カンザクラというサクラの一種があって、学名をプルーヌス・カンザクラ(prunus Kanzakura, Makino)と称する。落葉喬木で多くの枝を分かち、繁く葉をつける。高さはおよそ一丈半くらいにも成長し、幹はおよそ一尺余にも達する。
 このカンザクラは、ふつうのサクラよりはずっと早く開花する。寒いときに早くも花が咲くというので、寒桜の名がある。彼岸ザクラに先だち、すなわち二月には花がさくので、ふつうのサクラの先駆けをする。しかし東京では寒気のためにその花弁が往々傷められがちであるが、駿州辺のような暖地ではまことにみごとに開花する。
 東京ではかの荒川堤に二、三本あって、よく花が咲きおったが、私ももはや久しく同堤へ行かないから、今日果してそれがどうなっているか分からない。それはかなり大きな樹であったため、たぶん今日でもなお存しているであろう。しかし同堤の桜樹のようにだいぶ弱っていはせぬかと想像する。
 東京上野公園内、東京帝室博物館の正門を入ったすぐ正面より少し右の地点にカンザクラの老樹一本があって、毎年花が咲くとよくその写真が新聞紙上に出て、上野公園のヒガンザクラが咲いたとその名を間違えて書いてあった。
 公園唯一のこのカンザクラは、今日はその樹がどうなったか、ここも私は久しく行かぬゆえ今その辺の消息が分からないが、大震災後同館内もだいぶ変わったから、今日では果してそれがどうなっているか、安全? 異変があった? そこへ行ってみれば分かることだが、もしも旧来からの場所に見えないとならば、この名樹は今どこへ移されたか、あるいはむざんに切られたか、それを突き止めてみたい気もする。
 右博物館内のこのカンザクラについては、ここに左の話を書き残しておかねばならぬことがある。このカンザクラは私にとっては思い出の深い一樹であるからである。
 明治から大正へかけて、私は一度右の帝室博物館の天産部に兼勤していたことがあった。それはむろん大震災の前であった。その時分には上野公園は博物館と同じく宮内省の所属であって、公園は博物館で管理していた。当時私の考えたのには、もしあの早く咲くカンザクラが少なくも十本でも二十本でも上野公園内に植えられ、同公園に一族の桜花が他の花に率先して咲いてその風景に趣を添えたとしたら、どれほどみなの人に珍しがられることであろうと信じた。
 そこでそのとき上手な植木屋に命じて、その一本の親木からぎ穂を採って用意せる砧木に接がせてみた。しかしどうも活着がむつかしくて、やっと二本だけ成功させたので、これを公園へ出す前にまずそれを母樹の傍へ植えさせた。
 幸いにこの二本の幼樹がその後勢いよく生長しつつあったが、今日はそれがどうなっているのかと、ときどきこれを思い出すのである。元来当時自分の意見で上のように実行したものであるから、おりに触れてこれを回想するたびに右のカンザクラの親木と児の木とについて心もとなく思っているので、この博物館のカンザクラについて上に述べたような事実があったということをここに書いておくのもせめてもの心やりである。右のことがらはおそらく今日の博物館のお方もご存じないことであろうと想像するから、今ここにそのありし当時のいきさつを書き残しおくこともあながち無益ではなかろうと信ずる。
 私は上のごとく博物館に勤めていた当時は、人々を引きつけるに足る珍しい桜を上野公園に栽えて公園を飾り、衆目をたのしますことにつき不断の関心を持っていて、それを実行に移しかけたこともあったのである。
 すなわち前のカンザクラもそうであったが、次に日本の東北地方の山に多きオオヤマザクラの苗木百本を、自費で北海道から取り寄せてこれを博物館に献納し、同館内の地へ栽えて生長させたこともあった。私はこのオオヤマザクラを後日上野公園へ出して植え、それへ花を咲かせたら、ふつうのサクラよりは花色の濃い美麗なサクラが公園内に咲いて、公園に遊ぶ衆人はこれを見て珍しがり喜ぶであろう、そして公園を飾り立てるにもいいと思い、右のように実行を始めたのであったが、襲来した大震災のためにそれが頓挫し、また私も震災直後同館への勤めを止めたのでその実行が継続しなかった。
 その後まもなく公園が東京市へ移管せられたので、すなわち上流のオオヤマザクラの苗木が博物館内に栽えてある事実と、そのかくした理由とを東京公園課長の井下清君に話し、右の苗木を博物館より譲り受けて上野公園へ出してもらったことがあったが、そのときはその苗木がもと百本もあったものが枯れたかどうかして、ただ十一本しか残っていなかったと聞いた。たぶん井下君はそれを上野公園のどこかへ植えさせたのであろうと思うが、今日そのオオヤマザクラがいずれの地点に栽わっているのか、私には判然していない。もしも右の樹が枯れずに生長しつつあるとすれば、今日ではもはや花が咲かねばならぬのだが、それが果して毎春咲きつつあるや否や、見きわめたいものである。もし幸いにその樹が枯れずにあって年々花が咲きおるとすれば、上に述べた人の知らない私の心づくしもいくぶん酬いられるわけであるが、今それがどうなっているのやら。
 寒ザクラはむろんわが日本のものであれど、しかし今日までまだどこにも野生のものが見つからない。これはことによるとヤマザクラとヒカンザクラ(緋寒桜、学名はプルーヌス[#「プルーヌス」は底本では「ブルーヌス」]・カンパヌラータ(Prunus campanulata, Maxim.)とのあいの子かも知れぬ。またそう思わせる資質を現わしているが、それが果してそうかどうかはにわかに判断がつかない。ヤマザクラと緋カンザクラとはだいぶ花時が食い違っていれど、しかし早く咲いたヤマザクラと遅く咲いた緋カンザクラとがうまい具合に交媒したことが万一あったとしたら、そのときはそのあいの子ができないものでもないと想像する。今日はかの染色体の研究がさかんだから、その方面から検討してみたらあるいはその辺の事情がよく判ることと思う。
 私は伊豆の熱海の繁栄策の一つとして、以前から考えていることがある。それをもし熱海の人士が実行するならば、これは確かに熱海の利益である。そしてその花時に際しては、東西南北のお客を熱海に吸い寄せることができると信じて疑わない。すなわちそれは上の寒桜と緋寒桜とを利用することだ。
 その策は、カンザクラの苗木をまずおよそ千本くらい(なおたくさんあれば多々ますます弁ずる)用意して、これを熱海の適当なる地へ植えこむ。そしてまたかの緋カンザクラ(現に上のカンザクラもこの緋カンザクラも数本は既に同地の人家に栽えてあって、毎年よく花が咲きつつあるから、この両樹は同地に適する)の苗を同様用意してこれを植える。そしてそれらが生長して花が咲くようになれば、この両樹の花は熱海のような暖地では、早くも一月時分から開花するので、そこで熱海ではもうサクラの花が咲き、それが赤白二色の咲き分けとなっているとて、とても評判になり、そら熱海のサクラの花見に行けとて押しかけるワかけるワ、汽車はいつも満員であろう。熱海の旅館やホテルの主人たちが、なぜこの点に着眼しないかふしぎである。
 これは言うべくして容易に行なうことのできるなんでもないことがらであるから、私は同地の繁栄のため早くこの二つの赤、白サクラを栽えられんことをお奨めして止まない。マーやってごらんなさい。きっと当たるよ。そして後にはようこそ植えたということになる。
 そこで熱海でしかるべき地を相して、寒桜を各方へ分散して植えずにこれを一区域へ列植して一群の林を作る。それから一方の緋寒桜も同様これを方々へ分植せずに、これも一群の林となるように列植する。そしてなるべくはこの二桜林を左右か上下かに接近させる。
 まもなくそれが生長し花を開くようになると一方は白いサクラ、一方は赤いサクラと咲き分けになり、それが二月頃同時に開くから熱海では赤白咲き分けのサクラがはや咲いているとて大評判となり、この機逸すべからずと同地の宿屋連中が馬力をかけて大いに広告すれば、そら行って花見をせよやとお客がわれ劣らじと四方八方からワンサワンサと押しかけ来たり、宿屋はたちまちみな満員、桜の林には人だかり、とても同地は賑わうことであろうと信ずる。
 こんな天然物を利用して繁栄を策することは、永久的のものであって一時的なものでなく策の最も上乗なものである。私は熱海人士に熱海人士が大いに私のこの献策に耳を傾けられんことを願いたいとは、ずっと以前から私の熱海をおもう老婆心であったのである。
 ところがさすが同地にもやはり具眼の人々があって近来寒桜の苗木を多数用意しだいぶこれを同地に植えたのである。しかし残念なことにはその苗木が諸方にばらばらに植えられてあるので私の意見とはちょっと相違している。かくこれをばらばらに植えてそこにチョボリここにチョボリでは引き立たない。どうしてもこれはそれを一所に群栽して、それはちょうど梅林のように、それを桜林とせねばせっかくの努力もたいした好結果を持ちきたさないことを私はひそかに憂えている。

底本:「花の名随筆1 一月の花」作品社
   1998(平成10)年11月30日初版第1刷発行
底本の親本:「牧野富太郎選集 第二巻」東京美術
   1970(昭和45)年5月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年12月9日作成
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