全体主義とか全体主義国家とかいうことが盛んに云われている。日本が全体主義国家であるか無いかに就いては私は云わない。いや、むしろ、日本の国を、全体主義というような、外国伝来の言葉をもって範疇づけることは、その特殊の国体から云って不当であろうと思う。
 しかし、今日の場合、日本民衆に、全体主義の如何いかなるものであるか、そうして、現在の日本の国情に於ては、全体主義の内容が、必要化しているということを知らせる必要があるように思われる。
 この全体主義の内容が、そうして、その必要性が、民衆の間に徹底したならば、すくなくも、統制から来る不平や、物資不足から来る不満は解消されるであろう。
 全体主義理論家のシュパンの説を、ほんの一部、左に摘録してみる。
「何物も独立自存してはいない。又、独立自存することは出来ない。一切のものは、より偉大なもの、自己を包含するものによって、支持せられ、そうして実存せしめられる。したがって、それが自己を包含するものから脱落して独立自存しようとするや、それは立所に滅亡する。人間は、あらゆる精神的共同なくしては、精神的に死滅しなければならない。いかなる動物も仲間無くしては存在せず、いかなる茎も芝生なくしては生存しない。そして石ですら元素界以外に存在するか? 地球は大空を外にして考えられるだろうか? 存在する一切のものは全体の一節として存在するばかりである」
 まことに解りよい、そうして深い意味を持った、尤至極もっともしごくの言葉だと思う。わけても「いかなる動物も仲間なくしては存在せず」という言葉からはクロポトキンの、双互扶助論が連想され「石ですら元素界以外に存在するか?」の言葉の内容に至っては、極わめて卒直そっちょくなる科学的なる、唯物的なる、実証的なる思想によって裏付けされていることに想到するであろう。
 全体主義に哲学が無い、思想が無いなどと云為されて来たことが、これでノンセンスになったことを知るであろう。
 それに、大哲カントやヘーゲルを産んだ独逸ドイツが、思索的な、余りに思索的な独逸ドイツ人が、全体主義に、ほんとうに首肯すべき哲学が無かったならば、何んでヒットラーの下に、全体主義を奉じて刻苦経営しようぞ。
 さて我等は国民である。国民は国家の一節であり一細胞である。
 国家という全体が――即ち母体が、衰滅に帰したならば、その細胞であり一節である国民が衰滅することは必然であろう。
 では国家がその全体性を活かす必要上統制経済を執行する場合、国民は喜悦してれに順応し、それから発生する一時的の物の不足や不自由を克服すべきは、当然と云わずして何んぞやである。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
   1940(昭和15)年9月2日
初出:「外交」
   1940(昭和15)年9月2日
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
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