一 『八犬伝』と私

 昔は今ほどいそがしくなくて、誰でも多少のひまがあったものと見える。いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活がつましかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本しゃほんが隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵つぶされてしまったろうが私の青年時代には少しふるい家には大抵お祖父じいさんか曾祖父ひいじいさんとかの写本があった。これがまたきまって当時の留書とめがきとかおふれとか、でなければ大衆物即ち何とか実録や著名なだい戯作げさくの抜写しであった。無論ドコの貸本屋にも有る珍らしくないものであったが、ただ本の価を倹約するばかりでなく、一つはそれが趣味であったのだ。私の外曾祖父がいそうそふの家にも(今では大抵屏風の下貼や壁の腰張やハタキや手ふき紙になってしまったが)この種の写本が本箱に四つ五つあった。その中に馬琴の『美少年録』や『玉石童子訓ぎょくせきどうじくん』や『朝夷巡島記あさいなしまめぐりのき』や『侠客伝』があった。ドウしてコンナ、そこらに転がってる珍らしくもないものを叮嚀に写して、手製とはいえ立派に表紙をつけて保存する気になったのか今日の我々にはその真理が了解出来ないが、ツマリ馬琴に傾倒した愛読の情があふれたからであるというほかはない。私の外曾祖父というは決して戯作好げさくずきの方ではなかった。少し常識のけたをはずれた男で種々の逸事が残ってるが、戯作好きだというはなしは残っていないからそれほど好きではなかったろう。事実また、外曾祖父の遺物中には馬琴の外は刊本にも写本にも小説は一冊もなかった。ただ馬琴の作は上記以外自ら謄写したものが二、三種あった。刊本では、『夢想兵衛むそうびょうえ』と『八犬伝』とがあった。畢竟ひっきょうするに戯作が好きではなかったが、馬琴に限って愛読して筆写の労をさえ惜しまず、『八犬伝』の如き浩澣こうかんのものを、さして買書家でもないのに長期にわたって出版の都度々々購読するを忘れなかったというは、当時馬琴が戯作を呪う間にさえ愛読というよりは熟読されて『八犬伝』が論孟学庸や『史記』や『左伝』と同格に扱われていたのを知るべきである。また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山しばのりつざんに到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私にはなした老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は『戯作者六家撰』に見えてるが、いつ頃の事かハッキリしない。医を志したというは自分でも書いてるが、儒を志したというは余り聞かない。真否は頗る疑わしいが、とにかく馬琴の愛読者たる士流の間にはソンナ説があったものと見える。当時、戯作者といえば一括して軽薄放漫なる※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)々者がいがいしゃ流として顰蹙ひんしゅくされた中にひとり馬琴が重視されたは学問淵源があるを信ぜられていたからである。
 私が幼時から親しんでいた『八犬伝』というは即ちこの外曾祖父から伝えられたものだ。出版の都度々々書肆しょしから届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『美少年録』でも『侠客伝』でも皆謄写した気根の強い筆豆ふでまめの人であったから、『八犬伝』もまた初めは写したに相違ないが、前数作よりも一層感嘆かなかったので四、五輯頃から刊本で揃えて置く気になったのであろう。それからが出版の都度々々届けさしたので、初めの分はアトから補ったのであろう。私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流のたしなみがあるわけでもないただの俗人であったが、以て馬琴の当時の人気を推すべきである。
 このおかげに私は幼時から馬琴に親しんだ。六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士の名ぐらいは義経・弁慶・亀井・片岡・伊勢・駿河と共にそらんじていた。富山とやまの奥で五人の大の男を手玉に取った九歳の親兵衛しんべえの名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三歳からだろうがそれより以前から拾い読みにポツポツ読んでいた。十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。(私には限らない、当時の貸本屋フワンは誰でもだったが)信乃しの滸我こがへ発足する前晩浜路はまじが忍んで来る一節や、荒芽山あらめやま音音おとねの隠れ家に道節どうせつ荘介そうすけが邂逅する一条ひとくだりや、返璧たまがえしの里に雛衣ひなきぬが去られた夫を怨ずる一章は一言一句をあまさず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は全く一行をだも読まないで、何十年振りでまた読み返すとちょうど出稼人が都会の目眩まぶしい町から静かな田舎の村へ帰ったような気がする。近代のあわただしい騒音やづまった苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。

       二 『八犬伝』および失明後終結

『八犬伝』は文化十一年、馬琴四十八歳の春肇輯じょうしゅう五冊を発行し、連年あるいは隔年に一輯五冊または六、七冊ずつ発梓はっしし、天保十二年七十五歳を以て終結す。その間、年をけみする二十八、巻帙かんちつ百六冊の多きに達す。その気根の大なるは東西古今にりんを絶しておる。もしただ最初の起筆と最後の終結との年次をのみいうならばこれより以上の歳月を閲したものもあるが、二十八年間絶えず稿を続けて全く休息した事がない『八犬伝』の如きはない。僅かに『神稲水滸伝』がこれより以上の年月を費やしてこれより以上の巻を重ねているが、最初の構案者たる定岡の筆に成るは僅かに二篇十冊だけであって爾余じよは我が小説史上余り認められない作家の続貂狗尾ぞくちょうくびである。もっともアレだけの巻数を重ねたのはやはり相当の人気があったのであろうが、極めて空疎な武勇談を反覆するのみで曲亭の作と同日に語るべきものではない。『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩きょうどの末魯縞ろこう穿うがつあたわざるうらみがいささかないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授くじゅ代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠のあるは止むを得なかろう。とにかく二十八年間同じ精力を持続し、少しもタルミなく日程を追って最初の立案を(多少の変更あるいは寄道よりみちはあったかも知れぬが)設計通りに完成終結したというは余り聞かない――というよりは古今に例のない芸術的労作であろう。無論、芸術というは蟻が塔を積むように長い歳月を重ねて大きなものを作るばかりが能事ではない。が、この大根気、大努力も決して算籌外さんちゅうがいには置かれないので、単にこの点だけでも『八犬伝』を古往今来の大作として馬琴の雄偉なる大手筆だいしゅひつを推讃せざるを得ない。
 殊に失明後の労作に到っては尋常芸術的精苦以外にいかなる障碍しょうがいにも打ち勝ってますます精進した作者の芸術的意気のさかんなる、真に尊敬するに余りがある。馬琴が右眼に故障を生じたのは天保四年六十七歳の八、九月頃からであったが、その時はもとより疼痛を伴わなかったのであろう、余り問題としなかったらしい。が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』をも稿を続けて連年旧の如く幾多の新版を市場に送っておる。その頃はマダ右眼の失明がさしたる障碍を与えなかったらしいのは、例えば岩崎文庫所蔵の未刊藁本こうほん『禽鏡』の(本文は失明以前の筆写であっても)失明の翌年の天保五年秋と明記した自筆の識語を見ても解る。筆力が雄健でごう窘渋きんじゅうあとが見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。
 馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生へいぜい頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかったので、一つはその頃は碌な町医者がなかったからであろう、碌な手当もしないで棄て置いたらしい。が、不自由しなかったという条、折には眼がかすんだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆かいがいじょうひつ』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌つちのえいぬ即ち天保九年の)夏に至りては愈々そのことなるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡めがねの曇りたる故ならめとあやまり思ひて、本玉ほんたまとかいふ水晶製の眼鏡の価たかきをもいとはで此彼これかれと多くあがなひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳こぞ庚子かのえね即ち天保十一年の)夏に至りては只朦々朧々として細字を書く事ならねばその稿本を五行いつくだりの大字にしつ、も手さぐりにて去年こぞの秋九月本伝第九輯四十五の巻まで綴りはたし」とあるはその消息を洩らしたもので、口授ではあるが一字一句に血が惨み出している。その続きに「第九輯百七十七回、一顆いつくわの智玉、みちに一騎の驕将をらすといふ一段を五行或は四行の大字にものしぬるに字行じのかたちもシドロモドロにてかつ墨のかぬ処ありて読み難しと云へば宅眷やからに補はせなどしぬるほどに十一月しもつきに至りてはさながら雲霧の中に在る如く、又朧月夜おぼろづきよに立つに似て一字も書く事ならずなりぬ」とて、ただ筆硯ひっけんに不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方せんかたなくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川ふみまきがはに猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻せいそくの悲史であろう。同じ操觚そうこに携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正おうぎがやつさだまさが水軍全滅し僅かに身を以てのがれてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友すけともに助けられて河鯉かわこいへ落ち行くくだりにて、「其馬をしも船に乗せて隊兵てせい――」という丁の終りまではシドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の※(「女+息」、第4水準2-5-70)よめ宗伯そうはく未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロでづらいが、手捜てさぐりにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、へんつくりが重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭うなずかれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。
 が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼がめいを失ったのは九輯に差掛った頃からであるが、馬琴は著書の楮余ちょよに私事を洩らす事が少なくないに拘わらず、一眼だけを不自由した初期は愚か両眼共に視力を失ってしまってからも眼の事は一言もいわなかった。作者の私生活と交渉のなかった単なる読者は最後の『回外剰筆』を読むまでは恐らく馬琴が盲したのを全く知らなかったろう。一体が何事にも執念しゅうねく、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切おもいきりかった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますます軒昂たる本来もちまえの剛愎がほの見えておる。
 全く自ら筆を操る事が出来なくなってからの口授作くじゅさくにも少しも意気消沈した痕が見えないで相変らずの博引旁証はくいんぼうしょうをして気焔を揚げておる。馬琴の衒学癖げんがくへきやまい膏肓こうこうったもので、無知なる田夫野人でんぶやじんの口からさえ故事来歴を講釈せしむる事が珍らしくないが、自ら群書を渉猟する事が出来なくなってからも相変らず和漢の故事をならべ立てるのは得意の羅大経らたいけいや『※(「王+邪」、第3水準1-88-2)代酔篇ろうやたいすいへん』が口をいてづるので、その博覧強記が決して俄仕込にわかじこみにあらざるを証して余りがある。
 かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓をつかんでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。一度死んだ人間を無理に蘇生いきかえらしたり、マダ生きてるはずの人間がイツの間にかドコかへ消えてしまったり、一つ人間の性格が何遍も変るのはありがちで、そうしなければ纏まりが附かなくなるからだ。正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅にいた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒しりきれとんぼである原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀に見る例で、作者の頭脳の明澄透徹を証拠立てる。殊に視力を失って単なる記憶に頼るほかなくなってからでも毫も混錯しないで、一々個々の筋道を分けておのおの結末を着けたのは、例えば名将の隊伍を整えて軍を収むるが如くである。第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏こしゅうしげうじとらわれをかれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主にえつして折からのそぼ降る雨の徒々つれづれを慰めつつ改めて宝剣を献じて亡父の志を果す一条の如き、大塚匠作おおつかしょうさく父子の孤忠および芳流閣の終曲として余情嫋々じょうじょうたる限りなき詩趣がある。また例えば金光寺門前の狐竜の化石(第九輯巻五十一)延命院の牡丹の弁(同五十二)の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴しゅうの根本経典である。

       三 『八犬伝』総括評

 だが、有体ありていに平たくいうと、初めから二十八年と予定して稿を起したのではない。読者の限りない人気に引き摺られて次第に延長したので、アレほど厖大な案を立てたのでないのはその巻数の分け方を見ても明らかである。本来読本よみほんは各輯五冊で追って行くを通則とする。『八犬伝』も五輯までは通則通りであったが、六輯は一冊増して六冊、七輯は更に一冊加えて七冊、八輯は一度に三冊を加えて十冊とした。九輯となると上中下の三ちつを予定し、上帙六冊、中帙七冊、下帙は更に二分して上下両帙の十冊とした。それでもマダ完結とならないので以下は順次に巻数を追うことにした。もし初めからアレだけ巻数を重ねる予定があったなら、一輯五冊と正確に定めて十輯十一輯と輯の順番を追って行くはずで、九輯の上だの下だの、更に下の上だの下の下だのと小面倒な細工をしないでもかったろうと思う。全部を二分して最初の半分が一輯より八輯まで、アトの半分が総九輯というようなコンナ馬鹿々々しい巻数附けは『八犬伝』以外には無い。これというのは畢竟ひっきょう、モウ五冊、モウ三冊と、次第にアトを引き摺られてよんどころなしに巻数を増したと見るほかはない。
 例えば親兵衛が京都へ使いする一条の如き、全く省いても少しも差支ない贅疣ぜいゆうである。結城ゆうき以後影を隠した徳用とくよう堅削けんさくを再出して僅かに連絡を保たしめるほかには少しも本文に連鎖の無い独立した武勇談である。第九輯巻二十九の巻初に馬琴が特にこの京都の物語の決して無用にあらざるを強弁するは当時既に無用論があったものと見える。一体、親兵衛は少年というよりは幼年というが可なるほどの最年少者であって、豪傑として描出するには年齢上無理がある。勢い霊玉の奇特きどく伏姫神ふせひめがみの神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫霊験記れいげんきになる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく稀薄であるが、殊に京都の物語は巽風そんふう於菟子おとこの一節を除いては極めて空虚な少年武勇伝である。
 本来『八犬伝』は百七十一回の八犬具足ぐそくを以て終結と見るが当然である。馬琴が聖嘆せいたんの七十回本『水滸伝』を難じて、『水滸』の豪傑がもし方臘ほうろうを伐って宋朝に功を立てる後談がなかったら、『水滸伝』はただの山賊物語となってしまうと論じた筆法をそのまま適用すると、『八犬伝』も八犬具足で終って両管領かんれいとの大戦争に及ばなかったらやはりただの浮浪物語であって馬琴の小説観からは恐らく有終の美を成さざるうらみがあろう。そういう道学的小説観は今日ではもはや問題にならないが、為永春水はいでさえが貞操や家庭の団欒だんらんの教師を保護色とした時代に、馬琴ともあるものがただの浮浪生活を描いたのでは少なくも愛読者たる士君子に対して申訳が立たないから、勲功記を加えて以て完璧たらしめたのであろう。が、『八犬伝』の興趣は穂北ほきたの四犬士の邂逅かいこう船虫ふなむし牛裂うしざき五十子いさらこの焼打で最頂に達しているので、八犬具足で終わってるのは馬琴といえどもこれを知らざるはずはない。畢竟するに馬琴が頻りに『水滸』の聖嘆評を難詰屡々しばしばするは『水滸』を借りて自ら弁明するのではあるまいか。
 だが、この両管領との合戦記は、馬琴が失明後の口授作にもせよ、『水滸伝』や『三国志』や『戦国策』を襲踏した痕が余りに歴々として『八犬伝』中最も拙陋せつろうを極めている。一体馬琴は史筆椽大てんだいを以て称されているが、やはり大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。線の太い歴史物よりは『南柯夢なんかのゆめ』や『旬殿実々記しゅんでんじつじつき』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路はまじ雛衣ひなきぬ口説くどきが称讃されてるのはあながち文章のためばかりではない。が、戦記となるとまるで成っていない。ヘタな修羅場読しゅらばよみと同様ただ道具立をならべるのみである。葛西金町かさいかなまちを中心としての野戦の如き、彼我の五、六の大将が頻りに一騎打の勇戦をしているが、上杉・長尾・千葉・滸我らを合すればかなりな兵数になる軍勢は一体何をしていたのか、ときの声さえ挙げていないようだ。その頃はモウかなり戦術が開けて来たのだが、大将株が各自てんでに自由行動を取っていて軍隊なぞは有るのか無いのか解らない。これに対抗する里見勢もまた相当の数だろうが、ドダイ安房あわから墨田河原すみだがわら近くの戦線までかなりな道程をいつドウいう風に引牽いんけんして来たのやらそれからして一行も書いてない。水軍の策戦は『三国志』の赤壁をソックリそのままに踏襲したので、里見の天海てんかいたる丶大ちゆだいや防禦使の大角だいかくまで引っ張り出して幕下でも勤まる端役を振り当てたしたごしらえは大掛りだが、肝腎の合戦は音音おとね仁田山晋六にたやましんろくの船をいたのが一番壮烈で、数千の兵船を焼いたというが児供こどもの水鉄砲くらいの感じしか与えない。扇谷家第一の猛者小幡東良おばたはるよし能登守教経のとのかみのりつね然たる働きをするほかは、里見勢も上杉勢も根ッから動いていない。定正がアッチへ逃げたりコッチへ逃げたりするのも曹操そうそう周瑜しゅうゆに追われては孔明こうめいの智なきを笑うたびに伏兵が起る如き巧妙な作才が無い。軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者のくつひもを解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄大の感あらしめるのはこの両管領との合戦記であるから、最後の幕を飾る場面としてまんざら無用でないかも知れない。
 が、『八犬伝』は、前にもいう通り第八輯で最高頂に達し、第九輯巻二十一の百三十一回の八犬具足で終わっている。それより以下は八犬後談で、切り離すべきである。(私の梗概がその以下に及ばないのはこの理由からである。)『八犬伝』の本道は大塚から市川いちかわ行徳ぎょうとこ[#ルビの「ぎょうとこ」はママ]荒芽山あらめやまと迂廻して穂北ほきたへ達する一線である。その中心点が大塚と行徳と荒芽山である。野州路やしゅうじ越後路えちごじはその裏道で甲斐かい石和いさわ武蔵むさし石浜いしはまは横路である。富山や京都は全く別系統であって、富山が八犬の発祥地であるほかには本筋には何の連鎖もない。地理的にいえば、大塚と行徳と荒芽との三地点から縄を引っ張った三角帯が『八犬伝』の本舞台であって、この本舞台に登場しない犬江(親兵衛は行徳に顔を出すがマダ子役であって一人前になっていない)・犬村・犬阪の三犬士は役割からはむしろスケ役である。なかんずく、その中心となるのは信乃と道節とで、『八犬伝』中最も興味の深い主要の役目を勤めるのは常にこの二人である。
 一体八犬士は余り完全過ぎる。『水滸伝』中には、鶏を盗むを得意とする時遷じせんのような雑輩を除いても黒旋風こくせんぷうのような怒って乱暴するほかには取柄とりえのない愚人もあるが、八犬士は皆文武の才があって智慮分別があり過ぎる。その中で道節が短気で粗忽そこつで一番人間味がある。一生定正を君父の仇とねらって二度も失敗やりそこなっている。里見の防禦使となって堂々対敵しても逃路に待ち伏せする野武士のような役目を振られて、シカモ首尾よく取り逃がして小水門目こみなとさかん孺子じゅしをして名を成さしめてる。何をやらしてもヘマばかりするところに道節の人間味がある。道節を除いては、小文吾が曳手ひくて単節ひとよを送って途中で二人を乗せた馬に駈け出されて見失ってしまったり、荒野猪あれいのししを踏み殺してきばに掛けられた猟師を助けたはイイが、恩を仇の泥棒猟師の女房にコロリと一杯喰ってアベコベにフンじばられる田舎相撲らしい総身に知恵の廻り兼ぬるドジを時々踏むほかは、皆余りに出来過ぎている。なかんずく、親兵衛に到って極まる。
『八犬伝』には幾多の興味ある挿話エピソードがある。例えば船虫ふなむしの一生の如き、単なる一挿話とするには惜しい話材である。初めは行き暮れた旅人を泊らしては路銀をぬすむ悪猟師の女房、次には※(「女+息」、第4水準2-5-70)よめいびりの猫化郷士ねこばけごうしの妻、三転して追剥おいはぎの女房の女按摩となり、最後に折助おりすけかかあとなって亭主と馴れ合いに賊を働く夜鷹よたかとなり、牛裂うしざきの私刑に波瀾の多い一生の幕を閉ずる一種の変態性格である。これだけでも一部の小説とするに足る。また例えば素藤もとふじの如き、妙椿みょうちんが現れて幻術で助けるようになってはツマラないが、浮浪の盗賊からとにかく一城の主となった経路には梟雄きょうゆうの智略がある。妙椿の指金さしがねで里見に縁談を申し込むようになっては愚慢の大将であるが、里見を初め附近の城主を籠罩ろうとうして城主の位置を承認せしめたは尋常草賊の智恵ではない。馬琴はとかくに忠孝の講釈をするので道学先生視されて、小説を忌む鴆毒ちんどくに等しい文芸憎悪者にも馬琴だけは除外例になって感服されてるが、いずくんぞ知らん馬琴は忠臣孝子よりは悪漢淫婦を描くにヨリ以上の老熟を示しておる。『美少年録』が(未完成ではあるが)代表作の一つである『弓張月』よりもかえって成功しているはその一例である。

       四 『八犬伝』の歴史地理

 馬琴は博覧強記を称されもすれば自ら任じもした。殊に歴史地理の考証については該博精透なる尋究を以て聞えていた。正当なる歴史を標榜する史籍さえ往々不穿鑿ふせんさくなる史実を伝えて毫も怪しまない時代であるから、ましてや稗官はいかん野乗やじょうがいい加減な出鱈目でたらめを列べるのも少しも不思議はない。馬琴自身が決して歴史の参考書として小説を作ったのでないのは明らかで、多少の歴史上の錯誤があったからとて何ら文芸上の価値をるいするに足らないのである。馬琴の作が考証精覈せいかくで歴史上または地理上の調査が行届いてるなぞと感服するのは贔屓ひいきの引倒しで、馬琴に取ってはこの上もない難有ありがた迷惑であろう。ただ馬琴は平素の博覧癖から何事もくわしく調査したらしく思われる処に損もあり得もある。『房総志料』を唯一の手品の種子たね箱とする『八犬伝』の歴史地理の穿鑿の如きはそもそも言うものの誤りである。余り偏痴気論を振り廻したくないが、世間には存外な贔屓の引き倒しもあるから、ただ一個条憎まれ口を叩いておこう。(無論『八犬伝』の光輝はソンナ大向うの半畳はんじょうで曇らされるのではない。)
 金碗大輔かなまりだいすけ八房やつふさもろとも伏姫をも二つ玉で撃留うちとめたのはこの長物語の序開きをするセラエヴォの一発となってるが、日本に鉄砲が伝来したのが天文十二年であるは小学校の教科書にも載ってる。もっとも天文十二年説は疑問で、数年前にも数回歴史家の間に論争されたが、たといそれ以前に渡ったものがあったにしてもそれよりおよそ八十年前の(伏姫が死んだ年の)長禄ちょうろくの二年に房州の田舎武士の金碗大輔がドコから鉄砲を手に入れたろう。これを始めに『八犬伝』には余り頻繁に鉄砲が出過ぎる。白井の城下で道節が上杉勢に囲まれた時も鉄砲足軽が筒を揃えて道節に迫った、曳手ひくて単節ひとよ荒芽山あらめやまを落ちる時も野武士に鉄砲で追われた、網苧あしお鵙平もずへい茶屋にも鉄砲が掛けてあった、甲斐の石和いさわの山の中で荘官木工作むくさく泡雪奈四郎あわゆきなしろうに鉄砲で射殺うちころされた。大詰の大戦争の駢馬三連車も人を驚かせるが、この踊り屋台やたい然たる戦車の上に六人の銃手が銃口を揃えてるのはすさまじい。天下の管領の軍隊だから葡萄牙ポルトガル人よりも先に何百挺何千挺の鉄砲を輸入しても妨げないが、野武士や追剥までが鉄砲をポンポン撃つのは余り無鉄砲過ぎる。網苧の山里の立場たてば茶屋に猪嚇ししおどしの鉄砲が用意してあるほどなら、道節も宝刀をひねくり廻して居合抜いあいぬきの口上のような駄弁をろうして定正に近づこうとするよりもズドンと一発ブッ放した方が余程早手廻しだったろう。
 こういうと偏痴気論になる。小説だもの、鱶七ふかしちが弁慶の長上下ながかみしもで貧乏徳利をブラ下げて入鹿御殿にくだを巻こうと、芝居や小説にいちいち歴史を持出すのは余程な大白痴おおばかで、『八犬伝』の鉄砲もまた問題にならない。が、ウソらしいウソは問題にならないが、ホントウらしく聞えるウソは小説だと思っても欺されるから問題になる。弁慶の七つ道具の中にピストルがあったといっても誰も問題にしないが、長禄に安房の田舎武士が鉄砲を持っていたというと、ちょっと首をかしげさせる。いわんや説話者が博覧の穿鑿好きたる馬琴であるから、眉に唾をつけながらも考えさせられる。
 鉄砲は暫らくお預けとして、長禄というと太田道灌おおたどうかんが江戸城を築いた年である。『八犬伝』には道灌は影になってるが、道灌の子の助友は度々顔を出してる。江戸は『八犬伝』の中心舞台で、信乃しのが生れ額蔵がくぞうが育った大塚おおつかを外にしても神田かんだとか湯嶋ゆしまとか本郷ほんごうとかいう地名は出るが「江戸」という地名は見えない。江戸城を匂わせるような城も見えない。両管領との大戦争に里見方は石浜、五十子いさらこ忍岡しのぶがおか、大塚の四城を落しているが、その地理的位置が江戸城をおもわせるようなのはない。もっとも江戸城なぞは有っても無くても『八犬伝』の本筋には少しも関係しないが、考証好きの馬琴が代る代るに犬士をこの地方に遍歴へめぐらさして置いて江戸城を見落さしたのを不思議に思う。
 前にもいったが、『八犬伝』の中心舞台は安房よりも江戸であって、事件が多くは江戸あるいは江戸人に親しみのある近国で発展したのが少なくも中央都人士とじんしの興味を湧かさした原因の一つである。殊に一番人気のある信乃を主役として五犬士の活躍するは、大塚を本舞台として巣鴨すがも池袋いけぶくろたきがわ王子おうじ・本郷にまたがる半円帯で、我々郊外生活者の遊歩区域が即ち『八犬伝』の名所旧蹟である。一体大塚城というのはドコにあったろう? そんな問題を出すのがそもそも野暮のドン詰りであるが、もともと城主の大石というのが定正の裨将ひしょうであるから、城と称するが実は陣屋じんやであろう。いわゆる「飯盛めしもりも陣屋ぐらいは傾ける」程度の飯盛相当の城であろう。ところで、城にしろ陣屋にしろどの辺であるか見当が附かぬが、信乃が幼時を過ごした大塚は、信乃の家の飼犬が噛み殺した伯母の亀篠かめざさの秘蔵猫にちなんで橋名を附けられたと作者が考証する簸川ひかわ猫股橋ねこまたばしというのが近所であるから、それから推して氷川田圃たんぼに近い、今の地理的考証から推して氷川田圃に近き今の高等師範の近辺であろう。荘助の額蔵が処刑されようとした庚申塚こうしんづかの刑場も近く、信乃の母が滝の川の岩屋へ日参したという事蹟から考えても高等師範近所と判断するが当っているだろう。
 ところで信乃がいよいよ明日は滸我こがへ旅立つという前晩、川狩へ行って蟇六ひきろくの詭計にめられてあぶなく川底へ沈められようとし、左母二郎さもじろうに宝刀を摩替すりかえられようとした神宮川かにはがわというは古名であるか、それとも別に依拠よりどころのある仮作名であるか、一体ドコを指すのであろう。信乃が滝の川の弁天へ参詣した帰路に偶然邂逅であったように趣向したというのだから、滝の川近くでなければならないので、多分荒川の小台おだいの渡し近辺であろう。仮にそう定めて置いて、大塚から点燈ひともし頃にテクテク荒川くんだりまで出掛け、水の中で命のやりとりの大芝居をして帰ったのがの刻過ぎたというから十時である。往返ゆきかえりをマラソンでヘビーを掛け、水中の実演を余程高速度でらちを明けなければとても十時には帰って来られない。が、荒川より近くには神宮川のような大きな川はない。
 道節が火定かじょうに入った円塚山まるづかやまというは名称の類似から本郷の丸山だろうともいうし、大学の構内の御殿の辺だろうという臆説もある。ドッチにしてももとが小説だから勝手な臆測が許されるが、左母二郎が浪路なみじを誘拐して駕籠かごを飛ばして来たは大塚から真直ぐに小石川の通りを富坂とみさかへ出て菊坂あたりから板橋街道へ出たものらしい。円塚山はこの街道筋にあるので、今の燕楽軒から白十字・パラダイス・鉢の木が軒を並べるあたりが道節の寂寞道人肩柳じゃくまくどうじんけんりゅうや浜路の史跡である。小説の史跡を論ずるのは極楽の名所図会ずえや竜宮の案内記を書くようなものだが、現にお里の釣瓶鮨つるべずしのあとも今なお連綿として残り、樋口の十郎兼光の逆櫓さかろの松も栄え、壺阪では先年沢市さわいちの何百年遠忌おんきだかを営んだ。『八犬伝』の史蹟も石に勒して建てられる時があるかも知れない。(市川附近や安房の富山には『八犬伝』の遺跡と伝えられる処が既にあるという咄だ。)
 が、そういう空想史蹟は暫く措いて、単なる地理的興味から見て頗る味わうべきものがしばしばある。小文吾が荒猪を踏み殺したは鳥越とりごえであるが、鳥越は私が物心覚えてからかなり人家の密集した町である。徳川以前、足利の末辺にもせよ、近くに山もないに野猪が飛び出すか知らん。(もっとも、『十方庵遊歴雑記』に向嶋の弘福寺が境内寂寞としてただ野猿の声を聞くという記事があるが、奥山の猿芝居の猿の声ではなさそうだ。)また、この鳥越から海が見えるという記事がある。湯嶋の高台からは海が見えるから、人家まばらに草茫々と目にさえぎるものもないその頃の鳥越からは海が見えたかも知れぬが、ちょっとな感じがする。
 芳流閣の屋根から信乃と現八とが組打して小舟の中に転がり落ち、はずみに舫綱もやいづなが切れて行徳ぎょうとくへ流れるというについて、滸我こが即ち古賀からは行徳へ流れて来ないという説がある。利根の一本筋だから引汐なら行徳へ流れないとも限らないが、古賀から行徳まではかなりな距離があって水路が彎曲している。その上に中途の関宿せきやどには関所が設けられて船舶の出入に厳重であったから、大抵な流れ舟はここで抑留される。さもなくとも、川は曲りくねって蘆荻ろてきが密生しているから小さな舟は途中で引っ掛ってしまう。到底無事に行徳まで流れて来そうもない。
 ※(「さんずい+(旡+旡)/鬲」、第3水準1-87-31)いしみ館山たてやま素藤もとふじの居城)というは今も同じ地名の布施村や国府台こうのだいに近接する立山たてやまであろう。稲村まではかなりの里程があって、『八犬伝』でも一泊二日路であるが、妙椿が浜路を誘拐するに幻術で雲にでも乗って来たら宜さそうなもんだのに、小脇に引っ抱えてズルんかズルんか引き摺って来て南弥六なみろくに邪魔をされ折角誘拐して来た浜路を伏姫神霊に取り返される。素藤が初め捕われて再挙を謀る間潜伏した山というはどの辺を指すのか解らぬが、夷隅いすみは海岸を除いては全郡山地があるが山がすべて浅くて且つ低くて人跡未到というような感じのある処はなさそうだ。房総はすべて馬の背のような地形で、山脈が連亘れんこうして中央部を走っているが、高山も大山もない。伏姫が山入した富山(トミサンと呼ぶ、トヤマでもトミヤマでもない)の如きも、『八犬伝』に形容されてるような高峻な山ではない。最高峰の観音堂は『八犬伝』にると義実よしさねの建立となってるが、寺記には孝謙天皇の御造立となっている。安房は国史にはかなり古いが、徳川氏が江戸を開く以前は中央首都から遠い辺陲へんすいの半島であったから極めて歴史に乏しく、したがって漁業地としてのほかは余り認められていない。安房が著名になったのは全く『八犬伝』以来であるから、『八犬伝』の旧蹟は準史蹟として見てもイイかも知れない。
(『八犬伝』の地理学は起稿当初の腹案であったが、実地を踏査しなければ解らぬ個処が存外多いのですべて他日の機会に譲ることにした。『八犬伝』地図も添ゆる予定であったが、同じ理由で。)

       五 馬琴の日記

『八犬伝』が日本の小説中飛び離れてぬきんでている如く、馬琴の人物もまた嶄然ざんぜんとして卓出している。とかくの評はあっても馬琴の如く自ら信ずるところ厚く、天下の師を以て任じたのは他にはない。古今作者を列べて著述の量の多いのと、なかんずく大作に富めると、その作の規模結構の大なると、その態度の厳粛なると、その識見の高邁こうまいなると、よく馬琴に企て及ぶものは殆んどない。
 が、作に秀でたのは、鯛よりは鰯の生きのイイ方がうまい、牡丹よりは菜の花の方が風情ふぜいがあるというと同じ不好ぶすきを別として大抵異論はないが、人物となるとまた、古今馬琴の如く嫌われてるのは少ない。或る雑誌で、古今文人の好き嫌いという題で現代文人の答案を求めたに対し、大抵な人が馬琴を嫌いというに一致し、馬琴を好きと答えたものは一人もなかった。ただに現代人のみならず、その当時からして馬琴は嫌われていた。正面から馬琴に怨声を放って挑戦したのは京山きょうざん一人であったが、少なくも馬琴が作者間に孤立していて余り交際しなかった一事に徴するも、馬琴に対して余り好感を持つものがなかったのは推測おしはかられる。馬琴が交際していたのは同じ作者仲間よりはむしろ愛読者、殊に遠方の文書で交際する殿村篠斎とのむらじょうさいの連中であって親しくその家に出入して教を乞うものでなかった。ただ文書を以て交際するだけなら折々小面倒で嫌気いやきを生ずる事があってもそれほど深く身にみないが、面と向っては容易に親しまれないで、小難こむずかしくて気ブッセイで堪えられなかったろう。とかくに気難きむずかしくて機嫌の取りにくかったのは、家人からでさえ余り喜ばれなかったのを以てもその人となりを知るべきである。
 京伝と仲たがいした真因は判然しないが、京山の『蜘蛛の糸巻』、馬琴の『伊波伝毛之記いわでものき』および『作者部類』を照らし合わしてみると、彼我のいうところ(多少の身勝手や、世間躰を飾った自己弁護はあっても)、みな真実であろう。馬琴が京伝や蔦重つたじゅうの家を転々して食客となり、処女作『尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん』に京伝門人大栄山人と署したは蔽い難い。僅か三歳でも年長者であるし、その時既に相応の名を成していたから、作者として世間へ乗り出すには多少の力を仰いだ事はあろうが、著作上教えられる事が余り多くあったとは思われない。京伝門人と署したのは衣食の世話になった先輩に対する礼儀であって、師礼を執って教を受けた関係でなかったのは容易に想像される。玄関番の書生が主人を先生と呼ぶようなものだ。もっとも一字の師恩、一飯の恩という事もあり、主従師弟のやかましかった時代だから、両者の関係が漸く疎隔して馬琴の盛名がオサオサ京伝を凌がんとすると京伝側が余り快く思わぬは無理もないが、馬琴が京伝に頼った頃の何十年も昔の内輪咄うちわばなし剔抉すっぱぬいて恩人風を吹かし、人倫とはいい難しとまで京山が罵るのは決して穏やかでない。小身であっても武家奉公をし、医を志した馬琴である。下駄屋の入夫にゅうふを嫌って千蔭ちかげに入門して習字の師匠となった馬琴である。その頃はもう黄表紙きびょうし時代と変って同じ戯作げさくの筆を執っていても自作に漢文の序文を書き漢詩の像讃をした見識であったから、昔を忘れたのは余りめられないが幇間ほうかん芸人に伍する作者の仲間入りをいさぎよしとしなかったのは万更無理はなかった。馬琴に限らず風来ふうらいなぞも戯作に遊んだが作者の仲間附合はしなかったので、多少の見識あるものは当時の作者の仲間入りを欲しなかったのみならず作者からもまた仲間はずれにされたのである。
 だが、馬琴は出身の当初から京伝を敵手と見て競争していたので、群小作者を下目しために見ていても京伝の勝れた作才には一目置いていた。『作者部類』に、あの自尊心の強い馬琴が自ら、「臭草紙くさぞうしは馬琴、京伝に及ばず、読本よみほんは京伝、馬琴に及ばず」と案外公平な評をしているのは馬琴が一歩譲るところがあったからだろう。それと同様、『蜘蛛の糸巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和てんな西鶴さいかくに起り、自笑じしょう其磧きせき宝永正徳ほうえいしょうとくに鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平な説を立ててるのは、京伝・馬琴が両々相対して下らざる互角の雄と見做みなしたのが当時の公論であったのだろう。二人は遠く離れて睨み合っていても天下の英雄は使君と操とのみと互いに相許していたに違いない。が、京伝は文化十三年馬琴に先んじて死し、馬琴はそれ以後『八犬伝』の巻を重ねていよいよ文名を高くし、京伝に及ばずと自ら認めた臭草紙でも『傾城けいせい水滸伝』や『金毘羅船こんぴらぶね』のような名篇を続出して、盛名もはや京伝の論ではなくなっている。馬琴としては区々世評の如きは褒貶ほうへん共に超越して顧みないでも、たとえば北辰ほくしんその所にいて衆星これをめぐるが如くであるべきである。それにもかかわらず、とかくに自己を挙げて京伝をへんする如き口吻こうふんを洩らすは京山のいう如く全くこの人にしてこの病ありで、この一癖が馬琴のかなえの軽重を問わしめる。
 馬琴の人物行状の巨細こさいを知るにはかれの生活記録たる日記がある。この日記はイツ頃から附け初めイツ頃で終わってるか知らぬが、今残ってるのは晩年の分である。あの筆豆から推せば若い時から附けていたに違いないが、先年馬琴の家からひと纏めに某氏の手へ渡った自筆文書の中には若い時の日記はない。この分は今、全部早稲田大学図書館に移管されている。震災に亡びた帝大図書館のは、ドコから買い入れたか出所来歴を知らぬがそれより以前に滝沢家から出たものらしい。マダそのほかにも散逸したものがドコかに残ってると思うが、所在を明らかにしない。帝大のは偶然館外に貸出してあった一冊が震火を免かれて今残っている。この一冊と早大図書館所蔵本とが今残ってる馬琴日記の全部である。この早稲田本を早大に移る以前に抄録解説したのが饗庭篁村あえばこうそん氏の『馬琴日記抄』であって、天保二年の分を全冊転印されたのが和田万吉氏の『馬琴日記』(原本焼失)である。
 饗庭氏の抄録本もしくは和田氏の校訂本によって馬琴の日記を読んだものは、誰でもその記載の事項が細大洩らさず綿密にしたためられたのを驚嘆せずにはいられない。毎日の天候気温、出入客来、他出等、尋常日記に載すべき事項のほかに、祭事、仏事、音物いんぶつ、到来品、買物、近親交友間の消息、来客の用談世間咄、出入商人職人等の近事、奉公人の移り換、給金の前渡しや貸越や、慶庵や請人うけにん不埒ふらち、鼠が天井で騒ぐ困り咄、隣りの猫に※(「肴+殳」、第4水準2-78-4)さかなを取られた不平咄、毎日の出来事を些細の問題まで洗いざらい落なく書き上げておる。殊に原本は十五、六行の蠅頭ようとう細字で認めた一年一冊およそ百余ちょうの半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠らず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。
 更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジクルような小理窟を列べてこだわる気難きむずかし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリしないでネチネチと際限なくごてる。ただ読んでさえしちむずかしいのに弱らせられるんだから、あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチとトロ火で油煎あぶらいりされるように痛めつけられたら精も根もきて節々ふしぶしまでグタグタになってしまうと、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をして、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋からである。馬琴の剛愎高慢は名代なだいのもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立ったものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえってぎょやすいが、些細な問題にいちいち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いびりのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。和田君の校訂本を読んだものは誰も直ぐ気が付くが、馬琴の家の下婢の出代りの頻繁なのは殆んど応接にいとまあらずだ。その度毎に給金の前渡しや貸越が必ず附帯する。それんばかしの金をくれてしまったらと思うが、馬琴は寸毫も仮借しない。いちいち請人を呼びつけて厳重に談じつける。鄙吝ひりんでもあったろうが、鄙吝よりは下女風情に甘くめられてはというむずかし屋の理窟屋の腹の虫が承知しないのだ。一体馬琴の女房のお百というがなかなかの難物らしかったが、その上に主翁の馬琴が偏屈人の小言幸兵衛こごとこうべえと来ては女中の尻の据わらなかったのも無理はない。馬琴の家庭は日記の上では一年中低気圧に脅かされ通しで、春風駘蕩たいとうというような長閑のどかなユックリとした日は一日もなかったようだ。老妻お百と※(「女+息」、第4水準2-5-70)よめのお道との三角葛藤はしばしば問題となるが、馬琴に後暗い弱点がなくとも一家の主人が些細な家事にまでアアしちむずかしい理窟をこねるようでは家がめる。馬琴はただに他人ばかりでなく家族にさえも余り喜ばれなかった苛細冷酷な偏屈者であった。
 一言すれば理窟ばかりで、面白味も温味あたたかみもない冷たい重苦しい感じのする人物だった。世辞も愛嬌もないブッキラ棒な無愛想な男だった。崇拝者も相応に多くて、遥々遠方から会いに来る人もあったが、木で鼻をくくったような態度で面白くもない講釈を聞かされ、まかり間違えば叱言こごとを喰ったり揚足を取られたりするから一度で懲り懲りしてしまう。アレだけ綿密につけた日記に来客と共に愉快そうに談笑した記事が殆んど見えない。家族と一緒に遊びに出掛けたはおろか、在宿して団欒だんらんの歓楽に興じた記事もまた見えない。馬琴は二六時中、操觚そうこに没頭するか読書に耽るかして殆んど机に向かったぎりで家人と世間咄一つせず、叱言をいう時のほかは余り口を利かなかったらしい。
 家人に対してさえこれだからましてや他人に対してお上手をいうような事はなかった。『蜘蛛の糸巻』に、恩人の京伝の葬式には僅かばかりの香料を包んで代理に持たせて自分は顔を出さなかったくせに、自分が書画会をする時には自筆の扇子せんすを持って叩頭おじぎに来たと、馬琴の義理知らずと罵っている。が、葬式の一条はともかく、自分のとくになっても叩頭をする事の大嫌いな馬琴が叩頭に来たというは滅多にない珍らしい事だ。ツマリ世渡り下手へたで少しもお上手を知らなかったので、あながち義理知らずばかりでもなかった。
 ひと口にいうと馬琴は無調法者だった。口前くちさきの上手な事をいうのは出来なかったよりも持前の剛愎が許さなかった。人の感情をこわすナゾは余り問題にしなかったから、人と衝突するのは馬琴の生涯には珍らしくなかった。これにつき京伝と馬琴との性格の差を現わす一例がある。京伝もまた相当な見識を具えてひと癖もふた癖もあったが、根が町家生れで如才なく、馬琴と違っていも甘いも心得た通人だったから人をそらすような事は決してなかった。『優曇華うどんげ物語』の喜多武清きたぶせいの挿画が読者受けがしないで人気が引立たなかった跡を豊国とよくにに頼んで『桜姫全伝』が評判になると、京伝は自分の作が評判されるのは全く挿絵のおかげだと卑下して、絵が主、作が従だと豊国を持上げ、豊国絵、京伝作と巻尾の署名順を顛倒てんとうさした。事実、臭草紙は勿論、読本よみほんにしても挿絵の巧拙善悪が人気に関するが、独立した絵本と違って挿画は本文に従属するのみならず図柄の意匠配置等は通例作者の指揮に待つを常とするから画家は従位にあって主位に居るべきものではない。豊国の似而非えせ高慢が世間の評判を自分の手柄に独占しようとするは無知な画家の増長慢としてありそうな咄だ。が、京伝は画工えかきが威張りたいなら威張らして置いて署名の順位の如きは余り問題にしなかった。
 馬琴はこれに反して画家の我儘を決して許さなかった。馬琴は初め北斎と結託して馬琴の挿画は北斎が描くを例とした。ところが『弓張月』だったか『水滸画伝』だったかの時、無論酒の上の元気か何かであろう、馬琴の本が売れるのは俺の挿画が巧いからだと北斎が傲語した。さア、馬琴が承知しない、俺の本の挿画を描かせるから人からヤレコレいわれるようになったのを忘れたかと、それぎり二人は背中合せとなった。ドッチも鼻梁はなっぱりの強い負け嫌いの天狗同志だから衝突するのは無理はない。京伝だったら北斎に花を持たして奇麗に負けてやったろう。
 が、馬琴には奇麗サッパリと譲ってやる襟度きんどが欠けていた。奉公人にさえ勘弁出来ないで、些細な不行届ふゆきとどきにすら請人を呼び付けてキュウキュウ談じつけなければ腹の虫がなかったのだから、肝癖かんぺきの殿様の御機嫌を取るツモリでいるものでなければ誰とでも衝突した。一つは馬琴の人物が市井しせいの町家の型にはまらず、戯作者仲間の空気とも、容れなかったからであろう。馬琴が蒲生君平がもうくんぺいや渡辺崋山かざんと交際したのはそれほど深い親密な関係ではなかったろうが、町家の作者仲間よりはこういう士人階級の方がかえって意気投合したらしい。が、君平や崋山としばしば音信した一事からして馬琴に勤王の志があったと推断するのは馬琴贔屓が箔をつけようための牽強説である。ツイこの頃も或る雑誌で考証されていたが、こういう臆断は浪花節なにわぶしが好きだから右傾、小劇場の常連だから左傾と臆測するよりももっと早呑み込み過ぎる。

       六 『八犬伝』の人物咏題

 が、馬琴の人物がドウあろうとも作家として日本が産み出した最大者であるは何人も異議を挟むを許されない公論である。『八犬伝』がまた、ただに馬琴の最大作であるのみならず、日本にあっては量においても質においても他に比儔ひちゅうするもののない最大傑作であるは動かすべからざる定説である。京伝・馬琴と便宜上並称するものの実は一列に見難いものである。沙翁シェイクスピアは文人として英国のみならず世界の最大の名で、その作は上下を通じてあまねく読まれ、ハムレットやマクベスの名は沙翁の伝記の一行をだも読まないものにもそらんぜられている。日本で沙翁と推されるのは作物の性質上近松巣林子ちかまつそうりんしであって、近松は実に馬琴とならんで日本の最大者である。が、近松の作の人物があまねく知られているは舞台にのぼせられて知られたので、その作が洽く読まれているからではない。『八犬伝』はこれに反してその作が洽く読まれて誰にも知られているから、浄瑠璃ともなれば芝居ともなったのである。恐らく古今を通じてかくの如く広く読まれ、かくの如く洽く伝唱されてるのは比類なかろう。
 したがって『八犬伝』の人物は全く作者の空想の産物で、歴史上または伝説上の名、あるいは街談口説くぜつ舌頭ぜっとうのぼって伝播された名でないのにかかわらず児童走卒にさえ諳んぜられている。かくの如きは余り多くない例で、八犬士その他の登場人物の名は歴史にあらざる歴史を作って人名字書中の最大の名よりもヨリ以上に何人にも知られておる。橋本蓉塘翁がかつてこの人物を咏題として作った七律二十四篇は、あたかも『八犬伝』の人物解題となっておる。抄して以て名篇を結ぶのシノプシスとする。
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雨窓無聊ぶりよう、たまたま内子ないし『八犬伝』を読むを聞いて戯れに二十首を作る
橋本蓉塘
     金碗孝吉かなまりたかよし
風雲惨澹として旌旗せいきを捲く 仇讎きゆうしゆう勦滅そうめつするは此時に在り 質を二君にゆだと恥づる所 身を故主こしゆうに殉ずるあに悲しむをたん 生前の功は未だ麟閣りんかくのぼらず 死後の名は先づ豹皮ひようひを留む これ子生涯快心の事 を亡ぼすの罪を正して西施せいしを斬る
     玉梓たまづさ
亡国の歌は残つて玉樹空し 美人の罪は麗花と同じ 紅鵑こうけん血はそそ春城しゆんじようの雨 白蝶魂は寒し秋塚しゆうちようの風 死々生々ごう滅し難し 心々念々うらみ何ぞきわまらん 憐れむべし房総佳山水 すべて魔雲障霧の中に落つ
     伏姫ふせひめ
念珠一串いつかん水晶明らか 西天を拝しんで何ぞ限らんの情 只道下佳人かじんひとえに薄しと 寧ろ知らん毒婦恨どくふのうらみ平らぎ難きを 業風ごうふう過ぐるところ花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る 狗子くし何ぞかつて仏性無からん 看経かんきん声裡三生さんせいを証す
     犬塚信乃いぬつかしの
芳流傑閣勢ひ天に連なる 奇禍危きに臨んで淵を測らず ※(「足へん+圭」、第4水準2-89-29)きほ敢て忘れん慈父の訓 飄零ひようれいげて受く美人の憐み 宝刀一口ひとふり良価を求む 貞石三生宿縁を証す 未だ必ずしも世間偉士無からざるも 君が忠孝の双全を得るにつく
     浜路はまじ
一陣の※(「堽のつくり」、第4水準2-84-76)こうふう送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟うんかん影を吹いて緑地にでんす 血雨声無く紅巾にむ 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも 情は深くしてあに意中の人を忘れん 玉蕭ぎよくしよう幸ひに同名字あつて 当年未了の因を補ひ得たり
     犬川荘助いぬかわそうすけ
忠胆義肝匹儔ひつちゆう稀なり 誰か知らん奴隷それ名流なるを 蕩郎とうろう枉げて贈る同心のむすび 嬌客俄に怨首讎えんしゆしゆうとなる 刀下えんを呑んで空しく死を待つ 獄中の計うれいを消すべき無し 法場し諸人の救ひを欠かば いかでか威名八州を振ふを得ん
     沼藺ぬい
残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は※(「くさかんむり/函」、第3水準1-91-2)※(「くさかんむり/啗のつくり」、第4水準2-86-33)きんかんたんを分ち 生前の手は紫鴛鴦しえんおう※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)げつちん秋水珠を留める涙 花は落ちて春山土また香ばし 非命すべからく薄命に非ざるを知るべし 夜台長く有情郎に伴ふ
     犬山道節いぬやまどうせつ
火遁の術は奇にしてあと尋ね※(「匚<口」、第4水準2-3-67)かたし 荒芽山畔まさ※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)しずまんとす 寒光地にほとばしつて刀花乱る 殺気人を吹いて血雨りんたり 予譲よじよう衣を撃つ本意に非ず 伍員ごいん墓をあばあに初心ならん 品川に梟示きようじ竜頭りゆうとうかぶと 想見る当年怨毒の深きを
     曳手ひくて単節ひとよ
荒芽山あらめやま畔路はんろふたまたを成す 馬を駆て帰来かえりきたる日かたぶき易し 虫喞ちゆうしよく凄涼夜月に吟ず 蝶魂冷澹れいたん秋花を抱く 飄零ひようれい暫く寓す神仙の宅 禍乱早くさか夫婿ふせいの家 さいわひに舅姑きゆうこの晩節を存するあり 欣然を守つて生涯を送る
     犬田小文吾いぬたこぶんご
夜深うしてこうを行ふ彼何の情ぞ 黒闇々中刀に声あり 圏套けんとう姦婦の計を逃れ難し 拘囚こうしゆう未だ侠夫の名を損ぜず 対牛たいぎゆう楼上無状をす 司馬しば浜前はままえに不平を洩らす 豈だ路傍狗鼠くそちゆうするのみならん 他年東海長鯨をせい
     船虫ふなむし
閉花羞月好手姿 巧計人をあざむいて人知らず 張婦李妻定所無し 西眠東食是れ生涯 秋霜粛殺す刀三尺 夜月凄涼たり笛一枝 天網と雖ども漏得難もれえかたし 閻王廟裡きんに就く時
     犬坂毛野いぬさかけの
造次ぞうじ何ぞ曾て復讎を忘れん 門によりこびを献ずこれ権謀 風雲帳裡無双の士 歌舞城中第一流 警柝けいたく声は※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)※(「土へん+喋のつくり」、第4水準2-4-94)かんちようの月 残燈影は冷やかなり峭楼しようろうの秋 十年剣を磨す徒爾とじに非ず 血家血髑髏を貫き得たり
     犬飼現八いぬかいげんはち
弓を杖ついて胎内竇たいないくぐりの中を行く 胆略何人なんぴとか能く卿に及ばん 星斗満天しんとして影あり 鬼燐きりん半夜ひらめいて声無し 当時武芸前に敵無し 他日奇談世ことごとく驚く 怪まず千軍皆辟易へきえきするを 山精木魅さんせいぼくみ威名を避く
     犬村大角いぬむらだいかく
猶ほ遊人の話頭を記する有り 庚申山こうしんやまけみす幾春秋 賢妻生きてそそぐ熱心血 名父めいふ死して留む枯髑髏 早く猩奴しようど名姓を冒すを知らば まさに犬子仇讐を拝する無かるべし 宝珠是れ長く埋没すべけん 夜々精光斗牛を射る
     雛衣ひなきぬ
満袖まんしゆう啼痕血痕に和す 冥途敢て忘れん阿郎の恩を 宝刀を掣将とりもつて非命をす 霊珠を弾了して宿冤しゆくえんを報ず 幾幅の羅裙らくんすべて蝶に化す 一牀繍被しゆうひ籠鴛ろうえんしたふ 庚申山下無情の土 佳人未死の魂を埋却す
     犬江親兵衛いぬえしんべえ
多年剣を学んで霊場に在り 怪力真に成る鼎ひしぐべし 鳴鏑めいてき雲を穿つて咆虎たおる 快刀浪をつて毒竜降る 出山しゆつざん赤手強敵をとりこにし 擁節の青年大邦に使ひす 八顆はちかの明珠皆楚宝 就中一顆いつか最も無双
     妙椿みようちん
八百尼公技絶倫 風を呼び雨をぶ幻神の如し 祠辺の老樹精萃せいすいを蔵す 帳裡の名香美人を現ず 古より乱離皆数あり 当年の妖祟ようすい豈因無からん 半世売弄す懐中の宝 霊童に輸与す良玉珠
     里見氏八女
匹配ひつぱい百両王姫を御す このこことつおのおの宜きを得 偕老かいろう他年白髪を期す 同心一夕紅糸を繋ぐ 大家終に団欒の日あり 名士豈遭遇の時無からん 人は周南詩句のうちに在り 夭桃満面好手姿
     丶大ちゆだい
名士こうべめぐらせば即ち神仙 卓は飛ぶ関左跡飄然ひようぜん 鞋花あいか笠雪三千里 雨にもくし風にくしけずる数十年 たとひ妖魔をして障碍を成さしむるも 古仏因縁を証する無かるべけん 明珠八顆すべて収拾す 想ふ汝が心光地によりまろきを
     里見義成さとみよしなり
依然形勝関東を控ふ 剣豪犬士の功に非ざる無し 百里の江山掌握に帰す 八州の草本威風にす 驕将敗を取るは車戦に由る 赤壁名と成すは火攻の為めなり 強隣を圧服する果して何の術ぞ 工夫ただ英雄をみだるに在り

       『八犬伝』を読むの詩 補

     姥雪与四郎おばゆきよしろう音音おとね
乱山いずれの処か残燐をちようす 乞ふ死是れ生真なり※(「匚<口」、第4水準2-3-67)がたし 薄命紅顔の双寡婦 奇縁白髪の両新人 洞房の華燭前夢を温め 仙窟の煙霞老身を寄す 錬汞れんこう服沙一日に非ず 古木再び春に逢ふ無かる可けん
     河鯉権守かわこいごんのかみ
れ遠謀禍殃かおうを招くをいかん 牆辺しようへん耳あり※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)防を欠く 塚中血は化す千年みどりなり 九外屍は留む三日香ばし 此老しろうの忠心※(「白+激のつくり」、第3水準1-88-68)きようじつの如し 阿誰あすい貞節りんとして秋霜 た知る泉下遺憾無きを ※(「木+親」、第4水準2-15-75)ひつぎかつぐの孤児戦場におもむ
     蟇田素藤ひきたもとふじ
南面孤を称す是れ盗魁とうかい 匹として蜃気楼しんきろう堂を吐くが如し 百年の艸木そうぼく腥丘せいきゆうを余す 数里の山河劫灰こうかいに付す 敗卒庭にあつまる真に幻矣 精兵あなを潜る亦奇なる哉 誰か知らん一滴黄金水 翻つて全州に向つて毒を流し来る
     里見義実さとみよしさね
百戦孤城力支へず 飄零いずれの処か生涯を寄せん 連城且擁す三州の地 一旅俄に開く十匹の基ひ 霊鴿れいこう書を伝ふ約あるが如し 神竜海をみだす時無かる可けん 笑ふ他の豎子じゆし貪慾たんよくたくましふするを閉糴へいてき終に良将の資となる

以上二十四首は『蓉塘集』中の絶唱である。漢詩愛誦家の中にはママ諳んずるものもあるが、小説愛好者、殊に馬琴随喜者中に知るものが少ないゆえ抄録して以てこの余談を結ぶ。
(昭和三年四月仏誕会)

底本:「南総里見八犬伝(十)」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「南総里見八犬伝 下」日本名著全集刊行会
   1928(昭和3)年
※旧仮名によると思われる引用文のルビの拗音、促音は、小書きにしませんでした。
入力:しだひろし
校正:川山隆
2009年8月17日作成
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