本論

   一 大食人の通商

 西暦八世紀の初頃から、十五世紀の末に、ヨーロッパ人が東洋に來航する頃まで、約八百年の間は、アラブ人が世界の通商貿易の舞臺に立つて、尤も活躍した時代で、殊に西暦八世紀の後半に、Abb※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)s 王朝が縛達 Baghd※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)d に都を奠めて以來、彼等は海上から印度や支那方面の通商に尤も力を注いだ。
 アラブ人はペルシア灣から印度洋を經、マライ半島を廻つて、今日の廣東へ來て、盛んに通商を營んだ。廣東をその當時のアラブ人は、Khanfou (Khanfu)  と呼んだ。Khanfou とは廣府の音譯である。今日の廣東は唐時代に、廣州とも廣府とも呼ばれた。『舊唐書』『唐六典』を始め、當時の公私の記録に廣府といふ名稱が疊見して居る。
 この廣州の外、嶺南の交州、江南の揚州、福建の泉州にも唐時代からアラブ人が通商を開いて居つた。西暦九世紀の半頃のアラブ地理學者 Ibnイブン Khord※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)dbehコルダードベー の著書に、支那の貿易港を南から順次に數へて、Louk※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)nルウキーン (al Wakin), Khanfou, Djanfouジヤンフウ, Kantouカンツウ (Kansu) と記載してあるが、この Louk※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)n は交州、Djanfou は泉州、Kantou は揚州を指したものと思はれる。併し此等諸貿易港の中で、勿論廣州が第一に繁昌を極めた。その有樣は今日でも東西の史料によつて、かなり詳細に知ることが出來る。
 アラブ人の支那通商は、その間に多少の盛衰や、一時の斷絶はあつても、大體から見渡して、唐から五代を經て、宋に至るまで、格別の變化なく繼續した。否宋代となると、アラブ人の通商は一層盛大を極め、又それに關係ある支那方面の記録材料も一層多く傳はつて居る。
 宋は最初廣州、明州(浙江)、杭州(浙江)を外國貿易港に指定して、ここに市舶司を置いて、關税徴收を始め、外國貿易に關する一切の事務を管理した。當時この三貿易港の市舶司を略して、三司ともいうた。併し北宋時代の關税收入の有樣を檢べると、廣州の一港で全關税の十分の九以上を占めて居るから、唐時代と同樣に、北宋時代でも、矢張り廣州の貿易が特に繁昌を極めた事實がわかる。
 所が北宋の末から南宋にかけて、福建の泉州が外國貿易港として、次第に隆盛に赴いて來た。泉州に市舶司の開かれた年代は、多少異説があつても、先づ北宋の哲宗の元祐二年(西暦一〇八七)となつて居るが、事實としては、既に北宋の初期から、外國の貿易船がかなり盛んに泉州へ入港して居る。そは兔に角、泉州が開港されると、泉州は宋時代には福建路に屬し、廣州は廣南東路に、杭州、明州は倶に兩浙路に屬したから、當時これらの諸港の市舶司を總括して、三路市舶司と稱した。
 泉州の開港後四十年許を經ると、宋が南渡して杭州が南宋一代の行在となつた。中世の外國人達が杭州を指して、Khinzaiキンザイ 又は Khanzaiカンザイ と稱するのは、この行在を訛つたものと見える。杭州は南宋時代を通じて支那第一の大都會として尤も繁昌を極めた。かくて杭州に近き泉州は、地の利を占めた上に、南宋時代を通じて、支那政府は國庫の收入を増加せんが爲に、頻りに外蕃の通商を奬勵したから、泉州の貿易は年一年と長足の發展をして、廣州と頡頏して讓らざる位置に立ち、更に南宋末から元時代にかけて、泉州の勢力は遂に廣州をも凌駕するに至つた。當時支那から海外に出掛ける貿易船、海外から支那に入り來る貿易船は皆泉州に輻輳した。元時代に泉州を觀光した Marco Polo や Ibn Bat※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ta は、何れも泉州を當時世界無二の大貿易港と稱して居る。
 泉州は宋末や元時代のアラブ人、その他の西方外國人に、Zaytonザイトン, Zayt※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)nザイツーン 又は Zeytounゼイツウン 等と呼ばれた。この稱呼の起源は、五代の半頃に泉州を管領した留從效といふ者が、泉州城を改築した際に、城壁の四周に刺桐樹を植ゑ付けたから、泉州城はその後、刺桐城とも、桐城とも、呼ばるることとなつた。アラブ人はこの刺桐城をその儘に、M※(アキュートアクセント付きE小文字)dinetメジネー Zeytounゼイツウン といひ、或は城市の意味に當る M※(アキュートアクセント付きE小文字)dinet を略して、單に Zeytoun と呼んだのである。

  二 支那居留の大食商賈

 宋時代に支那に通商したアラブ人が、支那の開港埠に於ける生活状態を一瞥すると、彼等は事實としては、時に城内に支那人と雜居したこともあるが、原則としては一定の居留地をもつて、ここに住居して居つた。當時この居留地を蕃坊と呼んだ。蕃坊とは蕃人の住居する坊市の義である。泉州の居留地は州城の南に在つて、普通に之を泉南と稱した。泉南は晉江の流に臨んで、海上交通の便利多かつた故、ここに居留地が設けられたことと想像される。廣州の方も同樣で、珠江の流に臨んだ方面に、蕃客の居留地が在つた樣に想ふ。
 この居留地を取締る爲に、蕃長司といふ役所が設けられ、そこに都蕃長又は蕃長が居つて事務を管理した。この都蕃長又は蕃長は、在留蕃客の中に就いて尤も徳望ある者を選んで、支那政府から任命したことと見える。彼等は蕃坊の取締りに任ずる外、又支那政府の爲に、海外の蕃商を招徠することに努力した。
 宋時代には支那政府は概して蕃客の通商を奬勵した。自然在留蕃商を優遇して、たとひ彼等に多少の犯則非法の行爲があつても、大抵は不問に看過した。在留蕃商同志の間に起る犯罪は、唐時代から彼等本國の法律によつて處分し、支那官憲は干渉せぬのを原則としたが、宋時代には一層この範圍を擴めて、蕃商と支那人との間に起る犯罪でも、重大事件にあらざる限り、成るべく彼等の法律によつて處分することにした。
 北宋末の朱※(「或」の「丿」に変えて「彡」、第3水準1-84-30)の作つた『萍洲可談』に據ると、在留外國人が徒刑以上の重罪を犯せば、支那官吏の手で裁決し、それ以下の輕罪は蕃坊に送つて、蕃長自身の裁斷に一任したとあるが『宋史』の列傳などを見ると、宋時代に支那在留の外國商人が『萍洲可談』の記事以上の特典を受け、一種の治外法權をもつて居つたことを疑ふことが出來ぬ。
 宋時代に、支那の沿岸諸港に來寓した蕃商即ち外國商人は、主としてイスラム教徒と見え、決して豚肉を食用せぬ。彼等は皆巨萬の富を擁して衣食住に贅澤の限りを盡したことは、仔細に當時の記録に傳はつて居る。開港地の地方官は、時に彼等の出資に頼つて城普請を行ひ、又は警備艦を作つたことがある。
 蕃坊即ち外國人の居留地には、勿論イスラム教徒の婦人も滯在して居つたが、當時これを波斯婦とも、菩薩蠻ともいふた。菩薩蠻とはイスラム教徒を指す所の Mussulmanムツスルマン 又はそれを訛つた Bussurmanブツスルマン の音譯である。菩薩蠻は唐時代から樂府の題目となつて居るが、この唐時代の菩薩蠻が、果してイスラム教徒の婦人を指したものであるや否やは、大なる疑問であるから、しばらく之を措き、北宋の末頃には、廣州地方でイスラム教徒の婦人をも、菩薩蠻と稱したことだけは事實である。波斯婦とは、當時蕃坊に來寓したイスラム教徒は、多く波斯灣附近の商人であつた故と想像される。五代の時南漢主劉※(「金+長」、第4水準2-91-3)が波斯女を寵愛して政事を荒廢したのは、恐らく當時廣州に來寓した波斯女を後宮に納れた者であらう。
 蕃坊在留の外國人で、支那婦人を迎へて愛妾としたものも尠くない樣である。『萍洲可談』に據ると、北宋の末に、廣東在留のアラブ人で劉姓の人が、宗室の女を娶つて左班殿直といふ官職に就いたことがあり、また『宋會要』に據ると、南宋の初に、廣東在住の右武大夫の曾訥が、アラブ商人の蒲亞里(Abu Ali ?)といふ者の財力豐富なるを利として、この人にその妹を嫁せしめたことがある。元時代に東方を觀光した西人の記録に據つても、この事實を確めることが出來る。此等在留外國人の中には、又支那の學問を修め、更に進んで科擧に應じた者さへある。
 支那へ往來する外國の貿易船を、支那人は普通に市舶又は互市舶と呼んだが、また、
南海舶(『唐國史補』卷下)
番舶(『新唐書』卷百六十三孔巣父傳)
西南夷舶(『新唐書』卷百三十一李勉傳)
波斯舶(『大唐求法高僧傳』卷下)
崑崙舶(『唐大和上東征傳』)
崑崙乘舶(『舊唐書』卷八十九王方慶傳)
西域舶(『舊唐書』卷百三十一李勉傳)
蠻舶(『舊唐書』卷百七十七盧鈞傳)
海舶(『梁書』卷三十三王僧孺傳)
南蕃海舶(『癸辛雜識』後集)
波羅門舶(『唐大和上東征傳』)
師子國舶(『唐國史補』卷下)
外國舶(『南史』卷五十一梁宗室傳上、蕭勵傳)
など種々の名稱を附して居る。此等の船は勿論帆船で、航海にかなり時日を要した。大食の商人はその本國と支那との往復に普通二ヶ年を費した。
 支那に往來する外國商人は、勿論その自國船に搭乘した者が多いけれど、又南洋航行の支那船に便乘した者も尠くない。殊に宋元時代にかけて、大食の商人は普通に支那船に便乘した。
 當時南洋航行の支那船の構造設備等は、割合に整頓して居つた。支那船たると外國船たるとを問はず、當時の貿易船はすべて帆船であるから、風を第一の手頼とする。南海から支那へ來るには、西南風の吹く舊暦の四月の末から五、六月の頃で、支那から南海に往くのはその反對に東北風の吹く十月末から十二月の間に限つた。是故に舊暦の五月から十月にかけての半年間が、支那の諸港に在る蕃坊の繁昌期である。
 蕃坊在住の外國商人の多數は、冬期に一旦歸國するが、その儘蕃坊に居殘る者も尠くない。これを住唐といふ。中には五年も十年も歸國せずに蕃坊に永住する者もある。北宋の徽宗の政和四年(西暦一一一四)に、諸外國人の中國に居住すること已に五世を經た者の、遺産處分法を定めて居るのを見ると、その頃五世も引續いて永住した蕃商のあつたことがわかる。かかる永住の外國人が中國にて生んだ子を、當時土生蕃客と稱した。本題の蒲壽庚の如きも、多分この土生蕃客であらうと想像される。

  三 廣州居留の蒲姓

 愈※(二の字点、1-2-22)本題に入つて蒲壽庚のことを申述べるのであるが、この蒲壽庚といふ人は、もと外國人で、南宋の末期に三十年間も、提擧市舶の職を務めて、巨大なる財産と勢力とを蓄へ、宋元鼎革の際にかなり重要なる關係をもつた人である。併し『宋史』にも『元史』にもその傳を載せてない。清の魏源の『元史新編』の目録には、二十九に平宋功臣列傳があつて、その中に蒲壽庚の名を列してあるけれども、肝心の本文にはその傳が缺けて居る。最近の出版に係る民國の柯劭※(「文/心」、第3水準1-84-39)氏の『新元史』には、流石にその卷百七十七に、蒲壽庚の傳を收めてあるが、記事は極めて寥々たるもので、その外國人たることに就いては、一言隻句も述べてない。『宋史』殊に『元史』の記事中には、時々蒲壽庚の名が出て來るけれど、全く斷片的で、その人の經歴や血統を闡明すべく甚だ不十分である。從つて東西の學者間にも、この人の事蹟は、今日まで殆んど知られて居らぬ。
 蒲壽庚の事蹟を調査するのに、彼の血統のことを傳へた第一の古い材料は、南宋の遺民の鄭所南の『心史』である。鄭所南は福建の人で、蒲壽庚と同時代の人である。この人は生涯元朝に反抗した人で、その詩文にも徹頭徹尾種族的排外思想を鼓吹してあるから、當時の官憲を憚り、之を鐵函に藏して、井中に埋沒して置いたのが、明末の崇禎十一年(西暦一六三八)になつて、世間に現れて來た。清朝時代には禁書となつて居つたが、その末期には支那志士の間に愛讀されて、種族革命説にかなり大なる影響を與へて居る。
 右の如き來歴の書物であるから、學者の中には『心史』の眞僞に就いて、疑を挾む者も尠くない。甚しきはその僞作たることを斷言した人もある。併し吾が輩がその内容に就いて研究した所では、僞作とは認め難い。當時の史料として、十分參考に供し得べき價値あるものと思ふ。
 鄭所南の『心史』には、蒲壽庚を蒲受畊に作つて、その祖は南蕃人なりと記してある。明末の何喬遠の『※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』には、蒲壽庚の事蹟を一番詳細に記載してあるが、それには彼の祖先を西域人と認めて居る。或は南蕃人といひ、或は西域人といふ。何れにしても蒲壽庚は、もと外國産であるべきは疑を容れぬ。
 吾が輩は更に彼の姓を蒲と稱する點から推測して、蒲壽庚は蓋しアラブ人即ちイスラム教徒であらうと斷定する。支那の記録に見えて居る外國人の姓に蒲とあるのは、アラブ人の名乘に普通な、Abu (Abou) の音を表はしたものであらうといふ説は、今より二十餘年前に、ドイツのヒルト氏の唱へ出した所であるが、吾が輩はこの蒲壽庚の蒲も同樣と認めたい。アラブ人ならば、南蕃人と稱しても、西域人と稱しても、事實少しも差支ないのである。
『宋史』の外國傳の大食國の條を見ると、當時大食から宋の朝廷に來貢した使者に、蒲といふ姓を稱する者が甚だ多い。試みにその四五を擧げると、
太祖開寶九年(西暦九七六) 蒲希密 Abu Hamid ?
太宗太平興國二年(西暦九七七) 蒲思那 Abu S※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)na ?
太宗至道元年(西暦九九五) 蒲押※(「施」の「方」に変えて「こざと」、第4水準2-91-67)黎 Abu Adil ?
眞宗景徳元年(西暦一〇〇四) 蒲加心 Abu Kashim ?
眞宗天禧三年(西暦一〇一九) 蒲麻勿※(「施」の「方」に変えて「こざと」、第4水準2-91-67)婆離 Abu Mahmud Dawal ?
仁宗嘉祐中(西暦一〇五六―一〇六三) 蒲沙乙 Abu Said ?
 アラブ人は已に述べた通り、唐の中世以後南洋を經て、盛んに支那に通商を營んだ。從つて南洋の樞要の地には、アラブ人の假寓したものが多かつた。中にも室利佛逝 ※(セディラ付きC)r※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)bh※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)dja 國は、東西兩洋の中間に在つて、當時貿易の繁昌した所で、アラブ人は之を訛つて Sarbaza 又は Serboza とも稱した。支那の記録に三佛齊とあるのは、この Sarbaza 又は Serboza の音譯らしい。南宋の趙汝※(「しんにょう+舌」、第4水準2-89-87)の『諸蕃志』に、この國のことを記して、國人多姓蒲とあるのは、當時この國に假寓したアラブ商人のことを指した樣に想はれる。
 占城即ち占婆 Champa にも、アラブ商人が多く假寓して居つた樣である。占婆はアラブ人に Senf (Sanf) として知られて居る。Senf は勿論 Champa の音を訛つたものである。『宋史』外國傳に據ると、五代の周の世宗の顯徳年間(西暦九五四―九五九)に、占城國の使者※(「艸かんむり/甫」、第3水準1-90-86)訶散といふ者が、薔薇水を獻上して居る。薔薇水は大食國殊にペルシア灣沿岸地の特産で、占城の産物ではない。※(「艸かんむり/甫」、第3水準1-90-86)訶散の名もアラブ人で、Abul Hassan の音譯らしい。※(「艸かんむり/甫」、第3水準1-90-86)訶散の外に、宋時代にこの國から支那に來貢した使者の名に、アラブ人らしいのが尠くない。
 支那の南方の門戸に當る海南島にも、後くも、宋元時代に、アラブ商人、然らずともイスラム教徒が、かなり移住して居つた樣子で、兔に角この住民にも、蒲姓の人が尠からざる事實がある。
 さて本題の蒲壽庚に立ち返つて、彼の祖先のことは已に紹介した通り明末に出來た『※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』の中に、尤も詳細に見えて居る。その記事に據ると、彼の祖先はもと廣州に住居して所謂蕃長の職を務め、大なる資産をもつて居つた樣である。鄭所南の『心史』には、蒲受畊(蒲壽庚)の祖は、兩廣第一の富豪であつたと記載してある。この蒲壽庚の祖先が、もと廣東に僑居して、大なる資産を有して居つたといふ事實は、端なくも、南宋の岳珂の『※[#「木+呈」、129-11]史』に在る、廣州の蒲姓の記事を想起せしむる。
 この岳珂は岳霖の子で、有名なる岳飛の孫に當る。南宋の光宗の紹煕三年(西暦一一九二)父の岳霖が廣州の知事として赴任した時、彼もその地に同行して、廣州滯在の蒲姓とも親しく往來し、その親覩した所を『※[#「木+呈」、129-14]史』の中に記載して居る。左にその大要を紹介いたさう。
 廣州城内に雜居して居る幾多の海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、129-16]の中で、最も富豪を以て聞えたのは蒲姓の人である。彼はもと占城の貴人であるが、中國に滯留して、その國の貿易事務を管掌することとなつた。年月を經る儘に、廣州城内に宏大壯麗なる邸宅を構へた。支那人ならば、當然官憲から譴責を受くる程の贅澤を盡したが、外國人でもあり、且つは盛んに互市を營んで、國庫の歳入にも關係を及ぼす人のこととて、支那の官吏は遠慮して、之を不問に置いた。この蒲姓の風習として、特に注意すべきことは(一)清淨を尚ぶこと、(二)殿堂を設けて禮拜祈福するけれど、決して偶像を設けぬこと、(三)食事する際には、必ず一方の手のみを使用して、他の一方の手は便用の時に使用する外決して食事に使用せぬこと、(四)その使用する文字は異樣で、中國の篆書、籀文の如き形をなして居ることである。
 以上岳珂の記した所に據ると、蒲姓の風習は頗るイスラム教徒のそれと類似して居る。廣州滯留の蒲姓はアラブ商人に相違あるまいと思ふ。※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-7]はもと南夷(西南夷)の一種であるが、當時南洋方面より海上支那に交通した外國商人を、一般に海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]とも舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]とも稱した。アラブ商人も勿論海※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-8]と稱して差支ない。廣州の蒲姓と同時に、福建の泉州に居つて、巨萬の富を擁した舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-9]に、尸羅圍といふのがある。その名から推して、この舶※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-9]はペルシア灣頭 S※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)r※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)f の産の蕃商たること疑を容れぬ。岳珂は蒲姓を占城の人と記して居るが、上に述べた如く、當時占城にアラブ商人の假寓した者が尠くない筈故、この蒲姓ももと占城に僑居したアラブ商人と認むべきであらう。
 尚ほ岳珂の傳ふる所に據ると、蒲姓の家宅の後に高大な※(「穴/卒」、第4水準2-83-16)堵波があつて、その構造樣式は全く普通の佛塔と相違して居る。毎年四五月の交となると、廣州滯在の群※[#「僚」の「にんべん」に変えて「けものへん」、130-13]がこの塔上に登つて、天に叫呼して南風を祈り、外舶の入境の便利を圖つた。この※(「穴/卒」、第4水準2-83-16)堵波の絶頂には、もと巨大なる金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)があつたが、後ち盜難に罹つてその一足を失ひ、爾後一足の儘の金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が塔の頂上に在つたといふ。
 吾が輩はこの岳珂の記事から推測して、現今廣州城内にある懷聖寺の番塔又は光塔――廣東の一名物である――は、南宋時代の蒲姓の宅後の※(「穴/卒」、第4水準2-83-16)堵波と關係あるものと認めたい。懷聖寺は普通の傳説では、支那へ始めてイスラム教を將來した斡葛思 Wakk※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)s の建てたものだといふが、勿論信用することが出來ぬ。懷聖寺に在る番塔の構造樣式、さてはその塔上の金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)など、蒲姓の※(「穴/卒」、第4水準2-83-16)堵波と、偶然としては餘りの類似である。吾が輩は今の番塔は、宋代の蒲姓の※(「穴/卒」、第4水準2-83-16)堵波の遺物でないかと想ふ。吾が輩は更に進んで懷聖寺そのものも、或は宋代の蒲姓の建立ではあるまいかと想ふ。
 餘談はしばらく措き、兔に角『※[#「木+呈」、131-4]史』に記する所の廣州の蒲姓は、當時廣東第一の富豪で、外國貿易のことを統べて居つた。蒲壽庚の祖先も亦廣州に居つて、諸蕃の互市を統べて兩廣第一の富豪であつた。この事實を對比すると、『※[#「木+呈」、131-6]史』の蒲姓は、蒲壽庚の祖先その人でないかと、想像を容るべき餘地が多い。若しこの想像に從つて、蒲姓を蒲壽庚の祖先と認めるならば、蒲姓は西暦十二世紀末に出で、蒲壽庚は十三世紀の半過ぎの人故、蒲姓は多分蒲壽庚の祖父位に當るべき順序である。
『※[#「木+呈」、131-9]史』の記事に據ると、さしも廣州で豪華を極めた蒲姓も、その後久しからずして、家運傾いたといふことである。蒲壽庚の父の蒲開宗の時、廣州から始めて泉州に移住したのは、或は廣州に於ける蒲姓の衰運と關係ある樣に想像される。

  四 蒲壽庚の事歴(上)

 蒲壽庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、廣州から泉州に移住したが、最初の間は左程豐かな生活を營んだものと想像出來ぬ。所が蒲壽庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて掠奪をやつたことがある。大膽なる蒲壽庚はその兄の蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)と協力し、支那官憲を助けて見事にこの海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、遂に泉州の提擧市舶となつた。
※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』を始め支那の記録には、多くこの蒲壽庚の海寇撃退の事實を、南宋の度宗の咸淳十年(西暦一二七四)の頃の出來事と記してあるが、咸淳十年といへば、元の伯顏が宋の行在の臨安府を陷れる僅か二年前に當る。『宋史』瀛國公本紀の景炎元年(西暦一二七六)十一月の條に、
蒲壽庚提擧泉州舶司。擅蕃舶利者三十年。
と明記してある。果して蒲壽庚が海寇撃退の功によつて、提擧市舶となつたものならば、そは景炎元年より約三十年前の理宗の淳祐年間(西暦一二四一―一二五二)でなければならぬ。諸書に咸淳十年とあるのは、或は淳祐十年(西暦一二五〇)の間違ひではあるまいか。然らずば、海寇撃退の事件以前から蒲壽庚は早く提擧市舶の職に在つたものと認めねばならぬ。『重纂福建通志』卷九十に、泉州の歴代の提擧市舶を列載してゐるが、淳祐の末年以後の提擧市舶としては、蒲壽庚一人を掲ぐるにすぎぬ。蒲壽庚一人が淳祐以後宋末まで、久しく提擧市舶の職に在つたことを、保證する樣に思はれる。
 提擧市舶は蕃商即ち外國の貿易商人との交渉に當るから、種々役徳が多い。唐時代から、外國の商舶が支那沿海の埠頭へ入港すると、所定の下碇税と稱する關税を納めるは勿論、別に皇室へ舶來の珍異を獻上する。これを進奉といふ。皇室獻上の進奉以外に、地方の關係官吏にも相當の心附が行き屆く。即ち呈樣とて、蕃商が新たに輸入する物貨の一部を、見本といふ名義の下に、地方官憲に送呈するのである。また禁制品や逋税を取締る爲に、官憲がその輸入物貨を檢閲する。之を閲貨とも閲實ともいふ。閲貨を經ねば一切物貨を販賣することが出來ぬ。檢閲後に――多分蕃商等の主催で――慰勞の宴會が開かれる。この時にも臨閲の官吏に尠からざる贈遺がある。蕃商の滯留中に支那の官憲は自然之と往來交際するが、かかる場合には、蕃商から種々心附があり、又時には蕃商の本國から附屆などもあつた。
 これらはむしろ公然の役徳と申すべきものである。甚しき者は蕃商輸入の物貨を無理に廉價に買ひ受け之を販賣して私利を營む。蕃商の物貨を強請してその怨を買ひ、命を落した官吏さへあつた。唐宋時代の市舶に就いては、最近に藤田、中村二氏の論文も發表されて居るから、茲に詳細に述べる必要ないかと思ふ。
 以上の事情によつて、外國貿易船と關係する官吏は、古來發財致富するものと定まつて居る。『舊唐書』卷百七十七盧鈞傳に、
南海有蠻舶之利。珍貨輻輳。舊帥(節度使)作法興利以致富。凡爲南海者。靡梱載而還
といふ通りである。かかる事實は、唐代より遙か以前から、已に歴史上に散見して居り、宋時代になつても亦同樣であつた。されば貧乏官吏は種々運動して、外國貿易と關係ある南支那に奉職せんことを競爭した程である。三十年も長く提擧市舶の位置を占め、時に或は自分の手で海外通商を營んだかとも疑はるる蒲壽庚の富有は設想するに難くない。
 海寇撃退の功によつて出身した蒲壽庚は、南宋の末には福建按撫沿海都制置使に昇進して、尚ほ提擧市舶をも兼ねた。併しこの時宋運は已に傾き、徳祐帝(恭宗)の徳祐二年(西暦一二七六)、即ち元の世祖の至元十三年の春に、元の大將伯顏は遂に南宋の行在臨安府(杭州)を陷れ、徳祐帝を降し、宋は事實上滅亡した。
 是に於て宋の遺臣等は、徳祐帝の兄景炎帝(端宗)を奉じ、福建方面に退いて恢復を圖る。蒲壽庚の勢力に依頼する必要から、彼を福建廣東招撫使に進め、兼ねてこの方面の海舶を統領せしめた。やがて景炎帝は元軍を避け、その年の十一月に福州より海路泉州に移つて、蒲壽庚兄弟の後援を期待したが、蒲壽庚は十分にその所望に應ぜぬ。
 元軍の方でも東南を平定するに、蒲氏の助力を得るのが、第一の要件であることは夙に承知して、未だ行在の陷落せざる以前に、至元十三年の二月に、元の伯顏は特使を派して、蒲氏兄弟に投降を勸誘して居る。この勸誘に對して、蒲壽庚は如何なる態度を持したかは、記録に傳はつて居らぬが、彼はこの時から幾分二心を抱いた樣に想はれる。殊に船舶や軍資に不足勝なる宋軍は、泉州に於て蒲壽庚所屬の船舶資産を強請的に徴發した故、蒲壽庚は大いに怒つて、その年の十二月に斷然元に降り、宋に對して敵對行動をとることとなつた。
 蒲壽庚が宋を捨てて元に歸したことは、宋元の運命消長にかなり大なる影響を及ぼした。元來蒙古軍は陸上の戰鬪こそ、當時天下無敵の有樣であれ、海上の活動は全然無能で、この點に就いては宋軍にすら敵しかねたのである。然るに海上通商のことを管理して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に降つて、その東南征伐に助力したことは、元にとつては莫大の利益で、同時に宋にとつては無上の打撃であつた。景炎帝は間もなく福建方面を去つて、廣東方面に引移らねばならぬこととなつた。
 その翌景炎二年即ち至元十四年(西暦一二七七)の七月に、蒙古軍が福建方面を引き上げたを機會として、宋の張世傑は急に蒲壽庚を泉州に攻めた。泉州は當時南外宗正司の所在地で、宋の宗室が多く茲に住んで居る。此等趙氏の一族の者は、何れも宋室の恢復に心を傾けたこと勿論である。蒲壽庚は一擧にして、泉州在住の宋の宗族を鏖殺して内顧の憂を絶ち、專心に泉州を固守した。張世傑は泉州を圍むこと三ヶ月に亙つて城が拔けぬ。やがて蒲壽庚の請に應じて、蒙古軍の來援すると共に、宋軍は復た廣東方面に退却した。この後約一年半を經て、至元十六年(西暦一二七九)の二月に、張世傑を頭目とせる宋軍は、幼主祥興帝と共に崖山で覆滅して、宋祀は全く絶え、元が天下を統一することとなつた。
 兔に角元の東南平定には、蒲壽庚の力預つて多きに居る。故に元の朝廷も最初より彼を厚遇した。先づ昭勇大將軍(正三品)を授け、※(「門<虫」、第3水準1-93-49)廣大都督兵馬招討使に任じ、ついで江西行省の參知政事(從二品)となし、至元十五年(西暦一二七八)の八月には、福建行省の中書左丞(正二品)に登庸して居る。

  五 蒲壽庚の事歴(下) 蒲壽庚の一族

 蒲壽庚はただに元の爲に東南平定の大功を建てたのみでなく、彼は更に南海諸國を招懷して、此等諸國と元との間に互市を開くべく、若干の貢獻を致して居る。
 已に述べた如く、唐宋時代から、否その以前から支那と南海諸國間との通商は盛んに行はれて居つた。殊に宋一代を通じて、外國貿易は一層隆盛を極めた。當時支那政府はこの外國貿易によつて、大體二重の利得を收めることが出來た。一は關税の收入で、之は時代によつて相違はあるが、普通輸入品の一割二割位を政府に收めるのである。一はこの關税收入以外に、宋時代から、或種の外國輸入品は一旦政府に買ひ上げ、而して後ち相當の利益を取つて民間に拂ひ下げることで、即ち政府が或種の外國輸入品の獨占權を握り、之によつて多大の利得を收めた。兔に角南宋時代には、外國貿易が政府の重要なる歳入の一とみなされて居つた。
 されば元の世祖が宋を滅ぼして江南を平定すると殆んど同時に、この收益多き外國貿易に着眼したのは、無理ならぬ次第である。世祖はこの目的を遂行する爲には、久しく外國貿易のことを管理して、尤も斯道に通曉して居る蒲壽庚の助力を借らねばならぬ。『元史』の世祖本紀を見ると、至元十五(西暦一二七八)年八月に、世祖は蒲壽庚等に命じて、海外諸國に成るべく從前の通り、支那沿海へ貿易に出掛け來るべく、勸諭の使者を派遣することにした。その直接又は間接の結果として、占城 Chamnpa、馬八兒 M※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)bar の二國先づ通商を開き、引續きその他の南海諸國も之にならひ、元一代の外國貿易も亦かなり盛況を極めて居る。この外蒲壽庚は又間接ながら、世祖の日本征伐事件に幾分關係して居る樣である。
 蒲壽庚の事蹟は『元史』に至元二十一年(西暦一二八四)を限つて、その以後のことが見えぬ。當時彼は最早かなりの老年で、間もなく世を辭したものと想像される。
 さきに紹介して置いた如く、蒲壽庚の兄に蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)といふ者がある。蒲壽庚も多少文雅の心得をもつては居つたが、兄の蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)が詩を以て優に一家をなしたには及ばぬ。蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)は一時梅州(廣東省潮循道梅縣)の知州として令名を馳せたが、宋末に退隱したから、その官途の經歴は弟の蒲壽庚の如く顯著でない。蒲壽庚の人物は寧ろ單純一徹な武人氣質で、餘り策略に長ぜぬが、蒲壽※(「宀/成」、2-8-2、199-10)は文學の趣味も深く、思慮綿密で宋元鼎革の際に、蒲壽庚のとつた進退は、多くその兄蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)の計畫指圖に由つたものと傳へられて居る。その晩年に蒲壽※(「宀/成」、第4水準2-8-2)は世間の批判を憚り、泉州府城東南郊外の法石山に隱居して、風月に身を託したといふ。
 その他蒲壽庚の一族としては『※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』に據ると、彼の長子に蒲師文と申す者があつて、始終父の股肱として活動したが、人物が暴悍であつた故か、餘り出世をせずに身を終つた樣である。又『八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)通志』卷の三十に據ると、元の世祖の末年に、福建行省の參知政事(從二品)となつた蒲師武といふ者がある。その年代及び姓名から推すと、彼は蒲壽庚の子で、蒲師文の弟に相違あるまい。
 宋末元初の周密の『癸辛雜識』を見ると、泉南在住の巨賈に、南蕃人佛蓮と申す者があつて、蒲氏の壻となり、盛んに海外貿易を經營したが、死後嗣子なき爲に、政府がその遺産を沒收したことを記してある。單に蒲氏とあるのみでは、勿論斷言は出來ぬが、或は蒲壽庚の一家であるまいかと想像すべき餘地がないでもない。
『八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)通志』の卷二十七に擧ると、元の晉宗の泰定年間(西暦一三二四―一三二七)に、福建等處都轉運鹽使(正三品)といふ官――これは鹽鐵、酒醋等の專賣事業を統べ、兼ねて市舶のことを管理する大官である。――を占めた蒲居仁といふ人がある。或は蒲壽庚の孫にでも當るべき人かと想像される。
 要するに蒲壽庚は元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である。『※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』の卷一百五十二に、
元以〔蒲〕壽庚有一レ功。官其諸子若孫。多至顯達。泉人避其薫炎者十(?)餘年。元亡廼ヤム
とあるによつて、その大體を察知することが出來る。蒲壽庚が元に登庸されて以來元の滅亡に至るまで約九十年に及ぶ。『※(「門<虫」、第3水準1-93-49)書』に泉人避其薫炎者十餘年とあるは、恐らく八十餘年の誤脱であらう。
 かくて明の太祖が元に代つて天下を一統すると、漢族の國家再造を標幟とした彼太祖は、その返報に、この元と因縁深き福建の蒲姓の一族の仕官を禁じた。さらぬだに色目人の威勢の傾いた時に、官途の禁錮まで受けては、愈※(二の字点、1-2-22)社會に於ける蒲姓の面目が失はれた譯である。此の如くして福建の蒲姓は次第に衰微して、遂に世間の視聽の外に埋沒し終つた。

底本:「桑原隲藏全集 第五卷 蒲壽庚の事蹟 考史遊記」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「宋末の提擧市舶西域人蒲壽庚の事蹟」東亜攻究会(上海)
   1923(大正12)年11月発行
※「蒲壽庚の事蹟」の、本文のみ(底本28〜30、64〜67、126〜131、167〜170、198〜200頁)を入力した。
※本文に付された注釈番号は、入力しなかった。
※以下の3字下げを、2字下げに改めました。「元以二〔蒲〕壽庚有一レ功。官二其諸子若孫一。多至二顯達一。泉人避二其薫炎一者十(?)餘年。元亡廼已(ヤム)。」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月2日作成
2004年4月1日修正
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