A氏は南露出身の機械技師である。北鉄譲渡の決済事務で東京へやつて来てから二ヶ月ほどたち、そろそろ日本人の人情にも慣れ気持のゆとりも出来てきたので、平気で一人旅をするやうになつた。これも、A氏がある工場へ買付品の検収のため旅行したときの挿話である。
 その二等車は大して混み合つてゐたわけでもなかつたが、A氏の向ひは空席ではなく一人の若い日本の令嬢が腰を下ろしてゐた。この令嬢は始発駅で発車間ぎはにすうつと乗り込んで来て、ほかに適当な席も見当らなかつたのだらう、別にこだはる様子もなく外国人であるA氏の前に席をとつたのである。持物といつたらハンドバッグ一つきり、連れがあるかと思へばさうでもない。黒いスーツに黒い外套がいとう、それを細つそりした身に上品に着こなしてゐる。席につくなりA氏に一瞥いちべつを与へるでもなく、窓外へ眼をそらした。
 もっともA氏の方でも、この令嬢を初めからじろじろ眺める非礼をあえてしたわけではない。彼はだいぶん時代のついたボストン・バッグから、今朝事務所で受けとつた妻の便りや新聞や、また検収に必要な規格上の要項やさうしたものを取り出して読みふけつた。二時間ほどして、もうほかに読むものがなくなつたとき、思ひ出したやうにポケットの煙草たばこへ手をやりながら、はじめて向ひ側の令嬢に注意したのである。
 彼女は相変らず窓外の景色に所在なささうなひとみを放つてゐる。A氏には彼女が、乗り込んだ時から身じろぎもせずにその退屈な姿勢をとりつづけてゐるもののやうに見える。うち見たところ教養も豊かにそなへてゐるに違ひないこの令嬢が、雑誌一つ開くではなくぼんやりと窓外へ眼をやつてゐるのが、ひどく不思議なやうな気がした。いや、不思議といへばそれだけではない。よく見ると、西洋の鷹匠たかじょうのかぶるやうな黒い帽子で半ばかくされてゐるそのひたいが、思ひなしか妙にあおざめて深い憂愁をたたへてゐるやうにさへ見えるのである。光線の具合かな、とA氏は思つた。だがそれにしても……。
 一体A氏は日本の令嬢なるものをしげしげと観察する機会にめぐまれたのはこれが初めてなのである。来朝以来、公けの席などで芸者といふものをあたかも日本の代表的女性のやうに誇示される機会はあるにはあつたが、正直のところA氏はこの種の女性には怖毛おぞけをふるつてゐる。不自然な結髪、生彩のない厚化粧、そして何よりもたまらないあの髪油の匂ひ、といふよりもむしろ臭気。さうした死んだ美をあえて外国人に誇示する日本人の心理を、寧ろ怪訝けげんなものにさへ思つてゐる。といつて日本の家庭に縁のないA氏は、銀座や劇場などで見かける溌剌はつらつとした令嬢に、わづかに日本女性の生ける美を見出みいだして来たに過ぎない。
 しかし、いまのあたりにするこの令嬢は、少くもそれら嬉々ききとした令嬢群とも選を異にしてゐるやうである。ひよつとしたらこれは、日本の智的な女性の代表的タイプの一つかも知れない。憂愁の底に一種をかし難い気品がある。それが平ぜい女性の前で煙草をふことなど一向に平気なA氏にも、何か一言ゆるしを得たい義務感のやうなものをひるのである……。
 A氏は次第にいまいましくなつた。そこで思ひ切つてホープのはこをポケットからとり出すと、ふと小声で独りごちたのである。――
「お嬢さん、何だつてさう浮かない顔をしてらつしやる?」
 これは断じてこの令嬢に言ひかけたのではない。ふつとさういふ母国語の一句が鼻唄のやうな韻律をもつて口をついたに過ぎなかつた。
 と、その途端に再びA氏をおどろかせることが起つた。その令嬢は、つと窓の外からA氏の顔に眼を転ずると、意外なことに生粋きっすいのロシヤ語で――恐らくA氏が来朝以来はじめて日本人の口から聞くことが出来たほどの生粋のロシヤ語で、切つて返して来た。
「何でもございませんわ。私はただ退屈なだけですの。」
 A氏は唖然あぜんとした。次いでさつと顔を紅らめた。次いで、ああ飛んでもないことを言はなくつてよかつたと胸をでおろした。
 この退屈した二人が、令嬢の下車した温泉駅までの時間を、お互ひに意外な話相手を見出みいだしたことは言ふまでもない。A氏の聞いた所によると、何でもその令嬢は外交官の娘で、永らくロシヤに滞在したことのある人だつたさうである。


 A氏はこの話をして、「全く独り言でもうつかりした事は言へないものだ」と感慨ぶかさうに繰り返すのだつたが、これを聞いてゐた日本人のB(これは僕の友人で、対蘇たいソ貿易に従事してゐる或る会社に勤めてゐる。僕はこのBの口からこれらの挿話を又聞きに聞いたのである――)も、すこぶるこの話に興味をそそられた。で或る時、これも北鉄のことで滞京してゐる技師Cにその話をし、君も何か面白い話の種を持つてゐないかねと尋ねた。するとモスクヴァつであるC技師は、にやりと一笑して、次のやうな譬喩ひゆを以て答へた。
 ……ウクライナのさるところに猟の名手がゐた。あるとき虎狩りに出かけて行つて、かういふ土産みやげ話をした。
 僕がさるさびしい谷間に辿たどりついて、ふと前方を見ると、遥か彼方かなたの丘の蔭から何と虎の頭がのぞいてゐるぢやないか。僕は勇躍ねらひをさだめ、ずどんと一発ぶつ放した。勿論もちろんみごとに命中して、虎の頭はがくりと落ちて見えなくなつた。仕澄ましたりと僕は歩み寄る。と何歩も行かぬうちに、又してものそりと虎が頭を出した。はてな、仕損じたかなと僕は思つて、再び狙ひを定めてぶつ放した。今度もたしかに手ごたへあつて、黄色い頭は丘のうしろにがくりと落ちた。大丈夫だらうとは思つたが、万一の用心にしばらく様子をうかがつた。今度は参つたと見えて、頭はそれなり現はれない。そろそろと僕は歩み寄る。するとまあ何としたことだ、又してもむつくり黄色い頭がもちあがつたぢやないか。何たる往生際おうじょうぎわの悪いやつだ、と僕は思はず舌うちしたね。そこで再び銃をとり直し、慎重の上にも慎重に狙ひを定めて火蓋ひぶたを切つた。何しろこの僕が腕にりをかけた一発だ。頭は三たび丘の蔭に落ちたんだ。今度こそは大丈夫とは思つたが、それでも十分ばかりは様子を窺つてゐたね。相手が頗る獰猛どうもうな奴かも知れんからな。しかし今度は参つたと見えて一向頭は現はれない。そこでそろりそろりとその丘を登つて、こつそり樹蔭こかげから現場をのぞいて見た。……どうだい、わかるかね。僕がそこに何を見出したと思ふかい?
 さあ、分からんなあ、と相手が答へる。
 なあに君、虎が三匹枕を並べて討死うちじにしたまでの話さ。……
 モスクヴァ生れのC技師はここまで話して、からからと大口あけて笑つた。日本人のBはそこで、C氏がこの譬喩でもつてA氏をも含めての南露人の法螺ほら吹きの一面を笑ひ飛ばしたことを卒然として悟つたが、さりとてあの令嬢の一件をまんざらA氏の千つ――否、虎つ振りだとも断定できないのを感じた。
 よしんばあの話が、A氏のうちのやみがたい郷愁の語らせた作り話であるにしても、それならそれで美しいではないかとも思はれたし、またA氏の持つかなり観察の鋭い一面も知つてゐて、さうさう与太を飛ばす人ではないやうに思つてゐたからである。そのA氏の観察の細かさについては、例へば次のやうな挿話がある。


 或る日のことBは商用のためA氏に附き添つて東北方面へ旅行した。車中の無聊ぶりょうを紛らすため、Bは近頃になつて習ひ覚えた西洋将棋の盤を出して、かねがねその道の達人と聞いてゐるA氏に挑戦した。A氏ももとより異存のあるはずがない。二人はたちまち夢中でこまを動かしはじめた。
 それは半分に仕切つた二等車だつた。ただでさへ碁将棋には物見だかい日本人のことだから、一人寄り二人集まりして、しまひには乗り合はした五六人の客は残らず盤のまはりに顔を並べてしまつた。
「へえ、桂馬けいまが後びつしやりしますのかい?」
 などと頓狂とんきょう声を上げる商人風の男もあつた。中でも一ばん熱心に観戦してゐたのは、一人の海軍下士官だつた。二三局目になると、ほとんど駒の動き方を覚えてしまひ、自分でも手を出し兼ねないやうな勢ひで、逃げ廻つてゐるBの王様に盛んに声援を与へたりした。
 やがて汽車が海軍の飛行場のあるといふ駅に着くと、下士官はあわてて荷物をまとめて下りて行つた。そこでBは初めて、その男が航空隊の人だつたことに気がついた。
「ねえAさん、さつきの将棋の好きな男、誰だか知つてゐますか? あれは飛行家なんですよ。」とBは、数番たてつづけに敗けたあとでA氏に言つて見た。するとA氏は別に意外でもないといつた顔つきで、かう答へた。
「ああ飛行家か。いや多分機関士だらうぜ。僕は前から気がついてたのさ。」
「どうして分かるんです? あの徽章きしょうでですか?」
「いや、僕には日本の軍人の徽章なんかちつとも分からんさ。僕があの人を機関士だと断定したのは、実は国際的な一つの特徴をあの人がそなへてゐたからさ。」
 Bはすこぶる好奇心をそそられた。しかし、彼の問ひに答へてA氏の与へた解答は、次のやうな何の変哲もないものだつた。
「先刻あの軍人は便所へ行つたらう。出て来るとズボンのかくしからハンカチを取り出して、手をいたが、それがただの拭き方ぢやなかつたのさ。両手で団子をこねるやうにくしやくしやに丸めて、それなりポンと自分の座席へほうり出したのさ、僕はそれを見て思はず微笑を禁じ得なかつたね。あれぢやたとへキモノを着てゐたところで襤褸ぼろつきれでてのひらの機械油をごしごし拭きつけた人なることは一目瞭然りょうぜんぢやないか。」
 Bはこの説明を聞いて、ふつとロシヤ製のシャーロック・ホームズと対面してゐるやうな気がしたさうである。

底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
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