よく木琴は鳴ります。三角帽をかむり、道化役の服を着た新吉は、そこで大きな声で歌います。
「たたけやたたけ、はげあたま、
トッテンカン。
火花がちるぞ、はげあたま、
トッテンカン。
あははの、あははの、はっはっは、
トッテンカン。」
いうまでもなくこの芸は、新吉がもと鍛冶屋の小僧だったので、それから思いついた芸で、歌の文句の「たたけやたたけ、はげあたま」というのは、鍛冶屋の親方のはげ頭を思い出してつくったものでした。トッテンカン。
火花がちるぞ、はげあたま、
トッテンカン。
あははの、あははの、はっはっは、
トッテンカン。」
新吉がこれを歌い出すと、ファットマンも耳をばさばさやり、しつぽをふり、足をあげて、からだ中で笑います。見物人もこれにはみんなお腹をかかえて笑いました。
もし見物人の中に、あの鍛冶屋の意地わるおやじがいたら、どんな顔をするだろう。そう思うと新吉はまた一人でおかしくなり、ますます元気づいて、それでますます芸が面白くなりました。
それから新吉には「トッテンカン」というあだ名がつき、「曲馬団のトッテンカン」というと、どこへ行ってもたいへんな人気ものとなりました。
朝から夜中まで、まっ黒けになって働いていた新吉も、今は、象使いの名人、曲馬団のトッテンカンとなって、この大きな曲馬団の人気を一人で背負って立つほどの人気ものとなり、見物人の前で芸をする以外には、何一つからだを動かさなくてもいいようになりました。そうして甲府の町へ小屋を張ったときには、「曲馬団のトッテンカン」という評判だけで、見物人は毎日ぞくぞくとおしよせて来ました。
新吉は得意の絶頂にいました。
さてある日のこと、それは九月のはじめのことでした。新吉は、象のファットマンの外に、きえちゃんとわか姉さんという二人の竿上りの芸人と仲よしになっていましたが、きえちゃんの方が、その前の日から目まいがして、その日の芸が出来そうもなくなりました。きえちゃんはその前日、芸をしくじったので、その罰として御飯を一日に一度しか食べさせられなかったのです。そのために目まいがするのです。しかし団長は、
「横着ものめ、ぐずぐずしていると、たたきのめすぞ。」とどなりつけました。
新吉は見ていて、かわいそうでたまらなくなりました。新吉が一年前、いなかの町を逃げ出して停車場まで曲馬団のあとを追っかけて来たとき、はじめて新吉に話しかけたのがこのきえちゃんでした。そのとき「曲馬団の中はもっとつらいところだよ。」とさとしてくれたのが、わか姉さんでした。それからこの二人は、何かにつけて新吉の味方になり、新吉がまっ黒けになって、朝から夜おそくまで働かせられているときは、涙を流して同情し、新吉の手にあまるつらい仕事は、かげながら手伝ってくれたのでした。で、新吉は今はこの二人を、またとない恩人とも思っているのです。
その一人の、新吉より年下のきえちゃんが、今こんな目にあっているのですから、新吉は黙って見ていられるはずはありません。
「ねえ、きえちゃん、僕が代わって芸をしてあげよう。」
そう新吉はいい出しました。
「だってトッテンカンには、わたしの芸が出来やしないよ。」
「大丈夫、むずかしいことはしないのさ。」
「でも、外の人に代わってもらうと、また罰をくわされるもの。」
「だからね、僕がきえちゃんの服を着て、わか姉さんにお化粧をしてもらって、きえちゃんそっくりの少女になるのだよ。団長だって見わけのつかないような少女になるのだよ。そんなら大丈夫だろう。」と新吉は自信のあることばで言いました。
トッテンカンの新吉は、いよいよ、病気のきえちゃんに代わって、竹のぼりの芸当をすることになりました。
その芸当というのは、まず、わか姉さんが象のファットマンの背の上に立ちます。それから三メートルほどの太い竹棒を、手を使わずに肩の上に立てています。すると、きえちゃんは、その竹棒のてっぺんへよじ上って行って、そこで手ばなしでうつ伏せになったり、あおのけになったり、しゃっちょこ立ちをしたり、足首でつかまってぶら下がったりするのです。それを専門にしているきえちゃんには、それほどむずかしい芸当ではありませんが、今日はじめてそれをやる新吉にはむずかしいどころか、その中の一つの芸だって満足に出来るはずはないのです。そして、もしやりそこなって、おっこちでもしたら、それこそたいへんです。何しろ、竹棒のてっぺんから象の足下までは七メートルもあるのですから、たとえ死なないまでも、大怪我をするにきまっています。
「よした方がいいよ、トッテンカン。」とわか姉さんは不安そうに言いました。
「だって僕がよしたら、きえちゃんがしなきゃあならないじゃないか。あんなに、立てないほど弱っているきえちゃんがやったら、それこそおっこちて死んじゃうよ。」
「だから、だれもしないのさ。」
「そしたら、こんどはわか姉さんが罰を食うじゃないか。」
「かまやしないよ。」
「いやだいやだ。僕がやれば、みんな助かるんだもの。僕はどうしてもやるよ。僕はね。あのファットマンの背中でする芸なら、なんでも失敗しないという自信があるんだからね。そんなに心配しないでやらせてくれよ。」
わか姉さんも、こんなに言っている新吉の決心を止めることは出来ませんでした。それにわか姉さんは、下に立って竹棒を支える芸をしているのだから、もし彼がおっこちるようなことがあったら、下からうまく救ってやろうと、心の中で考えたのでした。
わか姉さんは幕のかげに新吉をかくして、そこでお化粧をしてやりました。白粉をつけ、頬紅、口紅をつけ、まゆずみを引き、目のふちをくま取り、それからきえちゃんの芸服を着せ、絹の三角帽をかぶせました。少し離れたところから見ると、きえちゃんそっくりになりました。せかっこうも、新吉はきえちゃんによく似ていたのです。
「それなら大丈夫。でも、口をきいちゃ駄目だよ。」とわか姉さんは注意しました。
「なぁに、掛け声ぐらい、きえちゃんそっくりの声を出して見せるよ。」
新吉はそう言って笑いました。
それは夜の八時頃でした。場内は見物人でいっぱいでした。四方が山に囲まれた甲府の町のことですから、九月になるともう山颪しの秋風が立ち、大きなテントの屋根は、ばさりばさりと風にあおられていました。
楽隊がにぎやかに鳴り出しました。と、きえちゃんに扮した新吉が、まず垂れ幕のかげから現れました。それから、胸に金銀の星の輝く服を着たわか姉さんが現れました。つづいて大象のファットマンが、のそりのそりとまかり出ました。見物席からはあらしのような拍手が起こりました。三人は一列に並んで見物席へあいさつをしました。
やがてわか姉さんが、ファットマンの鼻の上に乗ってひらりとその背へ飛び上がりました。そして長い竹棒を受け取りました。つづいて新吉がファットマンの鼻へ乗ろうとすると、ファットマンはちょっと鼻を巻きこんで、しばらく新吉の顔を見ていました。きえちゃんに扮してはいるが、それが兄弟分の新吉であることを、ファットマンはちゃんと見分けてしまったのです。
ファットマンは不審そうに鼻を巻き上げて、新吉を背中へのっけてやりました。しかし中央の垂れ幕の前に立っている団長はもちろん、ファットマンの周囲に立っている四、五人の道具方も、それが新吉であることは夢にも知りませんでした。
新吉は、ファットマンの背中の上で、きえちゃんがいつもするようにもう一度見物席へあいさつをし、それから、わか姉さんの肩の上に立っている竹竿をするするとのぼって行きました。
新吉は、竹竿を上りきったところでまずあぐらをかいて、まわりを見下ろしました。それから、ハッと掛け声をかけて、しゃっちょこ立ちをしました。次に竹竿のてっぺんへうつ伏せになり、両手両足をはなして、亀の子のようにふらふらとまわりました。すべて、きえちゃんがやるのと変わりありません。わか姉さんは、肩先で竹竿の平均を取りながら、このような芸当の出来る新吉を、不思議に思って見上げていました。
さて新吉は、こんどは前と反対に、背中を下にして、つまり竹竿の上にあおのけになって亀の子のように手足を動かす芸に移ったのです。これは見ていてもはらはらする芸で、芸をする当人にも一番むずかしい芸でした。
新吉はまず足を放しました。それから手を放そうとした瞬間です。頭の方がぐらりとゆれたかと思うと、そのまま、サァッ――と落ちて来ました。
「あっ。」とわか姉さんは叫びました。そして竹竿をほうり出すと、両手をひろげて新吉のからだを受け止めようとしました。が、勢いついた新吉の身は、わか姉さんの手をすり抜け、ファットマンの頭にぶつかると、もんどり打って下の板敷へ、まっさかさまにたたきつけられた、と思ったその刹那です。ファットマンは、その長い強い鼻をぐいと差し延べて、新吉のからだをふわりと宙で受け止めてしまったのです。
見物人はいつか総立ちになっていました。そして新吉のからだが、ファットマンの鼻の先でみごとに救い上げられたとき、見物人はどっと声をあげてよろこびました。見物人は、新吉が芸をしくじったことなどはすっかり忘れて、危機一髪というとき、ファットマンの長い鼻がうまく食い止めたということを、涙を流さぬばかりによろこんだのです。
けれど見物人は、次のような光景を見て、びっくりしてしまいました。それは、新吉が、ファットマンの鼻の上から無事に下へ下りたとき、例の団長がいきなり飛んで来て、新吉の横面をぴしゃりとなぐったことでした。
「ふぬけめ。」と団長はどなりつけました。そして新吉の手が抜けるほどぐいと引き立て、引きずるようにして中央の垂れ幕のかげへ連れて行ってしまいました。
「僕たちはよろこんでいるのに、あいつは怒っていやがる。馬鹿な奴だなぁ。」と見物人は話し合いました。
団長は、新吉を楽屋へつれて行くと、またひどくなぐりました。
「またもだらしねえことをしやがって、このトンチキめ!」
そのとき、そばから、
「団長さん、団長さん、かんにんしてやって下さい。」という泣きそうな声がしました。見ると、それはふだんの着物をきたきえちゃんです。団長はそのきえちゃんを怒りつけているのだとばかり思っていたのに、そばから別なきえちゃんが顔を出したので、あっけにとられてきょとんとしてしまいました。
が、まもなく、新吉がきえちゃんの身代わりになって芸をやったのだと知ると、どこまでも意地悪でつむじ曲がりの団長は、こんどはそのことを怒り出しました。
「貴様はなぜほかの人に芸をやらせたのだ。」ときえちゃんをせめました。
「てめえはまたなぜ芸も出来ないくせに、人の身代わりなどになったのだ。」と、また改めて新吉をどなりつけました。
そこへ、わか姉さんが出て来ました。
「みんなわたしがやらせたことです。どうぞ二人をせめる代わりに、わたしをせめて下さい。」
わか姉さんはそう言いました。
「馬鹿っ。」団長はわれるような声を出して、
「てめえら、みんなぐるになって勝手なことをしてやがるんだな。よし、どうするか見てやがれ。」
そう言って、鷹のようなすごいずるい目を光らせながら、その場を去って行きました。
その夜から、新吉もきえちゃんもわか姉さんもみんな罰を受けました。お小使いは一銭ももらえなくなるし、三度の食事は二度になりました。それも、犬が食べるような粗末な食事でした。
その前からすっかり弱っていたきえちゃんは、とうとうひどい熱を出し、もう頭も上がらなくなりました。それから急性の肺炎になり、うわごとを言い通していましたが、四日目の夜中に、ついに死んでしまいました。
新吉とわか姉さんは、きえちゃんに取りついて泣きました。新吉は泣きながら団長に食ってかかりました。
「この鬼め、この罰あたりめ、首でもくくって死んでしまえ!」
青くなって叫んでいる新吉を、団長はただにやにや笑って見ているばかりでした。
次の日、わか姉さんは新吉をものかげへ呼んで、こう言いました。
「新吉さん――トッテンカンなんて呼ぶのは止しましょうね。もとの新吉さんになって、そして、この曲馬団から逃げ出してしまいなさいよ。そしてお国の町の鍛冶屋さんへおかえんなさい。」
「僕もそう考えたのだけど、あの鍛冶屋のおやじのところへ帰るのはいやなんだ。」
「じゃ、どこかほかにない? 新吉さんを引き取ってくれるところが。」
「東京に叔父さんがいるの。僕の姉さんもそこにいるから、僕そこへ行こうかしら。」
「それがいい。お金も少しばかりわたしが上げるからね。ここにいつまでもぐずぐずしていたら、新吉さんも、あのきえちゃんのような目にあわされるにきまっているから。」
「この曲馬団に入る前に、わか姉さんにいわれたことが、僕今になってやっとわかったよ。それで、わか姉さんはどうするの?」
「わたしはわたしで、ほかに考えていることがあるから、わたしのことは心配しないでいいのよ。」
二人はそう話し合って、その夜は小屋の隅へ、テントをゆすぶる秋風をききながら寝ました。
そのあくる朝早く、まだ東がやっと白みかけたころ、新吉は、しもふりの夏服に靴をはき、むぎわら帽をかむり、ふろしき包み一つを持って、一年間あまり住みなれたテント小屋をぬけ出しました。
新吉はそこを抜け出すとき、兄弟分のファットマンのそばへそっとしのんで行って、この一年のあいだ、新吉のためになんでもしてくれ、最後に新吉の命まで救ってくれたその長い鼻をなでながら、
「ファットマンよ、ありがとうよ。さよなら、さよなら。」と言いました。
新吉は停車場へ来ると、一番列車に乗りました。そして、おひる前に新宿の停車場へ着きました。それから電車に乗り、叔父さんの家のある小石川へむかって行きました。
しかし新吉は、そこですっかり途方にくれてしまいました。叔父さんの家はどっかへ引っこしてしまって、その引っこし先もまるでわからなかったからです。
新吉は、ふろしき包みを抱いて、夢中でそこらをほっつき歩きました。歩いているうちに、広い池のはたへ出ました。そこは不忍池で、新吉はいつの間にか、そんなとこまで迷いこんで来たのです。
池の向こうに、森の繁った高台が見えました。そこは上野公園でしたが、新吉はそんなことは知りません。ただ何となく、いなかの町はずれの高台の森に似ているので、わけもなく引きつけられました。新吉は公園の上へ上って行きました。
そのうちに日が暮れてしまいました。新吉は泣きたくなりました。新吉は、公園の高台から、美しい灯の街を見下ろしながら、いつまでもいつまでもそこに立っていました。
その夜新吉は、公園の奥のこかげの石の上に寝てしまいました。眠ったりさめたりしている新吉の頭の中には、いなかの町のことや、鍛冶屋のおやじのことや、曲馬団の中でのさまざまのことが、とぎれとぎれに浮かんでは消え、消えては浮かびました。
その朝明けのことです。新吉はまずライオンのほえ声をききつけました。それからいろんな動物のなき声をききつけました。曲馬団の動物園でききつけている声なので、それは自分の耳のせいではないかと思いながら、新吉はその声のする方へ歩いて行きました。すると高い石の塀がぐるりとめぐっているところへ出ました。ああ、これが上野の動物園というのだな、と新吉はやっと思いつきました。
新吉は、曲馬団のファットマンのことを思い出し、門の鉄格子の扉につかまって、中のようすをいっしんにのぞいていました。
すると、そこへ、白いズボンをはいた人品のいいおじいさんが出て来て、にこにこしながら、
「お前さんは、こんなに早く動物園を見に来たのかね?」と新吉に話しかけました。
新吉は、そうじゃないと答えてから、
「おじさん、僕を動物園の象つかいにしてくださいな。」と、しんけんな顔で言いました。
「いったいお前さんは、どうした子なんだね!」とおじいさんはそれをたずねました。そこで新吉は、曲馬団へ入ってそこを逃げ出すまでのいきさつと、東京へ叔父さんをたずねて来て、こうして迷っていることを一通り話しました。
「じゃ、お前は宿なしなんだね。そりゃ困ったね。ここじゃおいそれと象つかいに頼むわけにはいかないが、お前の叔父さんのいどころがわかるまで、わしがお前を引き取って上げよう。曲馬団で慣れているならちょうどいい、いろんな動物へ、えさをやることでも手伝っているがいい。さぁ、こっちへお入り。」
親切なおじいさんはそう言って、新吉を門のうちへ引き入れました。
それからの新吉はどうなったかはわかりませんが、世の中には鍛冶屋のおやじや曲馬団の団長のようなわからずやの意地わるの人間がいるかわりに、この動物園のおじいさんのようなわけのわかった親切な人もたくさんいます。すなおでまじめで同情心の深い新吉は、やがてこういう人たちに見込まれて、幸福な生活をするようになったにちがいありません。