一

「まったくでござんす、親方。御覧の通りのせっぽちじゃござんすが、これで案外きもたまはしっかりしてますんで。今まで乗ってました船でも、こいつぐらい上手にマストへのぼる奴はなかったそうでござんす。まるで猿みたいな奴だなんていわれてたくらいで――高いところの仕事にはもって来いの餓鬼がきです。どうでしょう、ひとつあっしと一しょにリベット(鋲打びょううち)の方へでも、ためしにお使いんなっては頂けねえでしょうか」
 ガラガラ、ガラガラとウィンチ(捲揚機まきあげき)の廻転する音、ガンガンと鉄骨を叩く轟音ごうおん、タタタタタとリベット(びょう)を打ち込むひびき、それに負けないように、石山平吉へいきちは我にもなく怒鳴るような大声で一息に言い終ると、心配そうな眼をして監督の顔をのぞき込んだ。なかなか仕事はないし、出来ることなら自分の手もとで働かせたい――そう思うと平吉は、どうしても一生懸命にならずにいられなかった。
 監督は腕組をしたままの姿で、平吉と並んで少し笑を含んで自分の方を見て立っている少年へ眼を移した。息子の一男かずおが笑を含んでいたのは、父親のいうことを聞いていると、つまりはこの自分を父親が自慢していることになるのがおかしかったからである。
 なるほど、一男は十七という年齢にあわせては、小柄なばかりでなくせている方だった。しかし、潮風にやけたその面魂つらだましいには、どこかしっかりしたところがあった。少し茶色がかった静かな瞳、きちんと結んだ唇、どっちかというと柔和にゅうわな顔立だったが、眉のあたりに負けぬ気が見えて、顔全体を引き締めていた。それに何よりも監督を驚かしたのは、こんな場所に立っていながら、その少年の腰つきが少しもふらついていないことだった。眼にも怖がっているらしいおどおどした色はまるで現れていない。
 今三人の男が立話たちばなしをしている場所は、地上から二十五メートルも離れた空間だ。足場あしばがわりに鉄骨のはりの上に懸け渡しただけの何枚かの板の上に立っているのだった。下をのぞけば、地下室をつくるために掘りさげられた地底まで三十メートルはあるだろう。よほどれたものでも、何かにつかまらなければ眼がくらくらして覗いてはいられない高さだ。
 監督はあらためて一男少年の顔を見なおした。平然としている。わざと平気な顔をしているのではない。
「ひょっとすると親爺おやじのいうのは嘘ではないかも知れない」
 監督はそう思った。それに彼は全体に一男の様子が気に入ったのだ。監督の満足そうな眼つきでそれが分かる。
 そこで平吉はすかさずもう一度頼み込んだ。
「岸本さん、頼みます。使ってみてやって下さいよ」
 監督は、「うん」と曖昧あいまいな返事をしてなお考えている様子だったが、やがて考えがきまったと見えて、平吉にいいつけた。
「山田を呼んで来てくれ」
 山田というのは平吉の組の職工頭しょっこうがしらだった。
 山田が来ると監督は一男をひきあわせた。
「石山のせがれだそうだ。この間見習が一人いるように言っていたが、使ってやったらどうだ」
 平吉も一男も思わず山田の顔を見つめた。この人の返事一つで運命がきまるのだ。
 ずばぬけて背の高い山田は、見下みおろすように一男を眺めていたが、遠慮なしにはっきり答えた。
「こんな子供じゃ役に立ちません。いれるだけ無駄です」
「だが、山田さん、柄は小さいけど――」
 平吉がせき込んで言いかけるのを監督がとめた。
「石山、山田がいけないというものをやとうわけには行かないよ。じかに使うのは山田なんだからな」
 平吉も一男も口をつぐまなければならなかった。
 山田は、実は自分の知合しりあいを一人いれたかったのだ。折を見て監督に頼もうと思って、まず見習が一人いるということをほのめかしておいたのだ。一男をここで雇ったら自分の計画が駄目になってしまう。
 ちょっとの間、四人は気まずい思いで突立つったっていた。
「石山、気の毒だが仕方がない。さア、二人とも仕事にかかってくれ」
「平さん、わるく思わないでくれ。この年じゃまだ無理だよ」
 山田がまず立ち去った。
 石山親子も監督に礼を言って、その場を去るほかなかった。

  二

 十七といっても一男は、両親のお蔭で中学校へ通わせてもらっている幸福な少年たちのように、呑気のんきではなかった。今自分に仕事が見つからなければ、家がどんなに困ることになるかということがちゃんと分かっていた。
 だから今断られたことを悲しむ気持は、あるいは父親の平吉以上だったかも知れない。
 一男は一年半程まえから、近海航路の貨物船の水夫をしていた。年が年だからむろん給仕で乗り込んだのだが、船が補助機関を設備した帆船はんせんだったため、その身軽なところを見込まれて、二箇月とたたないうちに水夫に採用された。実際、彼ぐらい楽々とマストに登って帆をあやつることの出来る水夫はなかった。どんなに風が吹いてもマストがしなうほど揺れようが、彼は平気で軍歌をうたいながらそのてっぺんで働いた。彼は船乗ふなのりの暮しを少しもつらいとは思わなかった。皆から快活な性質を愛されながら、自由で男らしいその仕事をむしろ楽しんでいた。それに水夫になってからは給料もよく、家へも十分に金を送ることが出来た。
 ところが、九月半ば頃、大荒おおあれの海をのり切って船が大阪港へ入った時、一通の電報が彼を待ち受けていた。

  「ハハ ビヨウキ カエレ」

 彼は別れを惜しんでくれる大勢の兄貴分たちを船に残して、暗い思いで大阪駅から汽車に乗った。
 夕方、本所ほんじょのごみごみした町の、とある路地ろじの奥にある、海の上でも一日として忘れたことのないなつかしい我が家へ入ると、すぐ下の妹、十五になるすみが、前掛まえかけで手をきながら飛び出して来た。
 奥の六畳の薄暗い電灯の下に寝ている母親の枕もとへ一男が坐ると、五人の幼い弟妹たちがもの珍しげに彼をとり囲んだ。
 母の病気は脚気かっけだった。足が醤油樽しょうゆだるのようにむくみ、心臓を苦しがった。無理をして御飯ごしらえ、洗濯から大勢の子供たちの世話まで、この間までつづけて来たのだが、今では立っていることも出来なかった。すみ工場勤こうばづとめをやめて母代りに働くほかなかった。だが、そうなると母親はすっかり気が弱くなって、ここ半月ぐらいの間、毎日一男のことばかり言い暮した。はじめは相手にしなかった主人の平吉も、さすがに病人の心持が可哀かわいそうになった。それほどに会いたがっている一男に一目会わせてやったら、或は病気も早くなおるのではあるまいかと思われ出した。
 それで、電報を打つことになったのだ。
「一男か、よく帰って来てくれた」
 そそけがみの頭をあげて、母は幾日か夢に描きつづけた一男の顔を、じっと眺めた。涙が一滴ひとしずく、やつれた頬をつたって、枕のきれぬらした。
「もう大丈夫、僕どこへも行きはしませんよ」
 一男は胸が一杯になって思わずそう言った。彼も鼻の奥の方が変に痛くなって来るのを感じた。
 だが、一男は突然ひょうきんな顔を妹のすみの方へふりむけた。
「ところで船長、お帰りはまだかい」
「船長?」
 あっ気にとられている妹をからかうように一男はつづけた。
「わが石山丸の船長さ。おとっつぁんはまだかってんだよ」
「まア、兄さんたらお家と船を一しょにして――」
「船さ、船だとも、世の荒波を勇ましく乗り切る船だよ。――だが、この機関長、腹が減ってるんだがなア」
「もう、お父つぁんも帰る時分よ」
「そうか、じゃ水夫ども、甲板掃除かんぱんそうじだ」
 一男は後に控えた弟や妹を振りかえった。
「あっちの部屋を綺麗にしろよ」
「ようし、甲板掃除だ」
「あたち、水夫よ」
 小さな弟や妹たちは急に元気になって、がやがや立ち上った。
 しばらくぶりでこの貧しい家にも笑が帰って来た。病人はまだ眼尻めじりに涙のたまったままの顔で、唇にみを浮かべていた。
「さア、お母さんも元気を出したと――、もう大丈夫ですよ。じきなおります。僕がきっとなおして見せます」
 この一男の言葉が、母親には、医者に保証されたより頼もしく響いたのであった。
 お膳が出るまでには父親も帰って来た。玄関兼居間の四畳半に、平吉と六人の子供たちが食卓を囲んで坐ると、船の食堂よりもっと窮屈きゅうくつだった。発育ざかりの弟や妹が次々に茶碗を突き出す様子は、出帆しゅっぱんの準備をする時よりもっとせわしなかった。一男はその中で父から母親の病気の様子をきいた。
 命には別状はあるまいが、長くかかるだろうという医者の見たてだった。寝てばかりいるせいか、物を食べたがらないのが困るということだった。
 一男は、家へ送るほかに、小づかいを倹約して貯めておいた金を父親の前へおいた。今までは、医者のいう通りにもなかなか出来なかったらしい。
「これで出来るだけの養生ようじょうをさせて上げて下さい」
 平吉は黙っていつまでも息子の顔を見ていた。
 翌日から一男は、誰の手もわずらわさずに母親の看護を一人で引受けた。病人のある家とも見えず、明るい笑声が絶えなかった。そのためかどうか、おそらく一男が帰って来たという安心のせいもあったのだろう、母の病気はほんの少しずつよくなって行くように見えた。
 しかし、石山一家は、いつまでこうしているわけには行かなかった。すみが工場でかせいで来る金が入らなくなった。一男の送金も来なくなったわけだ。その上、病人のために不断よりは余計に費用がかさむのだ。
 ある晩、子供たちが六畳の方で寝静まった時、平吉と一男とは長いこと相談した。いま一男が船へ乗って海へ出るようなことをすれば、また病人はわるくなるにきまっている。だが一男が今のように看護婦の代りをしていたのでは、病人の薬代はおろか、米代もつづかないのだ。
 翌日一男は父親について、彼が今働いている建築場へ行って見ることになったのであった。

  三

 平吉は一男を板張いたばりはずれへれて行って、監督にをむけて立った。
「困ったな」
「なんか見つかるよ、お父つぁん」
 一男にもこれというあてはなかったけれども、わざとかえすように彼は答えた。
 平吉は監督に背中を見られているのを感じた。早く自分の仕事にかからなければならない。ゆっくり相談している暇はないのだ。
「じゃ、今夜、帰ってから相談することにしよう。気をつけて帰れよ」
 平吉はさっきから人待顔にすぐ前に下っていた太いくさりの先のかぎに軽く右足をかけて鎖に全身をたくした。ウィンチをく音が烈しく聞えて、鎖を下げた起重機は菜葉服なっぱふくの平吉を、蜘蛛くもの糸にぶら下った蜘蛛のように空中にげた。それから起重機はグーッとまわって、平吉の体を今までのところより五六メートル高い屋上の鉄のはりの上にぽとりと下した。するとほとんをおかずに、そこから鉄にびょうを打ち込むリベット・ハンマー(鋲打びょううちつち)の音がタタタタタと聞えはじめた。一男には気のせいかその音が、ほかの音より元気がないような気がした。
 よし、帰りに新聞を買って広告で就職口をさがしてやろう。見つけるといったら見つけずにはおかないから――
 一男は、縦横に組み上げられた鉄材の間から、遠く澄んだ空へ眼をはなった。上総かずさ房州ぼうしゅう山波やまなみがくっきりと、きざんだような輪廓りんかくを見せている。品川の海に浮かんでいるお台場だいばが、一つ二つ三つ、五つ六つ並んで緑色の可愛かわいい置物のようだ。銀座、芝あたりの町は小人島こびとじまのようだし、芝浦の岸壁がんぺき碇泊ていはくしている汽船はまるで玩具おもちゃだ。すぐ近くの日比谷公園は、飛行機から見下みおろすように、立樹たちきも建物も押しつぶされたように平ったく見える。
 風がさわやかに吹いていた。
「なアに、なんとかなるさ。ならなきゃして見せるまでだ」
 彼は急にはればれとした気持になって、シャツのえりをはだけて日にやけた胸を出した。まるで海へ帰ったようだ。
 その時、うしろに立っていた岸本監督は、一男が無造作むぞうさに歩き出したのを見て、はっとした。少年は今まで立っていた板張いたばりから出はずれると、ことさらに手で平均をとる様子もなく、両足をならべて立つはばもない鉄梁てつりょうつたって、ひょいとビルディングの一番外側になっている鉄桁てつげたに足をのせた。そこで彼はポケットに手を突込んだまんま、目の下二十五メートルのところを白く流れている大通を見下した。自動車、自転車の往来でも眺めているのだろう。彼は無心にいつまでも見下している。
 監督は大声が出したくなったのを、やっとのことで我慢した。足を踏みはずしたらどうするというのだ。彼はその時一男をひきずり倒してなぐりつけたい程じりじりすると同時に、また一方では、その面憎つらにくいまで落ちつきはらったきもたまの太さに、思うさま拍手を送りたくなったのだった。
「うむ、大した胆だ。惜しいもんだな」
 岸本監督は喉の奥でひとりうめいた。
 そのうち、あたりに働いている職人たちのうちにも、何人かその危いところに立っている一男の姿に気づいたものがあった。彼等はその姿に気づくと一しょにもう眼をはなすことが出来なかった。仕事をつづけることも忘れて、あっにとられて見つめたっきりになってしまった。やや俯向うつむ加減かげんの一男の小さい姿は、遥かに青み渡った帝都の大空にくっきりと浮かんで、銅像かなんかのように微塵みじんも動きそうにない。見ている職人たちの膝頭ひざがしらがかえってがちがち動きはじめて来た。そしてどの心の中にも、「えらい!」と大声に怒鳴ってやりたいような気持が動きはじめた。
 その時、まったく不意に――と見ている方の連中には思えたのだ――少年は頭を上げると、くるりとむきを変えて、ぶらぶらと監督のいる方へ帰って来た。皆が腹の中ではらはらしていたことなんか、彼はまったく知らないのだ。あらしの海で船のマストに登って仕事をすることにくらべれば、ガッチリ組み上げられた鉄骨のはりの上を歩くことなどは、それがたとえどんなに高かろうと、何でもないことだ。
 一男がもう一度、板張の上に帰って来て、「お邪魔じゃましました」と挨拶してからまるで平地へいちを歩くような様子で急な段階を下りて行く姿を、監督は残り惜しそうな眼で見送っていた。

  四

 曲り曲って細々と地獄の底までつづきそうな階段を、一男は平気で、ポケットへ手を入れたまま、きょろきょろよそ見をしながらゆっくり下りて行った。だが、彼が二階分ほど階段を下りた時だった。あたりの騒がしい物音を突きぬけて、ガーンと鉄材が鉄材にぶつかる恐しい音響が強く鼓膜こまくをうった。頭のしんまで響いて来た。けたたましい人声が聞えたような気もした。一男は立ちどまって上の方を見上げた。
 気がつくと、仕事場中の物音が一斉いっせいにとまっていた。さっと風が吹いて一切の物音をさらって行ってしまったあとのようだ。変に気味わるく静まりかえっている。その中から監督の叫ぶ声がハッキリ聞えて来た。
「あいつをめろ! 呼び戻せ! 今の子供を止めるんだ!」
 誰かが、どたんどたんと階段をりて来るらしく、かすかな震動が一男の体に伝わって来た。
「おい、君!」
 やや離れたところから呼ばれて振り返った一男の眼に、あおざめた監督の顔が鉄のわくの間から自分を熱心に見つめているのがうつった。
「戻ってくれ! 故障だ、怪我人だ」
 何人かの職人たちが一度にどっと監督のまわりへ駈け寄ったが、先頭に立っていたのは一男だった。彼はあっという間に、もう、さっきまでいた七階の板張の床の上に監督と並んで立っていた。
 監督の眼を追って、頭の上を見上げた一男の顔からも血のが消えた。
 十五メートルもあろうかと思われる、途方もなく大きな鉄のはりが、起重機から、わずかに一本の鎖で危く斜にささえられて、ふらりふらりとさがっているのだ。どうした間違いか、もう一本の吊鎖つりぐさりが外れたのだ。その拍子ひょうしに、人夫たちのたぐり寄せていた引綱ひきづなも、彼等の手からぐいっと持ってゆかれて、すべり落ちてしまったのだ。平均を失ったその鉄の梁は、今にもずるずるとすべって、骨組だけの八階建のその大建築を、てっぺんからぶち抜いて、がらがらと落ちて行きそうだった。
 早くなんとかしなければ――だが、その時一男少年は思わずぐっとつばをのみ込んだ。彼は一人の職工が一番高い梁の上にまたがったまま、ぐったりとうつぶしているのを見つけ出したのだ。はずれたくさりのさきが、大きく揺れる時彼の頭を撃ったものに相違そういない。彼は明らかに気を失っている。その上、彼がまたがっている梁の片端は、さし込んであった支柱からぐいと外れている。吊った鎖が外れた途端、今ななめにぶら下っているあの梁が、その職人の跨がっている梁に衝突したのだ。あのガーンという恐しい音響は、その時一男の耳を撃ったのであった。亀の子のように空中で首を振っているあの大きな梁が、彼の乗っている梁にもう一度ゴツンとでもれて見ろ! 一男は目をつぶった。

  五

 だが、岸本監督はさすがに落ちつきをとり戻して、機敏きびんに頭を働かせていた。今こそ一男を使う時だ! 大人おとながのればあのはりは落ちる。だが子供なら……そうだ、一男なら大丈夫だ。
「君、怪我人けがにんを助けに行ってくれ。頼む!」
 その言葉より早く、一男の靴が飛んだ。監督はにしたつなを彼の首にかけた。最初に太いのを、次に細いのを。
「いいか、さきに、怪我人を梁へしばりつけるんだ。それからあのふらふらしている鉄材に太い方の綱をかけて来い。落ちついてやれ。はずしたらおしまいだぞ。あわてるなよ」
 一男は、上をにらみながら岸本監督の言葉を聞いていた。分かった。あそこでああして、ここでこうして――彼は仕事の手順を、もう一度自分で腹へたたみ込んだ。深く息をのみ込んで、ぐっと胸を張った。よし! 彼は下っているロープに飛びついた。まったく猿だった。するすると一男の体はまたたにのぼって行った。そして気絶した人が倒れている梁が支柱しちゅうに組み込まれているかどに手がとどくと、ぐいと一度体を丸めてやんわりと梁の上に乗り移った。梁はかすかにふるえていた。気を失っている人の体までは八メートルある。梁の幅は十二センチにも足りない。そして足の下は三十メートルもあるうつろの空間だ。
「黙ってろ! やることは分かってるんだ」
 誰かが下から指図さしずしようとした時、岸本監督は低い声で押さえた。
 一男はじっと怪我人に目をつけたまんま、じりじりと進んだ。彼は、時々、梁のゆるぎを止めるために立ちどまらなければならなかった。
 いつの間にか風が強くなっていたらしい。一男の鳥打帽子とりうちぼうしがさっと風にきあげられて、いがぐり頭が剥出むきだしになった時には、熱心な見物人たちは我しらずうめいた。帽子は鉄骨にぶつかりぶつかり長くかかって落ちて行った。
 三メートル、五メートル、一男は気を失っている人に接近して行った。これからが危いところだ。片一方の支柱だけでやっとささえられている梁だ、ぐんとはずれたらそれまでだ。
 あと一メートル――。
 皆は一度に息をついた。一男はゆっくりと梁の上に手をつき、やがて梁に馬のりになって、まず自分の体を安定させた。が、それからの仕事は手早かった。彼は細い方の綱のを首から外すと、死んだようになっている人の体にのりかかって、機敏に縄をかけた。あっという間に、怪我人の体は梁にしっかりと結びつけられていた。
 見上げている連中は、ここで何とか声がかけたかった。だが、岸本監督はすぐに様子をさっして皆を制した。
「まて、あいつが何とかいうまで黙っていろ」
 しかし、一男は口もきかず、みんなの方を見ようともしなかった。彼にはまだ仕事が残っていた。第一に怪我人の様子をたしかめなければならない。それから、起重機の鎖から危くぶらさがっている物騒ぶっそうな梁に、うま引綱ひきづなをしばりつけなければならないのだ。
 一男は怪我人の背中に手をつき、戦闘帽型の帽子をぬがせた。そしてのぞき込んだ彼の眼に映ったものは意外にも職工頭の山田の顔だった。ニベもなくさっき自分を断ったあの職工頭の顔だった。なんともいえぬ厳粛げんしゅくなものが彼の胸を打った。命にかかわるようなひどい怪我ではありませんように――彼は祈るような気持で丁寧ていねいに山田の頭を調べた。血は出ていない、骨が砕けている様子もない。どうも強く打たれたために気を失っているだけのことらしい。よかった、よかった。――と、彼は右足で足場をさぐり、左足を立て、そろそろ腰を浮かしはじめた。見ている人たちは今度はぐっと息をつめた。一男は真直まっすぐにたってからゆっくりむきをかえた。静かに静かに、梁のゆるぎを殺しながら、もと来た方へ引きかえす。進む時よりも気を配っている様子だ。右手をのばした。大支柱のところまでもう二三歩だ。ああ、抱きついた。彼の右手はしっかりと支柱を抱きかかえたのだ。そして、一男ははじめて皆の方を見下して、手を振った。恐しいような歓呼かんこがあがって、すぐやんだ。一男が猶予ゆうよなく次の仕事にとりかかったからである。
 だが、あとの仕事は楽だった。重々しく揺れまわっている鉄梁てつりょうには難なく引綱が結びつけられた。そして一男は残った綱のたまを、監督を中心に群がっている人たちの真中へ手際よく投げおろした。何十本かの手が夢中でそれをつかんだ。これで引綱が完全につけられたわけだ。鼻づらは、まっすぐ落ちても差支さしつかえのない場所へ静かに引きよせられた。
 大きなバケット(おけ)をさげた起重機がぐうっと上って来て一男の鼻さきでとまった。彼がひょいとそれに乗りうつると、今度はバケットが梁にしばりつけられた怪我人のそばへ寄って行った。もう危険なふらふらした鎖につられた鉄材がわきへのけられていたから平気でそばに寄れるのである。一男の手は風のように早く動いて職工頭をしばってある細引ほそびきをほどいて、そのぐったりした体を両腕で抱いた。体の重さで、彼はバケットの中でよろめいた。起重機はすぐにバケットをぐうっと上へ持ちあげ、ゆるく右の方へ廻転しはじめた。
 その時、今まで職工頭をのせていた梁は支えきれなくなって、がらがらとあっちにぶつかりこっちにぶつかり、真逆様まっさかさまに墜落して行った。見ている人たちの髪の毛はさか立った。
 二人を乗せたバケットが自分等の前までさがって来た時、監督をはじめ板張いたばりゆかの上に立っている人々は、我にもあらず、一斉いっせい歓声かんせいをあげた。その中に平吉の声もまじっていた。彼は監督とならんで、バケットの中に山田を抱いている伜の顔を一心に見つめていた。平吉の眼には涙があふれていた。
 それを見ると一男も何かぐっとこみげて来て、わけの分からない涙が頬をつたって、抱いている人の顔へ落ちた。と、急に抱いている山田の体が重くなったような気がした。彼がぽっかり眼をあけたのだ。彼はまず不思議そうに一男の顔を見た。それからあたりをきょろきょろ見まわしていた。
「気がつきましたか」
 言いながら一男は山田をバケットの底に立たせた。
 その瞬間にひらめくように山田の頭には一切が分かった。
「君は、君は――君が僕を助けてくれたのか。き、きみが――」
 山田の両手が一男の両手をしっかりとつかんでいた。その様子を見てみんなはもう一度物凄い程の声で万歳を叫んだ。
 一男は何かに感謝したいような気がして目をつぶった。今まで見ていた父の顔が、すうっと母の顔に変った。まぶたのうらで母の顔はうれしそうに笑った。
 秋空は高く澄み渡り、強い風にさからうように、とびが一羽ピンと翼を張って悠々ゆうゆうえがいていた。

底本:「少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集」三一書房
   1990(平成2)年3月31日第1版第1刷発行
入力:門田裕志
校正:富田倫生
2007年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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