ある夏此児が両親と避暑に余処へ行つて居升たが、近処に美事な大きい湖水があるので、父は小舟を借りては其児の母と其児を載せ、麗らかなる日や、又月の光澄んだ夜に湖水の上に好い楽みをして居り升た。ある時父は用が出来て一寸家へ帰つた留守に母が武(此児の名)をつれて湖辺を散歩して居升と、武はいつも乗る小舟が岸に繋いで有るのを見て母にせがみ、一処にのつて、母は見覚えの漕手となり、武はチヨコント、舳の方へ座つてニコ/\して居り升た。武は此時、漸やく八才計りの子供のことですから、母は心配して、
コレ、武ちやん、舟の椽へ寄りかゝるのでは有ませんよ、音なしくシヤントして入つしやい。
武は畏こまりて、
ハイ、でもネかあちやん、少ウし顔出して、水ん中の草が見度んだもの、だからソーット少し丈顔出してませうネ、かあちやん、草んなかに、さかながはいつてるだらうか?
エイ、はいつてませうよ、でも舟がいけば驚ろいて余処へ逃げてつてしまひ升だらうよ。
ぢやあ僕見てゝやらうや、逃てく処を、かあちやん、いつかとうさまの入つしやる時、釣に来ようネ。
さうネ、いつか来ても好けど、何にもつれやしまひと思ひ升よ、それに釣をするには針だの餌だのなければなりませんもの、一寸は来られないの。
かあちやん、餌つて何?。
さかなの食べたがる物ですよ、それを針の先へつけて、水の中へ入れて置くと、さかなが来て食ひつく、食ひつく処を引あげるの。
さかなは何が一番好だらう?、
蚯蚓だの、生の肉が、一番好でせうよ。
武は直ぐと、釣つて見たくなり、困つた顔つきして、エイ、はいつてませうよ、でも舟がいけば驚ろいて余処へ逃げてつてしまひ升だらうよ。
ぢやあ僕見てゝやらうや、逃てく処を、かあちやん、いつかとうさまの入つしやる時、釣に来ようネ。
さうネ、いつか来ても好けど、何にもつれやしまひと思ひ升よ、それに釣をするには針だの餌だのなければなりませんもの、一寸は来られないの。
かあちやん、餌つて何?。
さかなの食べたがる物ですよ、それを針の先へつけて、水の中へ入れて置くと、さかなが来て食ひつく、食ひつく処を引あげるの。
さかなは何が一番好だらう?、
蚯蚓だの、生の肉が、一番好でせうよ。
かあちやん、今こゝに直とあれば好ネ、
母は、武の妙な顔つきを見て、笑ひながら、
さ様さ、あおいにくさまだつたネ、それとも武ちやんが自分の肉でも切れば有るけどホヽヽヽヽ
武は、一層困つた顔になり、
でも、あのたんと切れば、いたいや、嫌だ/\。
といひながらも、そこらにもしや魚が来て居るかと尚一際湖水の面へ顔をさし出して、頻りに眺めて居り升たが、見える物とては自分の小さなポツチヤリした丸顔の、水に映る処計りでした。併し魚が眼にはいらなかつた武の顔は、却つて魚に見付られ升た。丁度此処へ通り掛つた、ではない泳ぎかゝつた湖水のひれ仲間に名を知られた老成な鱒どのが、お腹のすき加減といひ、甘さうな物が水の面に見える工合といひ、堪え切なかつたさうで年甲斐の分別が一寸どこやらへ行升て、大口をあきながら、思ひきつてピヨイーと跳び、俯向いて余念のない武の孫芋の様なお鼻へ食ひつかうとする。鱒の口がピシヤリと〆ると、武の口が大きく開いて、恐はいのと痛いので、ワツト一声叫びを洩し升た。武は容赦なくグイと頭を引こませる、鱒どのも飛んだ粗相をしたと気がついて、食ひついた処をはなす其途端にバシヤリと音して、鱒は舟の中の擒となり升た。
ホラ大変!、母も武も驚ろいたことといつたら、跳ねるやら、蹴るやら、もがくやらで、四百目もある魚のことですから、舟も揺ぐ計りでした。母は思ひがけなくはいつた邪魔ものを、どうかして放りださうと思ふより他の考もなく、
どうして出してやらう、ネイー、
と困つた声でいひ升た。折しも、湖岸に此珍事を傍観て居た人があつて、
艪で、其艪で殺しておしまひなさい、頭をなぐつてお遣んなさい!
母は大骨折つて、やつと、此大鱒を打殺し升た。それから、武の顔を見ると、鱒の歯に当られて、少し血が出て居り升た。母は可愛さうだと思ひながらも可笑くつてたまらず、
武ちやん、たうとう餌をはづんだネ、どうだえ? 大変痛いの?
武は余りビツクリして泣にも泣れず、これから泣くのも、少く締りがわるいといふ処で、
いゝーえ、だけど、これからモウかうしてさかな釣のは嫌。
母は又しても可笑しく涙の出るほど、笑ひ興じながら、
おまへかうして釣度とつて、モウ釣やしますまい、誰も真似の出来ないことを武ちやんが一人おしなのだわ、昔しから、子供の鼻を食べようとしたさかなの話しはない様だ、聞いたことがないから、サア、これから宿へ持つて帰つて料つて貰つて、おとうさまのお帰りを待ちませう。
かあちやん、とうさま、僕が釣たんだつていつても、本たうになさらないかも知れないネ。
おまへの鼻が何よりの証拠ですよ、それさへ見れば………
といつて、母は又も吹出し升た。武は、モウ成人になつて、此湖水などへは舟で幾度も遊びに来たことが有り升。併し其後鼻で釣をしたといふ噂は、一度もきこえません。かあちやん、とうさま、僕が釣たんだつていつても、本たうになさらないかも知れないネ。
おまへの鼻が何よりの証拠ですよ、それさへ見れば………