二年前久野女史が始めてベルリンに来た時私はその最初の下宿の世話をした。そして私がベルリンを去るまで半年余りの間幾度か女史に会った。すべて昔の思い出は物悲しい、特にこの不幸な楽人の思い出は誠に私の心を痛ましめる。
 よほどの語学の素養と外国生活の予備知識とがない限り、たれも外国に来ればまず初めの数カ月はぼんやりして仕事が手に着かぬ。私は正にその時期の久野女史を見た。当時の女史の心はまだ日本での成功の酔からさめていなかった。そして更に「世界のピアニスト」を夢見ていた。例えば一九二三年九月十七日にフリードマンがショパンのe短調のコンツェルトを弾いた時、女史は会場で、自分も此処でこの曲を弾きたい! と言った。
 また女史の名を聞いたフップェルト会社が、その自働ピアノのために一曲女史に弾いてもらいたいと望んだ事があった。その時は私はわざわざ女史を訪ねて、少なくもその演奏を延期するように忠告した。しかし女史は余り喜ばなかった。私は女史の第一の仕事はまず師匠について正確にピアノの弾き方を勉強する事であると思った。
 女史はベルリンでもニホンでのように演奏のため、新しい曲を師匠にもつかずに独りで練習しようとした。それは最初はベートーヴェンの第五コンツェルトであった。それからリストの『パガニーニ練習曲』やタウジヒ改作のウェーベルやショパンのゾナーテなども試みたらしかった。その外まだ二、三の新しい譜を買って持っていた。しかし私がベルリンにいる間には、もちろん、どれもその緒についていなかった。また何に感じたか、ある時女史はスクリアビンのゾナーテ(多分第四番)を弾こうかと言った事もあった。私は冗談だと思った。またある時は女史は私にゲネラルバスと言うものはどうして弾くか、と聞いた。
 その時私は女史がこのような事を知っているのを非常に喜んだ。私は真面目にヤーダスゾーンの教科書を貸した。そして、一体そんなような音楽上の事一般をベルリンで勉強したらよかろうと言った。後で見るとこの本には処々鉛筆で書入れがしてあった。恐らく最初の二、三枚位を独りで試みたものであろう。惜い事にはその覚書を私は早速ゴムで消してしまった。
「世界のピアニスト」を夢見た女史の心にも、もちろん常に多少の不安はあった。その一つは読譜の遅い事であった。従って演奏すべき曲の数の少ない事であった。ある若いピアニストが音楽会の休憩の時、自分の弟子たちがどうして譜を読み、譜を覚えるか、という事を漫然と私に話した事があった。それを側で聞いていた女史が、異常な熱心さで、私にその話を翻訳してくれと頻りにせがんだ。無論その熱心は尊い。しかし和声学の全体を規則正しくピアノの上で練習しないで、ただ譜だけを流暢に正確に弾きこなそうというようなわがままは到底音楽の世界には通用しない。
 暫くして、またも一つの不安が女史の胸にも芽生えたらしかった。それは自分のピアノの技巧に対する不安である。例えば一九二三年十月十日のエミール・フライの音楽会の済んだ後で、私は俄雨に困っている女史を見た。私は私の雇った馬車に女史をも一緒に乗せた。女史は非常な不機嫌で、フライの手首の動かし方についてちょっと話したきり、あとはほとんど一語も発しなかった。ただ僅にこう言った。私は言葉通りに覚えている。――「おこがましくも、私もあの曲を弾いたことがあります。」これはベートーヴェンの作品一〇六番の大ゾナーテである。そして最後に「こうしてはいられない!」と一、二度繰返した。そして馬車の勘定も、さよならを言う事も忘れて、ただそわそわして下宿の門内に隠れた。
 この夜の女史の姿は確に芸術家らしい謙遜なものであった。その外にも私は気の強い女史の口からこれに類する弱音をなお一、二度聞いた事があった。「ピアノを音階からやり直すといっても、私にはもう年がない。力もない!」とも言った。その度に私はこれこそ女史の芸術の一進歩であると思った。
 久野女史は正に過渡期のニホンの楽界の犠牲である。本当にピアノを理解しなかった過去のニホンは知らず知らずこの哀れなる天才を弄んでいた。ピアノを聞く代りに熱情を聞いていた。ピアノそのものの興味の代りに久野女史の逸話に興じていた。ピアノの技巧の不備な処を逸話や、生活に対する同情や、空虚な文学的な形容詞などで補うていた。またそれ以上に一般には音楽を理解する途がわからなかった。そして女史もその不健康な空気の中に生きていた。それは感情的な女性の弱点である。決してたれも今更それをとがめようとは言わぬ。
 しかしベルリンではもはや逸話も同情も用をなさぬ。ピアノはただ強く早くたたきつける事ばかりが熱情と努力の現れではない。ピアノはまず純粋にピアノでなくてはならぬ。ベートーヴェンのゾナーテは文学上の形容詞でなく、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならぬ。此処で女史は恐らく一度途方に暮れたかもしれぬ。
 女史のピアノをただピアノとして見れば、例えばペダルに、メロディの弾き方に、fやpに対する注意に、特に譜を正しく読む事に、まだ多少の工夫の余地はあったであろう。あるいは和声やコントラプンクトや、曲全体の構造などについてはまだ多少学ぶべき余地もあったであろう。ましてピアノ音楽史上の思潮を考え、自分の立脚地を明かにする事については、更に幾多の研究を要したであろう。
 例えばベートーヴェンのゾナーテが果して女史の弾いたように弾かれるべきものかという事については私にはよほど疑問がある。私は一九二二年四月二十八日にエミール・ザウエルの『月光曲』を聞いた。また近頃或る雑誌でそのザウエルが久野女史の『月光曲』を聞いて大に賞賛したという事を読んだ。もちろんこの老巨匠は女史の天才と素質に対してあらゆる褒辞を惜まなかったであろう。しかし女史の『月光曲』そのままを優れたピアノの演奏として賞賛したとは、私にはどうしても受け取れない。ザウエルは恐らく女史の望み多い将来に対してブラヴォーを叫んだのであろう。私共が女史の天才と熱情とに期待したものも全くそれに外ならない。
 女史はニホンでの一切の悪夢からさめて、まず此処に一精進を試みるはずであった。もし女史をしてそれを拒ましめるものがあったならば、それはニホンで不健全にかち得た盛名である。その盛名から徒らにえがき出された「世界のピアニスト」の幻影である。そしてニホンの過渡期の楽界はよし知らず知らずにしても、なおそれに対して誠に申訳のない事をしたとわびなければならぬ。罪は私共ニホン人全体にある。
 女史の死因は女史自ら遺書にでも言わない限り、もとより私共の想像を許さない。またニホンでの盛名を事実上多少裏切られた事位で、あれほどに努力を標榜していた女史がその精進の前途を葬ってしまおうとも思われぬ。しかし女史の悲劇的な死が有っても無くても、要するに女史の一生が過渡期の無知なニホンの一犠牲となっていた事に変りはない。今私共がこの哀れなる天才の遺骨を迎えて切に期する事は、将来決して第二の久野ひさ子女史を出さないようにする事である。それが私共の女史に対する心からなる手向けである。

底本:「音楽と生活 兼常清佐随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年9月16日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:小林繁雄
2007年12月20日作成
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