目次
 インドネジアン族、インドチャイニース族の集合であるところの熊襲くまそが大和朝廷にしばしばそむいたのは新羅が背後から使嗾するのであると観破され、「熊襲をお討ちあそばすより先に新羅を御征伐なさいますように」と神功皇后様が仲哀天皇様に御進言あそばされたのは非常な御見識と申上げなければならない。
 しかるに御不幸にも仲哀天皇様には、熊襲及び土蜘蛛を御征伐中に御崩御あらせられた。
 そこで神功皇后様には御自ら新羅御討伐の壮挙を御決行あそばす御決心をあそばされ、群臣に、
「軍を興し兵を動かすは国の大事にして安危、成敗は繋って焉に在り。今、吾、海を超えて外国を征せんとす。もし事破れて罪爾等に帰せんか、甚だ傷むべし。って吾しばらく男装して雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助を籍る。事成らば爾等の功なり、事破れば吾の罪なり。」
 と仰せられ、大いに船舶を集め、新羅征伐に御発足あそばされた。
 この御壮挙には二つの大きな特色がある。その一つは、臣下の将兵のみを新羅討伐におつかわしにならないで、やんごとない皇后様御自ら総帥として御出陣あそばされ「事成らば爾等の功であり、事破れなば吾の罪なり」と、全責任を御自ら御りあそばされた、その御勇猛心と御仁慈であり、もう一つは、領土蚕食とか物資獲得とかの侵略的意図の新羅討伐ではなく、大日本国の一部であり大和朝廷の治下にある九州の地を騒がし、熊襲族を煽動して反復常なからしむるものが新羅であり、その新羅はとうてい平和の外交手段を以てしてはそのよこしまの行動を抑えることは不可能であるとおぼしめした結果、武力を以って御征しあそばしたということであって、従ってこの新羅御討伐は平和外交の形の変わった硬外交、武力外交であるということが出来るのである。
 ところでこの硬外交の結果はどうかというに、新羅王波沙寐錦わが舟師を見て恐怖し、面縛して降を乞い「われ聞く、東方に神国あり、日本というと。われこれ畏懼いくするや久し。今皇師大挙して征討せらる。いかでか是に抗し奉らん。ねがわくば爾今以後飼部となり、船柁干さずして貢物を納め、また男女の調を奉らん。この誓や神明の前に於てす。東よりずる日西より出で、北より流るる鴨緑江南より流るるともそむくことあらざるべし」と奏上した。そこで皇后様に於かせられてはその乞いを許し、軍を進めて首都に入り、府庫を封じ、国籍を収め、きたまえる矛を王宮の門に立て、占領の証とし、平和条約を結び、毎年金、銀、彩色、綾羅、絹※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)等を船八十艘に積んで貢物とすべく約した。
 戦果は是ばかりでなく、当時朝鮮半島は、新羅、任那、高麗、百済の四つの邦に分かれていたのであったが、その中の最強を以て目せられていた新羅が、このように早く降伏したところから、他の三つの邦も降を乞い、神功皇后様師を興こされて以来わずか三ヶ月で朝鮮半島全部を完全に日本の有に帰せしめたことであって、このように神速の外征は世界の歴史に在っても稀有のことといってよいのである。
 爾後百年間朝鮮は日本政府の命に服した。しかもその後に於ける朝鮮の我国に貢献した功績の甚大さは全く想像にあまるものがある。
 すなわち、大陸の文化を朝鮮が媒介して日本へ渡来せしめ日本の文化を促進せしめたことであって、兄媛、弟媛、呉織、服織の四人の織女を日本へ送り、機織の業を伝えたことや、阿直岐、王仁の二学者を日本へ渡来せしめ、論語、千字文等を伝え、文字と儒教とを我国へ移植したことや、数千人の朝鮮民族を日本へ帰化せしめ、土木その他の工事に従事せしめたことや、欽明天皇様の御宇に仏教を伝来させて、わが国の文化をとみに大飛躍させたことなどは著明の事実であるが、これらも尽くこの神功皇后様の朝鮮御討伐に源を発しているのである。

 次に推古天皇様の御宇十五年に、隋と交通し、はじめてわが国から遣隋使として小野妹子をつかわし、聖徳太子様御自らお認めあそばされた国書を隋の煬帝に遣わされたが、その堂々たる大文章はわが国威を宣揚したものとしてほとんど古今に比類無いほど立派なものであった。即、その国書の中には「日出処天子、致書於日没処天子」とあり、日本と支那とを対等の位置に置いてあったのである。これは今日の眼を以ってすれば何んの不思議もない至極しごく当然のことなのであるがしかしその時代の見解からすれば必しもうではないのであって、煬帝の心を以ってすれば支那は大国であるが日本は小国であり、支那は文化古く世界の中国であるが日本は支那の文化を輸入して僅に最近文化的になったばかりの国でありかつ東海の叢爾たる島国である。日本の如きはむしろ支那の保護国ともいうべきものである。しかるに何んぞ対等の礼を執ったる国書を持来たすとは! そこで「これより後蛮夷の礼を失するものあらば、これを奏聞することなかれ」と侍臣に言渡したほどであった。
 ところが聖徳太子様の御見解はそれとは反対で、成程最初こそ朝鮮や支那の文化を輸入して日本の文化を促進させたが、今日に於ては日本民族独特の抱容性と消化性と合理化性と創造性と第三文化打出的ルネッサンス性とによって、日本的純粋の高度文化を築上げ、既に官位十二階、憲法十七条を定め、朝礼を改正し、暦日を採用し、四天王寺、法隆寺等の世界的優秀の寺院をも建立し、儒教の思想を咀嚼し仏教の教理を摂取し、しかも日本古来よりの神道をその上に位せしめ三位一体的に日本の文化を推進めて居る。何んぞ支那の文化に劣ることがあろうや。――この御信念の下に発せられたのが彼我対等の国書だったのである。しかし上流階級はいうまでもなく中流階級までも支那を日本よりも格段に文化国であり強大国であると思い込んでいたこの時代に於て、敢然と彼我対等の外交を行わせられた聖徳太子様の御信念と御勇猛心とは真に讃仰せざるを得ない事柄であり、太子様の執られた外交こそは、平和外交中での硬外交の代表的のものと申上ぐべきであろう。
 小野妹子の帰朝に際し煬帝は裴世清という家臣を随行させ煬帝よりの国書を奉呈せしめた。その文章の中に「皇帝倭皇に問う」という文字があり、その他不遜の言辞が連らねてあったので、天皇陛下に於かせられては、その国書の礼に適えるや否やを聖徳太子様にお問い遊ばされたところ聖徳太子様には「これは天子の諸王侯に賜わる書の形式ではありまするが「皇」字を用いれば礼無しとも申されませぬ」とお答え申上げられた。その結果その国書は取納めあそばさるることとなられた。そうして裴世清は饗応され、日本の素晴らしい文化に瞠目し帰国したが、その帰国する裴世清を送って再び妹子は隋に向かった。その際聖徳太子様の御起草になる国書が矢張やはりふたたび煬帝に遣わされたがその文章は「東天皇敬んで西皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清至りて、久しき憶方に解けぬ。季秋薄冷、尊何如。想うに清愈ならん。此れは即ち常の如し。今大礼蘇因高、大礼乎那利等を遣わして、往いて謹白せしむ。不具」というのであり、我を東天皇と云い彼を西皇帝と称し飽迄あくまでも対等の礼を以って押通された。多少尊大に過ぎる煬帝の国書を何事も仰せられず取納め、こなたより遣わす国書は依然堂々たる対等的のものを以ってなされた聖徳太子様の外交は、硬軟自在であり、我国の威厳をたかむると共に相手国の面子めんつをも保たしめた聖君子的外交で在したのであって、この理想的外交の結果、日本と隋との国交は滑らかにつづき、隋滅びて唐となっても、その国交は継続され、支那大陸の優秀なる文化はいよいよ我国へ輸入され我国の文化はますます高度化されたのである。
 神功皇后様、聖徳太子様の硬外交の真髄を体得した我国上古の遣外使臣達が、さまざまの形に於て同じく、我国独特の硬外交的行動を行為し国威を揚げたことは枚挙にいとま無い。
 小野妹子の風采閑雅威儀厳然たる様子を見て、煬帝が驚き、心ひそかに我国の隆昌を察し、裴世清を我国に遣わした如きもその例の一つであり、文武天皇様の大宝元年に唐に使いした栗田真人が学を好み文に好く、応待にならい、いかにも文化人の粋を為しているのを見「吾久しく東海に君子国ありて、人民豊楽、礼儀敦厚なりと聞き、ひそかに是を怪しみ疑いけるが、いままのあたり使人を見てその偽ならざるを知りたり」と唐の官人を嘆美させたのもその一例であり、阿倍仲麿が聡明英雋、到所可ならざるなき才気を発揮し、加うるに稀に見る美少年であったところから唐の玄宗皇帝が是を寵用し、帰化させ、老年に及ぶや光禄太夫の大官に昇らせた如きもその例の一つであり、吉備真備、弘法大師等の学者名僧が唐土に於て彼地の碩学や高僧等をその博覧強識にって驚嘆させたのもその例の一つであり、大伴古麿が、唐朝の宮中席次に於て、西畔の第二位に列せたるを怒り、断乎として抗議し、東畔の第一位に変更させた如きもその一例といってよかろう。
 遣唐使派遣に終止符を打ったのは菅原道真であって、その航海の困難ということも理由の一つではあったが、もっと重大な原因は、隋、唐と国交を重ぬること推古天皇様十五年より宇多天皇様寛平六年まで二百八十八年に及びこの長い間に支那大陸の文化の尽くを日本は摂取し、最早彼に学ぶべきものが無いというのが夫れであった。それにしても、その長年月の間いかに我国の官民が、硬外交を心の奥に蔵し、しかも終始表面的には軟く優しく礼儀正しく彼に対したか! それは驚嘆すべき程度のものだったのである。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交評論」
   1942(昭和17)年12月
初出:「外交評論」
   1942(昭和17)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。