花がつみまじりにさけるかきつばたたれしめさして衣にするらん 公実
狩人の衣するてふかきつばた花さくときになりぞしにけり 基俊
狩人の衣するてふかきつばた花さくときになりぞしにけり 基俊
カキツバタはだれもよく知っているアヤメ科イリス(Iris)属の一種であって、Iris laevigata Fisch. の学名を有する。シベリア、北支那方面からわが日本に分布せる宿根草で、水辺あるいは湿原に野生し、わが邦では無論かく自生もあれど、通常は多くこれを池畔に栽えてある。
この草は冬はその葉が枯れて春に旧根から萌出し、夏秋に繁茂する。根茎は横臥し分枝し、葉は跨状式をなして出で、剣状広線形で尖り鮮緑色を呈して平滑である。葉中に緑茎を抽いて直立し一、二葉を互生し、茎頂に二鞘苞ありて苞中に三花を有し、毎日一花ずつ開く。花は美麗な紫色で外側の大きな三片は萼で、それが花弁状を呈し、その間に上に立っている狭い三片が真正の花弁である。萼片の柄の内側に一つの雄蕋があるから、つまり雄蕋は一花に三つあるわけだ。そしてその葯は白色で外方に向かって開裂し花粉を吐くのである。中央に一花柱があって三つに分れ、その枝は萼片の上により添うて葯を覆い、その末端に二裂片があってその外方基部のところに柱頭がある。この花は虫媒花であるから昆虫によって媒助せられ、雄花の花粉を虫が柱頭へ付けてくれる。そして子房は花の下にあっていわゆる下位子房をなし、花後に果実となりついにそれが開裂して種子を放出し、枯れた実は依然として立っている。カキツバタは紫花品がふつうであるが、またシロカキツバタという白花品もあれば、またワシノオと呼ぶ白地へ紫の斑入り品もある。そして本種は同属中で最もゆかしい優雅な風情を持っていて、その点はまったく同属中他品のおよぶところではない。さればこそ昔から歌や俳句などで決してこれを見逃していないのは、尤もなことだと思われる。
今カキツバタの語原をたずねてみると、これはその根元は「書き付け花」から来たものだといわれる。すなわちそれは国学者荒木田久老の説破するところで、この同氏の説はまったく信憑するに足るものと信ずる、よって今左に同氏の説を紹介するが、これは今からまさに百二十一年前の文政四年に出版となった同氏著の、『槻の落葉信濃漫録』に載っている文章である。
かきつばた
波太波奈の通ふ言につきて因に言 かきつばたといふ花の名は燕の翅る形ちに似たれば翅燕花といふ言ぞと荷田大人のいはれしよし 師の冠辞考に見えたるをめでたき考とおもひをりしに 按ば是は燕子花とある漢字よりおもひよせられしものなり 熟考るに万葉七に墨吉之浅沢小野乃加吉都播多衣爾須里着将衣日不知毛又同巻に かきつばた衣に摺つけますらをの服曾比猟する月は来にけりとありて 上古は今のごとく染汁を製りて衣服を染ることはなくて 榛の実或はすみれかきつばたなどの色よき物を衣に摺り着てあやをなせるなり 其摺着をまたかきつくともいひて是も巻七に 真鳥住卯手の神社の菅の実を衣に書付令服児欲得とあれば かきつばたは書付花也(はなとはたと通ふは上にいふがごとし) 着をつとのみいふも古語也 つきつくつけなどいふきもくもけも用言に添る言にて元来つの一言ぞ着の意なりける 船のつく所を津といふにて知るべし(以下省略)
波太波奈の通ふ言につきて因に言 かきつばたといふ花の名は燕の翅る形ちに似たれば翅燕花といふ言ぞと荷田大人のいはれしよし 師の冠辞考に見えたるをめでたき考とおもひをりしに 按ば是は燕子花とある漢字よりおもひよせられしものなり 熟考るに万葉七に墨吉之浅沢小野乃加吉都播多衣爾須里着将衣日不知毛又同巻に かきつばた衣に摺つけますらをの服曾比猟する月は来にけりとありて 上古は今のごとく染汁を製りて衣服を染ることはなくて 榛の実或はすみれかきつばたなどの色よき物を衣に摺り着てあやをなせるなり 其摺着をまたかきつくともいひて是も巻七に 真鳥住卯手の神社の菅の実を衣に書付令服児欲得とあれば かきつばたは書付花也(はなとはたと通ふは上にいふがごとし) 着をつとのみいふも古語也 つきつくつけなどいふきもくもけも用言に添る言にて元来つの一言ぞ着の意なりける 船のつく所を津といふにて知るべし(以下省略)
右にてカキツバタの語原はよく解るであろう。
昭和八年六月四日に、私は広島文理科大学植物学教室の職員達と一緒に同校の学生を引き連れて植物実地指導のため、安芸の国山県郡八幡村におもむいた。この八幡村は同国西北隅の地でその西北は石見の国と界している。そしてこの村の田間の広い面積の地にカキツバタが一面に野生し、それがちょうど花のまっさかりな絶好の時期に出会った。私はつらつらそれを眺めているうちに、わが邦上古にその花を衣にすったということを思い浮かべたので、そこでさっそくにその花葩を摘み採り、試みに白のハンケチにすりつけてみたところ少しも濃淡なく一様に藤色に染んだので、さらに興に乗じて着ていた白ワイシャツの胸の辺へもしきりと花をすり付けて染め、しみじみと昔の気分に浸って喜んでみた。私は今この花を見捨てて去るのがものうく、その花辺に低徊しつついるうちにはしなく次の句が浮かんだ。この道にはまったく素人の私だから、無論モノにはなっていないのが当り前だが、ただ当時の記念としてここにその即吟を書き残してみた。
衣に摺りし昔の里かかきつばた
ハンケチに摺って見せけりかきつばた
白シャツに摺り付けて見るかきつばた
この里に業平来れば此処も歌
見劣りのしぬる光琳屏風かな
見るほどに何となつかしかきつばた
去ぬは憂し散るを見果てむかきつばた
ハンケチに摺って見せけりかきつばた
白シャツに摺り付けて見るかきつばた
この里に業平来れば此処も歌
見劣りのしぬる光琳屏風かな
見るほどに何となつかしかきつばた
去ぬは憂し散るを見果てむかきつばた
なんとつたない幼稚な句ではないか。書いたことは書いたが背中に冷汗がにじんできた。
今から千余年も遠い昔にできた深江輔仁の『本草和名』には、加岐都波太、すなわちカキツバタを蠡実、一名劇草、一名馬藺子等と書き、次いで千年余りも前にできた源順の『倭名類聚鈔』にもまた、加木豆波太、すなわちカキツバタを劇草、一名馬藺と記し、次いでまた九百余年前に撰ばれた『本草類編』にも、加岐都波奈を蠡実と書いてあるのはいずれもみなその漢名の適用を誤っていて、これらはことごとく同属ネジアヤメの名である。
カキツバタを加木豆波太、加岐都波太、加吉都幡多、華己紫抜他、もしくは加岐都波奈と書くのは単にその和名を漢字で書いたもので、すなわちいわゆる万葉仮名である。またさらに同じく漢字をもって書いたものに、垣津幡、垣津旗、垣幡がある。またカキツバタの別名としてカイツバタ、貌吉草、カオヨバナ、カオ花、貌花、容花、可保婆奈、可保我波奈があるが、これらは主として古歌に用いられたもので、今日ではただカキツバタの一通名で一般にとおっていてあえて他の名では呼ばなく、ただときとすると略して、カキツと呼んでいることがあるにすぎない。
支那の植物に杜若という草があって、わが邦の学者は早くもこれをカキツバタであると信じた。そしてこの古い考定が今日まで続いて残り、俳人、歌人の間にはそれが頭にこびり付いて容易にその非を改むることができず、したがって俳聖、歌聖と仰がれる人でもみなこの誤りをあえてしているから、今日の人々の作り出す新句新歌のうえにもやはり旧慣に捉われひんぴんとしてこの墨守せられた誤りの字面が使われていて、すなわちこれらの人々には草や木の名の素養がまったく欠けていることを暴露しているのは残念である。私はこのような文学の方面でもその間違いはどしどし改めていくことに勇敢でありたいと思っている。今日、日進の教育と逆行するのは決してよいことではあるまい。
全体わが邦で昔だれが杜若をカキツバタだと言いはじめたかというと、今から九百余年前に丹波康頼の撰んだ『本草類編』であろうと思う。そして同書にはまた、蠡実をもカキツバタとなしてある。次に『下学集』にも杜若がカキツバタとなっている。これでみるとカキツバタを杜若であるとしたのはなかなか古いことである。
この杜若なる漢名を用いたのが長い年の間続いたが、今から二百三十四年前の寛永六年にいたって、貝原益軒はその著『大和本草』でカキツバタが杜若であるという昔からの古説を否定し、あわせてその杜若は筑前方言のヤブミョウガ(ツユクサ科のヤブミョウガではない)すなわちハナミョウガ(ショウガ科)であると考定して発表した。
次いで稲生若水、小野蘭山などの学者が出て、今度は杜若はカキツバタでもまたハナミョウガでもなくこれはヤブミョウガ(ツユクサ科)であらねばならぬとの新説を立てた。そして右はこれら景仰せられた一流学者のしたことでもあるので、その後多くの学者はみな翕然としてその説に雷同し、杜若はヤブミョウガであるとしてあえてこれを疑うものはほとんどなかった。
しかるにその後岩崎灌園がその著『本草図譜』で右先輩の説をくつがえし、この杜若なる植物はアオノクマタケラン(ショウガ科に属し支那と日本とに産し暖地に見る)であるとの創見の説を建てたが、これはけだし一番穏当な見方である。すなわち杜若はかくアオノクマタケランだとするのがまず間違いのない鑑定だと信じてよろしい。
これによってこれをみれば、杜若をショウガ科のハナミョウガに当てた貝原益軒の意見は、それは当たらずといえども遠からざる説ではあれど、しかし益軒の卓見がうかがい知られる。なんとならばこれは杜若を同じショウガ科のアオノクマタケランに当てた正説に最も近く、これをかのカキツバタだのヤブミョウガ(ツユクサ科の)だのに当てた説に比ぶればずっとその洞察が優れているからである。
サテ、杜若をカキツバタではないと一蹴したわが邦の諸学者、それは稲生若水、小野蘭山等を初めとして今日だれでもみな燕子花をカキツバタだととなえ納まりこんで涼しい顔をしているが、私はこれらの人たちのなんの苦もないようなお顔を拝見すると思わずハハハハハハと笑いたくなる。そしてその誤りを負い込んでもいっこうにそれに目ざめない不覚をあわれに感ずる。なんとならばカキツバタは断じて燕子花ではないからである。しからばすなわち世間一般の衆にそむいて、かくそれを否定する根拠がどこにあるのかと尋問せらるれば、すなわち私は躊躇なくただちにそれはここにあると即答する。すなわち今次にこれを述べてみよう。
カキツバタでは決してないぞとすべからく断定すべき燕子花の名は、元来宋の時代の朱輔(桐郷の人で字は季公)という人の著わした『渓蛮叢笑』と題する書物に出ていて、その文は
紫花にして全く燕子に類し藤に生ず一枝に数葩(漢文)
ですこぶる簡単しごくなものである。が、しかしその性状はまことによく言い尽している。そしてこの燕子花には紫燕ならびに煙蘭という別名がある。
今ここに上の『渓蛮叢笑』の文とカキツバタの形状とを対照してみると、その間に截然たる相違点があって、その燕子花が決してカキツバタにあたっていないことがただちに看取せられる。このことは今から二百十五年前の享保十三年に『本草綱目補物品目録』(出版は宝暦二年)で、初めて後藤春が『渓蛮叢笑』に載っている燕子花は藤生でカキツバタには合わぬと喝破し、また畔田翠山もかれの『古名録』で同様な意見を述べ、ともにカキツバタを燕子花とする説を否定している。しかるに他の諸学者連はこの慧眼なる二学者の警鐘に耳をおおいあえてその誤りを覚らないのは憫然のいたりである。
カキツバタの花はその花形決して燕には類してはいない。しかしこれを燕子花だと信じている学者の中には、なるべくその花を燕に連絡さすように工夫し、「花は夏の頃さきて、そのはなびらの、ながくなびきて、しなやかなること、燕の尾に似たり」と書いたものなどがある。元来燕の姿は前方に一つの頭があり、その体躯の左右には翅翼があり、後方には両岐せる一つの尾があって、いわゆる左右相称の偏形を呈しているから、それが斉整均等なる輻射相称の形を呈せるカキツバタの花容とはいっこうに合致しない。次に「藤に生ず」とあるが、これは痩せて長いヒョロヒョロした茎、すなわち藤のような茎に生じているとの意であるから、わがカキツバタのように茎がツンと一本立ちに突き立っていては決して藤のようなと形容することはできない。次に「一枝に数葩」とあるこの数葩は数花の意であるから、一つの枝に四、五輪かないし七、八輪かの花が付いて咲いていなければ都合が悪いが、カキツバタの花はたとえその茎頂にある鞘苞中に二花ないし三花が含まれてはいるとしても、しかしその花は順を追って新陳代謝し一日に一花ずつしか咲かないから、それは決して数葩すなわち数花が開くとは言えないのである。
上のように燕子花を捕えそれが断じてカキツバタその物ではないと宣告しさると、しからばその燕子花とはいかなる正体の草であるかの問題に逢着する。すなわちこれはすこぶる興味しんしんたる裁判であるといえる。
私はわが独自の見解に基づきこの燕子花、それはかの『渓蛮叢笑』の燕子花をもって、キツネノボタン科に属する飛燕草属の一種なる Delphinium grandiflorum L. var. chinense Fisch. であると断定して疑わない。この種は支那の北地ならびに満洲にも野生してふつうに見られ、秋に美花をひらいて野外を装飾する。今その草の状を見ると『渓蛮叢笑』の文とピッタリ吻合する。たとえその書の文が短くても、これを翫読してみるとそこにその要点が微妙に捕捉せられているのが認められる。和名をオオヒエンソウと称する。
上のごとくカキツバタが燕子花ではないとすると、しからば同草の漢名はなんであるかということになるが、私は寡聞にしてまだカキツバタの正しい漢名を知らない。カキツバタは北支那にもあるからきっとなにかその名がなくてはかなわないが、今はそれが判らない。しかし待っていれば早晩明らかになる時期がいたるであろう。
右のように従来わが邦で用いられている漢名には、その適用を誤っているものがすこぶる多い。かのケヤキに欅の字を用い、アジサイに紫陽花を用い、ジャガイモに馬鈴薯を用い、フキに冬あるいは蕗を用い、ワサビに山※[#「くさかんむり/兪」、202-5]菜を用い、カシに橿を用い、ヒサカキにを用い、ショウブに菖蒲を用い、オリーブに橄欖を用い、レンギョウに連翹を用い、スギに杉を用うるなど、その誤用の文字じつに枚挙するにいとまがない。この悪習慣が一流の学者にまで浸潤し、どれほど世人を誤っていて事体を複雑に導いているか、じつにはかり知るべからずである。こんなわけであるから古典学者などは別として普通一般の人々は、植物の名はいっさい仮名で書けばそれでよいのである。なにも日本の名を呼ぶのにわざわざ他国の文字をかり用いる必要は決してないと私は深く信じている。そしてこれは明治二十年以来の私の主張であるのである。