山陰と云つても、東は丹後但馬から西は石見に及んでゐて、區域が廣いからさし當りここでは、但馬の城崎附近を書いて見よう。
 又歌になる所と云つても、好い眼さへ持つてゐれば、何處にも詩は見出されるのだから、今は私に興味があつた處をあげてゆくに止める。

    城崎温泉

 城崎きのさきの町は、山陰線が北上して、日本海の海岸へ出ようとする一里ばかり手前で、西へ折れてゐる、其曲り角の處に當つてゐる。
 私がここへ行つたのは、大正五年六月の梅雨季だつた。京都から、午後の汽車で立つたが、丹波の國の山間を通過して、だんだん北の方へと走るのは、非常に淋しい氣持だつた。
 螢の飛びちがつてゐる峠路や、寂しい停車場前の小さい旅館の灯、大江山へ何里などと書いてある驛の名所案内の白い札、踏切に待つてゐる田植歸りの百姓の家族、山際の殘照、月見草の花、それらが車窓から私のセンチメンタルになつた心に映つて、過ぎて行つたのを今でもはつきり思ひ出す。
 その淋しさが極つた頃、城崎驛へついて、俥で狹い明るい町を、四五町宿やへ曳かれて行つたが、一種の物珍らかななつかしい印象を受けた。其狹い町の兩側の温泉宿の、細格子のはまつた二階三階の明るい燈火や土産物を賣つてる店の品物を照らしてゐる電燈、その間を流れてゐる町中の小川等の感じは、何となく芝居の書割を聯想させるやうな、又、廓を思はせるやうな、一種まとまつた、ハイムリッヒな、好い心持だつた。
 其夜は宿屋の往來に近い一室に寢て、町を往來する下駄の響を耳にしつつ眠りに就いた。
 此汽車で梅雨期の山陰道へ入つて行つた感じ、夜の温泉町の明るい印象、其夜の旅愁、これらは歌にしようとして、自分もまだ歌ひこなせないでゐる。

 私の滯在中に盂蘭盆うらぼんが來た。盆の夜は、町の橋の上で、土地の男女が編笠や手拭をかぶつて、鄙びた稍※(二の字点、1-2-22)みだらな感じで踊つてゐたのを思ひ出す。その邊は、浴客の見物もあつて、ひどく賑やかだつたが、町をはづれて、圓山川といふ川岸の方へ出て見ると、小高い墓原に燈籠がついてゐて、そこにはそこで、子供もまじりなどして、村の若い衆が踊つてゐるのを見た。そして月は、これらの人間の上に、靜かに冷やかに照つてゐる。私は此墓場にある燈籠からは深い感じを受けた。かかる村の、かういふ風な習慣の中に、生れては死んで行つた、何代もの人々の事を考へると、今更生々しく人生の寂しさに觸れるのを覺えた。

 盆の十六日には、家に祀つてあつた、精靈の眞菰や供物を、小さい舟形に、趣向を凝らして仕立てたのに、幾本も蝋燭を立てて、町中の小川へ流す。精靈しやうりやう船にはその家の定紋をつけた帆を揚げてゐるのもあるし、又蓮の花びらが、舟一ぱいに撒き散らされてゐるのもあつた。流された舟が、自分の蝋燭で明るみながら、暗い川尻の方へ流れ漂つて行くのは、何となく、精靈の歸つて行く冥途といふやうなものを暗示させられて、哀れに眺められた。この夜兩岸は見物人で一杯だ。
 夜天の下で營まれる盂蘭盆の行事として、この精靈樣送りは、死んで行つた肉親に對する、さびしい、諦めた愛が示されてゐて、私の心を撃つて來るのを覺えた。

    圓山川

 城崎きのさきの町の直ぐ東を可なり大きな河が流れてゐる。圓山川といふ名だ。珍らしく滿々と水を漲らしてゐた。岸の草山の影を宿したり、下流では、晝顏の咲き交る、蘆荻ろてきの洲の傍を流れたりして、城崎の北約一里で、津居山といふ漁村の處で、廣い入江の形となつて、日本海にそそいでゐる。此河が中々趣がある。
 日本には溪流は多いが、かういふ質の河は割に少ないかと思ふ。
 私の行つた頃は、梅雨期の増水で、殊に洋々と稍※(二の字点、1-2-22)濁りを帶びて、岸の蘆荻を、そよがしてゐた。私はよく、此河に沿うた低い、坦々たる道を散歩した。水面に近い道を、鈍い、大きい川の流れに沿つて、歩いてゐると、如何にも悠久といふ感じがしたものだ。玄武洞は一里餘の上流の河向うにあるが、一寸奇觀だ。
 又一里ばかり川下に、瀬戸といふ村があつて、そこの日和山から見た日本海の眺望は非常に美しい。丁度私が行つたのは、梅雨晴れの晴れ切つた日で、海は紺青に輝き、岸では日和山の一部が墓原になつてゐる處に植ゑてある葵が、紅に今を盛りに咲き匂つて、何とも云へず明るく、輝かな、麗はしい印象を受けた。白晝風景といふ趣だつた。
 ここの茶店の、小さな二階で、恰も南畫の人物が、二階に寢ころんでゐるやうな、いい心持で辨當をつかつた。そして此時は、私はインスピレーションを感じたと云つてもいいやうに、作歌に驅り立てられて、自分で滿足出來る歌を得る事が出來た。
 其後、夏過ぎてから、確か八月末頃の午後にもう一度行つたが、其時は海の色は濁つて、一杯にさざ波が立ち、茶屋の周りには、海水浴の名殘のボートや、浮袋なぞがあつて、初めとは全く別個のつまらない處だつた。これで見ても風景は、自分の氣持や、其時の事情で、隨分よくもわるくもなり得るものだと思ふ。

 私の旅館の若主人が釣好きで、時々小舟に乘せて、吾々夫婦を圓山川へ釣の案内してくれた。朝まだ日の出後間もなく、陸から海へ向けて、陸軟風の吹いてゐる間に、川下へ舟をやつて、釣を始める。圓山川の右岸に一箇所、好い緑蔭があつたが、その大樹が、川へ枝をさし出してゐる下に、舟をとめて釣つてゐるのは、實に閑雅な、のどかなものだつた。しかしそこには魚がゐなかつたので、若主人が又暑い方へ舟を出したのにはがつかりした。或時釣をしてゐるうちに、夕立が降つて來さうな、空模樣になつた事があつた。其時若主人が慌てて、人家のある岸の方へ漕いだが、私がその舟が中々思ふやうに河をさかのぼらないのを、まるで夢の中で逃げてゐるやうだと、皮肉でなしに云つたのを眞に受けて、夢中になつて漕ぎ出したのは、氣の毒でもあり、可笑しくもあつた。漸く雲脚より早く對岸について、一軒の田舍家に入り、そこの暗い土間で雨やどりをして、もう釣はやめて陸路を城崎へ歸つた。
 この圓山川を私は中々愛した。漫々と流れてゐる川は、變化に乏しく、目立たないやうだが、親しむと盡きぬ滋味を藏してゐる。私はこの川からも幾首かの歌を得てゐる。

底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「木下利玄全集 散文篇」弘文堂書房
   1940(昭和15)年初版発行
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
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