とんとどうも分らない! 堅気な基督教徒が何かを手に入れようとして、まるで猟犬が兎を追つかけるやうに、あくせくとして骨を折つても、どうしても旨くゆかないやうな場合に、そこへ悪魔めが荷担して、奴がちよつと尻尾を一つ振らうものなら、もうちやんと天からでも降つてわいたやうに、ひよつこり望みの品が現はれてゐるのだ。
一 ハンナ
高らかな歌声が×××村の往還を川水のやうに流れてゐる。それは昼間の仕事と心遣ひに疲れた若者や娘たちが、朗らかな夕べの光りを浴びながら、がやがやと寄りつどつて、あの、いつも哀愁をおびた歌調にめいめいの歓びを唄ひだす時刻であつた。もの思はしげな夕闇は万象を朦朧たる遠景に融かしこんで、夢見るやうに蒼空を抱擁してゐる。もう黄昏なのに歌声はなほ鎮まらうともしない。村長の息子のレヴコーといふ若い哥薩克は、*バンドゥーラを抱へたまま、こつそり、唄ひ仲間から抜けだした。彼の頭には仔羊皮の帽子が載つてゐた。彼は片手で絃を掻き鳴らしながら、それにあはせて足拍子をとつて往還を進んでゆく。やがて、低い桜の木立にかこまれた一軒の茅舎の戸口にそつと立ちどまつた。それはいつたい誰の家だらう? 誰の戸口だらう? ちよつと息を殺してから、彼は絃の音に合はせて唄ひだした。
バンドゥーラ ギターに似た四絃琴で、小露西亜独特の楽器、我国の琵琶のやうに物語の吟詠の伴奏にも用ゐる。
お陽さま落ちて、ばんげになつた、
さあ出ておいで、恋人さん!
さあ出ておいで、恋人さん!
「いや、あの眼もとの涼しいおれの別嬪は、ぐつすり寝こんでゐると見える。」哥薩克は歌をやめると、窓際へ近づいて呟やいた。「ハーリャ、お前ねむつてるのかい、それともおれの傍へ出てくるのが嫌なのかい? おほかたお前は、誰ぞに見つかりはしないかと思ふんだらう、でなきやあ、その白い可愛らしい顔を冷たい夜風にあてるのが嫌なんだらう、きつと。それなら心配おしでないよ、誰もゐやしないし、今夜は暖かだよ。もしか誰ぞが来ても、おれがお前を長上衣にくるんで、おれの帯をまいて、両腕で隠してやるよ。――さうすれあ、誰にも見つかりつこなしさ。もしまた冷たい夜風が吹きつけても、おれがしつかりとお前を胸へ抱きしめて、接吻でぬくめて、白い可愛らしいお前の足にはおれの帽子をかぶせてやるよ。おれの心臓よ、小魚よ、頸飾よ! ちよつとでも顔を出しておくれ。せめてその白い小さい手だけでも、窓からさし出しておくれ……。ううん、お前は寝ちやあゐないんだ、この意地つぱり娘め!」彼は、ちよつとの間でも卑下したことを恥ぢるやうな調子で、声を高めた。「お前はこのおれをからかふのが面白いんだな。ぢやあ、あばよだ!」
彼はくるりと背をむけて、帽子を片さがりに引きおろすと、静かにバンドゥーラの絃を掻きならしながら、つんとして窓をはなれた。その時、戸口の木の把手がことりとつた。ギイつといふ音といつしよに戸があいた。そして、花羞かしい十七娘が微光につつまれて、木の把手をもつたまま、おづおづと後ろを振りかへり振りかへり閾を跨いだ。なかば朧ろな宵闇のなかに、澄みきつた二つの眼が星のやうに媚をたたへて輝やき、赤い珊瑚の頸飾がキラキラと光る。鋭い若者の眼は、面はゆげに少女の頬にのぼつた紅潮を見のがさなかつた。
「まあ、気みぢかな方つたら!」さう、娘はなかば口の中で怨ずるやうに、男に言つた。「もう腹を立ててるんだわ! なんだつてこんな時分にいらつしたの? ときどき、人が多勢で往来をあちこちしてるぢやありませんか……。あたし、からだぢゆうがぶるぶる顫へて……。」
「なあに、顫へるこたあないさ、おれの美しい恋人さん! もつとぴつたりおれにより添ふんだよ!」さう言ひながら若者は、長い革紐で頸に懸けてゐたバンドゥーラを撥ねのけて、女を抱きよせながら、その家の戸口にならんで腰をおろした。「おれは一時間だつてお前を見ないでゐるのが辛いのさ。」
「あたしが今どんなことを思つてるか、知つてて?」娘は物思はしげに男をじつと視つめながら遮ぎつた。「なんだかあたし、このさきふたりはこれまでのやうにちよいちよい逢はれなくなりさうな気がしてしやうがないの。こちらの人たちはみんな意地悪ねえ。女の子たちはあんな妬ましさうな目つきで眺めるし、若い衆たちは若い衆たちで……。そればかりか、この頃では、お母さんまであたしにきつう眼を見張るやうになつたんだもの。ほんとのことを言へば、あたし異郷にゐた時の方がよつぽど楽しかつたと思ふわ。」
この最後の言葉をいひきつた時、娘の顔には一種哀愁の影が浮かんだ。
「生れ故郷へ帰つて来て、やつと二た月やそこいらで、もう、退屈するなんて! おほかた、このおれにも倦きが来たんだらう?」
「まあ、あなたに倦きが来るなんて、そんなことないわ。」娘は微笑んで言つた。「あたし、あなたがとても好きなのよ。いなせな黒眉の哥薩克さん! あなたの、その鳶いろの眼が、あたし大好きなの。その眼であなたに見られると、ほんとに魂の底からにつこりさせられるやうに思へて、ぞくぞくするほど好い気持ちなの。それからあなたの、その黒い口髭の動く具合が、とても可愛いわ。あなたがおもてを歩いたり、歌を唄つたり、バンドゥーラを弾いたりするのを聴いてるのが、ほんとにあたし好きなのよ。」
「ああ、おれのハーリャ!」さう叫びざま、若者は娘を接吻して、一層ひしと自分の胸へ抱きすくめた。
「まあ、待つてよ! ちよいと、レヴコー! それよりか、あなた、あの、お父さんにお話しなすつて?」
「何をさ?」と、夢からでも醒めたやうに男は言つた。「ああ、おれがお前と結婚したいと思つて、お前もそれに賛成してるつてことかい? ああ話したよ。」だが、この話したよといふ一語は、彼の唇のうへで妙に憂鬱な響きを立てた。
「それで、どうでしたの?」
「親爺なんか、てんでお話にならんよ。あのおいぼれつたら、いつもの伝で、聞いて聞かぬ振りをしてるのさ。何を言つても取りあげないばかりか、あべこべに、おれが碌でもないところをほつつきまはつたり、仲間と往来で無茶な真似ばかりしてると言つて、さんざ毒づくのさ。だが何も心配することあねえよ、ハーリャ! おれは哥薩克魂に誓つて、きつと親爺を説き伏せて見せるから。」
「ええ、さうよ、レヴコー、あなたがさう仰つしやりさへすれば、屹度あなたの言葉どほりになるんですもの。あたし自分の身に覚えがあつて、よく分るの。ひよつとしたらあなたの言ひなりにはなるまいと思つたりするやうな時でも、あなたの言葉をきくと、ついうかうかとあなたの言ひなりになつてしまふんですもの。まあ、ちよいと!」女は男の肩に顔を凭せかけたまま、二人の前の桜の樹のいりくんだ枝に、ちやうど下から網を張つたやうに蔽はれた、暖かいウクライナの空の、果しなく青ずむ方へ眼をあげながらつづけた。「御覧なさいつたら、そうらね、遠くの方でお星さまがキラキラしばたたいてゐるでしよ、ひい、ふう、みい、よう、いつ……。あれはほんとに神様の天使たちが、天にあるめいめいの光りのお家の窓をあけては、あたしたちを見おろしてゐるんでしよ? さうでせう、レヴコー? あれは、このあたしたちの地上をお星さまが見護つてゐらつしやるんでしよ? もし、人間にも鳥のやうに翼が生えてゐたら、どうでせうねえ――あすこまで、高あく高くとんで行かれたら……。怖いわねえ! この辺には一本だつて天までとどくやうな樫の樹はないのね。だけれど、どこかしら遠い遠いお国に、梢が天国までもとどいて、ゆらゆら揺れてゐる樹が一本あるつてことよ。さうして復活祭の前の晩になると、神様がその樹をつたつて地上へ降りていらつしやるんだつて。」
「さうぢやあないよ、ハーリャ、神様のとこには天からこの下界までもとどく長い長い梯子があるのさ。それを復活祭の前になると、けだかい大天使たちがちやんと掛けるのさ、そして神様が一番うへの梯子段に足をおかけになるといつしよに、悪霊どもは残らず真逆さまに転げ落ちて、ひと塊まりになつて焦熱地獄へおちこんでしまふのさ。だから復活祭には、一匹だつて悪魔はこの地上にゐないつていふ訳なのさ。」
「まあ、なんて静かに水が揺れてること! まるで子供の揺籠みたいだわ!」さう言ひながらハンナは、暗い楓の茂みと、傷ましげな枝々を水に浸して哀哭してゐるやうな柳の木立にとりかこまれた、陰気な池の面を指さした。恰かも力萎えた老翁のやうに、その池は己が冷たい懐ろに遠く暗い大空を抱擁して、燦爛たる星々に氷のやうな接吻をそそいでゐる。星々は輝やかしい夜の帝の間もなき台臨をはやくも予覚するもののやうに、暖かい夜の大気のなかで仄かに揺曳する。森のかたへの丘のうへには、一棟の古い木造りの館が、鎧扉を閉したまままどろんでゐる。苔や雑草がその屋根を蔽ひ、窓さきには林檎の樹々が枝をひろげて生ひ茂り、森はその館を蔭につつんで不気味な凄みをそへ、榛の茂みが家の土台ぎはから生ひはびこつて、池の汀へとすべり下りてゐる。
「あたし、まるで夢みたいに憶えてゐるのよ。」と、ハンナはその館にじつと眸を凝らしながら言つた。「もう、ずつとずつと以前、まだあたしが小さくて、お母さんのそばにゐた頃に、あのお家のことで、なんか、それはそれは怖い物語を聞いたことがあつてよ。レヴコー、あなたは屹度そのお話ご存じでしよ。ね、話して頂戴な!」
「そんな話なんか、どうだつていいぢやないか、おれの別嬪さん! 女房連や馬鹿な手合は何を言ふやら分つたものぢやないよ。胸騒ぎがして、怖気づいて、夜もおちおち眠られなくなるのがおちだよ。」
「話してよ、話してよ、ね、可愛い、いなせな黒眉のお兄さんつてば!」彼女はさう言ひながら自分の顔を相手の頬におしつけて、男を抱きしめた。「ぢやあ、きつと、あんたはあたしを好いてゐないんだわ、あんたには屹度ほかに好い娘があるんだわ。ね、あたし怖がりなんかしなくつてよ。夜もとつくり眠るわ。もし話して下さらなければ、それこそ眠られやしないわ。気になつて気になつて、考へこんぢやふから……。ね、話してよ、レヴコー!……」
「なるほど、娘つこには好奇心をそそのかす鬼がついてるつてえのは、ほんとだ。お聴きよ、ぢやあ――それはずつと昔のことなんだよ。ね、あの館にはさる*百人長が住んでゐたのさ。その百人長には一人の娘があつたんだよ。綺麗な令嬢で、ちやうどお前の顔みたいに、雪のやうな肌の娘だつたのさ。百人長はもうずつと前に奥さんを亡くしてゐたので、新らしく後妻をむかへることにしたのさ。『お父さまは二度目のお嫁さんをお貰ひになつても、今までのやうにあたしを可愛がつて下さるの?』――『ああ可愛がらいでか、嬢や、これまでよりか、もつともつと強くお前を抱きしめてやるよ! 可愛がらいでか、嬢や、もつともつと綺麗な耳環や、頸飾を買つてやるよ!』
百人長 カザックの百人隊の長官で、ほぼ中隊長に相当する。
で、百人長は若い後妻を新らしい住居へ迎へたのさ。その新妻は美人だつた。白い生地へ紅を溶かしこんだやうな瑞々しい女だつた。だが、その女が義理の娘をきつと睨んだまなざしは、娘が思はずあつと叫び声をあげたくらゐ怖ろしかつたのさ。そしてまる一日ぢゆうこの邪慳な継母は一と言も娘に口をきかなかつた。夜になると、百人長は若い妻をつれて自分たちの寝間へ入つてしまつた。色の白い令嬢も自分の居間へ閉ぢこもつた。彼女は悲しくなつて、さめざめと涕きだした。ところが、ふと気がつくと物凄い黒猫が一匹、いつの間にか彼女の身辺へ忍び寄らうとしてゐるのさ。その毛は火のやうに光り、鉄のやうな爪で床を掻く音がバリバリと聞える。ぎよつと胆をつぶした娘は、咄嗟に腰掛の上へ飛びあがつた――すると猫もその後を追つて来る。娘は寝棚の上へ飛びあがつた――と、猫もそこへ飛びあがつて、いきなり、娘の頸へ掴みかかつて咽喉を絞めようとする。娘は悲鳴をあげながら、猫をもぎはなしざま、床へ投げつけた。だが又しても、この物凄い猫は立ちむかつて来る。娘は無性に口惜しくなつた。壁に父親の長劒が懸つてゐた。それをおつとりざま床をめがけて擲げおろした――と、鉄の爪をもつた前足を片方斬りおとされた猫は、ぎやつと叫ぶなり、部屋の隅の闇がりのなかへ姿を掻き消してしまつた。その翌る日、一日ぢゆう若い奥方は自分の居間から出て来なかつた。三日めに姿を見せた彼女の片手には繃帯が巻かれてゐた。可哀さうな令嬢は自分の継母が妖女であつたことと、自分がその片手を斬りおとしたことをさとつた。四日めから百人長の娘は、卑しい百姓娘と同じやうに、水汲みやら家のはき掃除に追ひ使はれて、奥へはもう一歩も足踏みをさせられなかつた。可哀さうに、娘にはそれが何より辛かつたけれど、どうすることも出来なかつた。彼女は父のいひなりになつてゐた。五日めになると百人長は、途中の用意に麺麭ひとかけ与へないで、裸足のままの娘を家から追ひ出してしまつた。その時、令嬢は白い顔を両手でおさへながら、恨めしさうにかう言つて泣くよりほかはなかつた。『お父さま、あなたはこの生みの娘を台なしにしておしまひになりました! あの妖女があなたの罪ぶかい魂を滅ぼしてしまつたのです! どうか神様があなたをお赦しになりますやうに、でも薄倖なあたしは、もうこの世に永らへることができません……。』――そこで、ほら、あすこに見えるだらう?……」さう言つて、レヴコーは館の方を指さしながら、ハンナを振りかへつた。「こつちの方を見て御覧よ、ほら、あの家から少しはなれた、一番小高い岸だよ! あの岸から、その令嬢は水のなかへ身投げをしたのだよ。そして、それつきりこの世へは戻つて来なかつたのさ……。」「で、その妖女は?」と、涙のいつぱいにたまつた眼をじつと男にそそぎながら、おづおづとハンナが遮ぎつた。
「妖女かい? 婆さん連の想像では、その時からこつち、月夜の晩には、これまでにこの池へ身投げをした水死女たちが、みんな揃つてあの邸の庭へあがつて、月の光りで日向ぼつこをするんださうだが、百人長の娘はそのかしらに立てられてるつてことだよ。なんでも、或る晩のこと、ふと、池のほとりにゐる継母を見つけると、彼女は不意に躍りかかつて、喚き声もろとも水のなかへ曳きずりこんでしまつたとさ。ところが、妖女はさすがに尻尾をみせないや。彼女は水底で水死女のひとりに化けてしまつたのだ。さうして、水死女たちが彼女を打ちのめさうと身構へてゐた若蘆の笞をまんまとのがれたといふのさ。女房連のいふことを真にうけての話だよ! まだこんなことも言つてるのさ――令嬢は来る夜も来る夜も水死女たちをひとところへ集めて、そのうちどれが妖女なのかを見わけようものと焦つて、ひとりひとりの顔をしげしげと覗きこむのだが、今だにそれが分らないつてことだ。それで、だれかれなしに人の顔さへ見ればきまつて、それを見わけてくれればよし、さもなければ水の中へ曳きずりこむからと言つて嚇すのださうだよ。老人たちが語りつたへてゐる話といふのは、ざつとこのとほりだよ、ハーリャ!……今あすこを持つてゐる旦那は、あの敷地へ酒倉を建てようともくろんで、わざわざそのために酒男がこちらへ来てゐるんだ……。おや、話声がして来たよ。みんなが歌をおしまひにして帰つて来たんだな。では、さやうなら、ハーリャ! 静かにお寝み、そして、あんな女房連の作りばなしなんか気に懸けるんぢやないよ。」
さう言ふと彼は、娘をしかと抱きしめて、接吻をしておいて立ち去つた。
「さやうなら、レヴコー!」ハンナは、もの思はしげに暗い森の方を見つめながら言つた。
大きい、火のやうな月が、この時、おごそかに地平線のうしろから顔をのぞけた。まだ、した半分は地平にかくれてゐるが、もう下界は隈なく、一種荘厳な光輝に満たされた。池の水の面はキラキラと揺めいた。木立の影が小暗い青草のうへにくつきりと描きだされた。
「おやすみ、ハンナ!」さういふ声がうしろで聞えると同時に、彼女は接吻されてゐた。
「あら、また戻つていらして?」さう言つて彼女は振りかへつたが、見も知らぬ若者を眼の前に見ると、咄嗟に脇へ身をかはした。
「おやすみ、ハンナ!」またしてもさういふ声がして、再び彼女の頬を誰かが接吻した。
「まあ嫌だ、こつちにもゐたわ!」と、彼女は腹立しげに叫んだ。
「おやすみ、可愛らしいハンナ!」
「あら、まあだゐるんだわ!」
「おやすみ! おやすみ! おやすみ、ハンナ!」さういふ声といつしよに、四方八方から接吻の雨が彼女のうへに降りそそがれた。
「まあ、ほんとに、この人たちつたら、一聯隊もゐるんだわ!」彼女は、我れ勝ちに自分のからだへ抱きつかうとする若者たちの群れから身をすりぬけながら、叫んだ。「なんて性こりもなく接吻ばかりする人たちだらう! ほんとに、うつかり往来へも出られやしないわ!」
さういふ言葉についで扉はぴつたり閉され、ギーつといふ音がして、鉄の閂が挿されたらしかつた。
二 村長
諸君は、ウクライナの夜を知つておいでだらうか? いやいや、ウクライナの夜は御存じあるまい! まあ、一度は見ておいて頂きたい。日は中天にかかり、宏大無辺の穹窿はいやがうへにも果しなく押しひろがつて、輝やき、息づいてゐる。下界は隈なく銀の光にあふれ、妙なる空気は爽やかにも息苦しく、甘い気懈さを孕んで、薫香の大海をゆすぶつてゐる。神々しい夜だ! 蠱惑的な夜だ! 闇にとざされた森は霊化したもののやうにさゆらぎもせず、厖大な陰影を投げてゐる。また、かの池や沼はおだやかに鎮まりかへり、その水面の闇と冷気は暗緑の園に邪慳らしく閉ぢこめられてゐる。野桜と桜桃の樹のおぼこらしい叢林は、その根をおづおづと冷たい泉のなかへ伸ばしてゐるが、時々葉ずれの音を立ててざわめくのは、夜風といふ浮気ものがちよいちよい忍び寄つては接吻するのに、腹を立ててゐるのでもあらうか。見わたすかぎり地上の風景はまどろんでゐる。けれど天空は息づいてをり、万象が奇しくも、荘厳である。そして人間の魂の奥底にも銀いろの幻像が際限もなく、いみじき諧調をなして群がりおこる。神々しい夜だ! 蠱惑的な夜だ! と、不意に、あらゆる森羅万象が活気づく――森も、池も、曠野も。荘重なウクライナの小夜鳴鳥の啼き声が降るやうにわきおこつて、月も天心からそれに耳傾けるかと思はれるばかり……。村は魔術にでもかかつたやうに高台のうへにまどろんでゐる。民家の群れは月光を浴びて、いやがうへにも白々と輝やき、低い壁が闇のなかに一際くつきりと浮かび出る。歌声も杜絶え、すべてが寂とした静謐にかへる。信心ぶかい人々はもうとうに寐ついてゐる。ただ此処彼処の狭い窓に灯影がさしてゐるばかり。二三の茅屋では、時刻に遅れた家の者が入口の閾のきはで晩い夕餉をしたためてゐる。
「いんにや、ゴパックはあんな風にやあ、踊らねえだ! ちやんと、覚えといて貰ひてえだよ、ほんとに、てんでなつちやゐねえや。あの親爺め、何を言つてやがるんだか?……ええか、かうだよ、ゴップ、タララ! ゴップ、タララ! ゴップ、ゴップ、ゴップ!」かう、酔つぱらつた中年の百姓が往来で踊りながら、ひとりごとを言つてゐる。「どうしてどうして、ゴパックはあんな風にやあ踊らねえだ! なんで嘘をいふもんか? いんにや、さうぢやあねえだ! そうらかうだよ、ゴップ、タララ! ゴップ、タララ! ゴップ、ゴップ、ゴップ!」
「おやおや、この人は気でも狂つただかね! 若い衆でもあることか、好い齢をからげて、往来で夜よなか踊りををどつてるなんて、子供たちの好い笑ひ草だよ!」かう、藁をかかへた、行きずりの老婆が、おつたまげて声をかけた。「自分のうちい戻りな! もうとつくに寝る時分だによう!」
「戻るつてことよ、おらあ!」と、百姓はたちどまつて答へた。「戻るつたらさ。なんの、どんな村長野郎だつて、おいらの目にやあねえだぞ。なんでえ、あの下種野郎めが、寒中に、人のど頭から冷水をぶつかけるのを村長の役柄だと思つて、鼻を高くしてけつかるだ! へん、村長々々と威張りやあがつて。おらはおらの村長だい。そうら、神様の罰があたるもんならあたるがええだ! おらはおれ様の村長だい! さうだとも、でなかつたら……」と、その男は罵りつづけながら、行きあたりばつたりの一軒の家に近づいて、その窓の前に立ちどまると、木の把手でも捜すやうに窓硝子を指で撫でまはしはじめた。「こうら、おつかあ! はやく開けねえかつ! おつかあつたら! 哥薩克にやあ、もう寝る時分だぞ!」
「まあ、カレーニクさん、あんたどこの家へ入らうつてえの? あんたは、よその家へ戸迷ひしてるのよ。」かう、陽気な唄うたひを終つて帰りがけの娘たちが、笑ひながら、彼の後ろから喚きたてた。「あんたの家、をしへてあげようか?」
「うん、教へてくんろよ、親切な姐さんたち!」
「まあ、親切な姐さんたちだつて? ねえ、みんな聞いて?」さう、そのなかの一人が言葉尻を捉へた。「なんてカレーニクさんのお世辞のいいこと! これぢやあ、家を教へてあげない訳にはいかないわね……でも駄目よ、その前に一ぺん踊んなさいな。」
「踊れ?……ちえつ、なかなか隅におけねえあまつ子たちだ!」かう、間伸びのした口をききながら、カレーニクはにやにやして、指をあげて嚇したが、足はひとところにじつとしてゐないで、あちらこちらへふらふらとよろめいた。「それぢやあ接吻させるけえ? お前らみんな接吻てやらあ!……」さう言つて、よろよろした足どりで娘たちの後ろを追つかけはじめた。娘たちは金切り声をあげて跳びすさつたが、カレーニクの足どりのあまり疾くないのを見てとると、勇気を盛りかへして、往還を横ぎつて向ふ側へ渡つた。
「ほら、あれがあんたのおうちよ!」娘たちは遠ざかりながら、ほかの家とは図抜けて大きい村長の住居を指さして叫んだ。カレーニクは又もや村長の悪口をほざきながら、すなほにその方角へ、よろよろとして歩き出した。
ところで、かうした、甚だもつて香ばしからぬ蔭口を叩かれてゐる村長とは、いつたい何者だらう? いや、実にこの村長こそ、村の大立物なのだ! カレーニクが目ざすその家へ行きつくまでにわれわれは間違ひなくこの人物について若干の説明をすることが出来ようと思ふ。村民は誰れ彼れなしに村長の姿を見ると遠くから帽子をとるし、ほんのおぼこの娘つ子でも、こんにちはと挨拶をする。若者として、誰ひとりかうした村長になりたがらない者はなからうといふものだ。誰の嗅煙草入にしろ、村長に対しては御意のままに開放されて、どんな頑丈な百姓でも自分の綰物の嗅煙草入へ、村長が太い無骨な指を突つこんでゐるあひだは、帽子をとつたまま恭々しくさし控へてゐなければならないといふ始末。また村の寄りあひ、即ち村会においては、村長の投票数にも一定の限度があつたにも拘らず、いつも最高点で勝利を占め、まるで気随気儘に自分に都合のいい者を使つて、路ならしや溝掘りをさせるのであつた。村長はひどく気むづかしやで苦虫を噛みつぶしたやうな顔をしてゐて、あまり口数をきくのを好かなかつた。もう、よほど以前のことであるが、故エカテリーナ女帝陛下がクリミヤへ行幸になつたをり、彼は供奉の一員に選ばれて、二日間その大命を拝し、あまつさへ帝室馬車の馭者台に馭者と並んで同乗する光栄を担つたことがあつた。その時以来、この村長は一層こざかしく勿体さうに首を前屈みにして、長く下へ垂れさがつてねぢれた泥鰌髭を撫でながら、鷹のやうな眼つきで額越しにあたりを見ることを覚えこんだ。またその時以来、人がどんな話をしかけても必らず、自分が女帝陛下に扈従して帝室馬車の馭者台に席を占めた時のことに話頭を持つてゆくことを忘れなかつた。村長はどうかすると聞えぬ振りをすることが好きで、殊に自分が耳を貸したくないやうな話の出た時にさうなのである。村長はしやれた服装には我慢のならない方で、いつも黒い自家織の羅紗で仕立てた長上衣をまとひ、色染めの毛織の帯をしめてゐるが、女帝のクリミヤへ行幸の砌りに青い哥薩克外套を著た以外には、つひぞ彼がほかの服装をしたところを見た者がない。しかし、そんな頃のことを覚えてゐる者は、もう村ぢゆうに一人もないのだけれど、その哥薩克外套はちやんと長持の中へしまつて錠がおろしてあるのだ。村長は鰥だが、家には亡妻の妹が同居してゐて、朝夕の煮焚きをしたり、腰掛を洗つたり、家を白く塗つたり、彼の肌着にする糸を紡いだりして、家事のすべてを取りしまつてゐる。村ではこの女がそんな身寄の者ではないやうに言つてゐるが、何しろ村長のことといへば、あらゆる誹謗の種にしたがる悪口屋の多いことだから、なんとも予断の限りではない。だが、さうはいふものの、これにもいくらか理由がないでもない、といふのは、村長が草刈女の集まつた野原へ出かけたり、若い娘のある哥薩克の家へ行つたりすると、いつも義妹だといふくだんの女の機嫌が甚だ宜しくないからだ。村長は片目ではあるが、その代り彼の一粒きりの眼が曲者で、器量のいい百姓女なら、どんな遠くからでも見つけてしまふ。それでも、義妹だといふ触れこみの女が、どこぞから覗いてをりはせぬかと、よくよく見きはめてからでないと、決してその独眼を美しい女の顔へは向けない。それはさて、われわれはこの村長について必要なことは残らず物語つたつもりだが、酔つぱらひのカレーニクはまだ道程の半ばにも達しないで、なほもその呂律のまはらぬ、だらしのない舌でしか口にのぼすことの出来ないやうな択りぬきの悪態で、くどくどと村長を罵りつづけてゐる。
三 思ひもかけぬ敵手 策謀
「ううん、嫌だよ、おらあ嫌だ! 君たちももうそんな馬鹿騒ぎはいい加減にきりあげたらどうだい? よくもそんな無茶なことに厭きないんだなあ! でなくつたつて、おれたちはいい加減しやうのないやくざ者に見られてるんぢやないか。もう温なしく寝た方がいいよ!」かうレヴコーは、自分を何か新らしい悪戯にさそふがむしやら仲間に向つて答へた。「さやうなら、みんな! お寝み!」そして足ばやに仲間からはなれて、往来をすたすたと歩き出した。
あの眼もとの涼しいおれのハンナは、もう寐てゐるかしら?さう思ひながら、彼は、われわれにはすでに馴染の、くだんの桜の木立にかこまれた茅屋へと近づいた。と、ひつそりとした中に低い話声が聞える。レヴコーは立ちどまつた。木の間がくれにルバーシュカが仄白く見えてゐる……。いつたい、どうしたつていふのだらう?さう思ひながら、もう少し近く忍び寄ると彼は一本の樹の後ろへ身をかくした。まともに月光を浴びてこちらを向いてゐる少女の顔が輝やいて見える……。それはハンナだ! が、彼の方へ背中をむけて立つてゐる、あの背の高い男は何者だらう? 彼はじつと眼を見はつて、ためつすがめつしたが、駄目だつた。その男は頭から足の先まで蔭影にかざされてゐるのだ。ただほんのりと前から光りをうけてはゐるが、レヴコーがちよつとでも前へ出ようものなら、いやでも自分の躯を明るみへ曝さなければならぬ。彼はそつと樹によりかかつたまま、その場に立ちつくさうと肚をきめた。と、少女の口から明らかに自分の名がもらされた。
「なに、レヴコー? レヴコーなんざ、まだ青二才だあな!」と、嗄がれた低い声で、その背高の男が言つた。「もしも、おれとお主の前で、彼奴に出つくはすやうなことがあつたら、彼奴の前髪を掴んで引きむしつてくれるわい。」
おれの前髪をひきむしるなんて、口はばつたいことをほざきをるなあ、いつたいどんな野郎だか、ひとめ見てやりたいものだ!さう口の中で呟やきながら、レヴコーは一語も聴きもらすまいと一心になつて頸を伸ばした。しかし、その見知らぬ男は極めて低い小声で話しつづけてゐたので、何ひとつはつきり聴き取ることが出来なかつた。
「まあ、あんた、よくも愧かしくないのねえ!」と、その男の言葉の終るのを待つて、ハンナが言つた。「うそ仰つしやい。あんたはあたしを欺かしてらつしやるんだわ。あんたがあたしを愛してなどいらつしやるもんですか。あたし、あんたに想はれてゐようなんて、夢にも思はなくつてよ!」
「分つとる。」と、背の高い男が言葉をついだ。「レヴコーの奴がいろいろと碌でもないことをお主に吹つこんで、お主の心を迷はせをつたのだらう。(茲でその見知らぬ男の声に若者はどこか聞き覚えがあるやうに思つた。)ようし、あのレヴコーめに、きつと思ひ知らせてやるぞ!」かう、やはり同じやうな調子で見知らぬ男はつづけた。「彼奴は、おれが彼奴のいたづらを、なんにも知らんと思つてうせるのだ。あの碌でなしめが、今におれの拳固の堅さを味はつて見くさるがいい!」
かうまで言はれては、レヴコーも最早このうへ憤りを抑へてゐることが出来なかつた。二た足三足その男の方へにじりよるなり、渾身の力をこめて、そいつの横つ面に一撃を加へようとして拳しを振りあげた。その拳しにかかつては、如何に頑丈さうに見えてもその見知らぬ男は恐らくひとたまりもなく、立ちどころに打ちのめされたことだらう。ところが、ちやうどその時、月光がさつとこの男の顔を照らした。と、レヴコーはその場に棒立ちに立ちすくんでしまつた――眼の前に立つてゐるのは自分の父親ではないか。思はずかぶりを振つて、喰ひしばつた歯の隙間から微かに呻き声をもらしたのを見ただけでも、その驚愕のほどが察しられた。その時、一方ではさらさらといふ衣ずれの音がして、ハンナが急いで家の中へ身をひるがへすと、ぱたんと扉を閉めてしまつた。
「さやうなら、ハンナ!」この時ひとりの若者が忍び寄りざま、さう叫んで村長に抱きついたが――こはい口髭にぶつかると、胆をひやして後ろへ飛びすさつた。
「さやうなら、別嬪さん!」と、別の一人が叫んだ。しかし今度は村長の手ごはい肘鉄砲を喰らつて、どんでんがへしに、その場へ投げ出された。
「さやうなら、お寐み、ハンナ!」さう、口々に叫びながら、幾人もの若者が村長の頸つたまにぶらさがつた。
「退きやあがれ、この忌々しいきちがひどもめ!」と、村長は体を振りほどきざま、若者たちに足蹴を喰らはせながら怒鳴つた。「このおれが、汝たちにやあ、ハンナに見えるのかつ! この悪魔の忰どもめが、親爺の跡を追つて絞首台へあがる支度でもさらすがええ! 蜜にたかる蠅かなんぞのやうに、うじやうじやと喰らひつきやあがつて! ハンナなんぞ、幾人でも呉れてやるわい!……」
「村長だ! 村長だ! こいつあ村長だぞ!」さう叫び出すなり、若者たちは四方八方へ逃げ散つた。
飛んでもない親爺だ!やつと驚愕から我れに返つたレヴコーは、悪態をつきつき立ち去つてゆく村長の後ろ姿を見送りながら、かう呟やいた。なんといふ巫山戯た真似をする親爺だらう! まつたく呆れたもんだ! なるほど、さういへば、あのことを持ち出すたんびに、奴さんが聞いて聞かぬ振りをするのが、どうも変だと思つたて。ようし、待つてろよ、老いぼれめ、今に若い娘つ子の家の窓下へはどんな風にして忍びこむものか、このおれが教へてやらあ、どんな風にして他人のいろごとの邪魔をするものかつてこともさ!――「おうい、みんなこつちへ来い、こつちへ!」と、またもやひとつところへ寄りかたまつた若者たちにむかつて手を振りながら彼は叫んだ。「さあ、ここへ来いよ! おらあ先刻は君たちに帰つて寝ろなんつて言つたつけが、また思ひ直したから、夜つぴてだつて君たちと騒ぎまはるぜ。」
「そいつあ素敵だぞ!」と、村一番の惰け者で札つきの不良として知られた、肩幅の広い、ずんぐりした若者が答へた。「おらあ何時でも思ひきり騒いだり悪戯の出来なかつた時にやあ、なんだか胸がつかへたやうで気持が悪いんだよ。まるで、帽子か煙管でもおつことしたやうな、いやに間の抜けた気持なのさ。つまり哥薩克でねえやうな気がするつて訳さ。」
「どうだい、今夜はひとつ、あの村長をうまく取つちめてやらうと思ふんだが?」
「村長を?」
「うん、村長をさ。まつたく奴あ、なんと思つてやあがるんだらう? まるで総帥かなんぞのやうにおれたちを顎で指図しやあがる。奴隷のやうにこきつかふのはまだしも、おいらの娘つ子を口説きやあがるでねえか。恐らく村ぢゆうに、渋皮の剥けた娘つ子で、あの村長に尻を追つかけまはされねえのは、一人もあるめえぜ。」
「それあ、まつたくだよ、まつたくだよ!」と若者たちは異口同音に喚きだした。
「なあ兄弟、おれたちは何も奴隷ぢやあるまい? 村長とおんなじ生れぢやあねえか? おいらたちは、これでも有難えことに自由の哥薩克だぜ! なあ兄弟、おれたちが自由の哥薩克だつてえ意気を奴に見せてやらうぢやねえか!」
「見せてやらうとも!」と、若者たちは叫んだ。「ところで村長といへば、あの助役も見逃しにやあ、出来ねえぜ!」
「助役だつて見逃すこつちやねえさ! そこで、おれの頭んなかにあ、村長をからかつた素敵な唄が、ちやんとお誂らへむきに出来あがつてるんだ。さあ行かう、そいつをみんなに教へてやるよ。」かう、レヴコーはバンドゥーラの絃を手で掻き鳴らしながらつづけた。「それからなあみんな、めいめい思ひ思ひに変装をして呉んねえか!」
「さあさ、哥薩克、浮かれよ騒げよだ!」と、例のずんぐりしたおつちよこちよいが、足拍子を取つて手を拍ちながら言つた。「なんて豪気だ! なんて自由だ! 乱痴気さわぎが始まるてえと、遠い昔に返つたやうだぞ。胸がせいせいして、気持がよくつて、心はまるで天国にゐるやうだ。そうら、みんな、浮かれた浮かれた!」
かうして若者たちの一団は騒々しく往還を突進して行つた。その喚き声に夢を醒された信心ぶかい老婆たちは、小窓の戸をあげて、眠さうな手つきで十字を切りながら、『また、若い衆たちが巫山戯まはつてゐるさうな!』と呟やくのだつた。
四 若者たちの騒擾
往還のはづれにただ一軒きり、まだ灯影のさしてゐる家があつた。それが、村長の住ひである。村長はもうとつくに夕餉をすましてゐたから、平素ならてつきり遠の昔に寝こんでゐる時分であつたが、ちやうど今、自由哥薩克のあひだに手頃な地所をもつてゐる地主が酒蒸溜場を建てるためによこしてゐる蒸溜人が彼のところへお客に来てゐたのだ。客は聖像したの上座に坐つてゐた――それは肥つた背の低い男で、燃えきつて灰になつた煙草がぼろぼろ転げ出るのを指でおさへおさへ、ひつきりなしに唾を吐きちらしながら、短かい煙管をスパスパ吸ふのが、いかにも満足らしく、絶えず眼をにこにこさせてゐる。雲のやうな煙が忽ち彼の頭のうへにひろがつて、鳩羽いろの靄が彼をつつんでしまつた。その様子が、どこかの酒蒸溜場の大煙突が屋根のうへにのつかつてゐるのに退屈して、のこのこと村長の家へやつて来て、卓子のまへに容態ぶつて坐りこんだといつた恰好である。その鼻の下に濃い短かい髭がツクツクと突き出てゐるのが、煙草の煙をとほして朦朧と見え隠れするので、この蒸溜人は納屋の猫の縄張りを侵して、鼠をとつて口に銜へてゐるのではないかとも思はれる。村長は主人らしく、ルバーシュカひとつにリンネルの寛袴といつた服装で座についてゐる。彼の鷲のやうな独眼は、ちやうど春づきかかつた夕陽のやうに、だんだん細くなつて視覚がぼやけはじめる。卓子のはじには村長の与党の一人である村役人が、主人に対する敬意から長上衣を一著に及んで、煙管をスパスパやつてゐる。
「もう直きのおつもりですかい?」と、村長は蒸溜人の方へ向き直つて、欠伸の出かかる口へ急いで呪禁の十字を切りながら言つた。「その酒蒸溜場を開きなさるのは?」
「都合さへよければ、この秋ごろから醸造りはじめられるだらうと思ひますんで。聖母祭にやあ、村長殿が千鳥足でもつて往来に独逸風の輪麺麭の形を描かれることは、まづ賭をしてもようがすて。」
かう言つた時、蒸溜人の両眼は影をひそめて、その代りに真一文字に左の耳から右の耳まで一筋の横皺が寄り、その胴体は笑ひにゆすぶられて、一瞬のあひだ、彼は煙のたちのぼる煙管を、その愉快さうな唇から離した。
「どうか、さうあらせたいものぢやて。」と村長が、微笑に似たやうな表情を顔に浮かべながら言つた。「それでも、この節ぢやあ、好い塩梅に、少しは造り酒屋も出来たにやあ出来ただが。むかし、わしが女帝陛下の供奉をしてペレヤスラーヴリ街道を通つた時分にやあ、あの、死んだベスボローディコがまだ……」
「なるほど、さういへば想ひ出しますわい! あの頃にやあ、*クレメンチューグから*ロムヌイまでのあひだに、造り酒屋は二軒とはなかつたでがせうが、それが当節ぢやあ……。あの忌々しい独逸人どもが何を発明しをつたか、お聞きなすつたかい? なんでも人の話ではね、今に奴らは、堅気な基督教徒のやうに薪を使はないで、何か怪しげな蒸気でもつて酒を蒸溜すやうになるつてえことですぜ……。」かう言ひながら、蒸溜人は感慨ぶかげに卓子の上へ眼を落して、そのうへに載せた自分の両手を眺めた。「いつたい、蒸気をどうするのか――いや、さつぱり解せないこつて!」
クレメンチューグ ポルタワ県下の同名の郡の首都で、ドニェープルに臨んだ河港。
穀類、木材の集散地。
ロムヌイ ポルタワ県下の同名の郡の首都、ドニェープルの支流スーラ河に臨み、煙草の産地として有名なところ。
「なんちふ阿房どもぢやらう、その罰当りの独逸人どもあ!」と、村長が言つた。「畜生ども、ほんとに棒うちを喰らはせて呉れるのに! 蒸気で物が煮えようなんて、つひぞ聞いたこともないて。それぢやあ、ボルシチひと匙口い持つて行つても、若い仔豚の代りに我れと我が唇を焼いてしまふ道理ぢやないか……。」「で、あの、なんですの……」と、その時、寝棚のうへにあぐらをかいて坐つてゐた、くだんの村長の義妹だと称する女が口を出した。「あなたはずつと此処で、おつれあひとは別々にお暮しなさるおつもり?」
「だといつて、彼女がわしになんの用がありますだね? なんぞ好いところでもありやあ、また格別ですがね。」
「そんなに見くびつたものでもなからうがな?」と、村長が、その独眼をじつと相手に凝らしながら訊ねた。
「見くびるにも見くびらんにも! 二日たあ見られねえ老いぼれ婆あで、そのご面相と来ちやあ、皺だらけで、まるで空の巾著さね。」そして蒸溜人のちんちくりんな胴体は、又もや哄笑とともに揺ぶられた。
ちやうどその時、入口の外で何かゴトゴト物音がしはじめた。と、だしぬけに戸があいて――一人の百姓が、帽子も脱らずに、閾を跨いで、のつそり入つて来るなり、きよとんとして家のまんなかに突つ立つたが、そのままぼんやり口をあいて天井を眺めまはした。それは他ならぬわれわれのお馴染のカレーニクであつた。
「そうら、うちい戻つたわい。」と、彼は戸口に近い腰掛へ尻をおろしながら、現在自分の眼の前にゐる人々には、てんで注意も払はないで言つた。「くそ忌々しい悪魔めが、道をひき伸ばしやあがつて! 歩いても歩いても、きりがねえだ! まるでどいつかに足を叩き折られたやうな気がすらあ。おい、おつかあ、そこの皮外套を取つてくんな、寝敷にするだよ。お前のゐる煖炉の上へなんぞ行くもんけえ。どうしてどうして、行くもんけえ。おお足が痛え! 取つてくんなつたら、そこんとこにあらあな、聖像の下んとこによ。だが気い附けろよ、粉煙草の入えつた壺をひつくら返さねえやうに。いんにや、もうええだよ、ええだよ! お前は又、けふは喰らひ酔つとるだべえからな……。おらが勝手に取つて来るだ。」
そこでカレーニクは少し身を起しさうにしたが、いつかな不可抗力が彼を腰掛に釘づけにしてゐた。
「これぢやによつて可愛いぢやて、」と村長が言つた。「ひとの家へやつて来をつて、まるで自分のうちのやうな振舞をしてやあがるだ! ようし、こいつに一つ、性根を入れかへてこまさにやあ!……」
「まあまあ、暫らく休ませてやりなせえ!」と、蒸溜人がその手を掴んで引きとめながら、言つた。「これあ、なかなか好いお得意ですからね、かういふ御仁が多ければ多いほど――われわれの酒蒸溜場も繁昌するといふもんでしてな……。」
だが、そのとりなしは決して親切気から出たものではなかつた。常々この蒸溜人は大のかつぎやであつたから、この折もすつかり腰掛に尻を落ちつけてゐる人間を戸外へ追ひだすのは、何か禍ひを招く因になると考へたからであつた。
「どうも、耄けて来たちふものかな!……」と、カレーニクは腰掛の上へ横になりながら呟やいた。「かりに酔つてゐたにしたところで、こんなはずあねえだて。それにおらあ、酔つちやゐねえんだ。どうしてどうして、酔つてなんぞゐるもんけえ! 何もおら嘘を言ふことあねえんだ。おらはこれを、あの村長の面前でだつて立派に言つてのけて見せるぞ。村長がなんでえ? あん畜生め、くたばつてしめやがりやあ好い! ふん、唾でもひつかけて呉れらあな! あの一つ眼入道め、荷馬車にでも轢き殺されてしめやがれば好いに! 寒中に、ひとに冷水なんぞぶつかけやがつて……。」
「ちえつ、この豚めが、家のうちへ入るばかりか、卓子へ足まで掛けやがる。」さう言ひざま、村長は憤然として席を立つたが、ちやうどその時、だしぬけに、ガチャンと窓の硝子が粉微塵にくだけて、大きな石塊が一つ彼の足もとへ飛んで来た。村長はその場に立ち竦んだ。「一体、どこの首くくり野郎だ?」と、その石塊を拾ひあげながら彼は喚いた。「こんな石つころを投げこみをつたのが、どいつだか判つて見ろ、いやといふほど、そやつを蹴飛ばして呉れるから! なんといふ悪戯をしくさるのぢや!」彼はその石塊をにぎつて爛々たる眼差でそれを見つめながら言葉をつづけた。「そやつこそ、こんな石で咽喉でもつまらせをれば好い……。」
「お止しなせえ、お止しなせえ! 鶴亀々々!」と、蒸溜人が顔色を変へて遮ぎつた。「どうぞこの世でもあの世でも、そんな悪口はたたきなさるまいものぢや、鶴亀々々!」
「ふん、庇ひだてをしなさるのぢやな! なあに、あんな野郎は、くたばつちまやがれば好いんだ!……」
「と、飛んでもねえことを! あんたは、死んだわつしの姑の身に起つたことを御存じないと見えますね?」
「姑さんの身にだと?」
「ええ、姑の身に起つたことでがすよ。なんでも或る晩げのことで、さう、今頃よりもう少し早目の時刻だつたでがせう、みんな夕餉の卓についてをりましたのさ、死んだ姑に、死んだ舅、それに日傭男に日傭女と、子供が五人ばかりとね。姑は煮団子を少し冷さうと思つて大鍋から鉢へ小分けにして移してをりましたのさ。仕事の後で、皆んなひどく腹がへつてたもんだから、団子の冷るのが待ちきれなかつたんでさあね。長い木串に団子を突きさしては食りはじめたもんで。するてえと、不意に何処からともしれず、とんと素性も分らねえ男が入つて来て、お相伴にあづかりたいといふんでさ。空つ腹の人に食はせねえつて法はありませんやね。で、その男にも串を渡したもんで。すると、まあ驚ろくまいことか、その男はまるで牛が乾草を食ふやうに、がつがつと団子を詰めこむのなんのつて、一同がまだやつと一つづつ食べて、次ぎのを取らうとして串を差し出した時にやあ、鉢の底はまるでお邸の上段の席みてえに、きれいさつぱりと片づいて何ひとつ残つちやあゐねえんでさ。姑はそこで、また新たにつぎ足しましただが、今度はお客さんも鱈腹つめこんだことだから、たんとは食ふまいと思つてゐるとね、どうしてどうして、いよいよ盛んに貪るやうに、又ぞろそれもぺろりと空にしてしまつたでがすよ。腹の空いてゐた姑は心のなかで、ほんとに、その団子が咽喉につまつて、おつ死んでしまへば好いのに!と思つただね。するとどうでがせう。不意にその男が咽喉をつまらしてぶつ倒れてしまつただ。みんなが駈けよつて見ると、もう息はなかつたといひますだよ。窒息つてえ奴でさあね。」
「そんな業突張な喰らひ抜け野郎にやあ、さうならねえのが間違つてまさあ!」と、村長が言つた。
「いんにや、さうぢやありましねえだよ。だつて、その時以来、姑はどうにもそれが気になつて気になつてなんねえでがしてな。それに日が暮れると死人が迷つて来るつてんでがすよ。そやつが煙突のてつぺんに腰かけて、団子をくはへてるつてんでがすよ。昼間は至つて穏かで、さらさら幽霊の気配などはありましねえのに、あたりが薄暗くなりかけるてえと、どうでがせう。屋の棟を見ると、ちやんと畜生め、煙突に跨がつてゐくさるんで。」
「団子をくはへて?」
「ええ、団子をくはへてね。」
「変だねえ! わしもそんなやうな話を聞いたつけが、なんでも、死んだ女が……。」
かう言ひかけて村長は口をつぐんだ。窓の下でがやがやいふ声がして、踊りの足拍子が聞えだしたのである。はじめに低くバンドゥーラの絃の音がすると、それに合はせて一人が歌ひだした。絃の音がひときは高くなると同時に、幾人かの声で合唱をやりはじめた――歌声は旋風のやうにどつと沸きあがつた。
みんな、どうだい、聞いたかい?
おいらの頭はしつかりしてるが
めつかち村長のどたまの箍は
えらくゆるんでグラグラしてるぞ。
桶屋、はめろや鋼鉄の箍を!
鋼鉄の箍はめ、ポンと打て村長を!
桶屋ぶてぶて、村長のどたまを
棒でぶてぶて、鞭で打て!
おいらの村長は白髪でめつかち、
悪魔におとらぬ老爺の癖に、
阿呆め、浮気で甚助野郎、
若い娘みりや、あと追ひまわす。
間抜め、おいらの邪魔するよりは、
とつととすつこめ墓場の中へ!
さあさ、あいつの口髭ひつぱり
首根つこひつぱたいて、房髪をむしれ!
おいらの頭はしつかりしてるが
めつかち村長のどたまの箍は
えらくゆるんでグラグラしてるぞ。
桶屋、はめろや鋼鉄の箍を!
鋼鉄の箍はめ、ポンと打て村長を!
桶屋ぶてぶて、村長のどたまを
棒でぶてぶて、鞭で打て!
おいらの村長は白髪でめつかち、
悪魔におとらぬ老爺の癖に、
阿呆め、浮気で甚助野郎、
若い娘みりや、あと追ひまわす。
間抜め、おいらの邪魔するよりは、
とつととすつこめ墓場の中へ!
さあさ、あいつの口髭ひつぱり
首根つこひつぱたいて、房髪をむしれ!
「なかなか巧え歌ぢやごわせんか!」と、蒸溜人は少し横へ頭をかしげながら、その大胆不敵な所行に呆れ果てて棒立ちになつてゐる村長の方へ向きなほつて、言つた。「なかなか面白い! だが、村長さんのことをあしざまに詠みこんだ点だけは怪しからん……。」
それから彼は、再び両手を卓子のうへに載せると、その眼に一種甘美な情緒を湛へたまま、なほも聴耳をてたが、窓の下では笑ひ声と共にさあ、もう一度! もう一度!といふ叫び声が聞えてゐた。ところで、少し目端のきく人ならば、村長が決して驚愕のあまりその場にじつと立ち竦んでゐたのでないことに直ぐ気がついたであらう。ちやうどこんな風に、老獪な猫は世なれぬ鼠に自分の尻尾のまはりを勝手に跳ねまはらせておきながら、おもむろに相手の逃げ道を断つ手段をらすものである。村長の独眼はじつと窓へ注がれてゐたが、やがて村役人の方へチラと合図をすると同時に、彼の手が戸口の把手のかかつた。と、不意に往来で叫び声があがつた……。数々の美質を具へたが上にも多分の好奇心に恵まれてゐた蒸溜人は、すばやく煙管に煙草を詰めるなり、戸外へ駈け出したが、わるさ連は逸速く逃げ去つたあとであつた。
「どうして、逃げようつたつて逃げられるこつてねえぞ!」と、黒い羊皮の皮外套を裏がへしに、毛の方を表にして著こんだ一人の男の手を捉へて、曳つぱつて来ながら、村長が呶鳴つた。蒸溜人は待つてましたとばかりに、その秩序紊乱者の顔を覗きこんだが、長い髯と物凄く隈取つた面相に出つくはすと、ぎよつとして後ろへ跳びのいた。「どうしてどうして、逃げようたつて駄目だぞ!」村長は捕虜をひつ立てて玄関の方へまつすぐに進みながら喚いた。捕虜は少しの抵抗もせずに、まるで自分の家へでも入るやうに落ちつき払つて村長の後ろにしたがつた。「カルポー、納屋をあけい!」と村長は村役人に言つた。「こいつは暗がりの納屋へぶちこんでおかう。さうしておいて、助役を起したり、村役人を召集して、同類のやくざどもを残らず逮捕して今夜ぢゆうに彼奴らを処分してしまはにやならん!」
村役人は玄関口で小さな海老錠をガチャガチャ鳴らして納屋の戸を開けた。ちやうどその時、捕虜は玄関口の闇に乗じて、突然、おつそろしい腕力で捕手の手をすり抜けた。
「汝どこへ行きをる!」とばかりに、村長はむんずとその襟髪を掴んだ。
「放しておくれ、わたしだよ!」といふ細い声が聞えた。
「駄目なこつちや! どうしてどうして、畜生め、女の声を出しをらうと悪魔の作り声をほざかうと、おれを誤魔化すこたあ出来ねえぞ!」さう言ふなり村長が、捕虜を暗がりの納屋のなかへ力まかせに突き飛ばしたので、哀れな捕虜は呻き声を立てたほどであつた。それから村長は村役人をつれて助役の住居へと出かけた。その後ろからは、まるで蒸汽船のやうに煙草の煙を吐きながら、蒸溜人がついて行つた。
彼等は三人とも首を垂れて、めいめい物思ひに沈みながら歩いてゐたが、暗がりの路地へ折れる曲りかどで、不意に、むかふからやつて来た連中とこつぴどく鉢合せをして一斉にあつと叫んだ。同じやうな叫び声がむかふでもした。村長が独眼をしばたたきながら前方を見ると、魂消たことに、当の助役が二人の村役人をつれてこちらへやつて来るところであつた。
「おや、助役さん、わしは今、あんたのとこへ行くところぢやが!」
「手前は又、あなたのお宅へ伺ふところでして、村長さん!」
「奇怪なことが起りをつてね、助役さん!」
「いや、こちらにも奇怪な事件がありましてね、村長さん!」
「ふん、どういふ?」
「若い者どもが暴れまはりますんでな! 往来ぢゆうを、隊を組んで荒しまはつてをりますよ。あなた様のことを、いやどうも……口にするのも小つ羞かしい言葉で囃し立てますが、それこそあの酔つぱらひで不信心な大露西亜人でも口にするのを憚かるやうな、如何はしい言葉でしてな。(かう言ひながら、縞の寛袴に糀いろの胴着を著こんだこの痩形の助役は、しよつちゆう、頸を前へぬうつと伸ばすかと思ふと、すぐに又もとの姿勢にかへる妙な動作をくり返すのだつた。)手前がちよつと、うとうとつとしたかと思ひますと、忌々しい暴れ者どもめが、卑猥きはまる唄をうたつたり、ガタガタ戸を叩いて、目を醒まさしてしまひをりましたんでな! こつぴどく叱りつけてやらうと思ひましたが、寛袴をはいたり胴着をきたりしてゐるうちに、雲を霞と逃げうせてしまひをりました。それでも、首謀者らしい奴だけは取り逃がしませんでしたよ。今、あの科人を拘留する小屋の中で大声を張りあげて唄をうたつてをりますがね。どうかして彼奴の正体を見届けて呉れようと思つたのですが、亡者の磔につかふ釘を鍛つ悪魔そつくりに、顔ぢゆうを煤で塗りたくつてをりますのでして。」
「で、そいつはどんな服装をしてゐるね、助役さん?」
「黒い皮外套を裏がへしに著てうせるのですよ、村長さん。」
「それあ、ほんとに間違ひのない話かね、助役さん? もしその同じ張本人が、わしがとこの納屋に坐つてをるとしたらどんなもので?」
「いんにや、村長さん! さう言つちやあなんですが、間違つてゐなさるのは、あなたの方ですて。」
「灯を持つて来い! ぢやあ一つ首実検といふことにしよう!」
灯りが取りよせられて、戸が開かれた――と、村長は眼の前に自分の義妹の姿を見て、驚ろきのあまり、あつと呻いた。
「まあ、お前さんつたら、」さういふ声と共に、女は村長に詰め寄つた。「すつかり耄けてしまつただね? あたしを真暗な納屋んなかへ突つこかしたりしてさ。その一つ目小僧のどたまにやあ、これんばかしでも脳味噌があつたのかい? ほんとに鉄鉤に頭をぶつつけなかつたのが目つけものだよ。あたしだよつて、お前さんに言つたぢやないか? この忌々しい熊つたら、鉄みたいな手で人をひつ掴んで突きたふすんだもの! あの世へ行つて悪魔に思ひきり突つつかれるが好い!……」
この最後の捨科白をいひ放つた時、彼女はもう戸の外の、往来へ出てゐたが、それは自分の生理的な用事で外へ出て行つたのである。
「なるほど、これあ、お主ぢやつたわい!」と、村長は我れに返つて言つた。
「どうだね、助役さん、そのやくざ野郎は実は忌々しい悪党ぢやねえか?」
「悪党ですとも、村長さん!」
「もう好い加減に、あのおつちよこちよい共に、うんと一つお灸をすゑて、これからは仕事に身をいれるやうにしむける時分ぢやなからうかね?」
「ええ、もう疾つくにさうしなきやならなかつたのですよ、村長さん!」
「あの馬鹿者どもめが、増長しをつて……。はあて? 往来で義妹の声がしたやうぢやが……。馬鹿者どもめ、つけあがりをつて、わしを同輩かなんぞのやうに思つてけつかるのぢや。このわしを奴らの仲間の、普通の哥薩克だとでも考へてけつかるのぢや!……」その言葉についで発せられた軽いしはぶきと、額越しにあたりへ投げられた一瞥とから、村長が今や、何か勿体らしい話を持ち出さうとしてゐることが予測された。「一千……と、ええ、この面倒くさい年号と来た日にやあ、ぶち殺されたつて、すらすら言へるこつちやないが、さて……年に、時の代官レダーチに対して、哥薩克のうちから最も才幹ある者をひとり選び出せといふ命令が下つたのぢや。おお!(この『おお』といつた時に村長は指を高くさしあげた)最も才幹ある者を! 女帝陛下の供奉のために択べといふ命令なのぢや。わしはその時に……。」
「仰つしやるまでもありませんよ、村長さん! それはもう誰でも知つとることです! あなたが廷室の恩寵に浴されたといふ話なら、みんなが知つてをります。時に、手前の申し分が勝ちで、あの皮外套を裏がへしに著た暴れ者を捕へたなどと仰つしやつたのは、何かの間違ひだつたことは、お認めになりませうな?」
「その裏がへしの皮外套を著た畜生といへば、ほかの奴らの見せしめに、足枷でも掛けて、思ひきり懲らしめてやることぢや! 官権の力がどんなものか思ひしらしてやることぢや! そもそも村長たる者は皇帝からでなくて誰から任命されてゐると思ふとるのぢや? あとで他の奴らも懲らしめて呉れよう。わしはちやんと憶えとる、あの碌でなしの暴れ者どもが、わしの野菜畠へ豚を追ひこんで、胡瓜やキャベツをさんざん食ひ荒させたことも、あの悪魔の忰どもが、わしのうちの麦搗きを拒んだことも、それから忘れもせぬが……。いや、そいつらのことは兎も角、わしはその、裏返しの皮外套を著た悪党がいつたい何者か、是非ともそれを検べなくちやあならんのぢや。」
「そいつは、よつぽどすばしつこい野郎だと見えるて!」と、以上の会話のあひだぢゆう、まるで攻城砲に煙硝を填めでもするやうに、ひつきりなしに煙草の煙を頬に詰めこんでゐた蒸溜人が、例の短かい煙管を口から離すなり、ぱつと煙の雲を吐き出してから、言つた。「そんな手合は万一の場合に備へて酒倉のなかに繋いでおくのが先づ上分別だが、栄福燈の代りに樫の樹の天辺にひつ懸けておけば、申し分なしだて。」
蒸溜人にはこの駄洒落が、われながら上出来だつたと思はれたので、他人からの讃辞も待たずに、さつそく嗄がれた高笑ひをあげて、われから悦に入つたものである。
その時、一同は小さな、殆んど地面へ横倒しになりかかつてゐる小屋へと近づいた。一行の好奇心はいよいよ募つて、彼等は戸口へ犇々と押し寄せた。助役は鍵を取り出して、錠のあたりでガチャガチャ音を立ててゐたが、それは自分の家の長持の鍵だつた。一同はいよいよ我慢がならなくなつた。助役は衣嚢へ手を突つこんで鍵を捜しはじめたが、なかなかそれが見つからないのでぶつぶつと呟やいた。
「あつたあつた!」たうとう彼は半身をかしげて、縞の寛袴についてゐた大きな衣嚢の底から鍵を取り出しながら叫んだ。
その声を聞くと同時に、一同の心臓はあたかも一つに融け合つてしまつたものの如く、その厖大な心臓がおそろしく不ぞろひな鼓動を打ちはじめたため、錠前の外れる音も聞えぬくらゐであつた。つひに戸が開け放たれた、と……村長の顔は布のやうに蒼ざめてしまひ、蒸溜人はぎよつとして髪の毛が逆立つやうに感じた、助役の顔にもまざまざと恐怖の色が現はれ、村役人どもはその場に釘づけにされたやうに立ちすくんだまま、一様に開いた口を塞ぐことも出来ない為体であつた――一同の面前には村長の義妹が立つてゐたのである。
女は一行にも劣らず仰天してゐたやうであるが、やや正気にかへると共に、みんなの方へ近づかうとした。
「そこを動くな!」と、怪しく顫へを帯びた声で喚きざま、村長はぴたりと女のまへに戸をたてた。「皆の衆、これあ悪魔ぢやよ!」と、彼は語をついだ。「火を持つて来い! 早く火を持つて来い! 公共の建物を惜しむこたあない! さあ、火をかけるのぢや、悪魔の骨ひとつ残らぬやうに焼きはらつてしまふのぢや!」
村長の義妹は、扉ごしにこの残酷な決議を聞いて、怖ろしさのあまり、わつとばかりに声をあげた。
「皆の衆、これあ又、どうしたことだね!」と、蒸溜人が口をはさんだ。「あたら、頭べに霜をいただきながら、これしきのことを御存じないとは驚ろいた――妖女を焼くには普通の火では駄目だつてことをさ! 憑魔を焼くには是非とも、煙管の火を使はにやあなりませんやね、ちよつくらお待ちなせえ、万事はこのわつしが引受けましたよ!」
さう言つて、煙管から煙草の燠を藁束のなかへはたき落すと共に、フウフウ吹きはじめた。切羽つまつた哀れな村長の義妹は、やつとその時、元気を取り戻した。彼女は声を振りしぼつて哀訴したり、その誤つた考へを棄てるやうにと歎願したりしはじめた。
「まあ待ちなされ、皆の衆! 何も、無駄な罪科を重ねるこたあねえでがせう? ひよつとしたら、これあ悪魔ではないかも知れねえのに!」と、助役が言つた。「もし彼奴が、といふのはこの中に坐つとる奴のことですよ、そやつが十字を切ることを承知しさへすれば、それが悪魔でない明白な証拠なんだから。」
この提案は取りあげられた。
「おらに憑くでねえぞ、悪魔!」さう、助役は戸の隙間に口をあてて言つた。「もし、その場から動かなかつたら、戸を開けてやらう。」
戸が開けられた。
「十字を切れ!」と村長は、まさかの時には逃げ延びられる安全な場所を捜すやうに、うしろを見まはしながら言つた。
村長の義妹は十字を切つた。
「はあて、これは義妹に違ひないわい!」
「いつたいまた、どうして留置場などへ来なすつただね、お前さんは?」
そこで村長の義妹はしくしく涕きながら、往来で若者たちに無理やり捉まへられて、抵抗はしてみたけれど、無体にもこの小屋の窓から投げこまれて、窓に鎧扉を釘づけにされてしまつた顛末を話した。助役がちらと見ると、なるほど大きい鎧扉が蝶番から引つ剥がされて、うへの桁に釘づけにしてある。
「ふん、立派なことだよ、この一つ目入道つたら!」と、女は村長の方へ詰めよりながら、喚きたてた。村長はたじたじと後ずさりをしながらも、じつとその独眼を見はつて女を眺めつづけた。「お前さんの思惑はちやんと分つてゐるよ。お前さんはあたしがゐては気儘に娘つ子の尻を追ひまはしたり、その白髪頭でこつそり馬鹿な真似をすることが出来ないものだから、をりがあれば、わたしを厄介払ひにしようしようと思つてゐたんだろ。ふん、お前さんが今夜、ハンナと何を話してゐたか、あたしが知らないとでも思つてるのかい? ええ、ええ、あたしや何もかも知つてるんだよ。あたしをペテンに懸けるのあ、お前さんみたいな頓馬でなくつたつて、ちよつくら難かしいんだからね。あたしやよくよく我慢をしてゐるんだけれども、後になつて焦れなさんなよ……。」
これだけ言ふと、女は拳を固めて打ちふりながら、丸太のやうに突つ立つてゐる村長を尻目にかけて、すばやくその場を立ち去つた。
いんにや、これあてつきり悪魔のいたづらぢや。さう考へながら、村長はやけに脳天をかきむしつた。
「捉まへましたよ!」と、ちやうどそこへやつて来た村役人どもが叫んだ。
「どいつを捉まへたんだ?」と村長が訊ねた。
「裏がへしの皮外套を著た野郎でさ。」
「連れて来い!」村長はかう呶鳴つて、そこへ引つたてられて来た捕虜の手を掴んだが、「貴様たちやあ気でも狂つたのか? これあ、酔つぱらひのカレーニクぢやねえか!」
「ちえつ、忌々しい! たしかにあつしらの手で捉まへたのですがねえ、村長さん!」と村役人どもが答へた。「あん畜生ども、路地の奥に一と塊りになつて、踊つたり、人の袖を曳つぱつたり、舌を出したり、持ち物を引つたくつたりしやあがるんですよ……。へん、勝手にしやがれだ!……どうして野郎の代りにこんな鴉を掴まされたものか、とんと合点がゆかねえや!」
「このわしの権力と、全村民の権力をもつて命令するのぢや。」と、村長が言つた。「その盗賊めを即刻、逮捕しろ、また往来をうろつく奴らも残らず、詮議のためにわしのところへ拘引するのぢやぞ!……」
「どうか、はあ、村長さま!」と村役人のうちの二三が平身低頭しながら歎願した。「あなたがあいつらの顔を、ひと目でも御覧なされたらなあ、ほんとに生まれてこの方、洗礼を受けてこの方、あんな気味の悪い顔は見たことがありましねえだよ。今に飛んでもねえことになるめえものでもありませんよ、村長さま。あれを見ちやあ、女どもでなくつても一生おびえが癒らねえくらゐ、堅気な人々を嚇かしをりますんで。」
「それほど怯えたけれあ、このわしが、怯えさせて呉れようか! 貴様たちやあ、どうしたつちふのぢや? 命令に従はんちふのか? 貴様たちやあ、奴等の味方をするつてえのか? 謀叛人になつたちふのか? どうしたちふんだ?……さあ、どうしたといふんだ? 貴様たちも……悪事を働らかうといふのか!……貴様たちも……貴様たちも……わしは代官に告発するぞ! 即刻だ、いいか、即刻だぞ! さあ駈けて行け、鳥のやうに飛んで行け! わしは貴様たちを……。ええつ、貴様たちあ、このわしに……。」
一同は残らず駈け去つた。
五 水死女
なんの不安もなく、また自分に追手がかかつてゐることなどは、てんで気にもかけず、あの狼藉のそもそもの発頭人は、くだんの古い館と池の方角へ悠々たるあしどりで近づいて行つた。それがレヴコーであることは改めて説明するまでもあるまい。彼は著てゐる黒い皮外套を前はだけにして、帽子は手に持つてゐた。汗がたらたらと玉をなして流れてゐた。楓の林は荘重に陰欝に黝み、月光を浴びてそそり立つた梢だけが細かい銀粉でも振りかけられたやうに見えてゐる。じつと動かぬ池は、疲れた歩行者に爽々しい息吹をおくり、彼をその岸に憩はせた。すべてが森閑としてゐる。森の奥深い茂みのなかで一羽の小夜鳴鳥が啼いてゐるだけである。打ち克ちがたい睡魔がやがて彼の瞳をとざしはじめ、疲れきつた手足は、今にも知覚を失つて、ぐんなり弛みさうになり、頭が前へこくりと落ちる……。いや、こいつは眠入つてしまひさうだぞ!さう言つて、彼はしやんと立ちあがると、やけに眼をこすつた。彼はあたりを見まはした。夜が彼の眼にひときは荘麗なものに映つた。一種不可思議な、うつとりさせられるやうな輝やきが、月の光りに加はつた。彼はこんな光景をこれまで一度も見たことがなかつた。銀いろの靄があたりにたちこめてゐた。花をつけた林檎の樹や、夜ひらく草花の匂ひが地上に隈なく充ち溢れてゐた。彼はおどろきの眼を見張つて、動かぬ池の水を眺めた――さかさまに影をうつした古い地主館は、水のなかにくつきりと、ある明快荘重な趣きを現はしてゐた。陰気な鎧扉ではなしに、陽気な硝子窓や戸口が顔を覗けてゐた。清らかな窓硝子ごしにピカピカと金色のいろがきらめいた。と、あたかも窓の一つが開いたやうな気配がした。じつと息を殺して、身動きもせずに池を見つめてゐると、いつか彼はその水底へ引きこまれてしまつたやうな想ひがする。と見れば、白い臂が窓に現はれて、ついで愛くるしい顔がのぞき、生々とした二つの眼を栗色の髪の波だつあひだから静かに輝やかせながら、臂杖をついた。見ると彼女は微かに首を振り、手拍子を取りながら微笑んでゐる……。彼の胸は不意に鼓動しはじめた……。水が顫へだした。そして窓は再びとざされた。静かに彼は池を離れて館に眼を移した。と、陰気な鎧扉があけはなたれ、窓硝子は月光をうけて輝やいてゐる。人の言ふことは信用にならぬものだ。と彼は心のうちで思つた。家は新らしいし、塗料だつて、まるでけふ塗つたばかりのやうに艶々してゐるぢやないか。ここには誰か住んでゐるんだよ。そこで彼は無言のまま、傍ら近く歩みよつて見たが、家のなかはひつそり閑としてゐる。素晴らしい小夜鳴鳥の唄がはげしく、響き高く、相呼応してわきおこり、それが疲れと、ものうさに声をひそめるかと思ふと、螽の翅を擦る音や、鏡のやうな広い水面を滑らかな嘴でうつ水禽の啼き声が聞えてくる。レヴコーの胸には、ある甘い静けさと平安が感じられた。彼はバンドゥーラの調子をあはせると、それを奏でながら歌ひ出した。
月々、お月さん!
夕焼さん!
お前の照らす地の上にや
綺麗な娘がゐるぞいな!
夕焼さん!
お前の照らす地の上にや
綺麗な娘がゐるぞいな!
窓が静かにあいた。そして、さつき池の水に映つたのと同じ顔がそこから覗いて、じつと注意ぶかく歌声に聴き入る。長い睫毛がなかば彼女の眼を翳してゐる。その全身は布のやうに、月の光りのやうに蒼白いが、なんとあでやかに美しいことだらう! 女がほほゑんだ!……レヴコーはぶるつと顫へた。唄つて下さいな、若い哥薩克さん、何か歌をひとつ!と、彼女は一方へ頭べをかしげて、濃い睫毛をすつかり伏せて、小声で囁やいた。
「どんな歌を唄ひませうね、美しいお嬢様?」
涙の玉がその蒼白い顔をつたつて、ほろほろと流れおちた。若衆さん、と彼女は言つた。その声には何か名状しがたい感動的な響きがこもつてゐた。若衆さん、あたしの継母を見つけて頂戴な! あたし、あなたになんだつて吝まずに差しあげますわ。きつと、お礼をしますわ。どつさり、いろんな立派なものをお礼に差しあげますわ! あたし、絹糸で刺繍をした袖緊や、珊瑚や、頸飾をもつてますのよ。宝石を鏤めた帯をあなたにあげませうね。金貨もありますわ……。若衆さん、あたしの継母を捜して頂戴な! あたしの継母は、怖ろしい妖女でしたの。あの女のために、あたし娑婆では安らかな思ひをすることが出来ませんでしたの。あの女はあたしを卑しい端女のやうにおひ使ひましたのよ。この顔を見て頂戴、あのひとが悪魔の力であたしの顔の色ざしを奪ひ取つてしまひましたの。あたしの頸筋を見て頂戴、あのひとの鉄のやうな爪でひつかかれた青紫斑が洗つても洗つても消えないの! あたしの白い足を見て頂戴、あたしは絨毯の上でないばかりか、焼石のうへや、濡れた土や、荊棘の道を、ひたむきに歩きまはつたの! 眼はといへば――見て頂戴――涙で曇つて、なんにも見えないの! 見つけて頂戴な、若衆さん、あたしの継母を見つけて頂戴な!……
その声が急にうはずりかけたかと思ふと、彼女は口をつぐんでしまつた。涙がその蒼白い顔をつたつて流れおちた。憐憫と哀愁に充ちた重苦しい感情が、若者の胸もとへこみあげた。
「あなたのためなら、どんなことでもしますよ、お嬢様!」と、こころを動かされて彼が答へた。「でも、その女を何処で捜し出したらいいでせう?」
そら御覧なさいな、あすこを御覧なさいな!と口ばやに処女が言つた。あの女はあすこにゐるのです! あの岸のうへで、あたしの仲間の乙女たちと円舞を踊りながら、お月様の光りでひなたぼつこをしてゐますの。けれどあの女は悪賢こくて狡いの。自分もやつぱり水死女の姿に化けてゐますのよ。でもあたし知つててよ、あの女がここにゐる気配がちやんと分るのですもの。あの女のせゐで、あたし気が滅入つて、ほんとに切ないの。あの女のゐる水のうへではお魚のやうに自由に泳げないの。鍵みたいに沈んで水底へ落つこちてしまふんですもの。あの女を見つけて頂戴な、若衆さん!
レヴコーは池の岸を眺めた。なよらかな銀いろの靄のなかで、鈴蘭の花の咲きみだれた牧場のやうに、白い下著をきた処女たちが、影のやうに軽やかに揺曳してゐる。黄金の頸飾や、南京玉の頸飾や、貨幣が彼女たちの頸でキラキラと光つた。しかし処女たちの顔は蒼白く、そのからだはまるで透明な霞で造られて、銀いろの月の光りに照り透されてゐるやうに見えた。円舞はたゆたひながら、だんだん彼の身ぢかへ接近して来た。話し声が聞えだした。
さあさあ、鴉ごつこをしませうよ!静かな黄昏どきに、眼に見えぬ風の接吻に会つてさざめく河辺の芦のやうに、一同はざわめきだした。
だれが鴉になるの?
籤がひかれた――そして一人の処女が列をはなれた。レヴコーはその処女を仔細に観察しはじめた。顔も着物も、すべて彼女は他の処女とおんなじだつた。ただその役割をいやいやつとめてゐることだけは明らかだつた。一同は長い列をなして、貪慾な敵の襲撃からすばやく身をかはしながら、あちらこちらへ逃げまはつた。
ああ、あたし、もう鴉はいや!疲れてがつかりして、その処女が言つた。可哀さうなお母さん鳥の雛子をさらふなんて、むごいことよ!
『あれは妖女ぢやあない!』とレヴコーは心のうちで呟やいた。
誰が鴉になつて?
処女たちは又もや籤びきをしようとした。
あたしが鴉になるわ!と、一人の処女が申し出た。
レヴコーは注意ぶかくその処女の顔を眺めにかかつた。すばしこく、大胆に、その女は他の処女を追ひまはして、獲物を捕へようとして四方八方へ飛びついて行つた。この時レヴコーは、彼女のからだが他の処女のやうには透きとほつて見えないことに気がついた。彼女のからだの中にはどこか黒ずんだところがあるのだつた。突然、叫び声があがつた。鴉が列のなかの一人にをどりかかつて、それを捉まへたのだ。レヴコーはその女の爪が剥きだされて、兇悪な喜びの色が顔に輝やいたやうに思つた。
「妖女だ!」と、彼は急にその女を指さしながら、館の方を振りかへつて叫んだ。
令嬢はにつこり微笑つた。すると処女たちは叫び声をあげながら、今まで鴉になつてゐた女をつれて、行つてしまつた。
まあ、どうしてこのお礼をしたら好いでせうね、若い衆さん? あんたがお金なんか望んでゐないことは分つてゐますわ。あんたはハンナを想つてゐらつしやるのだけれど、むごいあなたのお父さんが結婚の邪魔をしてゐるのでしよ。でもこれからは邪魔をしなくつてよ。この手紙を持つて行つて、お父さんにお見せなさいな……。
白い手がさしのべられると、その顔はいとも麗はしい光りを帯びて輝やきだした……。不思議な胸さわぎと、堪へがたい胸の動悸を覚えながら、彼はその手紙を受け取つた……と、そこで目が醒めた。
六 目醒めて
おれはほんとに眠つてゐたのだらうか?と、小さい丘から立ちあがりながら、レヴコーはひとりごちた。まるで夢とは思へないくらゐ、まざまざとしてゐたつけなあ!……不思議なことだ、まつたく不思議なことだ!さう、彼はあたりを見まはしながら繰りかへした。彼の頭のうへにかかつてゐる月が、もう真夜中だといふことを物語つてゐた。どこもかしこも森閑としてゐる。池の面からは冷気が吹きわたり、その上には鎧扉を鎖したままの古い地主館がいたましげに聳え立ち、はびこるにまかせた青苔や雑草は、すでに永の年月ここに人の住はぬことを物語つてゐる。ふと彼は、夢のあひだぢゆう痙攣的に握り緊めてゐた片方の手を開くと同時に、あつと叫んだ。――事実そこには手紙が掴まされてゐたのである。ああ、おれに読み書きが出来たらなあ!と、彼はそれを眼の前であちこちひつくり返して見ながら、呟やいた。その刹那、彼のうしろで物音がした。
「怖がるこたあない、いきなり彼奴を引つつかまへちまへ! 何をびくびくしとるんだ? 味方は多勢だぞ。確かにこいつは悪魔ではなくて人間だ!……」かう、村長が部下に向つて叫んだ。それと同時に、レヴコーは幾人もの腕にとり拉がれるのを覚えたが、中には恐怖のためにぶるぶる顫へてゐるのもあつた。「畜生め、その怖ろしい仮面を脱ぎをれ! 人を愚弄するのも、もういい加減にしくされ!」彼の襟髪を掴んでかう言つた村長は、相手の顔に眼をそそぐと共に仰天してしまつた。「これあ、レヴコーだ! わしの忰だ!」彼は驚ろきのあまり、たじたじと後ずさりをして、ぐつたり手を落しながら喚いた。「それぢやあ、貴様だつたのか、くたばりぞこなひめ! この碌でなし野郎めが! わしは又、どこの悪党が皮外套を裏がへしになど著てわるさをさらしをるかと思つたのに! みんな汝の仕業なのぢやな、――生煮えの葛湯で汝の親爺が息をつめて斃つてしまやあええ!――往来で乱暴を働らいたり、碌でもない歌を作つて唄つたりしをつて……。えいえい、レヴコー汝れはな! なんちふこつた? おほかた、どしやう骨を叩き折つて貰ひたいのぢやらう! こいつをふん縛れ!」
「待つておくれ、お父つあん! この手紙をあづかつて来たんだよ。」と、レヴコーが言つた。
「ええい、今は手紙どころの騒ぎぢやないわい、この馬鹿者めが! さつさとこやつを縛つてしまへ!」
「お待ちなされ、村長さん!」と、その手紙を開きながら助役が言つた。「これあ、代官からの直筆ですぞ!」
「なに、代官からの?」
「代官からの?」と、村役人たちも機械的に繰りかへした。
なに、代官からだつて? こいつは変だぞ! いよいよ分らなくなつたわい!と心の中でレヴコーは考へた。
「読んでみて下され、読んでみて!」と村長が言つた。「何をいつたい、代官から言つてよこしたものか?」
「はあて、代官からいつたい何を言つてよこしたのか、拝聴するとしようか!」と、煙管を啣へて火を燧ちながら、蒸溜人が言つた。
助役は咳ばらひをしてから読みはじめた。
一つ、村長エヴトゥーフ・マコゴニェンコに対する命令のこと。本官の聞き及ぶところによれば老齢暗愚なる貴下は従来の滞納金を徴収もせず、村内の秩序に意を用ふることもなく、剰さへいよいよ逆上して醜陋の限りを尽し……
「はつて面妖な!」と、村長が遮ぎつた。「とんと良く聞えんが!」
助役は改めて初めから読み直しにかかつた。
一つ、村長エヴトゥーフ・マコゴニェンコに対する命令のこと。本官の聞き及ぶところによれば、老齢暗愚なる……
「うんにや、よろしい! そこは肝腎なところぢやないて!」と、村長が喚き出した。「尤もよくは聞き取れなかつたけれど、まだ、そこは本題ぢやない。先きを読んで下され!」
扠、つぎに本官は貴下の子息レヴコー・マコゴニェンコに貴村の哥薩克娘ハンナ・ペトゥルイチェンコワなる者を即刻妻はすべきこと、同時に、国道筋の橋梁を修復し、且つ本官の許可なくしては、たとへ県本金庫より直接出張の役人たりとも、村馬の提供無用のことを申し付く。万一本官到着までに右命令の実行之無き時は、その責一に貴下にありと断ずるものなり。代官、退職中尉コジマ・デルカッチ・ドゥリシュパノーフスキイ
「これはしたり!」と、村長は口あんぐりの体で言つた。「お聴きの通りぢや、すべて村長に責任ありとさ。さすれば服従せにやならんわい! 絶対に服従せにやならんわい! さもなければ遺憾ながら……。で、貴様にも」と、彼はレヴコーの方へ向きなほつて語をついだ。「代官からの命令とあれば是非もない――尤も、どうしてそんなことが代官の耳に入つたのか、すこし訝しいけれど――結婚をさせてやることにする。ただ、それに先だつて貴様は鞭の味を味ははにやならんぞ! うちの聖像の下の壁に懸かつてをるやつを知つとるぢやらう? 明日あれの手入れをしてと……。して貴様、この手紙は何処で受けとつたのぢや?」
レヴコーはこの思ひもかけぬ局面の転換に茫然としてゐたが、それでもさそくの気転で、どうしてその手紙が手に入つたかといふ有りのままの事実を隠して、別の答へを用意するだけの分別はあつた。
「昨日の夕方ね、」と彼は答へた。「市へ出かけたんで、すると代官が馬車から降りられるところへ、ひよつくり出つ会したんだよ。あつしがこの村の者だといふことが分つたと見えて、代官がその手紙をあつしにことづけたのさ。それからね、お父つあん、あの人は、帰りがけにうちへ寄つて食事をするから、さう言つておけつて言ひましたぜ。」
「しかと代官がさう言はれたのか?」
「ああ、たしかに。」
「お聴きかな?」と、村長は一同のものにむかつて、重々しく勿体ぶつた口調で言つた。「代官が一個人の資格をもつて、われわれ風情のところへ来臨される、即ちわしの家へ昼餐に立ち寄られるのぢや。おお!……(ここで村長は指を高くさしあげると、何か傾聴するやうな風に首を傾げた。)代官が……、お聴きかな? 代官が、わしの家へ食事に立ち寄られるのぢや! どう思はつしやる、助役さん、それからお前さんもさ、――こりやあ、なかなか並大抵の名誉ではないて! な、さうぢやないかな?」
「まだ、これまでつひぞ私は、」と、助役がその口尻を捉まへた。「村長が代官に昼餐を饗応したといふ話は聞き及びませんぢやて。」
「村長にもよりけりさ!」と、さも自慢さうに彼は言つた。その口が少しゆがんで一種の鈍重な、嗄がれた笑ひ、といふよりは寧ろ遠雷の響きに似た声が、その唇から漏れた。「どうぢやらうな、助役さん、かういふ貴賓には各戸から、応分の進物をとどけさせることにしては、雛鶏なり、麻布なり、そのほか何か。……ね?……」
「それあ、さうしなくつちやなりませんよ、是非とも、村長さん!」
「それで、婚礼はいつにするんで、お父つあん?」と、レヴコーが訊ねた。
「婚礼だと? うん、その婚礼で貴様に思ひ知らせて呉れるのだけれど!……だが、まあ折角の貴賓の来臨に免じて我慢するとしよう……あす、坊さんを呼んで、貴様たちを結婚させてやる。ええ、どうも仕方がないわい! 几帳面たあどんなものだか、ひとつ代官に見せて呉れるのぢや! それはさて皆の衆、さあ、もう寝んで下され! 家へ帰つてよろしい!……今日のことにつけても想ひ出すわい、あのわしが……。」かう言ひながら、村長はいつもの癖で、容態ぶつた、意味深長な眼差を額ごしに投げた。
そうら、また親爺め、女帝陛下のお供をした時の話をはじめをるぞ!かう、呟やきながらレヴコーは足ばやに、例の長の低い桜樹にかこまれた、馴染の小家をめざして、心も漫ろに急いでゐた。気立が優しくて、姿の美しい令嬢、どうかあんたに天国のお恵みがありますやうに!と、彼は心のなかで祈つた。あんたが永久に聖い天使たちのあひだで笑つて暮すことができますやうに! 今夜の不思議な出来事は誰にも話すまい。ただハーリャ、お前だけには話してやらう。お前だけはおれの話を信じて、おれといつしよに、あの薄倖な水死女の魂の安息のために祈るだらうから!やがて彼はくだんの小家へ近よつた。窓は開かれてゐた。月光は窓ごしに、彼の面前ですやすやと眠つてゐるハンナの顔を照らしてゐた。彼女は腕枕をして眠つてゐた。頬の色がほんのりと赧らんでゐた。唇がうごいて微かに彼の名を囁やいた。おやすみ、おれの別嬪さん! そして世界ぢゆうで一番幸福な夢を御覧! だがどんな夢だつて、おれとお前の明日の目醒めに勝るやうな幸福な夢はなからうよ!彼は女にむかつて十字を切ると、窓を閉めて、こつそりそこを遠ざかつた。かくて数分の後には、村ぢゆうがすつかり眠りに落ちた。ただひとり月のみは相も変らず皓々として、豪華なウクライナの果しなき沙漠のやうな空にいみじくも浮かんでゐる。同じやうに、荘重な息吹が天上にも聞かれ、夜が、神々しい夜が、厳そかに更けて行く。妙なる銀の光りに包まれた地上もまた美しかつた。だが、最早それに見惚れる人の子は一人もなかつた。何もかもが深い睡りにおちてゐた。ただ時をり犬の遠吠えが束の間だけ沈黙を破るのみで、酔ひしれたカレーニクはなほも自分の家をさがしながら、寝しづまつた往来を長いあひだうろつきつてゐた。
――一八二九年――