裸の娘

 その日、朝から降り出した雨は町に灯りがつく頃ふとやみそうだったが、夜になると急にまた土砂降りになった。
 その雨の中で、この不思議な夜の事件が起ったのである。
 不思議といえばよいのか、風変りといえばよいのか、それとも何と形容すればよいのだろうか。
 新聞記者なら「深夜の怪事」とでも見出をつけるところだろうが、しかしこの事件は大阪のどこの新聞にも載らなかった。
 たまたまその日がメーデーだったので、新聞はその方に多くのスペースを割かねばならず、大阪の片隅に起ったそんな出来事なぞ、どうでもよかったからだ――というわけではない。
 もっとも、事件そのものは取るに足らぬ些事に過ぎなかった。事件というより、出来事といった方がいいくらいだ。しかし、耳かきですくうような、ちっぽけな出来事でも、世に佃煮にするくらい多い所謂大事件よりも、はるかにニュース的価値のある場合もあろう。たとえば、正面切った大官の演説内容よりも、演説の最中に突如として吹き起った烈風のために、大官のシルクハットが吹き飛ばされたという描写の方を、読者はしばしば興味をもって読みがちである。
 実は、その出来事が新聞に載らなかったのは、たった一人の目撃者を除いては誰ひとりとしてそのことを知っている者はなかった――という極く簡単な事情に原因しているのである。
 いいかえれば、当事者はべつとして、その出来事を知っているものは、大阪中にただ一人しかいない――ということになる。
 その意味では、その目撃者はかなり重要な人物だと、云ってもよいから、まずその姓名を明らかにして置こう。
 小沢十吉……二十九歳。
 その夜、小沢は土砂降りの雨にびっしょり濡れながら、外語学校の前の焼跡の道を東へ真直ぐ、細工谷町の方へ歩いていた。
 夜更けのせいか、雨のせいか、人影はなかった。バラック一つ建っていない、寂しい、がらんとした道だった。
 しかし、上ノ宮中学の前を過ぎると、やっと家並が続いて、この一角は不思議に焼け残ったらしい。
 この分なら、これから頼って行く細工谷町の友人の家は、無事に残っているかも知れないと、思いながら四ツ辻まで来た時、小沢はどきんとした。
 一糸もまとわぬ素裸の娘が、いきなり小沢の眼の前に飛び出して来たのである。
 雨に濡れているので、裸の白さが一層なまなましい。
 小沢ははっと眼をそらした。同時に、娘も急に身をすくめて、しゃがもうとした。
 が、再び視線があった時、もう娘は、
「助けて下さい!」
 とすがりついて来た。
 昭和二十一年五月一日の、夜更けの出来事である。

 小沢はまるで自分の眼を疑った。
 いかに深夜とはいえ、敗戦の大阪とはいえ、一糸もまとわぬ若い娘の裸の体が、いきなり自分の眼の前に飛び出して来るなんて、戦争の影響で相当太くなっているはずの神経にとっても、これは余りに異様すぎる感覚だった。
 しかも、まるでこの異様さをもっと効果的にするためと云わんばかしに、わざとのような土砂降りの雨だった。
 溺死人、海水浴、入浴、海女……そしてもっと好色的な意味で、裸体というものは一体に「濡れる」という感覚を聯想させるものだが、たしかにこの際の雨は、その娘の一糸もまとわぬ姿を、一層なまなましく……というより痛々しく見せるのに効果があった。
 そこは四ツ辻だったが、角の家に一軒門燈がついていて、その灯りが雨を透して、かすかに流れていたから、娘の顔はほのかに見えた。
 あどけない可愛い顔立ちは、十六、七の少女のようだった。しかし、むっちり肉のついた肩や、盛り上った胸のふくらみや、そこからなだらかに下へ流れて、一たん窪み、やがて円くくねくねと腰の方へ廻って行く悩ましい曲線は、彼女がもう成熟し切った娘であることを、はっと固唾を飲むくらいありありと示していた。
 もっとも、小沢はいたずらに固唾を飲んで、いたずらに観察していたわけではない。
 そんな余裕はなかった。
 とにかく娘は、
「助けて下さい!」
 と、言っているのだ。
 しかし、どう助ければいいのか。――いや、そんなことを考えている場合ではない。
 何はともあれ、小沢は著ていたレインコートをあわてて脱いだ。(そのレインコートは軍隊用のものだから、もっと別の名があった筈だが、この際そんなことはどうでもよい)
 そして、娘の裸の体へぱっと著せてやった。
「ありがとう」雨の音で消されてしまうくらいの小さな声で言って、娘は飛びつくように、レインコートにくるまってしまうと、ほっとしたようだったが、しかし、なお恐怖の去らぬらしい険しい表情を、眉に見せて、
「…………」
 小沢にすがりついて、ガタガタ顫えていた。
 言葉がないだけに、一層必死の気持が現れているようだった。
「…………」
 小沢も口は利かず、咄嗟に身構える姿勢で、その娘が来た方向へ、眼を光らせた。
 そして、暗がりの中に不気味に光っている雨足を透して、じっと視線を泳がせていると、ふと黒く蠢いた気配がした。
 はっと思った。
 が、気のせいかも知れない。それとも、雨のせいだろうか……。
 黒く蠢いたように思ったものの、一向に動き出して来る気配はなかった。
「……追われているわけでもないんだな」
 そう呟いた途端、角の家の門灯がすっと消えた。
 雨はますます激しくなってきた……。

 小沢はどきんとした。
 たった一つ点っていたその角の家の門燈が、突然消えたのには、何か意味がありそうだった。
 あるいは偶然かも知れない。が偶然にしても不吉な偶然だと思った。
 よしんば雨のための停電にせよ、まるでわざとのような停電のような気がした。
 しかし、べつに何ごとも起らなかった。いきなり誰かが飛び掛って来そうな気配もない。
 してみれば、ただ、門燈が何となく消えたというに過ぎなかったのだ。が、やはり不気味な予感は消えなかった。
 とにかく、事情を明らかにすることだ。
「どうしたんです、一体……?」
 小沢は自分にしがみついている娘に、そうきいた。
「…………」
 娘は答えなかった。
「辻強盗に剥がれたんですか……?」
 一糸もまとわぬ裸から、想像できるのは、わずかに辻強盗ぐらいなものだった。
 小沢は外地から復員して、今夜やっと故郷の大阪へ帰って来たばかしだが、終戦後の都会や近郊の辻強盗の噂は、汽車の中できいて知っていた。
「…………」
 娘はだまって首を振った。
「じゃ、どうしたんです……?」
 娘はそれには答えず、
「早くどっかへ連れて行って下さい」
 それもそうだ。一刻も早くここは立去った方が良さそうだと小沢はうなずいて、歩き出した。
 娘は小沢が着せてやったレインコートにくるまっていたが、やはりその下の裸を気にしたような歩き方でついて来た。
「家はどこ……?」
「…………」
 やはり娘はだまっていた。
「云ってくれないと、送って行きようがないじゃないか」
 小沢はふと強い口調になった。
「何にもきかないで下さい」
 娘はうなだれていた顔をひょいと上げて、小沢の顔を見上げた。
 暗がりではっきり見えなかったが、娘の顔が半泣きらしいことは声で判った。ずっと家並みは続いていたが、停電のせいだろう、門燈は消えて、洩れて来る一筋の灯りもなく、真っ暗闇だった。
「この先に交番があった筈だが……」
 と、小沢がふと呟くと、娘はびっくりしたように、
「交番へ行くのはいやです。お願いです」
 と、小沢の腕を掴んだ。
「じゃ、どこへ行けばいいの……?」
「どこへでも……。あなたのお家でも……」
「だって、僕は宿なしだよ。ルンペンだよ」
 小沢はひょいと言ったが、さすがに弱った声だった。
「宿無しだよ。ルンペンだよ」
 と、語呂よく、調子よく、ひょいと飛び出した言葉だが、しかしその調子の軽さにくらべて、心はぐっしょり濡れた靴のように重かった。
 小沢は学生時代、LUMPEN(ルンペン)という題を出されて、
「RUMPEN とは合金ペンなり」
 という怪しげな答案を書いたことがあるが、ルンペンの本来の意味は、ボロとか屑とかいう意味である。
 つまり、宿なし、失業者、浮浪者といった意味のルンペンとは、人間のボロ、人間の屑というわけであろう。
 宿がないということは、屑であるということだ。それほど、宿なしは辛いのだ。
 ところが、今、小沢はその辛さを痛切に味わねばならなかった。
 実は、この細工谷町で異様な裸の娘を拾ったというのも、小沢が宿なしだったからである。
 小沢は両親も身寄りもない孤独な男だったが、それでも応召前は天下茶屋のアパートに住んでたのだから、今夜、大阪駅に著くと、背中の荷物は濡れないように(また、雨の中を背負って行く邪魔でもあったので)駅の一時預けにして、まず天下茶屋のアパートへ行ってみた。
 しかし、跡形もなかった。焼跡に佇んで、途方に暮れているうちに、ふと細工谷の友人のことを想いだした。
「そうだ、今夜あそこで泊めて貰おう」
 そう思って、やって来たのだが、裸の娘を拾った今は、もう頼って行けそうにもなかった。
 深夜、停電している家へ、そんな娘を連れて行って、泊めてくれとは、さすがに云えなかった。自分ひとりなら、無理も云えるのだが、といって、娘を追い返すわけにもいかない。
 宿なしの悲しさが、土砂降りの雨のように小沢の心に降り注いで来た。
「困ったなア……」
 小沢は眉毛まで情けなく濡れ下りながら、呟いた。
 長い間、雨の中を傘なしで歩いて来たので、下着を透して毛穴まで濡れていた。五月だが、寒く、冷たい。
「しかし、この娘の方がもっと寒いだろう」
 ガタガタふるえている娘の身ぶるいを感ずると、少しでも早く雨をしのぐところを探してやりたかった。
「本当に家へ帰らないの……?」
 娘はうなずいて、
「帰れません」
 小さな声で言った。
「どこか宿屋はないかな」
「阿倍野の方へ行ったら、あるかも知れません」
 娘が言った。大阪訛だった。
 宿屋へも構わずついて来るつもりらしい。
「とにかく行ってみよう」
 二人は、恋人のように肩を並べて阿倍野橋の方へ歩きだした。

 玉造線の電車通へ出て、寺田町の方へ二人はとぼとぼ歩いて行った。
 寺田町を西へ折れて、天王寺西門前を南へ行くと、阿倍野橋だ。
 途中、すれ違う電車は一台もなかった。よしんばあっても、娘のそんな服装では乗れなかった。焼跡の寂しい道で、人通りは殆どなかったが、かえってもっけの幸いだった。
 娘ははだしで歩きにくかったので、急いだつもりだが、阿倍野橋まで一時間も掛った。
 阿倍野の闇市のバラックに、一、二軒おそくまで灯りをつけている店があった。
 立ち寄って、暖いものでも食べたかったが、やはり裸の上にレインコートだけ、おまけにはだしだという娘の服装が憚られた。
 しかし、灯りの見えたことは嬉しかった。この辺は停電ではなかったらしい。
 大鉄百貨店の前のコンクリートの広い坂道を、地下鉄の動物園前の方へ降りて行くと、ホテルや旅館がぼつりぼつりあった。
 一軒ずつ当ってみたが、みな断られた。
「だめだね」
 もう地下鉄の中ででも夜を明かすより方法がない、と娘の方へ半泣きの顔を向けると、
「もう一軒当ってみましょう。――ほら、あそこに……」
 小沢は寄って行って、ベルを鳴らした。暫らくすると、女中が寝巻のままで起きて来て、玄関をあけた。
 小沢は娘を表へ待たせて、一人はいって行くと、
「部屋あいてませんか。いくら高くても結構です」
 と、言いながら、女中の手に素早く十円札を三枚掴ませた。復員した時、三百円の新円を貰っていたのだ。
「お一人ですか」
「いや、女と一緒です」
「どうぞ……」
 新円の効き目だった。
 小沢は娘を呼びに出た。
 そして、娘を自分の背中にかくすようにして、はいった。
 女中はちらりと娘をみたが、さすがに連込み宿らしく、うさん臭そうな眼付きもせず、二階の部屋へ二人を案内した。
 鍵の掛る、粗末なダブル寝台のある洋風の部屋だった。
 女中は案内すると、すぐ出て行ったが、やがて、お茶と寝巻を持って来た。
「お名前をこれに……」
 小沢は自分の姓名を書いて渡そうとすると、
「こちらさんのお名前もご一緒に……」
 と、椅子の上で体をすくめている娘の方は見ずに、女中は言った。
 小沢はちらと娘の顔を見た。
「雪子……」
 娘は察して言った。
 小沢は自分の名前の横に「妻雪子 二十歳」と書いて、女中に渡すと、
「お休みなさい」
 女中は出て行った。
 小沢はほっとして、部屋の中を見廻した、寝台は一つしかなかった。その上の方に、安っぽい女の裸体画の額が掛っていた。
「なるほど、こりゃいかにも連込み宿だ」
 小沢は改めて感心したように呟きながら、苦笑した。
 ダブル寝台――といっても、豪華なホテルにあるような、幅の広い寝台ではない。シングル(一人用)の寝台より少し幅があるように見えるだけで、ただ枕が二つ並んでいるのでダブル寝台といえるわけだ――その上に煽情的といっていいくらい派手な赤い模様の掛蒲団が、掛っている。
 そして、寝台の枕元の壁には、安っぽい裸体画の油絵の額が掛っている。わざと裸体画を選んだのであろう。
 たしかに苦笑せざるを得なかった。
 経営者はこの部屋の使用される目的にふさわしいように、そんな額を掛けたのに違いない。
 そして絵の安っぽさはかえって効果的だと言えるかも知れない。
 けれども、そのような絵は往々にしてこの部屋へ来る客たちを照れさせ、辟易させるという意味で逆効果を示す場合もあろう。
 すくなくとも小沢は辟易していた。
「まるでわざとのように、こんな絵を掛けやがった」
 そう思ったのは、しかし一つにはその絵がレインコートのすぐ下の娘の一糸もまとわぬ裸体を聯想させるからであった。
「とにかく、この裸を何とかしてやらなくっちゃならない」
 幸い女中の持って来た寝巻があった。が、娘は小沢の見ている前では、恥かしくてよう着更えまい。
「君、これを着たらどうだ」
 小沢はそう言って、いきなり部屋の外へ出て行った。
 そして、わざとゆっくり便所から帰って来ると、娘はちゃんと寝巻に着更えていた。
 しかし、その寝巻は寸法が長いので、娘は裾を引きずっていた。それが滑稽でもあり、そしてまた、ふと艶めかしくも見えた。
「長いね」
 小沢が言うと、娘は半泣きの顔になり、
「ふん」
 と、鼻の先で笑ったが、何思ったか急にペロリと舌を出して、素早くひっこめた。
 寝巻に着更えたので、やっと人心地が甦ったのであろうと、小沢もふと心に灯のついた想いがしたが、それだけに一層不幸そうな娘がいじらしくてならなかった。
「ところで、も一度きくけど、一体どうしてあんな恰好で飛び出したの」
 小沢は裸のことを、再びきいてみずには居られなかった。すると娘は急に悲しい声になって、
「それだけは、きかんといて……」
 大阪弁だった。
「じゃ、今はきくまい」
 と、小沢は今はという言葉に含みを残して、
「――とにかく、寝ることにしよう。君は寝台で寝給え」
「ええ」
 娘はうなずいて、素直に寝台に上りかけたが、ふと振り向くと、
「あなたは……?」
 どこで寝るのかと、きいた。

「僕はここで寝るよ」
 小沢は椅子に掛けたまま、わざと娘の顔を見ずに言った。
「そんなン困るわ」
 娘は寝台の傍で、ちょっと体をくねらせて、鼻に掛った声で言った。
 女の大阪弁というものは、含みが多い。だから、娘のその言葉、そしてその声は、何か安心したようにも、甘えて小沢を責めているようにも、そしてまた、恐縮しているようにも聴えた。
「そんなン困るわ」
 といったが、一体どういう風に困るのか、いや、本当に困るのか、小沢にはさっぱりその意味が汲み取れなかった。
 つまり、小沢にはその娘の心理がまったく解らぬのであった。
 なぜ解らぬのか……。
 ありていに言えば、小沢の心の底には、既にその娘への、ある種の(といってもいい位複雑な)関心がひそかに湧いていた――その関心があるために、もう娘の心理が解らなくなってしまったのかも知れない。
 その関心の中で、一番強いのは、やはり娘の体への本能的な好奇心だった。雨に濡れたあとの動物的な感覚が、たしかにその本能へ拍車を掛けていた。ことに、裸の娘と深夜の部屋に二人きりでいるという条件は、この際決定的なものであった。
 しかし、そんな風な、まるでおあつらえ向きの条件になった原因を考えると、小沢はやはりその娘の体に触れることが躊躇された。
「とにかく娘はおれに救いを求めたのだ。おれは送り狼になりたくたい」
 そう思ったので、小沢はもうサバサバした声で言った。
「困るも何もない。君は一人で寝台に寝るんだ」
「でも……」
「僕は椅子の上で寝るのは馴れてるんだから……」
 そう言うと、娘は暫くためらっていたが、
「じゃ、お休み」
 と、言って、寝台の中へもぐり込んだ。
 ちらと眼をやると、娘は掛蒲団の中へ顔を埋めている。眩しいのだろうか。
「灯り消そうか」
 小沢が声を掛けると、娘は半分顔を出して、
「ええ」
 天井を見つめたまま、うなずいた。
 小沢は立って行って、壁についているスイッチを押した。
 廊下の灯りも消えているので、外から射し込んで来る光線もなく、途端に真暗闇になった。
 手さぐりでもとの椅子に戻ると、小沢は濡れた服を寝巻に着更えると、眼を閉じた……。
 外は相変らずの土砂降りだった。
 何か焦躁の音のような、その雨の音が耳についてか、それとも……とにかく小沢はなかなか寝つかれず、いらいらしているとふっと、大きな溜息が寝台の方から聴えて来た。
 娘もやはり寝つかれぬらしい。
 そして、どれだけ時間がたった頃だろうか、娘はいきなり寝返りを打つと、声を掛けて来た。
「なんぜここへ来て寝ないの……?」

「えっ……?」
 小沢は思わず眼をひらいて、寝台の方を見た。
 暗がりで、よくは見えないが、たしかに娘はこちらの方へ顔を向けて寝ているらしい。
「…………」
 娘は暫らく黙っていたが、やがてちょっとかすれた上ずった声で、
「小沢さんはあたしが嫌いなんでしょう?」
 と、言った。
 小沢の名を知っているのは、さっき宿帳に書く時、覗いていたからであろうが、それにしても、いきなり自分の名を云ったので、小沢はちょっと意外だった。
 もっとも、この驚きには甘い喜びが、あえかにあった。
 復員者の小沢は、久しく自分の名を「さん」づけで呼ばれたことはなかった、しかも若い女の口から……。
「どうして……? 嫌いじゃないよ」
「じゃ、なんぜ……?」
「…………」
 小沢は返答に困った。暗がりをもっけの倖だと思った。まだ二十歳前後の若い娘が、そんな言葉を言っている顔を見るに耐えないばかりでなく、ふと赭くなった自分にも照れていたからだ。
「やっぱり嫌いなのね」
 小沢がだまっているのを見て、娘はもう一度その言葉を言った。
 小沢は黙々と立ち上った。そして怒ったような顔をして娘の横へもぐり込んだ。寝台には若い娘の体温と体臭がむうんとこもっていた。
 寝台は狭かったので、体温が伝わってきた。
 小沢は娘の寝巻の下が、裸であることを意識しながら、かえって固くなっていた。
 娘の方から寝台へ誘ったのだし、そして、べつにそれを拒みたい気もなかったので、少しはいそいそとしてそれに応じたのだし、今はもう二人があり来たりの関係に陥るには、簡単なきっかけだけが残っているに過ぎなかった。
 例えば、ちょっと腕を伸ばせば、娘の体は磁石のように吸い寄せられて来るのだ。それを拒もうとする羞恥心よりも、何かにすがりつきたいという本能の方が強いというのが、女の本性であることを、小沢は知っていた。
 好奇心は女の方が強いのだ。しかも若い娘の場合は、一層はげしいのだ。
 そう知っていながら、小沢はしかし腕を伸ばせなかった。いわゆるインテリの気の弱さであろうか。
 一つには、娘の正体がまったく解らないということも、小沢を自重させていた。それに、娘の方から寝台へ誘ったといっても、万一それが無邪気な気持からであったとすれば小沢の思い違いはきっと悔恨を伴うだろう。
「君、こうしていて怖くない……?」
 小沢はそうきいてみた。すると、娘は、
「怖くないわ、あたし怒らないわ」
 と言った。
 小沢は暫らく口も利けなかった。
 その夜のことは小沢にとって思いもかけぬことばかしであったが、しかし、娘のその言葉ほど小沢を驚かせたものはなかった。
「これが若い娘の口から出る言葉だろうか。いや、恋人に言うならまだしも、おれはただ行きずりの男に過ぎないじゃないか」
 小沢は間抜けた顔をして、芸もなくなっていたが、やがて口をひらくと、
「本当に、何をされても平気なのか。僕がどんなことをしても、怒らないのか」
 娘は黙ってうなずくと、そっと小沢の方へ寄り添うて来た。
 小沢は身動きもしなかった。指一本動かさなかった。そして、
「君は今まで……」
 と、思わず野暮な声になって言った。
「男と宿やへ来たことがあるのか」
「え……?」
 娘は不意を突かれたように、暫らくだまっていたが、やがて、つんと顎を上げると、
「――あるわ」
 もう昂然とした口調だった。
「ふうん」
 小沢は何か情けなかった。
「――好きな男と……?」
「好きな男なんかあれへん」
「じゃ。嫌いな男とか……?」
「嫌いな男もあったわ」
「嫌いな男とどうしてそんなことをするんだ?」
 われながらおかしい位、むきになっていた。
「食うためよ。あたしの罪じゃないわ」
 寝る前とは打って変ったように、娘はズバリと言ってのけた。
「じゃ、君は……?」
 ちょっと躊躇したが、思い切って、
「――僕に体を売るつもりか」
「違うわ。あんたにはお金なんか貰えんわ。あんたはあたしを助けてくれたでしょう。だから……」
「だから、どうだっていうんだ」
「だから、あんたが何をしてもかめへんと思ったのよ」
「そんなお礼返しは真っ平だ。――だいいち僕がそんなことをすると、思ってるのか」
「だって……」
 と、娘は甘えるように、
「――男って皆そんなンでしょう……?」
「そりゃ君の知ってる男だけの話だ」
「…………」
「莫迦だなア、君は……。僕が好きでもないのに、そんなことをいう奴があるか。さアもう寝よう」
 小沢はくるりと娘に背中を向けた。娘の商売が判ってしまうと、かえって狂暴な男の血が一度に引いてしまったためか。それとも一種のすねた抗議の姿態だろうか。
 娘は暫くだまって肩で息をしていたが、いきなり小沢の背中に顔をくっつけて、泣き出した。
「何を泣いてるんだ……?」
 小沢はわざと冷淡な声を出しながら、窓の外の雨の音を聴いていた。……

    悪の華

 午前六時の朝日会館――。
 と、こうかけば読者は「午後六時の朝日会館」の誤植だと思うかも知れない。
 たしかに午前六時の朝日会館など、まるで日曜日の教室――いや、それ以上に、ひっそりとして、味気なくて、殺風景でいたずらにがらんとして、凡そ無意味な風景であろう。
 しかし、午前六時の朝日会館を描くことは、つねに無意味だとは限らない。
 例えば、そんな時刻、そこには鼠は走り廻っても、猫の子一匹もいない筈だのに、時ならぬ、場違いのいびきが聴えて来たとすれば、もはや無意味ではあるまい。まして月並みではない。
 鼾は公演場の休憩室の隅にあるソファから聴えていた。
 いつ、どこから、どう潜り込んだのか、そのソファの上で、眠っている人間がいるのだ。
 宿なしにしては気の利いた寝床だ。洒落ている。洒落ているといえば、宿なしとは見えぬくらい、洒落た服装である。渋く垢ぬけているのだ。
 更に垢ぬけているといえば、その寝顔は、ぞっと寒気がするくらいの美少年である。
 胸を病む少女のように、色が青白くまつ毛が長く、ほっそりと頬が痩せている。
 いわば紅顔可憐だが、しかしやがて眼を覚まして、きっとあたりを見廻した眼は、青み勝ちに底光って、豹のように鋭かった。
 その眼つきからつけたわけではなかろうが、名前はひょう吉……。十八歳。
 豹吉の(ヒョウ)は氷河の氷(ヒョウ)に通じ、意表の表(ヒョウ)に通ずる、といえば洒落になるが、彼は氷のような冷やかな魂を持ち、つねにひとびとの意表を突くことにのみ、唯一の生甲斐を感じている、風変りな少年だった。
 自分はいかなることにも驚かぬが、つねに人を驚かすことが、この豹吉の信条なのだ。
 きっとあたりを見廻して、そして二、三度あくびをすると豹吉はやがてどこをどう抜けたか、固く扉を閉した筈の会館の中から、するりと抜け出すことに成功した。
 昨夜の雨はもうやんでいた。
 午前六時といえば、この界隈のビル街もひっそりと静まりかえって、人通りもない。
「なんだ、人間は一匹もおらへんのンか」
 豹吉はそれがこの男の癖の唾をペッと吐き捨てた。
 その拍子に、淀川の流れに釣糸を垂れている男の痩せた背中が、眼にはいった。
 そこは渡辺橋の南詰を二三軒西へ寄った川っぷちで、ふと危そうな足場だったから、うしろから見ると、今にも川へ落ちそうだった。
 豹吉はその男の背中を見ていると、妙にうずうずして来た。
 今日の蓋あけに出くわしたその男の相手に、何か意表に出る行動がしたくてたまらなくなったのだ。はや悪い癖が頭をもたげたのだ。
「何でもええ。あっというようなことを……」
 考えているうちに、
「――そうだ、あの男を川へ突き落してやろう」
 豹吉の頭にだしぬけに、そんな乱暴な思いつきが泛んだ。

「煙草の火かしてくれ」
 豹吉は背中へぶっ切ら棒な声を掛けた。
「…………」
 男はだまって振り向くと、くわえていた煙草を渡した。火を移して、返そうとすると、
「捨ててくれ」
 そして、男はべつの新しい煙草を取り出して、火をつけた。
 豹吉は何だかすかされたような気がして、
「ありがとう。ライターの石がなくなっちゃったもんだから……」
 少年らしい虚栄だった。
 煙草を吸うくせにマッチを持たぬのかと思われるのは、癪だと思ったのだ。すると、
「下手な東京弁を使うな。君は大阪とちがうのか」
 いきなり男の声が来た。
 三十前後の、ヒョロヒョロと痩せて背の高い、放心したような表情の男だったが、眉には神経質らしい翳があり、こういう男はえてして皮肉なのだろうか。
「ほな、何弁を使うたらいいねン……?」
「詭弁でも使うさ」
 男はひとりごとのように、にこりともせず言った。
 その洒落がわからず、器用に煙草の輪を吹き出すことで、虚勢を張っていると、
「――君はいくつや」
 と、きかれた。
「十八や。十八で煙草吸うたらいかんのか」
 先廻りして食って掛ると、男は釣糸を見つめながら、
「おれは十六から吸っている」
 豹吉はやられたと思った。
「朝っぱらから釣に来て、昼のお菜の工面いうわけか」
 仕返しの積りで言うと、
「落ちぶれても、おりゃ魚は食わんよ。生ぐさいものを食うと、反吐が出る」
「ほな、何を食うんや」
「人を食う。いちいち洒落を言わすな」
 男の方が役者が一枚上だった。
「食わん魚釣って売るつもりか」
「おりゃ昔から売るのも買うのも嫌いや」
「……? ……」
「変な顔をするな。喧嘩のことや」
 また洒落だ。
「洒落は漫才師でも言うぜ」
 いい気になるなと、豹吉はうそぶいた。
「あはは……」
 男ははじめて笑って、
「――洒落もお洒落もあんまり好きやないが、洒落でも言ってんと、日が暮れん。釣もそうやが……」
「ほな、失業して暇だらけやいうわけか」
「さアなア……」
「商売は何や……?」
「医者ということになっている」
「医者なら人を殺した覚えあるやろな」
「ある」
「どんな気持や……?」
「説明しても判らん。経験がないと判らん」
「ほな、今経験してみるわ」
 豹吉はにやりと笑ったかと思うと、いきなり男の背中をどんと突いた。
 男はあっという間に川の中へ落ちてしまった。
 
 男が川の中へ落ちてしまったのを見届けると、豹吉は不気味な笑いを笑った。
 しかし、さすがに顔色は青ざめていた。
 ふとあたりを見廻した。
 誰も見ていた者はない。午前六時だ。人影も殆んどなかった。
 豹吉は固い姿勢で歩き出した。
「誰も見ていなくてよかったが、しかし、誰か見てくれていた方がやり甲斐があったな」
 そう呟きながら、渡辺橋を北へ渡って行ったが、橋の中ほどまで来ると、急にぱっと駈け出した。
 うしろも見ずに、追われるように走りながら、
「しもたッ! あの男を突き落す前に掏ってやればよかった……」
 そんな後悔でかえって自分を力づけていた。
「――しかし、掏ってみても、あの男のこっちゃさかい、新円の五十円もよう持っとらんやろ、朝の仕事はじめに、百円にもならん仕事をしたら、けちがつく」
 そう考えると、――いや、そう考える余裕がこの際残っていたことで、豹吉はわずかに自尊心が慰められた。
 けれど、走る足はやはり速かった。……
 それから、四時間近くたった頃――
 どこをどう歩きまわっていたのか、豹吉は風のように難波の闇市へ現れた。
 昨日は雨とメーデーで闇市もさびれたが、今日の闇市はまだ昼前だというのに、ぞろぞろと雑踏していた。
 揉まれるようにして、歩いていると、
「大将! 靴みがきまひょか」
 二人の少年から同時に声を掛けられた。
 二人は顔が似ていた。二人とも痩せて、顔色が悪く、乾いた古雑巾のように薄汚い無気力な顔をしている点が、似ているだけではない。顔立ちが似ているのだ。どちらも、びっくりしたように、眼が飛び出している。
 兄弟かも知れない。
 豹吉はふと腕時計を見た。十時十分前だ。
「まだ十分ある」
 豹吉は二人の少年の方へ寄って行くと、
「――お前磨け!」
 小さい方へ靴を出した。
 大きい方の少年はあぶれた顔であった。
 片一方磨き終ると、豹吉は、
「それでええ」
「まだ片足すんどらへんがな」
「かめへん」
 と、金を渡すと、豹吉はこんどは大きい方の少年の方へ、
「こっちの足はお前磨け」
「…………」
「心配するな。金は両足分払ったる」
「オー・ケー」
 いそいそと磨き出した。
 通り掛った巡査がじろりと豹吉の顔を見て行った。
 豹吉はふと、香里の一家みな殺しの犯人が靴を磨いているところを、捕まった――という話を想い出した。
 磨き終って、金を払った途端、豹吉はまたもや奇妙なことを思いついた。
 豹吉はペッと唾をはいた。
 が、べつに不機嫌だというわけではない。
 むしろ機嫌のよい証拠には、両の頬に憎いほど魅力のあるえくぼが、ふっと泛んでいる。
 だしぬけに泛んだ思いつきの甘さに自らしびれていたのだ。
「おい、お前ら珈琲飲み度うないか」
 豹吉は靴磨きの兄弟に言った。
「珈琲か。飲んだことないけど、うまそうやな」
 大きい方の次郎が云った。
「一ぺん飲みたいな。そやけど、あかんわ」
 小さい方の三郎は悲しい顔もせずに、簡単に諦らめていた。
「なんぜあかんネん……?」
「きかんでも判ってるやないか。銭があらへん」
「不景気なことを云うな。なんぼ戦争に負けた云うたかテ、珈琲の味ぐらい覚えてもかめへんぞ。どや、おれが飲ましたろか。本物のブラジル珈琲やぞ」
 豹吉が言うと、ブラジル珈琲とはどんなものか、二人にはまるで判らなかったが、びっくりしたような眼を、一層くるくるさせて、
「ほんまか、大将!」
 十八の豹吉を大将と呼んだ。
「大将大将いうな。日本に大将なんかあるもんか。さア、二人とも道具かたづけて、おれの尻について来い」
 やがて豹吉が南海通の方へ大股で歩き出すと、次郎と三郎は転げるようにしてチョコチョコついて来た。
 南海通の波屋書房の二、三軒先き、千日前通へ出る手前の、もと出雲屋のあったところに、ハナヤという喫茶店が出来ていた。
 ハナヤはもと千日前の弥生座の筋向いにあった店だが、焼けてしまったので、この場所へ新らしくバラックを建てたらしかった。
 バラックだが、安っぽい荒削の木材の生なましさや、俗々しいペンキ塗り立ての感じはなく、この界隈では垢抜けした装飾の店だった。
 豹吉はハナヤの前で再び腕時計をみた。十時……。
「丁度だ」
 はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。
「間抜けめ!」
 低いが、豹吉の声は鋭かった。
 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。
 鋭利な刃物が咄嗟に走ったらしかった。走らせたのは豹吉だ。
 豹吉はあっけに取られている男の耳へ口を近づけると、
「掏るなら、相手を見て仕事しろ」
「豹吉だなア」
 男はきっと睨みつけると、覚えていろと、雑踏の中へ姿を消した。
「間抜けめ! お前のような間抜けのことをいつまでも覚えてられるか」
 ひょいと出た洒落に押し出されるような軽い足取りを弾ませて、兄弟を連れてはいると、豹吉は素早く店の中を見廻した。いない……すかされた想いに軽く足をすくわれて、ちょぼんと重く坐ると、
「なんや、雪子はまだ来てないのか」
 めずらしく寂しい影がふと眉の上を走った。
 雪子――。
 記憶の良い読者は覚えているだろう。
 小沢と一緒に阿倍野橋の宿屋に泊った裸の娘が、宿帳をつける時「雪子」と自分の名を言ったことを……。
 その雪子だ。
 豹吉があれほど時間を気にしてハナヤへやって来たのは、実はその雪子が毎日十時になると、必ずハナヤへ現れるからであった。
 しかも十時前に来ることはあっても、十時に遅れることはない。
 律義な女事務員のように時間は正確であった。
 まるで出勤のようであった。しかし、べつに何をするというわけでもない。ただ十時になると、風のようにやって来て、お茶を飲みながら、ちょぼんと坐っているだけだ。そして半時間たつと再び風のように出て行くだけである。一日も欠かさなかった。
「変な女やなア」
 豹吉はそう思う前に、まずその女が眼触りであった。
 ハナヤは豹吉やその仲間のいわば巣であり、ハナヤへ来れば、仲間の誰かが必ずトグロを巻いていて仲間の消息もきけるし、連絡も出来る。
 ところが、仲間でも何でもない得体の知れぬ女が、毎日同じ時刻に、誰と会うわけでもなく、一人でトグロを巻きに来ているのだ。
 たしかに眼触りであった。
「君何ちゅう名や」
 女にはこちらから話し掛けたことのない豹吉だったが、ある日たまりかねて話し掛けて行った。
「雪子……。名前きいてどないするの……?」
「まさか、惚れようと思ってるわけやないが……」
 と、十八歳とは思えぬませた口を豹吉は利いて、
「――ちょっと気になるな」
「何が……?」
「誰に会いに来た(北)やら南やら……?」
「ふん」
 と、豹吉のまずい洒落を鼻の先で笑って、
「――たぶんあんたに会いに来たンでしょう。――さア帰ろうッと」
 起ち上ると、じゃ明日また……と、雨の中へ風のように出て行った。
 豹吉は軽い当身をくらったような気がして思わず畜生とついて行きかけたが、何かすかされた想いに足をすくわれてぽかんと後姿を見送っていた。
 後姿が消えても、白い雨足をいつまでも見ていた。
 すると、豹吉は雪子に無関心でおれなくなった自分をぴしゃりと横なぐりの雨のように感じて、ふと狼狽した。
 それが、昨日のことであった。
 そして、今日――。
「何だい、あんな女……」
 と、思いながらもやはり豹吉は十時にやって来たのだ。
 ところが、雪子は来ていなかった。こんなことは今までになかったことだと、もう一度見廻すと、若い娘の媚を含んだ視線に打っ突かった。
 しかし雪子ではなかった。

「なんだ、お加代か」
 豹吉はペッと唾を吐いた。
 同じ仲間の「ヒンブルの加代」と異名のあるバラケツであった。
 バラケツとは大阪の人なら知っていよう。不良のことだ。
 しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。
 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。
 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。
 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。
 それ故の「ヒンブルの加代」だが、べつに「兵古帯お加代」という名も通っている。
 洋装はせず、この腕の刺青をかくすための和服に、紫の兵古帯を年中ぐるぐる巻きにしているからだ。
 従って、髪も兵古帯にふさわしくお下げにして、前髪を垂らしているせいか、ふと下町娘のようであり、またエキゾチックなやるせなさもある。
 昔はやった「宵闇せまれば悩みは果てなし……」という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひどい目に会う学生が多い――それほどお加代は若い男の心をそそる魅力を持っていた。
 それかあらぬか、仲間の男たちは、
「ヒンブルの加代のことを考えると、何だかやるせなくなって来る」
 と、空しく胸を焦していたが、ただ一人豹吉だけは、癖の唾を吐いても、鼻もひっ掛けなかった。
 それ故、雪子の代りに見たお加代の姿ほど、豹吉を失望させたものはなかったが、一方、
「なんだ、お加代か」
 という豹吉の言葉ほど、お加代を失望させたものはなかった――とも言えよう。
 しかし、さすがにお加代は寂しい顔を見せずに、
「あたしで悪かったわね。――折角誰かさんに会いに来たのにね」
 と、豹吉より四つ歳上だけの口を利いた。
「阿呆ぬかせ! 俺はこいつらに珈琲を飲ませてやろうと思うて、来ただけや」
 連れて来た靴磨きの兄弟が、この際の楯になった。
 勿論、そのつもりでハナヤへ来たには違いない。しかし、その二人を連れて来るという思いつきを豹吉に泛ばせる胸底には、たしかに雪子のことがあった。
 一人で来るのにもはや照れていたのだろうか、それとも、いつもは一人で来るのに、今日はいきなりそんな連れと一緒に来たことで、雪子をあっと言わせたい例の癖を出したのだろうか。
 いずれにしても、肝腎の雪子がいないとすれば、まるでキッカケをはずされた役者のようなものであった。意気込んで舞台へ飛び出したが、相手役がいなかったというバツの悪さをごまかすには、せめて思いも掛けぬお加代という登場人物を相手にしなければならない。
「へえん、随分ご親切だけど、かえって親切が仇にもなるわよ」
 と、お加代はしかし大根役者ではなかった。

「親切が仇に……? なんぜや……?」
 豹吉はききかけて、よした。
 他人の意見なぞ、どうでもよい。自分の考えだけを押し通せばいいのだ。頼りになるのは、結局自分自身だけだ――というのが、豹吉の持論だった。
「おい、八重ちゃん……」
 と、豹吉は店の女の子を呼んで「――この子供らに、メニューにあるだけのもン、何でも食わせてやってくれ」
 どうやら靴磨きの少年達に御馳走することには、反対らしいお加代への面当てに、わざとそう言った。
「何でもって、全部ですか」
 女の子はまごついてしまった。
「そうだ。――ハバ、ハバ!」
 豹吉はいらいらして言った。ハバとは「早くしろ」という意味の進駐軍の用語である。
 珈琲、ケーキ、イチゴミルク、エビフライ、オムレツ……。
 運ばれて来るたびに、靴磨きの兄弟――
「うわッ、うまそうやな」
 と、唾をのみ込み咽を鳴らしながら、しかし、
「――これ食べてもかめへんか。ムセンインショク(無銭飲食)でやられへんか」
 と、不安そうに豹吉にだめを押した。
「心配するな」
「大将、ほんまに新円持ってるのンか」
「情けないこときくな」
 豹吉は上衣の胸のあたりをポンと敲いて、
「――この通り、掏られも落しもせんさかい、安心して食べろ」
 今さきハナヤの入口で自分を掏ろうとした頓馬な駆け出しの掏摸の顔を想い出しながら、にやりと笑ったが、ふと時計を見ると、もう豹吉の頬からえくぼが消えてしまった。
 十一時半……。
 十時に来ていつも十時半に帰ってしまう雪子だったから、もうこんな時間になって来る筈もない。
「しかし、なんぜ来ないのかなア。昨日おれの言ったことで気を悪くしたのかなア。それとも、なんぞ起ったンやろか」
 ふとそう呟いた時、お加代の声が来た。
「あんたも随分物好きな人ね」
「今更言わんでも判ってる。おれから物好きを取ってしもたら、おれという人間がなくなってしまうよ」
「そりゃ判ってるわよ。だいいち中学校の体操の教師を投げ飛ばして学校を追い出されたくらいだから……」
「じゃ黙っとれ!」
「いや、喋るわ」
「選挙はもう済んだぜ」
 それには答えず、お加代は、
「あんた御馳走したげるのはいいけど、寝てる子起すようにならない……? その子たち、やみつきになったらどうするの……?」
「兵古帯のくせに分別くさいこと言うな」
「あんたは分別くさくなかったわね」
「何やと……?」
「分別があれば、あんな怪しい素姓の女に参ったりしないわね。何さ、そわそわ時計を見たりして……。」
「怪しい……? 何が怪しい素姓だ……?」
「あら、あんたあの女の素姓しらないの?」
 お加代の声はいそいそと弾んだ。

「素姓みたいなもン知るもんか」
 豹吉はペッと唾を吐いて、
「――女に惚れるのに、いちいち戸籍調べしてから惚れるくらいなら、俺ははじめから親の家を飛び出すもんか」
 古綿をちぎって捨てるように言った。
 口が腐っても、惚れているとは言わぬ積りだったが、この際は簡単に言ってのける方が、お加代への天邪鬼な痛快さがあった。
 果して、お加代は顔色を変えた。
 豹吉が雪子に興味を抱いているらしいことは無論知っていたが、しかし、はっきり豹吉の口から聴いてみると、改めて嫉妬があり、
「ただでは済ませるもんか」
 という自尊心のうずきが、お加代の額にピリッと動いた。
「なるほど、家を飛び出すだけあって、あんたも随分おつな科白が飛び出すわね。しかしわれらのペペ吉が惚れるもあろうに、ストリート・ガールにうつつを抜かした――というのはあんまりみっとも良い話じゃないわよ」
 ペペ吉とは豹吉の愛称だ。むかし「望郷」という仏蘭西映画にペペ・ル・モコという異色ある主人公が出て来たが、そのペペをもじったのか、それとも、ペッペッと唾を吐く癖からつけたのか。
「ストリート・ガール……?」
 人を驚かすが自分は驚かぬという主義の豹吉も、さすがに驚きかけたが、危くそんな顔は見せず、
「――嘘をつけ!」
「そんな怖い眼をしないでよウ。――嘘でない証拠には、あたしはちゃんとこの眼で見たんだから。ゆうべ雨の中で男を拾ったところを」
「どこでだ……?」
えびす橋……相手の男まで知ってるわ。首知ってるどころじゃない。名前をいえば、針が足の裏にささったより、まだ飛び上るわよ」
「言ってみろ、どいつだ……?」
「ガマンの針助……」
 と、言って、にやりと笑うと、
「……に、きいてごらんよ」
「じゃ……? あはは……。担いでものらんぞ、あはは……」
 豹吉はわざと大きく笑ったが、しかし、その笑いはふと虚ろに響き、さすがに狼狽していた。
 ガマンの針助……。
 この奇妙な名前の男について述べる前に、しかし、作者は、その時、
「やア、兄貴!」
 と、鼻声で言いながら、ハナヤへはいって来た十七、八の、鼻の頭の真赤な男の方へ、視線を移さねばならない。
 豹吉を兄貴と呼んだ所を見れば、同じ掏摸仲間であろう。名前は亀吉……。
 首が短かく、肩がずんぐりと張り、色が黒い。亀吉というのが本名なら、もう綽名をつける必要はない。
 豹吉の傍へ寄って来ると、
「兄貴、えらいこっちゃ。刑事でかの手が廻った!」
 亀吉は血相を変えていきなり言った。

 お加代の顔には瞬間さっと不安な翳が走ったが、豹吉は顔の筋肉一つ動かさず、ぼそんとした浮かぬ表情を、重く沈ませていた。
「……刑事でかの手が廻った」
 という言葉の効果を期待していた亀吉は、簡単にすかされて、ひょいと首をひっ込ませると、
「けッ、けッ、けッ……。一杯かつぎ損いや。へ、へ、へ……。兄貴をびっくりさせるのはむつかしいわい。う、ふ、ふ……。しかし兄貴はなんでこない何時もびっくりせえへんネやろな。ヒ、ヒ、ヒ……」
 実にさまざまな、卑屈な笑いを笑った。
「当りきや。そうあっさりと、びっくりしてたまるか。おい、亀公、お前この俺を一ぺんでもびっくりさせることが出来たら、新円で千円くれてやらア」
 蓄膿症をわずらっているらしくしきりに鼻をズーズーさせている亀吉の顔を、豹吉はにこりともせず眺めて、
「――お前ら掏摸のくせに、千円の金を持ったことないやろ」
「持たいでか。それここに……」
 亀吉は胸のポケットを押えた。
 豹吉はちらと見て、
「なるほど、持ってやがる。まア二千円ってとこかな」
「えッ」
「どや、図星やろ。あはは……。それくらいの眼が利かないで、掏摸がつとまるか。まア、掏られぬように気イつけろ」
 豹吉が言うと、お加代もはじめて微笑して、
「亀公にしてはめずらしい大金ね。拾ったの?」
 と、冷かすと、亀吉はふっと唇をとがらせて、
「何をぬかす。拾った金なら届けるわい」
「じゃ、掏った金なら持ってるの……」
「そや」
「本当に掏ったの……」
「当りきシャリキ、もちろん……おまけに、掏ったのが紙一枚、それが二千円とはごついやろう」
「また担ぐんじゃない……」
「まア、聴け……」
 そして亀吉の喋ったのは、こうだった。
 ――昨夜、亀吉は大阪駅の東出口の荷物預り所で、脊中の荷物を預けている復員軍人を見た。
 亀吉は何思ったか、寄って行って、その復員軍人が、カードに、
「小沢十吉……」
 と、書いたのを、素早く読み取った。
 そして小沢が引換のチケットをズボンの尻にねじ込んで地下鉄の中へ降りて行くと、ひそかにそのあとをつけ、雑踏の中で、そのチケットを掏ってしまった。
 二時間後、亀吉は何食わぬ顔をしてその荷物を受け取りに行き、闇市へ持って行く。
「……煙草一本吸う間に、どや二千円で売れたとは鮮かなもんやろ」
 と、胸を張った途端、亀吉の頬がピシャリと鳴った。
「莫迦ッ! 復員軍人と引揚げだけは掏るなと、あれほど言うてるのが判らんのか。復員軍人や引揚げはみな困ってるネやぞ。盗んだ品は買い戻して、返して来い」
 豹吉は亀吉よりも次郎、三郎の方がびっくりするくらい、大きな声で怒鳴りつけた。

「兄貴殺生やぜ」
 と、亀吉はなぐられた頬を押えながら、豹吉に言った。
「何が殺生や……?」
「そうかテお前、折角掏ったもんを、返しに行け――テ、そンナン無茶やぜ」
「おい、亀公、お前良心ないのンか」
 豹吉は豹吉らしくないことを言った。
「ない」
「ない……? 良心がない……?」
「あったけど、今はないわい」
 亀吉はふと悲しそうに、
「――二人とも死んでしもた」
「阿呆、その両親と違うわい。心の良心や」
「ああ、それか。それやったら、一寸だけある」
「ほな、返しに行け」
「…………」
 亀公は何か言いたそうに、唇を尖らせた。
「復員軍人テお前どんなもんか知ってるやろ。たいてい皆いやいや引っ張り出されて、浦島太郎になって帰って来た連中やぞ。浦島太郎なら玉手箱の土産があるけど、復員は脊中の荷物だけが財産やぞ。その財産すっかり掏ってしもても、お前何とも感じへんのか」
「…………」
 亀吉は眼尻の下った半泣きの顔を、お加代の方へ向けた。
 お加代は煙草を吹かしながら、ぼそんと口をはさんだ。
「……良心か。ペペ吉も良心なんて言い出しちゃ、もうおしまいだねえ。女に惚れると、そんなにしおらしいことを云うようになるもんかなア。掏摸をするのに、いちいち良心に咎めたり、同情していた日にゃ、世話はないわねえ」
「お前は黙っとれ」
 ペペ吉の豹吉はきっとお加代を睨みつけて、
「おれの言うてるのは、そんなけちくさい良心と違うわい」
「じゃ、けちくさくない良心テ一体どんな良心なの?」
「けちくさい仕事はせんというのが、掏摸の良心や、浦島太郎みたいに、ぼうっとなっている引揚早々の男を覘うのは、お前けちくさ過ぎるわい。――おい、亀公、お前も掏摸なら掏摸らしゅう、もう一本筋の通った仕事をしろ」
 返して来いと、豹吉はすさんだ声で言った。
「返せと言うたかテ、どこを探したらええか、さっぱり判らんがな」
「判らなかったら、一日中駈けずり廻って探して来い――いやか。いやなら、いやと言え!」
「返すよ、返すよ。返しゃいいんだろう」
 しかし、亀吉はまだぐずついていた。が、「ハバ、ハバ!」
 と、言われると、
「オーケー」
 自分の言葉に軽く押し出されるように、亀吉はひょいとハナヤを飛び出した。
 次郎と三郎は、びっくりしたような眼を見合せていた……。

    大阪の憂鬱

 丁度その頃――。
 というのはつまり、亀吉が豹吉にいいつけられて小沢十吉を当てなく探しに、千日前のハナヤを出た頃――。
 雪子は阿倍野橋の宿屋の一室に寝巻のまま閉じこもって、小沢の帰りを待ち焦れていた。
 妙な一夜が明けて、朝小沢は眼を覚すと、雪子に言った。
「君、どうする……?」
「どうするって……?」
「帰れる、その恰好で……」
「帰られへんわ」
 寝巻に細帯だけだった。おまけにその寝巻は宿屋のものなのだ。よしんば借りて帰るにしても、温泉場の夜ならともかく、白昼の大阪の町を、若い娘の寝巻姿は目立ちすぎる。それに、履物がない。
「宿屋の女中さんに事情話して、著物貸して貰うかな」
「いや」
「どうして?」
「だって」
 裸で来た理由を語るのは、あくまで避けたいらしかった。
「じゃ、どこか君の知っている所で著物貸してくれそうな所ないかね。君の使いになって、僕、行ってみるけど……」
「…………」
「ないのか」
「ええ」
「じゃ、僕が何とか工面して来てあげよう」
「お心当りありますのン?」
「まず、買うて来るより仕方がない。闇市……っていうのか、復員したばかりでよくは知らんが、そこへ行ったら売ってるんじゃないかな。金さえあれば、何でもあるってことだそうだから」
「でも、そんなお金……」
「大阪駅へ荷物預けて置いたんだ。毛布や何やかやあるから売れば金になるだろう」
「そんなン……気の毒ですわ」
「今から行って来るから、帰るまで待っていろ」
 そう言って、小沢は出て行った。
 その帰りを、雪子は待ち焦れているのだった。
 勿論、著物を待っているのにはちがいないものの、しかし、何か恋人を待っているような甘い焦燥がないわけではなかった。
 早く著物を持って帰ってくれれば、それを著て、そのまま小沢と別れて、いつも行くように、十時にハナヤへ行きたいと、思っていたが、しかし、小沢が帰って来ても、もはや何か小沢と離れがたいという気持もあった。
 離れがたいと言っても、しかし、そんな深い仲になったわけではなかった。むしろ、小沢は夜どおし雪子に背中を向けて寝ていたのだ。
 しかしそれがかえって、雪子の心を燃えさせたのだ。かつて男というものに動いたことのない心が不思議にいそいそと燃えたのである。
 だから、ひたよりに小沢の帰りを待っていることが雪子の心を甘くゆすぶっていた。
 しかし、小沢はなかなか帰って来なかった。

 小沢は憂鬱だった。
 が、しかし、小沢の憂欝は同時に大阪の憂鬱ではなかろうか。
 まず小沢の憂鬱は――。
 雪子をひとり残して、阿倍野橋の宿屋を出た小沢は、阿倍野橋から地下鉄に乗って、大阪駅まで行った。
 そして、駅の東出口の横にある荷物の一時預け所へ行き、引換えのチケットを出そうとして、はじめてそれが無くなっていることに気がついた。
 あわてて、あちこちポケットを……裏返しにまでしてみたが、ない。
「おかしい。落したのかな」
 まさか掏られたとは思えなかった。
「チケットを落したんですが……」
 と、小沢はもう探すことは諦めて、係員に言った。
「――チケットなしでも渡して貰えますか」
「渡せんな」
 香車で歩を払うような、ぶっ切ら棒な返事だった。
「預けた品はわかってるんですが……」
「ふん、どうせ闇のもンやろ」
 小沢はむっとした。が、声は柔く……というより、むしろ情けない調子で、
「昨日復員したばかしで、実はその荷物なんです。毛布は麻繩を掛けたやつですから、見ればすぐ……あ、そうだ、名前もついている筈です。小沢十吉です」
「なんや、復員の荷物か」
 係員は吐きだすように言った。
「そうです」
 小沢は腹が立つというより、むしろ情けなかった。
 こういう所の人々の中によくある妙に威張った態度は、戦争中と少しも変っていない。彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。
 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん判らないわけではなかった。しかし、復員者はすでに人間として帰って来たのだ。いや、むしろ「人間になろうとして」帰って来たのだ。いわば、まだ本当の人間になり切っていないのだ。それだけに、
「なんや、復員か」
 という一言が、彼を悪の華の咲く園に追いやり、太陽の光線よりも夜光虫の光にあこがれさせてしまわないとは、断言できない。
「復員の荷物みたいなもン、一つもないぜ」
 係員は棚の荷物をちらと見廻して言った。
「しかし、預けたことはたしかに預けたんですから……」
 ない筈はないと、小沢が言うと、
「ないもンはない。――誰ぞ取りに来たんやろ」
「取りに来た? ……誰がですか」
「そら知らん。――だいいちチケットを落すのが悪い」
 係員はすっと奥へはいってしまうと、もう小沢がいくら呼んでも出て来なかった。
 小沢はがっかりして、梅田の闇市場の中にある食堂へはいって行くと、ここにもまた大阪の憂鬱があった。

 小沢は朝から――というより、昨夜から何も食べていなかった。
 米を持っていなかったから宿屋では食事を出してくれなかったのだ。
 実は、復員の時にもらった三日分の米を、毛布の中へくるんで大阪駅へ預けて置いたのだった。
 それを受け取って、毛布や長靴を売って、雪子の著物を買い、宿に帰って米を炊いてもらおうと正直に考えていたのだ。
 外で食事が出来るとは、考えも及ばなかったのだ。
 だから、預けた荷物がいつの間にか無くなっていたと判ると、小沢は何よりも先に、
「今日は何にも食えないかも知れんぞ!」
 と、まずそのことを諦めた。
 ところが、あてもなく闇市場を歩いていると、パンを売っているばかりか、食堂の飾窓にはカレーライスの見本もも[#「見本もも」はママ]出ているではないか。
 小沢はいそいそと中へはいったのだ。
「カレーライス出来る……?」
「出来ます」
「ライス……って米なの……?」
「純綿です」
「純綿……?」
 と、きき返したが、
「――ア、そうか。白米か」
 と、すぐ判った。
 値をきくと、十五円だという。
「高い!」
 と、思う前に、小沢はとにかく外で米の飯が食えるという意外な発見に、気持が浮き立っていた。
 十五円という金がこの国の勤労階級の収入の、殆ど一日分――いや、それ以上の大金だということには、小沢は暫らく気がつかなかった。
 その食堂に、どうして白米があるのか、毎日何百杯かのカレーライスを売るだけの米があるのか――ということも、考えなかった。
 ただ、米があるということに安心していた。
「大阪へ帰れば、米は食えないぞとおどかしやがったが、なんのことだ、ちゃんとこうして、あるじゃないか」
 食糧危機だなんて言葉は嘘なんだな――と思いながら、運ばれて来たカレーライスを食べていると、黝ぐろいむくみがむくんで、水が引いたように痩せおとろえた十六、七の薄汚い少女が、垢と泥が蘚苔のようにへばりついている跣足のまま、フラフラとはいって来た。
 そして、中風やみのようにぶるぶる手足をふるわせながら、しょぼんと立っていたが、ふと小沢の足許に二、三粒の飯粒が落ちているのを見るとあっという間にしゃがんで、その飯粒を口に入れた。
 小沢は思わず顔をそむけた。
「昔は乞食もこんな浅ましい真似はしなかった。やっぱり日本は哀れな国になってしまったのか……」
 外で米の飯が食べられる余裕があったのかという咄嗟の安心感は、簡単に消えて、恥も外聞も見栄ももうこの国の人間は失ってしまったのかと情けない――というよりむしろ腹が立った。
 しかし、さすがにその少女があわれで、何か食べさせてやろうと思った途端、隅の方に坐っていた男が、ちらと鋭い眼を輝かせて、
「おい!」
 と、その少女を呼んだ。
「…………」
 娘はだまって振り向いた。
 呼んだのは、四十五六の角刈の男だった。
 和服の着流しに総しぼりの帯、素足に革の草履――という身なりは、どこか遊び人風めいていたが、存外律義そうな顔立ちで、
「腹が空いてるのンか」
 と、きいた声は、女のように優しかった。
「…………」
 娘は答えず、きょとんとした眼で男を見ていた。
「食べたいか……?」
 と、男はにぎり寿司の皿を指した。
「う、う、う……」
 娘はうなずき、うなずきながら鳥の啼くような声を、痩せた喉から、
「う、う、う……」
 絞り、絞り出した。
「なんや、唖か」
 男は自分の耳へ、女のようにきゃしゃで美しい人指し指を当てた。
 耳は聴こえるのかという意味だと、娘も判ったのか、
「う、う、う……」
 と首を振った。聴えぬらしい。
「ちょっと……」
 男は食堂の女を呼んで、
「――この娘に、にぎり寿司食わせてやってくれ、それからビールもう一本……」
 にぎり寿司が来ると、娘はむさぼるように口へ放り込んで、またたく間に食べてしまい、皿についている飯粒を、舌の先でペロペロと拾った。
 男はビールを飲みながら、じっとその容子を見ていたが、やがて怪しげな手つきで、
「――おれに――ついて来たら――もっと飯を――食わせてやる――ついて来るか……」
 という意味の手真似を、やり出した。
 即席の手真似だが、娘には通じたのか。だまってうなずいた。
 飯を食わせてくれるなら、どこまでもついて行く――という風であった。
 男はにやりと笑うと、勘定を払った。そしてコップに残っているビールを、立ったまま、ぐいと飲みほした。
 途端に、男の青い腕が袖から覗いた。
 その青さに、小沢はどきんとした。青い腕――と見えたのは、刺青だったのだ。
「さア、行こう」
 コップを置くと、男は娘をうながして、外へ出た。娘はヒョロヒョロした足で、ついて行った。
 その時、食堂の隅で古いラッパつきの蓄音機が鳴り出した。
 まるで、唖でつんぼの娘が出て行くのを待っていた――といわんばかしに鳴り出したその音を聴いていると、何かしら奇妙な感じが、小沢の頭の中をぐるぐると廻った。
 ラッパつきの蓄音機がチグハグなのか。時代おくれの刺青を見たことがチグハグなのか。それとも、ネオンサインが大阪の盛り場の夜空を赤・青・紫に染めていた頃の、昔の甘い浅薄な流行歌を、焼跡のバラック建の食堂の中で、白昼きいていることが、奇妙なのか。
 いや、それよりも今ここを出て行った男の行動が、何か奇妙なような気がしてならなかった。
 あの娘を何のためにどこへ連れて行くんだろう。飯ならここで食えるのに、物好きな……。
 いや、単なる物好きだけだろうか。
 へんだぞと、小沢は呟いた。

 小沢は食堂の女を呼んで、きいた。
「今の人、いつも来るの……?」
「いいえ、はじめてです」
 顔のオデキをかくそうとしてベタベタと塗り立てたのか、おかしい位こってりと厚化粧した女は、安白粉の匂いをプンプンさせながら、小沢の傍に掛けると、
「――おビール持って来まひょか」
 大阪弁を使っているが、アクセントは上方のそれではなかった。どこからか大阪へ流れて来た女らしい。
「いや、いらん」
 食堂だと思ったが、夜はカフェに変るのだろうか、いや、朝っぱらからもうカフェじみているわいと思いながら、小沢はぶっ切ら棒に断ったが、ふと思い出して、
「――それより、にぎりを持って来てくれ」
 十五円のライスカレー一皿では、腹が一杯にならなかったのだ。
「にぎり一チョウ!」
「あ、二皿にしてくれ」
 と、小沢はあわてて言った。
「――土産にするから、包んでくれないか」
 阿倍野橋の宿で待っている雪子のことを、想い出したのである。
 雪子も昨夜から何も食べていないのだ。だから、自分で食べるより、雪子のところへ早く持って行って、食べさせてやりたかった。
 が、飯はこれで出来たが、著物はどうすればいいのか。
 売り払って著物の金にかえる筈だった荷物は、しかし駅でなくなってしまった。
「弱ったな」
 げっそりした声を出して、小沢は思わず呟いた。
 手ぶらで帰れば、雪子は今日も宿を出られず、昨夜と同じように一つの部屋で明かさねばならない。
 よしんば、それは我慢するとしても、もう宿賃の払いが心細いのだ。
「昨夜、細工谷なんか歩いたばっかしに、おれも苦労するわい」
 小沢は夜更けの雨の中で、一糸もまとわぬ雪子にいきなり出くわした時のことを、想い出しながら、苦笑した途端、ふと細工谷町の友人のことに気がついた。
 その友人は独身だったが、案外細君を貰っているかも知れない。よしんば独身にせよ、たしか妹がいた筈だ。
「そうだ、あいつに頼んで、女の著物を借りるより手がない」
 小沢はにぎり寿司の包みを受け取って、勘定を払うと、その食堂を出たが、どこをどう抜ければ、駅前の停留所へ出られるのか、はじめてのこと故さっぱり見当がつかず、迷宮のような闇市場の中をぐるぐる廻ったあげく、やっと抜け出してみると、そこは梅田新道通りだった。
 小沢は苦笑しながら、阪急の方へ歩いて行って、やっと今里行の市電に乗った。
 市電は混んでいた。
 北浜二丁目で十人ばかり降りたので、小沢はいくらか空いている出口の方へ詰めて行こうとして、ひょいと見た途端、
「あッ!」
 と思った。
 出口に近く、釣革にぶら下っている腕を見たのだ。
 青い刺青の腕だ。その横にさっきの唖の娘が乗っていた。
 やがて、電車が上本町六丁目に著いたので、小沢が降りようとすると、その刺青の男も娘と一緒にそこで降りた。
 作者はここでいささか註釈をはさみたい。
 ――偶然というものは、ユーモアと共に人生に欠くべからざる要素である。
 ユーモアのない人生なんて、凡そ糞面白くないものだが、同時に、人生から偶然というものを取り除いてしまえば、随分味気ないことになるだろう。
 しかも、偶然の面白さというものは、こいつが続き出すときりがないという点にある。
 余り上品でない比喩を使って言えば、偶然というやつは、まるで金魚の糞のようにゾロゾロと続くものなのである。――
 例えば……。
 小沢十吉がたまたまはいった梅田の闇市場の食堂で、刺青をした男が唖の浮浪少女と連立って出るところを目撃した――という偶然は、ただそれだけでは大したこともないと言えるが、やがて乗った市電の中に、その二人も乗り合わせていたという偶然と折重ってみると、既に何となくただごとでなくなって来る。
 少くとも小沢は、何かしら得体の知れぬ予感を感じて、どきんとした。
 果して、刺青の男と唖の娘は、上本町筋を真っ直ぐ北へ行くかと思うと、八丁目の外語学校の前を急に東へ折れ、上ノ宮中学の前を通り細工谷の方へ歩いて行くではないか。
 このコースは昨夜小沢が土砂降りの雨の中を歩いて行ったコースであった。
 そして、今小沢はその同じコースを辿るのである。
 自然、小沢はその二人のあとを尾行するといった形になったが、勿論、尾行するつもりで歩いて行ったのではない。
 小沢はただ細工谷町の友人を訪ねるために、その道を歩いているというに過ぎなかったのだ。
 ところが、刺青の男と唖の娘が、昨夜小沢が雪子と出会った四ツ辻まで来て、いきなり北へ折れて行くのを見ると、
「おやッ!」
 と、思って、友人の家へ行く道を急に変えて、その二人のあとを尾行する気になった。
 刺青の男は、半町ばかり行くと古風なしもた家の前で立ち停った。
 そして、手真似で唖の娘をうながすと、その家の中へはいってしまった。
 ひそかに尾行していた小沢は、何気なくその家の前を通り過ぎざまに、ちらと標札の文字を見上げた。
「横井喜久造……」
 その名前を記憶の中に入れて、小沢は四ツ辻までひきかえした。
 そして、そこから二丁ばかり東へ行くと、友人の家があった。
「伊部恭助」
 稍左肩下りの、癖のある、しかし達筆の字で書かれた標札を見た途端、小沢は、
「そうだ、伊部の奴は高等学校の時から変った字を書いていたっけ」
 と、久しく会わぬ旧友を、しかも復員後はじめて会う知人として訪ねる――というなつかしさがこみ上げて来て、
「――ここは焼けないで良かった」
 と、喜びながら、玄関の戸をあけると、三足の男の靴が脱ぎ捨ててあった。
 それをちらと眼に入れながら、案内を請うと、奥から出て来た若い娘が、
「あら。小沢さん」
 小沢の顔を見て、耳の附根まで赧くなった。

 三年振りだったが、さすがにその娘の顔には見覚えがあった。
 額が広く奥眼で、鼻筋が通っているところなど、兄の伊部恭助にそっくりだったから、妹の道子だと、すぐ判り、
「やア、暫く……」
 小沢は以前この家を訪ねて来た時と、同じ調子の声を出しながら、しかし、めずらしく赧くなってしまった。
 三年前に見た時はまだ女学校へ通っていたのに、今はすっかり娘めいて、スカートの裾から覗いているむっちりした膝頭を気にしているのを見て、思わずはっと赧くなったのだろうか。
 それとも、道子がぱっと顔に花火を揚げたのを見て、かえってこちらが照れてしまい、ふと赧くなったのだろうか。
「伊部君いますか」
 そうきくと、道子は、
「あのウ、今ちょっと……」
 留守ですと、なぜか半泣きの顔になった。
「あ、病院ですか」
 伊部が阪大の外科に勤めていたことを想い出した。
「はア、でも……」
 曖昧に言って、ふと笑うと、えくぼがあった。
「そうですか」
 と、小沢はがっかりして、
「――じゃ、また出直しましょう」
「あら……」
「えッ……?」
「あのウ……」
 帰らないで、上ってはどうかと、言いだし兼ねて、道子はもじもじしていた。
「だって……」
 お客さんでしょうと、ちらと男の靴を見た。
 道子も見て、
「あら、いいんですの」
 しかし、ぱっと花火を揚げて、
「――どうぞ」
「そうですか、じゃ」
 茶の間へ通されると、小沢は早速きり出した。
「――実は今日お伺いしたのは、著物をお借りしようと思って……」
「著物……?」
「ええ、女の著物なんです」
 小沢は頭こそかかなかったが、頭をかきながら――と言った気持で言った。
「女の……?」
 道子はふっと眉をくもらせた。
「伊部になら、詳しく事情を話せるんですが……、でも、……」
「あたしじゃ話せませんの……?」
 と、道子の声は何か鋭く、その鋭さは小沢にはふと意外だった。
「ええ、ちょっと……」
 こんどは本当に頭をかきながら、
「――たすけると思って、貸していただけませんか」
 道子は急に立ち上って、茶の間を出て行った。
 そして、奥の部屋で何やらヒソヒソ言っているらしかったが、やがて戻って来ると、
「折角ですけど……」
 お貸し出来ませんわと、悲しそうな表情を唇に見せながら、その唇をキッと噛んだ。

「どうして……」
 駄目ですか――という眼で、小沢はちらと道子の顔を見ると、道子はキッと唇を噛みながら暫く、あらぬ方を見つめていたが、やがて、
「著物差し押さえされました」
 本を読むような、表情のない声で言って、ふと、微笑むといつものえくぼが浮かんだ。
 しかし、そのえくぼには寂しい翳があった。
「えっ……? サシオサエ……?」
 咄嗟に、意味が判らなかった。
「執達吏が今うちへ来てるんです」
「ああそれで……」
 判った。
 さっき玄関で見た三足の男の靴は、サシオサエに来ているのだったかと、判ったが、
「――しかし、どうして……?」
 と、疑問は残った。
「兄が高利貸に借金したんです」
「へえ……? 伊部君が……」
 高利貸に借金するとは、意外だった。
 伊部は二十五歳で医学博士になったくらいの秀才で、酒も煙草も飲まぬ、いわゆる品行方正の男だったし、勤務先の阪大病院でもまず相当な給料を貰っていたから、高利貸に金を借りるような生活はまるで想像も出来なかった。
 ところが――。
「……敗戦になってから、急に酒を飲みだしたんです」
 おまけに煙草は日に八十本、病院もやめてしまい、毎日ぶらぶらして、水すましのように空虚な無為徒食の生活をはじめた――と道子はスカートの端をひっぱりながら言った。
「どうしてまた……?」
 そんな風になったのかと、小沢はびっくりして、口も利けなかった。
「それが……」
 と、道子はふとうなだれて、
「――あたしにも判らないんです」
「ふーん」
 小沢にも無論判らなかった。
「――病院もやめてしまったんですか」
「病院から、来てくれ来てくれって、喧しく言って来るんですけど、どうしても……。戦争が終ってから、何んとなく行く気がしないと云うんです。すっかり人間が変ってしまいましたわ」
 あとの方は、声がうるんだ。
「ふーん」
 と唸るより仕方がなかった。
「小沢さん、お願いです」
 道子は小沢の名を言う時、急に赧くなった。
「――兄さんに忠告して下さい」
「で、兄さんは今どこにいるんですか」
「たぶん渡辺橋の方だと思います」
「何をしに……?」
「何もすることがないので、毎日朝早くから魚を釣りに行っているんです」
 情なそうに、道子は言った。

「魚釣り……?」
 など、するような伊部ではなかったのだ。研究と仕事以外には、何一つ道楽も趣味もない男で、欠伸する暇もないくらい、医学の仕事に全身を打ち込んでいたのだ。
「ええ」
 と、道子は小沢に答えた。
「――朝暗い内から起きて、出て行くんです。そして、一日中渡辺橋のところで、坐ってるんです」
「釣れるんですか」
 小沢は愚にもつかぬ質問をした。それよりほかに、何か言うべきことを知らない――それほど呆れ返っていたのだろう。
「さア、どうですか。一匹も持って帰ったことはありませんの。釣ったのは、みな川へ逃がしてやるらしいですの」
 その悲しそうな声は、小沢の胸を痛めた。
「伊部の奴!」
 と唇を噛んで、ふと壁に掛った野口英世の写真を見あげて、
「――僕これから行って、言いきかせてやります」
「お願いします」
「じゃ……」
 起ち上ろうとするのを道子は、
「あらッ。――いまお茶を入れますから……」
 このまま小沢が帰ってしまうことが、思いがけず寂しかった。
 がなぜ、そんなに寂しいのだろう。
「そうですね。じゃお茶だけ……」
 いただきましょうと、小沢は坐り直したが、しなければならないことが山ほどありながら、ふと自分をひきとめたものは、一体何であろうかと、小沢は道子の顔から、あわてて眼をそらした。
 その拍子に、雪子の顔がちらと浮んだ。自分の帰りを待っている雪子の顔が……。著物、帯、下駄……。
 道子は湯呑みを出そうとして、水屋の戸をあけようとした。
 その時、いきなりはいって来た男が、
「おっと……、それ、あけちゃ困りまっせ」
 と、道子の手を払おうとした。
「なぜいけないんだ?」
 小沢は道子の分までむっとして怒鳴るように言った。
「封印がしてまっさかいな」
 男はにやにやした。
「一体、伊部君はいくら借りたんです」
「千円です」
 道子が言うのと同時に、男は、
「二万三千円……。元利合計してまっさかいな。へ、へ、へ……」
「千円が二万三千円……? そんな莫迦な……」
「伊部さんにきいてみなさい。ちゃんと、そうなってまっさかい」
 男は再びにやにやした。
「よし、きいてみる」
 小沢はむっとして起ち上った。
「あらッ」
 その声を背中にきいて、小沢はその家を飛び出すと、その足で渡辺橋までかけつけた。
 が、一日中居ると道子が云った筈の伊部の姿はその辺に見当らなかった。
 読者は覚えているだろう。豹吉に川へ突き落された男があったことを――。
 しかし、小沢は無論そんな事件を知る由もなかった。
 小沢はまたしても憂鬱になった。
「おれのしてることは、行き違いばかしじゃないか」
 駅へ荷物を取りに行けば、いつの間にかなくなっているし、伊部の所に雪子の著物を借りに行けば、家財道具を差し押えられている最中だ。おまけに、伊部に会いに渡辺橋まで来てみれば、よりによって姿が見当らない。
 わずかに、奇怪な刺青の男の住家をたしかめたことと、伊部の妹の道子に会うたことだけが収獲だと――言えば言えた。
 刺青の男の住家をたしかめたことは、べつに大したことではない。ちょっとした好奇心にかられただけに過ぎないかも知れない。
 が、すくなくとも昨夜雪子を拾ったのは、あの男の近所だった。
 だから、どうだ……ときかれても、咄嗟に答えられるわけではなかったが、しかし……。
「――もしかしたら……何かが……」
 あるのではなかろうかという予感が、ないわけでもなかった。
「とにかく宿へ帰ってみよう」
 著物を持たずに帰ったところで致し方はないが、しかし、寿司の土産はある。
 著物を手に入れるあてもなく、まごまごしていたずらに時間を空費しておれば、雪子の空腹は増すばかりだと、小沢は淀屋橋から地下鉄に乗った。
(作者はここで再び註釈をはさみたい。――即ち、偶然というものは、続き出すときりがない……と。)
 亀吉が同じ車輛に乗り合わせていたのだ。
 しかし、小沢は亀吉の顔には見覚えはなかった。たとえ亀吉の顔を見ても、それが自分の荷物を横取りした男だとは、気がつかなかった。
 亀吉の方でも、小沢に気がつかなかった。
 車内が混んでいたからだ。
 ところが、電車が大国町の駅を発車して間もなく――。
「掏摸だ」
 という声があった。
 声はすぐ人ごみの隙間を伝わり、
「掏摸だ、掏摸だ」
 真青な唇と、不安な唇と、好奇的な唇が、右へ向き、左へ向いた。
 何を見ても、何をきいても、日々これ驚くべきことばかしの近頃の世相である。いちいち莫迦正直に驚いていては、弱い神経の者は気が狂ってしまう。だから、もう大阪の人々はたいていのことには驚かなくなってしまっている。
 が、掏摸ときけば、やはり動揺があった。その動揺した人々の中で、最も動揺していたのは――。
 亀吉だ!
「掏摸や、掏摸や!」
 亀吉はきょとんとした表情で、人よりも大きな声を出して、叫んでいた。
 実は、亀吉が仕事をしていたのではなかった。
「おれやないとしたら、どいつやろ!」
 と、見廻した時、電車は動物園前に停った。
 すると、一人の男がそわそわと降りた――かと思うと、復員姿の男がそのあとを追うようにして降りた。
 その顔を見て、亀吉はおやっと眼を瞠った。
「あ、あの男だ」
 小沢だったのだ。亀吉はあわててあとを追うた。

 動物園前から阿倍野橋の方へゆるやかに登って行く、広いコンクリートの道――
 小沢は足速やにそわそわと歩いて行く男のあとをつけて行きながら、
「今日はよく人を尾行する日だ」
 と、苦笑していた。
 阿倍野橋で降りる筈だったのを、わざわざ動物園前で降りたのは、無論その男が降りたからだった。
「怪しい!」
 と、思ったのである。
 もっとも、その男が地下鉄の中で掏ったところを目撃したわけではない。が、何となく態度や表情がおかしいと、ピンと来たのだ。いわゆる挙動不審というやつである。
 しかし、つけて行きながら、本当に掏ったのだ――という自信はなかった。いわば無責任な尾行であった。いや、もしかしたら、無気味な尾行かも知れない。
 ところが、男はちらと振りむいた。
 視線がばったり合った。
 途端に、男はぎょっとしたようだった。そしてぱっと駈け出した。
「あ、やっぱし……」
 おれの直感があたった――と咄嗟に呟きながら、小沢はあわててそのあとを追うて駈け出した。
 だんだん距離がつまって来た。
「おい、待て!」
 はじめて小沢は声を掛けた途端、
「ちょっと待っとくなはれ。ちょっと……」
 と、うしろから声を掛けられた。
 思わず振り向いた。
 その拍子に、小沢は手を掴まれた。
 亀吉だった。――が、小沢には見覚えがない。
「誰だ……?」
「…………」
 亀吉はひょいと黒い首をひっこめて、もじもじしていたが、やがて思い切って、
「――わてだっか。わては……掏摸だんネ」
「えっ……?」
 と、小沢はまるで、立ったまま尻餅をついた感じだった。
 掏摸を追うていたつもりだのに、掏摸に追われていたとは、一体何としたことであろう。
「莫迦をいえ! 掏摸は……」
 あいつだと、小沢は毛虫を噛んだような口で、怒鳴るように言った。
「阿呆らしい」
 と、亀吉は不平らしい唇を尖らせて、
「――わての方が本物の掏摸だす」
 虚栄を張っているのが、おかしかった。
「本物……?」
「へえ、わては大阪一の掏摸で、五寸釘の亀吉いいまんねン」
 小沢は危く噴き出しそうになった。それほど自称五寸釘の亀吉の顔は、きょとんと間が抜けていた。
「――その証拠に……」
 亀吉はひとごとのように言った。
「――わては昨日ちゃアんとあんたを掏りましたぜ」
「えっ……?」
 驚いたが、驚きはすぐ過ぎ去って、小沢はもとの表情になった。
 いや、むしろにやりとした笑いすら泛べて――小沢は亀吉に言った。
「莫迦をいえ。おれは君なんかに掏られるもんか。掏られたおぼえは……」
「……おまへんか。え、へ、へ、……」
 と、亀吉は奇妙な笑いを笑って、
「――ほんまだっか」
 嘗めるような視線で、小沢の眼を嘗め廻した。
 小沢はふと不安になったが、
「だいいち、掏られるものなんか、持ってるものか」
 と、突っ放すように言った。
 が、亀吉は突っ放されず、もう一度、
「え、へ、へ……。けッ、けッ、けッ……」
 黒い顔じゅう皺だらけにして笑うと、
「――チケットも持ったはれしめへんでしたか」
「チケット……?」
「荷物を預けはった……」
「あ。じゃ、貴様だなア……」
 君が貴様に変った。
「え、へ、へ……」
「こいつッ!」
 と、撲ろうとすると、亀吉は、
「あ、ちょっと、待っとくなはれ、待っとくなはれ。まア、きいとくなはれ」
「よし、きこう」
「実は、掏ったことは掏りましたけど、復員のお方のものを掏ったら悪いと、こない思い返しましてな……」
 亀吉は頭をかいて、
「――あんたを探し出して、返そうと思って、かけずり廻ってましてン。――いま、返しまっさかい、堪忍しとくなはれ」
「ふーン」
 小沢は思わず亀吉の黒い顔を、黒い顔だなアと微笑しながら、見つめた。
「――しかし、持ってないじゃないか」
「え、へ、へ……。売り飛ばしましてん。買い戻そうと思って、行ってみましたら、もう売れてけつかったちゅうわけで……」
「…………」
「そんな怖い顔せんとくなはれ。その代り、売った金は返しまっさかい」
 そう言って、上衣のポケットに手を入れた途端、亀吉は、
「あッ!」
 と、真青になった。
 落したのか、掏られたのか、二千円の金はいつの間にかなくなっていたのだ。
「しもたッ。落した」
 亀吉が叫ぶと、
「いや、掏られたんだ。あの男だなア」
 小沢は今さき自分がつけていた男の顔をちらと想い出した。
「――掏摸が掏られるなんて、だらしがないぞ」
 しかし、亀吉はそれには答えず、しきりにポケットの中を探していると、一枚の紙片が出て来た。
 それには鉛筆の走り書きで――
「今夜十時中之島公園、図書館の前で待つ」
                    隼
  豹吉へ
 二伸 亀吉の二千円は掏らせて貰った。
    悪く思うな!

    夜のポーズ

 落日の最後の明りが築港の海に消えてしまうと、やがて大阪に夜が来た。
 太陽の眩しい光に憧がれる人達が姿を消し、夜光虫の青白い光に憧がれる人間共が大阪の盛り場に蠢く時が来たのだ。
 難波の闇市場の片隅では――
 次郎、三郎の兄弟が相変らず靴磨きの道具を前にして、鉛のようにさびしく、ちょぼんと坐っていた。
 昼間の場所は夜になると、真っ暗になるので商売も出来ない。
 だから、食堂の光がかすかに洩れて来る場所へ移ったが、さすがに夜は殆ど客は来なかった。
 それでも、じっと坐っていたのは、家にたった一人の肉親の母親が病気で臥ているからであろう。母親のことが気になって、一分でも早く家へ帰りたかったが、しかし、それよりも先立つのは、
「一円でも沢山持って帰ろう」
 という想いであった。
 食堂から洩れて来るのは、光だけではなかった。
 肉を焼いているのか、その香いがプンプン漂ようて来る。
「ああ、ええ香がしよる」
 三郎はちいさな鼻をピクピクさせて、
「――兄ちゃん、ハナヤのカツレツ美味かったなア」
「うん、オムレツも美味かったぜ」
 と、次郎も唾をのみこんだ。
「フズーズボンチも美味かったな」
 と、三郎、
「阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい」
 と、次郎は叱りつけたが、ふと、ためいきをついて、
「――しかし、珈琲も美味かったぜ」
「わいはあんなにがいもンより、エビフライの方がええ。――ああ、おなかペコペコや」
 昼日散々、反吐が出るくらい豹吉に食べさせて貰ったのに、三郎はもう腹の皮がひっつきそうだった。
「うん。わいもペコペコや。――銭があったらなあ。もう一ぺんハナヤへ行てうんと食べこましたるんやけどなア」
 と、次郎が言うと、三郎は、
「そや、そや、食べたあとは包んでもろて母ちゃんに土産にする」
「ああ、銭がほしい。――大将、靴みがきまひょ」
「大将、みがきまひょ!」
 一人の男が通り掛ったのだ。
 男はすっと寄って来た。
「オー・ケー」
 おおけに――と、O・Kの意味の二つを含んで言い、次郎がブラシを取り上げて、ひょいと顔を見ると、昼間ハナヤで見た亀吉だった。
「おい、お前ら、兄貴知らんか」
 亀吉は豹吉の居所をききに来たのだった。
「兄貴テ……? ああ、あの掏摸さんだっか」
 と、次郎と三郎は、昼間ハナヤで豹吉を兄貴と呼んでいたことを、想い出した。
「こらッ、大きな声を出すな!」
 街頭で、掏摸という言葉が出ると、さすがに亀吉は臆病だった。
「――あれから、どこイ行きよったか、知らんか」
「さア、知りまへんな。用事だっか」
 と、次郎はませた口を利いた。
「用事どころかいな。一大事や」
 亀吉は声をひそめた。そして、
「――困ったなア。ほんまにどこイ行きよってんやろなア。ひとがこない探しとるのに……」
 と、ブツブツ口の中でひとりごとのように言っていた。
「ハナヤできいても分れしめへんか」
「うん。今、ハナヤへ行って来たばっかしや」
 そう言いながら、亀吉はキョロキョロそのあたりを見廻していた。
「それより、大将、ついでやさかい、靴みがきまひょか。大将の靴ドロドロだっせ」
 三郎がブラシを取り上げると、亀吉は、
「阿呆! 靴どころのさわぎか。兄貴を探すのにキリキリ舞いしてるんや。さア、ぼやぼやしてられん」
 そわそわと行きかけたが、ふと戻って来ると、
「――お前ら、兄貴を見たら、おれが探してる、すぐハナヤか中之島の図書館イ行くように……。いや、中之島は行ったらいかん。ハナヤへ、ハバ、ハバ(早いとこ)行くように、おれが云うてたと、ことづけてくれ」
「オー・ケー」
 亀吉は闇の中へ姿を消してしまった。
 そのうしろ姿を見送りながら、次郎はぼそんと言った。
「なア、三郎サブ公、掏摸テ豪勢なもんやなア」
「うん」
 と、三郎も相槌を打った。
「――いつでも美味いもんは食べられるし……。フズーズボンチでも何でも……」
「阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい」
 次郎はさっきと同じように、弟を叱りつけたが、ふと溜息をつくと、
「――しかし、三郎サブ公、どう考えても掏摸テぼろいな。人の靴のドロとっても一円にしかなれへんけど、掏摸はまるどりやさかいな」
「ほな、掏摸になったらええなア」
「…………」
「兄ちゃん、掏摸になって、わいに兄ちゃんの靴みがかして、二人前の金払ってくれて、ハナヤおごってくれたら、ええなア。兄ちゃん、掏摸になりイ」
「ふーん」
 次郎は子供のくせに腕組みをして考えたが、やがて、
「――いや、やっぱし止めとこ。掏摸テええことと違う。強盗と同じこっちゃさかいな」
 そう言った時、次郎ははっと眼を輝かせた。
 自分の眼の前を、追われるように夢中で駆けて行く男の姿を見たのだ。
 豹吉だった。
「あッ、掏摸さんだッ!」
 次郎は思わず叫んだ。咄嗟に亀吉から頼まれたことづけを思い出した。
 そして、三郎と一緒に、
「掏摸さん、掏摸さん、兄貴、兄貴!」
 と呼びとめようとした。
 もっとも、亀吉からのことづけがなかったとしても呼びとめたに違いない。
 なつかしかったのだ。ハナヤの事が忘れられぬのだ。
 しかし、豹吉は立ち停ろうとしなかった。
 警官に追われていたのだ。
 次郎と三郎は、商売道具を放ったらかしてあとを追うた。
 必死になって逃げ行くあとを必死になって、どこまでも追うていった。
 ところが、その留守中……
 職場――という言葉は、かつて我々に使い古されて、汚れた豆債券のような感じがして、いやなのだが、ほかに適当な言葉はないし、次郎、三郎にとってもまさしく職場であるから、職場ということにするが……。
 二人の職場へ、一人の少女が黙々として近づいて来た。
 黙々として――といったのは、実は、その少女は唖なのだ。
 読者には、もはや明瞭だろう。――梅田の闇市場の食堂から、怪しげな刺青の男に連れ出された例の唖の娘だ。
 彼女はそっとあたりを見廻すと、素早く罐の中へ手を突っ込んだ。
 そして今日一日の次郎、三郎の儲けの金をわし掴みにしたが、瞬間びっくりしたように飛び上ると、ブルブルふるえる手で、その金を罐の中へ戻した。
 そして、暫らくふるえながら佇んでいたが、思い切ったように、もう一度手を突込んだ。
 やはり手がふるえた。が、こんどは札束を掴んだ途端、彼女はうしろも見ずに、ぱっと逃げ出した。
 歯がカチカチと鳴った。ふるえが停らぬのだ。
 そのまま、鴈治郎横丁まで逃げて来た時、
「ちょっとお待ち!」
 と、いきなり、肩を掴まれた。
「…………」
 ぎょっとして振り向いた。
 肩を掴んだのは「ヒンブルのお加代」――またの名「兵古帯のお加代」だ。
 相変らず前髪を垂らし、薄暗がりで黒色に見えるが、兵古帯の色はいつも紫だ。
「う、う、う……」
 うめくような、恐怖の声を、唖娘は痩せた喉から絞り出した。
「その手のものをお出し!」
 お加代は、札束を鷲掴みにした娘の骨だらけの手を鋭く見た。
「う、う、う、……」
「お出しといったら、お出し」
「…………」
「黙ってちゃ埓が明かないわよ」
「何を、唖じゃあるまいし……」
「う、う、う、……」
「じれったいわね。出さなきゃ、ふんだくるわよ」
 お加代はいきなり相手の手を掴んだ。
 その時、一つの影がすっと鴈治郎横丁へ[#「鴈治郎横丁へ」は底本では「雁治郎横丁へ」]はいって来た。

「う、う、う、あッ、あッ、あッ……」
 唖の娘はお加代に手を捩じられて、鳥のような奇声を出した。
「何さ、変な声を出して……」
 そう言いながら、お加代は娘の手から札束を掴み取ったが、薄暗がりですかしてみると、十円札は一枚しかなく、あとは五十銭札と一円札ばかり、全部で三十円にも足りなかった。
「なんだ。これっぽっちか」
 お加代はぺっと唾を吐いた途端に、
「あ、これは豹吉の癖だったっけ」
 と、にわかに豹吉のことを想い出した。
「――豹吉はどこにいるかしら。亀公が探していたっけ」
 いや、探していたのは、亀吉だけではない。お加代もひそかに豹吉の居所を探していたのだ。――会いたかったのだ。
 昼間、ハナヤで別れたきりの豹吉に、もう無性に会いたくて仕様がない。
 自分には振り向いてくれようとしないくせに、あのストリート・ガールにのぼせているような豹吉なんぞに、こんなに会いたいなんて、一体どうしたことだろう……。
「ヒンブルのお加代ともあろうものが……」
 と、そんな自分がいじらしいと思う前に、まず腹が立って、だから、一層いらいらした声で、
「あんた、これっぽっちしか持ってないの?」
 と、娘を睨みつけた。
「…………」
「返事ぐらいしたら、どう……?」
 お加代はいきなり娘の頬を撲りつけた。
 娘はキョトンとした眼で、撲られたあとを押えもせず、お加代を見上げていた。
「何さ、その平気な顔は……」
 もう一度撲ろうとすると、
「おい、お加代!」
 と、声が来た。
「――堪忍してやれ、そいつは唖やぜ」
 そう言いながら寄って来たのは、例の刺青の男だ。
「え……? 唖だって……? 本当かい、針助さん」
 針助という名を記憶している読者がいる筈だ。
 いやもっと記憶の良い読者なら「ガマンの針助」という名でおぼえている筈だ。
 更に、昼間、ハナヤでお加代が豹吉に、雪子が昨夜拾った男が「ガマンの針助」だと、語って、危く豹吉を狼狽させかけたことを、おぼえている読者もあろう。
 ガマンとは、大阪でいう刺青の方言だ。だから、刺青の針助と書いてもいいわけだ。
「本当かい……テ、お前もよっぽど勘が悪いな。唖でなかったら、一言くらいものを言う筈やろ」
 針助はお加代に言った。
「――その金は返してやれよ」
「唖からとるのはいけないって、いうの……?」
「そやない。実は、こいつ今日から、身内になりやがったんや」
「仲間に……? この唖が……?」
 お加代は思わずきいた。

「そや、今日から青蛇団の一員や。おれも仕込むが、おまはんもよう仕込んだってくれ」
 ガマンの針助は、キョトンと突っ立っている唖の娘の方を見ながら兵古帯のお加代にそういった。
「へえ……? あきれた。こんな唖が使いものになるの……?」
 お加代は吐出すように言った。
「――青蛇団も随分相場が下落したわね」
「まア、そう言うな。これでも……」
 と、針助は唖の娘をまるで品物か何かのように指して、
「――唖は唖だけの取得があるかも知れんぜ。それに、こいつ案外すばしこいとこがある。今日ちょっと仕込んだだけで、ちゃんともう一仕事しよった」
「あ、この端た金が……」
 そうなの? ……と、お加代は唖の娘からまき上げた金を、未練気もなく針助に渡した。
 針助はだまって、それを唖の娘の手に握らせてやると、娘はにやりと微笑んで、何度も何度も勘定するのだった。
 久しく金というものを、手にしたことがないのだろう。
 お加代はふっと顔をそむけて、自己嫌悪に襲われた。
 針助はにやりと笑って、薄気味の悪い、女のようなネチネチと優しい声で、
「今はこんな端た金でも、もうちょっと仕込んだら、今に背中の刺青にものを言わすようになるやろ」
「じゃ、あんた、もうこの娘っ子に……」
 と、お加代は顔色を変えた。
「――刺青をしてしまったの……?」
「うん」
「一体、どこで拾って来たの」
「梅田の闇市や。飯を食べさせるったら、喜んでついで来よった」
 針助はうふふ……と、下卑た笑い声を立てた。
「ごはんで釣って、こんな口も利けない娘ッ子に……」
 と、お加代はきっと唇を噛んだ。
「――うむも言わさずに、刺青をするなんて、実際ひどいことをするのね」
 針助を睨むように見ると、針助はふと狼狽の色を見せたが、やがて急に笑い出して、
「あはは……。永いこと刺青をせんからな。たまにはこういう大人しい娘の肌に、思う存分針を入れんと、淋しゅうて仕様ない。今日は久し振りにたんのうした。えへ、へ……」
 そして、唖の娘の方を向いて、
「――おれも随分大勢の肌に針を入れてきたが、今日お前の背中にしてやった刺青ほど、会心の針はなかったんやぜ。誰に見せても恥かしゅうない刺青や。お前の背中は何万円出しても買えん背中やさかいな、口はものをいわんでも、背中にものをいわすような、一人前の姐御になりや」
 と、くどくどといいきかせるようにいった。
「う、う、う……」
 娘はただ奇声を発しただけだった。
「あはは……。そやった。言うても聴えんのやったな」
 と、針助は苦笑すると、お加代に、
「――ほな、この子を頼んだぜ」
「いやよ」
 お加代が言った時は、しかし針助はもう娘を残して一人でスタスタと歩き出していた……。

「ちょっと、ちょっと、困るわよ。あたし……」
 兵古帯のお加代は針助のあとを、バタバタと追うて行って、
「――あんな子あたしに預けてどうするのさ。困るわよ。――ちょっと、針助さん!」
 呼びとめようとしたが、しかし、針助はふり向きもせず、鴈治郎横丁から姿を消してしまった。
 お加代は諦めて、唖娘の方へ戻って来た。
「…………」
 唖の娘は、もう自分はお加代について行くよりほかにないと、きめてしまったように、ちょぼんと薄暗がりの中に立って、お加代が自分の所へ戻って来るのを待っていた。
 そのいじらしい孤独な容子が、さすがにふっとお加代の胸を温めた。
 お加代はいきなり娘の肩に手を掛けて、
「御免ね。さっき撲ったりなんかして……」
 と、謝るように言うと、無論それは聴えなかったが、気持は通じたのか、痩せた首を二度、三度たてに振って、
「う、う、う……」
 奇声を発しながら娘はふっと微笑んだ。
「あんた、おなか空いてるでしょう。何か食べようよ」
 お加代は娘の肩に手を掛けたまま、ハナヤの方へ並んで歩いて行きながら、
「――本当にひどい眼におうたわね。あの針助って奴はね。ガマン(刺青)の針助といってね。刺青にかけては西では一番という名人なんだけど、ああいう名人に限って、悪い癖があるのよ。人間さえ見たら、刺青をしたくてたまらないのよ。つまり刺青のマニアっていう奴ね」
「…………」
「いやがるのを無理に、脅したり、すかしたり、甘言を弄したりして、家へ連れこんでは、麻薬をかがせて、刺青をしてしまうのよ。あいつのために刺青をされた人間がどれだけいるか判りゃしないわよ。あたしだってその一人さ。――あんた、聴いてる……?」
「…………」
 唖の娘は相変らずキョトンとして、前髪の下ったお加代を見上げていた。
「そう、あんたは聴えなかったわね」
 お加代は苦笑したが、ふと思いついたように、
「――そうだわ。あんたの耳が聴えるのだったらこんな話はしないわよ。聴えないから、するのよ」
「…………」
 お加代の顔を見上げた娘は、お加代の眼がうるんだのを見てびっくりしたような表情になった。
「あたしだって、あの針助に刺青さえされなきゃ、こんな女にならなかったわよ。あたしだって、東京にいた頃は、真面目な娘だったのよ。同性愛も出来ないくらい、コチコチの箱入娘だったのよ。それが東京で焼け出されて一人で、大阪へ流れて来て……」
 その時のことを想い出すようにふっと空を見上げると、降るような星空だった。
「ああ。きれいなお星様」
 呟いた時、ふと星が流れて、青い光がすっと斜に、あえかな尾を引いて、消えた。
 お加代はしみじみと、星の流れるあとへ遠い視線を送りながら、
「……お星様が流れている間に願いごとを祈ると、かなうというけど……」
 と、ひとり言のように呟いていると、ふと思いがけぬやるせなさに、胸がしめつけられた。
「――願いごとって、どんなことだろう」
 と、その胸の底を覗きかけて、お加代はあわてて想いをそらしたが、しかし、星が見ていた。星に胸の底を覗かれてしまったのだ。
「ままよ。どうせ覗かれたんだもの」
 そう思って、お加代は、
「――豹吉!」
 と、小さく声に出してみた。
「――豹吉!」
 その言葉は、無論唖の娘には聴えなかったが、お加代はさすがその娘の手前、恥かしそうに首筋まで赧くなった。
 お加代は抱いていた手にぐっと力を入れて、豹吉の想いを引寄せるように、その娘の肩を引き寄せると、
「――東京で焼け出され、大阪へ流れて来て……」
 と、さっきの話を続けた。
「――馴れぬ大阪でうろうろしているところを、親切に話しかけて来たのが、あんた、誰だと想う……?」
「…………」
 唖の娘には無論答えられない。
「あの針助だったのさ!」
 お加代は投げ出すように云った。
「――二階を貸してやるというので、これ倖いとついて行ったら、なんと女気なしの針助の一人世帯、ちいと薄気味わるかったけど、今時空間なんて貸してくれる人は、ざらにいるわけじゃない。早速二階を借りたところが、ある夜到頭……、いえ針助は女なんかに興味のある男じゃない。何もされなかったが、その代り刺青をされてしまったのさ」
「…………」
「刺青をされるまでは、真面目なタイピストだったけど、会社でちらちら腕の青いところが見えてはもうおしまい、どこへ行っても使ってくれず、背中に背負った刺青という重荷が、到頭あたしの一生を圧しつぶしてしまったのさ。つまり、刺青にものを云わせて生きて行く生活しか、あたしに残らなかったのさ」
 兵古帯のお加代の眼はまたうるみ、声もうるんだが、あわてて自嘲的な笑い声を立てて、
「――あら、随分喋っちゃったわね。あんた聴いてた。聴えなかったの。可哀想に……。でもね、聴えないからこんな愚痴を喋ったのよ」
「…………」
「さア、来たわよ」
 あたりが急にぱっと明るくなり、やがてハナヤの店先だった。
「豹吉は昼間靴みがきの子を連れて来たっけ。こんな風に……」
 と、想い出しながら、中へはいりかけた時、お加代ははっとした。
 入口に蛇の絵を描いた紙片が落してあったのだ。
 蛇の絵の紙片が落してあれば……青蛇団の仲間に告げる――。
「危機!」
 の暗号なのだ。

 その頃――。
 もっと正確に云えば、ガマンの針助が兵古帯のお加代と別れて、鴈治郎横丁から出て行った頃――。
 次郎と三郎は豹吉を追いくたびれて、というより、豹吉の姿を見失って、難波の闇市の食堂の軒先にある職場へ戻って来た。
「なんぜ待ってくれへんかったんやろなア」
「逃げんでもええのになア」
「なんぜ逃げるんやろなア」
「わいらに掴まったら、もう一ぺんハナヤをおごらされる思てやろか」
「阿呆ぬかせ」
 と、言って、ふと声をひそめて、
「――ひょっとしたら刑事に追われたンかも判れへんぞ」
「へえ? ほな、掴まって、カンゴク行きやナ」
「掴まるかどないか、まだ判るけえ!」
「うまいこと逃げてくれたら、ええのになア」
「うん」
「しかし、兄ちゃん、掏摸テぼろい商売やけど、怖いなア。カンゴクへ行かんならん。兄ちゃん、それでも掏摸になるか」
「…………」
 次郎はだまって、考えこんでいたが、やがてひょいと足許を見た途端、唇まで真青になった。
三郎サブ公、えらいこっちゃ、銭がない」
「えっ……? ほんまか」
 と、三郎は金入の空罐を覗きこんだ。
 空っぽだ。
「盗まれたッ!」
 次郎はきっと唇を噛んで、起ち上った。そして口惜しそうに前方を睨みつけながら、
「――畜生! どいつが盗みやがったんやろ。ひどいことをしやがる」
「兄ちゃん、交番へ届けたら、あかんやろか」
 三郎は半泣きの声になっていた。
「阿呆! 交番へ届けても戻るもんか。強盗もよう掴まえんのに……」
「どないしたら、ええやろ」
「…………」
 もう次郎は答えなかった。
「一銭も持たんと、帰るンか」
「…………」
「いややなア。こんなことなら、ハナヤで美味いもン食べた方がよかったなア、盗まれるより、その方がなんぼええか判れへん」
「…………」
 次郎は棒のように突っ立っていたが、やがてきっと眼を輝かせると、
三郎サブ公、おれ掏摸になるッ!」
 と呶鳴るように言った。
「えッ……?」
「正直に靴みがきして、母ちゃんを養うてても、悪い奴にみな金を盗まれてしまうやないか。こんな損なことがあるもんか。正直に働いたら、阿呆な眼を見るだけや。よしッ! もうこうなったらやけくそや。掏摸になる」
 次郎はそう言って、きっと前方を睨みつけた時、一人の著流しの男が通り掛った。鴈治郎横丁を出て来たガマンの針助だった。
「よしっ! あの男を掏ったるッ!」
 次郎はそれと知らずにガマンの針助の袂へじっと眼をつけた。

 ガマンの針助の袂は、中へ入れたものの重みで、だらんと下へ垂れていた。
「あの中に財布がはいっとるのや」
 次郎は子供ながらそう睨んで、
「――おい三郎サブ公、ついて来い」
 と、声をひそめて云いながら、針助のあとをつけて行った。
 三郎は、
「うん」
 という声も出ず、唇が真青になるくらい緊張して、ブルブルふるえる足で、次郎のうしろからついて行った。
 針助はゆっくりした足取りで、えびす橋通を北へ真っ直ぐ、電車道へ出ると、地下鉄の入口の灯が夜光虫のように夜のとばりの中で、ひそかに光っている上本町六丁目行きの停留所の方へ、折れて行った。
 停留所には十人ばかり客が列を作って、電車を待っていた。
 針助はその一番うしろへ並んだ。
 ひそかにつけていた次郎は、何くわぬ顔で針助のうしろへ立った。三郎はカチカチ歯を鳴らしながら、不安そうに次郎により添うた。
 そして、そっと次郎の袖を引いて、
「兄ちゃん、掏摸になるのン、やめとけ!」
 と、眼まぜで知らせたが、次郎は、
「…………」
 だまって首を振って、じっと針助の袂をにらんでいた。
 しかし、さすがに手は出せなかった。針助に隙がないのか、いや、次郎に勇気がないのだ。おまけに、袂へ手を入れるきっかけがない。
「今や、今や、手エ入れるんやったら、今や」
 と、いたずらに頭の中で叫んでいたが、しかし、いくら掏摸になるんだとやぶれかぶれの覚悟をきめても、はじめての経験では、他人の袂に無断で手を突っ込むということは、よほど魔がささねば出来なかった。
 悪の魔――次郎にはまだそれが訪れて来ないのだ。
 ところが、やがて電車が来て、並んでいた人々が動き出し、針助も二三歩前へ進みかけた途端、次郎は何かあわてて、いきなり針助の体を押すように、ぺたりと背中へ自分の体をつけた。
 その拍子に次郎の手が針助の袂に触れた。
「今や……」
 次郎は眼の前がぽうっと霞んだ。そして何もかも無我夢中だったが、はっと気がつくと、
「こいつッ!」
 と、針助の声を水のように浴びていた。
 次郎の手は針助に握られていた。
「あっ!」
 と、驚いたのは、次郎よりも三郎の方だった。
 三郎はものも言わずに駈け出そうとした。
 が、針助の手はいきなり伸びて三郎の首筋を掴んでしまった。
「お前もやな……?」
「…………」
「お前も来い!」
 針助は次郎と三郎を両手でひきずるようにして、電車に乗せてしまった。
 ――咄嗟の間の出来事だった。
 電車は案外混んでいなかった。
 針助はあいた席を見つけて、次郎と三郎を自分の両脇に坐らせた。
 次郎と三郎はそれぞれ片手を針助にぐっと握られながら、死んだようにぐんにゃりとなっていた。
 日本橋筋一丁目を過ぎたのも知らなかった。
 生魂いくたまの石の鳥居のある下寺町を過ぎたのも知らなかった。
 下寺町の暗い焼跡の坂を、登って行くと、やがて電車は上本町六丁目に着いた。
「ここや」
 針助は次郎と三郎をうながして、出口の方へ行くと、次郎をつかまえていた右手を離して、金を払おうとした。
「逃げるンやったら今や」
 次郎ははじめて意識を取り戻して、そう呟いた。が、三郎を残して、自分ひとり逃げては、三郎は可哀想だと思って、じっとしていた。
 そして、金を渡した針助が、再び次郎の手首を掴もうとすると、次郎の方から手を出したくらい、もう何もかも素直に諦めていた。
 針助は電車を降りると上本町八丁目の方へ歩いて行った。七丁目の、もと停留所のあったところに、交番の灯が見えた。
「向うへ連れて行くんやな」
 次郎と三郎はお互の青ざめた情けない顔を見合ったが、針助は黙々として、その前を通り過ぎた。交番の中では、若い少年巡査がきょとんとした眼で、こちらを見たが、べつに誰何しようともしなかった。
 次郎と三郎はほっとした。そして、
「一体どこイ連れてゆくんやろ」
 と思って引きずられて行くと、外語学校前を東へ折れ、四ツ辻まで来ると、南へ曲った。
 そして半町も行った頃だろうか、門燈のあかりが鈍く点っているしもた家の前まで来ると、針助は立ち停った。
「ここや」
 針助は袂から鍵を出して、玄関の戸をあけると、
「――はいれ」
 家の中はひっそりとして、人の気配はなかった。針助の一人ぐらしの家らしい。
 それがかえって、薄気味わるかった。
 次郎と三郎は二階へ連れて行かれた。
 そして、六畳の部屋へ入れられると、針助はカチッと錠をおろして、出て行った。
 階下へ降りて行くらしい針助の足音を聴きながら、三郎はひそひそした声で言った。
「兄ちゃん、どないなるネやろなア」
「さアなア……」
「カンゴクへ行って、赤い著物著んならんか」
「サアなア……」
「母ちゃん今頃どないしてるやろなア」
「分ってるやないか。わいらの帰り待ってるにきまってる」
「母ちゃん心配してるやろなア」
「うん」
 次郎は半泣きの声になっていた。
 その時、階段を登る足音が聴えて、やがて針助がはいって来た。

 はいって来た針助は、ブルブルふるえている次郎と三郎の前に、どっかりと坐ると、
「どや、お前ら腹がすいたやろ」
 と、例の女のようなネチネチした口調で言いながらにこにこと笑っていた。
 次郎と三郎には思いがけぬやさしさだったから、ほっとして、
「うん」
 と、うなずくと、針助はふところからパンを出して、
「パンをたべろ」
 次郎と三郎は顔を見合せた。
「どないしよう」
「食べよか」
「うん」
 眼で語って、二人は同時に手を出したかと思うと、あっという間に口の中へ入れてしまった。
 腹の皮がひっつくくらい、ペコペコになっていたせいか、涙が出るほど美味かった。カンゴクへ連れて行かれるかも知れないという恐怖を、ふと忘れるくらい、無我夢中で食べてしまって、きょとんとしていると、
「どや、美味いか。ほしかったら、もっとあるぜ」
 と、針助はまたパンを出した。
 次郎はふと、
「このパンを母ちゃんに持って帰ってやったら……」
 どんなに喜ぶだろうと、思った。が、果して無事に家へ帰れるかどうか。
 しかし、三郎はさすがに年が幼かった。何も考えずに、あっという間にパンを口の中へ入れて、のどにつまり、眼を白黒させていた。
 そんな二人の容子をにやにやしながら、針助は、
「お前ら、まだ新米の掏摸やろ」
 と、言った。
「…………」
「下手くそやぞ、お前らの掏り方は……」
「今夜はじめてだす」
 次郎は蚊の鳴くような声を出して、
「――かんにんしとくなはれ、大将」
 と、ぺこんと頭を下げた。
「はじめてや……?」
 と、針助はにやにやして、
「――そやろ、新米でなかったら、あんな下手な掏り方はせん。どや、おっさんが一つ仕込んだろか」
「えっ……?」
「おっさんとこイ、来たらいつでも仕込んだる。一人前の掏摸になるネやったら、おっさんの云うことをきいたら、間違いない。まず刺青をするこっちゃ。ええ顔の掏摸になれるぜ」
「…………」
「どや、もっと食べるか」
 と、針助はまたパンを出した。
「おっさんとこイ来たら、いつでもパンを食べさせたる」
「おおけに……」
「それから……」
 と、にやりと笑って、
「――刺青をしたる」
「えっ……?」
 刺青ときいて、次郎と三郎はまるで腰を抜かしてしまった。
「刺青はして貰わんでもかめしめへん」
 次郎はあわてて言った。
「なんぜや」
 と、ガマンの針助は云った。
「なんぜかテ……。刺青みたいなもンしたら、母ちゃんに叱られま」
「なんぜ叱られるねン」
「なんぜ言うたかテ、刺青いうたら、まともな人間のするもんと違いまっしゃろ」
 次郎はませた口調だが、さすがに少年らしくぶるぶるふるえた声で言った。
「そら考えちがいやぜ」
 と、針助はネチネチとした口調で、言いきかせるように、
「――刺青いうたら、ええもんやぜ。だいいちお前ら掏摸になるネやったら、刺青の一つぐらいしとかんと、幅が利かん。刺青をしてるのンと、してへんのと仲間での顔の売れ方がちがう。ええ兄貴分になろうおもたら、刺青にものを言わすのが一番やぜ」
「いやだす、いやだす」
「わいもいやや」
 次郎と三郎は口をそろえて言った。
「いやか。ほんまに、いやか」
 針助の声は急に凄んだが、ふと優しい女のような声に戻ると、
「あはは……、まア、パンでも食べろ」
 と、またふところから差し出した。
「…………」
 次郎と三郎はしかし、もう出されたパンに手を出そうとしなかった。
 針助はギラギラ燃える眼で、なめるように二人を見つめていた。
 二人の身体つきは少女のようにきゃしゃで、首筋は垢でよごれているが、垢の下の皮膚は少女のように白く、何か哀れな脆さが痛々しかった。が、それだけに、
「こんな子供を裸にして、背中にプスリと刺青を入れてみたら……」
 という、残酷な期待に、針助は全身がうずくようだった。
「――あの針をプスリと……」
 と、針助は部屋の隅の針をちらと見た。針の先は電燈の光を浴びて、白い鋭さに冴えていた。
 針助はギラギラと燃えていた眼を、急にうっとりと細めて、針の先を見つめていたが、やがて、
「ほな、どない言うても、いやか」
 次郎はうなずきながら、思わず三郎に寄り添うた。
 三郎はもう口も利けず、次郎にすがりついていた。
「いやなら、いやでもええ、その代り、お前らを監獄イ入れてやる」
「カンゴク……?」
 次郎と、三郎は、飛び上った。
「そや、お前らわいを掏りけつかったさかい、監獄イ行かんならんぞ」
「かにしとくなはれ。それだけはかにしとくなはれ、カンゴクだけは……」
「ほな、刺青をするか」
 針助の声は急に凄んだ。
「――監獄イ行くのがええか、刺青をするのがええか。どっちや」

    青蛇団

 ヒンブルのお加代――またの名を兵古帯のお加代が、鴈治郎横丁界隈で、大阪の南の空で流星を見て、
「――豹吉!」
 と、呟いたのとちょうど同じ時刻――
 豹吉は大阪の北の空を仰いで、同じ星が流れるのを見ながら、ふと、
「――雪子!」
 と、呟いていた。
 そして、ペッと唾を吐き捨てた。南の盛り場でドジを踏んで、警官に追われたが、さすがにつかまるようなドジだけは踏まず、どこをどう逃げたか、まんまと警官をまいてしまって、大阪の北へ現れた豹吉である。
 まいてしまったことは、ちょっとした自尊心の満足だったが、しかし、たった一つ残念だったのは、あの靴磨きの兄弟が自分を呼び停めようとして追いかけて来た時、立ち停ってやらなかったことであった。
 追われていたのだから、致し方がないというものの、しかし、そんなに警官につかまるのが怖かったかと思うと、われながら心外だった。
 いつもの豹吉なら、そんなに狼狽しなかった筈だ。そんなに警官を怖れなかった筈だ。
「ところが、今夜のおれと来たら……」
 と、豹吉は自分の醜態にあいそがつきるくらいだった。
「――なぜ、こんなに怖れるのか」
 と、考えて、豹吉はどきんとした。人を殺したからだ。
 早朝、渡辺橋の横で魚を釣っていた男(読者にはもはや明瞭と思うが、実は伊部恭助である)を、いきなり川の中へ突き落してしまったのだ。
 動機といっても、べつに大した動機ではない。ただ、
「何かこう人をあっといわすような、意想外の、破天荒なことをしてみたい」
 という単純な思いつきに過ぎなかったのだ。
 横紙破りの、ちょっと他人には真似ることの出来ないいたずらだったから、やってみると、快感はあったが、しかし、そのいたずらが結局殺人行為となってみると、いかな豹吉でも、さすがに薄気味悪い後味は心の底に残っていた。
 そして、そんな自分をあざ嗤っていた。
「なんや、怖がってるのンか。青蛇団のペペ公といわれるおれともあろうものが……」
 そう呟いた途端、豹吉は急にひょんなことを思いついた。
「――そや、もう一ぺん渡辺橋イ行ってやろう」
 豹吉は悠然と渡辺橋の方へ歩いて行った。
 犯罪をおかした現場へ行ってみるというのは、よほど度胸がいる――と、豹吉は思っていたが、実はそれが犯罪をおかした者に共通の一種の恐怖観念からであるのには、気がつかなかった。
 もう夜の十時に近かったから、朝と同じように、人通りのすくない橋のたもとに佇んで、豹吉はじっと川を覗きこんでいた。
「あの川の底であの男は死んでしまったのだな」
 と、ふと思うと、急にガタガタ足がふるえて来た。
「なんや、ふるえてるぞ」
 だらしがないじゃないかと自嘲していると、豹吉は急に持前の、人をあっといわせたいといういつもの癖が頭をもたげてむずむずして来た。

「人を驚かせるが、自分は驚かないのがダンディの第一条件だ」
 というおきてを守っている豹吉だった。
 だから、一たび、
「何か人をあっといわせるようなことをしてみたい」
 と、思うと、もう腹の虫がむずむずして来て、いても立ってもおられなかった。
「どんなことをして、人をあっといわせてやろうかナ」
 川を覗きこんでいた顔をきっと上げて、豹吉は豹のような眼を輝かせて、いきなり振りむくと、ペッと唾を吐いた。
 途端に、豹吉はどきんとした。
 渡辺橋の上を、警官が一人の女を連れて渡って行くのを、見たのだ。
 警官を見て、どきんとしたのではなかった。
 警官に連れられている若い娘を見て、驚いたのだ。
 手錠を掛けられて、警察へ連れられて行くのであろう、しょんぼりうなだれて、顔が半分かくれていたが、しかし、その美しく整った顔には、見覚えがあった。
 忘れもしない――いや、忘れられるものか――雪子だった。
 雪子――阿倍野橋の宿屋で小沢の帰りを待っていた筈の雪子が、小沢が著物を持って帰ってやったわけでもないのに、いつ、どうして宿の外へ出たのか。
 そしてまた、いつ、どこで、どんな悪いことをして、警官につかまってしまったのか。……
 雪子は小沢の帰りを待っていたが、到頭待ちくたびれて、しびれを切らしてしまったのだった。
 むろん、小沢にはもう一度会いたかった。
 が、それだけに、小沢が帰って来ることが、怖くもあった。
 小沢が帰って来れば、きっと、昨夜の裸の原因をきかれるに違いない。
 昨夜は頑として、答えなかったが、もう今日となってみれば、いつまでも黙っておるわけにはいかないような気がした。
 だから、小沢が帰って来て、そのことをきかれるのが怖かったのだ。
 それに一刻も早く宿を出たかった。
 といって、しかし、著物なしでは外へ出られない。
 思案に困って、ふと廊下へ出ると隣の部屋のドアがあいていて、女の著物が著物掛けに掛っているのが眼にはいった。
 部屋の中をうかがうと、誰もいない、その著物の主は、べつの著物と著かえて外出しているのだろう。
 ふと、魔がさした。
 雪子はふらふらとその部屋にはいると、著物を盗んで、自分の部屋に帰って寝巻を脱ぐと、その著物を素早く身につけた。
 そして、何くわぬ顔で、宿を出たが、間もなく宿ではその盗難に気がついて、警察へ届けた。
 すぐ手配が行われ、雪子は著物の柄が目印になって、つかまったのである。……
 雪子が阿倍野橋の宿屋で著物を盗んでつかまった――という、そんな事情は、もちろん豹吉は知らなかった。
 だから、なぜ拘引されて行くのか、咄嗟に考えてみても判らなかった。
 いや、考えてみる余裕もなかった。雪子がストリート・ガールだから検挙されたのかも知れない――と直感する余裕もなかった。
 豹吉の頭に泛んだことは、
「可哀想に警察へ連れて行かれるのだ。とにかく、たすけてやらなくっちゃ……」
 と、いうことだけだった。そのほかのことは、何にも泛んで来なかった。
 強いて言えば、雪子を警官の手から奪うという、大それた暴挙が「何か人をあっといわせるような破天荒なことを今直ぐしてみなくっちゃ、おれの気が済まない……」
 という、たった今さき腹の虫を動かせて来た不意の思いつきに、ピッタリ合っているではないかと咄嗟に自分に云いきかせる余裕だけは、さすがに残っていた。
 いや、それがあるからこそ、
「たすけよう」
 という気がますます強く起ったのだった。
 一旦こうしようと思えば、もうどんなことがあっても、あとへ引かぬのが豹吉の性質だ。
 豹吉はじっと息を凝らして雪子を連れた警官のあとをつけていた。
 警官は橋を渡ると、真っ直ぐ桜橋の方へ歩いて行った。
 雪子の白い手には手錠が痛々しく掛けられている。豹吉はその手からじっと眼をはなさず、
「まず、あの手錠を切ることやな!」
 と、ひそかに呟きながら、ついて行った。
「――しかし、あの手錠を切ることは、袂を切るよりは、ちょっとむつかしいぞ!」
 そう思ったが、しかし、困難ということほど、豹吉にとっては、実行への誘惑をそそるものはまたとないのだ。
「何くそ!」
 と、力んで、豹吉はいつもの蒼白い額を一層蒼白にしていた。
 雪子を連れた警官は、桜橋から右へ折れて、梅田新道の方へ歩いて行った。
 闇市はすぐ近くだ。
「雪子を奪って、闇市の雑踏の中へまぎれ込むのや」
 豹吉はひそかにそう呟いた。
 二人はやがて闇市の傍を通り掛った。
「今だ!」
 と、豹吉は叫んで、ズボンの中へ手を突っ込んだ。
 そして、いきなり足を進めて、すっと警官の背中へ寄って行こうとした途端、闇市の中からやって来た一人の男が、
「兄貴!」
 と、かけ寄って来た。
 亀吉だった。
「兄貴、ほんまに殺生やぜ」
 と、亀吉は口をとがらせた。
「――一体どこうろついてたんや。ほんまに探すのンに苦労したぜ」
「用事なら早く言え」
 豹吉は警官に連れて行かれる雪子のうしろ姿を、気にしながら、いらいらした声で言った。
「兄貴、わいに千円くれるという約束やったな」
「うん。おれを驚かせたらなア」
「兄責、びっくりしなや」
 亀吉はポケットから紙片を出して、豹吉に見せた。
「今夜十時中之島公園、図書館の前で待つ」
 豹吉へ
二伸 亀吉の二千円は掏らせて貰った。
   悪く思うな。
 豹吉はちらと眼を通すと、表情一つ変えずに言った。
「なんや、これは……」
「なんや、これは……いうて、済ましてるどころやないぜ、兄貴、これ読んで、びっくりせえへんのか」
「お前に千円やるのはまだ惜しいからな」
 と、豹吉は笑った。
「ノンキやなア、兄貴は。これ、隼団からの果し状やぜ」
「判つてる。しかし、お前どうしてこれを……」
 手に入れたのかと、きくと、亀吉は、
「知らん間にポケットへはいってたんや。その代り、あの復員軍人に返そう思てた二千円掏られてしもた」
「間抜けめ!」
 と、豹吉はどなりつけたが、すぐ微笑して、
「――そやから、昼間ハナヤでお加代が云ったやろ。掏られんように気をつけろって……」
「あ、そやった!」
 と、亀吉は頭を押えると、亀のようにすっと首が縮んだ。
 豹吉は腕時計を見た。十時を三分過ぎていた。
「弱ったなア」
 と、豹吉は呟いた。
「――雪子をたすけるか、中之島公園へ行こうか」
 と、迷ったのだ。
 出来れば、雪子をたすけたかった。しかし、いくら雪子が好きでも、青蛇団の豹吉ともあろうものが、女のことにかけて、果し状を怖がって逃げたと思われるのは、辛かった。
「臆病者だと思われるのはいやだ。それに、雪子の行先は、どうせ警察だと判ってるんだ。たすけようと思えば、いつでも、たすけられる」
 中之島へ行こうと、豹吉は肚をきめた。
「亀公、じゃ、行って来るぜ」
 と、豹吉はかけ出そうとした。
「兄貴、待ってくれ」
「なんだ」
「兄貴一人で行くのンか」
「当りきや。心配するな」
 そう言ったかと思うと、豹吉はぱっと駈けだして行った。

 ノッポの一徳――豹吉の大股では、梅田新道より中之島公園まで、五分もかからなかった。
「豹吉のやつ、臆れて、よう来ないじゃないか」
 という気持を、一分長く相手に抱かせることは、十年自分の寿命を縮めるのと同じくらい、豹吉にとっては辛かったのだ。
 それほど、自尊心が強かったのだ。いや、自尊心以外に、何がこの男に残っているだろうか。
 だから、中之島公園の暗がりの中を一息に、図書館の前まで駈けつけた時、自分の到着を待っていたのは千日前の喫茶店の前で、自分を掏ろうとしたあの間抜けの掏摸一人ではなく、十数名に及ぶ隼団の団員だと判ると、豹吉は思わずにやりとしたくらい、ゾクゾグとうれしかった。
 いわば、向う見ずだといってもいい。
「豹吉、よう来た。用はきかなくても、判ってるやろ」
「うん」
 とうなずいた途端、豹吉はぐるりと取り巻かれてしまった。
 豹吉はその一人一人を見廻しながら急にぷっと噴き出した。
「何がおかしい」
「ようも、これだけ不細工な男を、よりによって闇市の目刺しみたいに並べたと思って、感心してるんだ」
「何ッ……? なまを言うな。散髪屋の看板写真みたいに、規格型の顔をさらしてると思て、うぬぼれるな。一寸は大人並みに歪んだ方が、人間らしいわい。自分で歪みたくなきゃア、こっちの手でお好みの型に歪ませてやるから、そう思えよ。それとも面の歪むのがいやなら、風通しの悪いその脳味噌に、風穴を一つあけてやろうか」
 拳銃を握った手がいきなり豹吉の頭へ伸びて来た。
「…………」
 豹吉は黙々として、その拳銃の先をじっと見つめていた。
「それとも、手をついて謝るか」
「…………」
「十かぞえる間に返答しろ」
「…………」
「一つ!」
「…………」
「二つ!」
 拳銃の先が少しずつ伸びて来る。
「三つ!」
「…………」
「四つ! 五つ! 六つ!」
 テンポが早くなった。
「七つ! 八つ!」
「…………」
「九つ!」
「九つ!」
 という隼団の龍太の声をきいた時、豹吉の頭に再び雪子の顔が、流星のようにふっと流れて、消えた。
「……雪子の面影を抱いて、死のう」
 と、咄嗟に思った。
 死ぬことは怖くなかった。いや手をついて謝るよりは、龍太の拳銃に射たれて、死ぬ方がいいと思った。
「おれは、今朝、人を殺したのだ。その罪のつぐないに、死のう!」
 このような想いが、瞬間、高速度の早取り写真のような速さで、はっと豹吉の頭に閃いた。
 豹吉は、カッと拳銃の先を見つめながら、
「射て!」
 と、言った。
 ――いや、言いかけた、と同時に、
「お待ち!」
 と、いう女の声が、聴えた。その声はまた、
「一〇!」
 と、最後の数字がさすがにふるえた声になって龍太の咽喉まで出掛っていたのと、同時でもあった。
 いわば、その場所にいた連中は、
「射て!」
「お待ち!」
「一〇!」
 という三つの声を、同時に聴いたのだった。
 豹吉ははっとして、声の方を見た。
「あ、お加代!」
 龍太もふり向いて、
「あッ!」
 お加代の右の手には拳銃が……。
 その拳銃は、龍太の背中に向けられていた。
 お加代は左の手で、唖の娘の肩を抱きながら、拳銃の引金に掛った右の手の指先に力をこめて、
「……豹吉を射つなら、射ってごらん。その代り、あんたの背中に穴があくわよ」
 と龍太に言った。
「しまったッ!」
 龍太は思わず、唇を噛んだ。
 隼団の連中は隙を見て、お加代に飛び掛かろうとした。
「じたばたおしでないよ」
 お加代はにやりと笑って、
「――命の惜しい奴は、動かない方がいいわよ。いいえさ、一寸でもあんた達の肩が動いてごらん、兵古帯のお加代の拳銃の玉は、十読む間も待たずに、飛び出して行くわよ」
 その時、
「兄貴! 安心せエ! 追いついたぜ!」
 と、声が来た。
 見れば、亀吉をはじめ、青蛇団の連中がかけつけて来たのだ。
 お加代をはじめ、青蛇団の連中はハナヤの前に落ちていた青い蛇の絵カードを見て、かけつけて来たのだ。
 そのカードの裏には「十時、中之島」と亀吉の下手な字が書かれてあった――と今ここで説明するのは、それこそ蛇足であろう。
 空には星が一杯……降るようなその星空に銀河が横たわって、大阪の一隅のこの出来事を、しずかに見下していた。

 中之島公園における青蛇団対隼団の緊迫した空気を、銀河が上から見下している間に、作者は大急ぎで話を少し前に戻すことにする。
 小沢はあれからどうしたのだろうか。
 あれから……というのは、つまり――。
 小沢は雪子への土産の寿司を持って、阿倍野橋の宿屋へ帰る途中、亀吉に会って、亀吉が小沢に返そうとして持っている二千円の金を掏られて、その代り隼団から青蛇団の豹吉へあてた果し状がはいっていたことを知った――それからのことだ。
 それから……。
 小沢は亀吉と別れて、宿へ帰った。
 が、雪子は既に宿にいなかった。
「着物がなくちゃ外へ出られない筈だのに、一体どうして著物を手に入れたんだろう」
 と、小沢は不思議に思う前に、まず、
「――あれほどおれの帰りを待ってるように、念を押したのに、どうして、おれに黙って出てしまったのだろう」
 と、腹が立った。
 いや、むしろ、寂しかった。
「こんなに、おれが著物のことで奔走しているのに……」
 という、何かすかされた気持から来る寂しさだけではなかった。
 待っていると思っていた雪子の顔が、見えないという寂しさだった。
 一夜を共に明しただけで、こんなに親しみ、いや、なつかしさを感ずるとは、一体どうしたことだろう。
 その一夜、雪子のからだには指一本触れなかったのに……。いや、むしろそれだからこそ、一層なつかしさがあるのではなかろうか。
 取りかえしのつかぬ気持だった。といっても、
「こんなことなら、昨夜なぜ雪子に強く出なかったのか」
 という、いやらしい未練ではなかった。
 雪子という娘の身のまわりに漂っている何か痛々しい、暗い、寂しい翳への、一種のノスタルジアに似た気持が、「もしかしたら、もうあの娘に二度と会えないのではないか」
 という意味での、取りかえしのつかぬ想いに、小沢をうろたえさせたのだ。
 ところが、女中の話では、
「昨夜ご一緒に来やはった女の方、あれは本の奥さんと違いまっしゃろ――。あの女はこれでっせ」
 と、人差指をクの字に曲げるのだった。
 手癖が悪い――泥棒だというのである。
 驚いて、きくと、隣の部屋の女客の著物を盗んで逃げたというのである。
 しかし、そうきいても、小沢は雪子に失望したり、急にいやになったり、するようなことはなかった。
 むしろ、何だかますます可哀想なような気がするのだった。
 小沢は宿屋を飛び出すと、雪子の行方を探して歩いた。
 が、夜になっても、雪子の姿を発見することは出来ず、空しく探しているうちに、夜の十時を過ぎた。
 小沢はふと亀吉のポケットにはいっていた果し状のことを思い出すと中之島公園へ駈けつけて行った。
 小沢が中之島公園の図書館の前へ駈けつけた時は――。
 豹吉を取り巻いている隼団の連中を兵古帯のお加代をはじめ青蛇団の連中が取巻き、龍太の拳銃とお加代の拳銃が虚々実々の※(「口+云」、第3水準1-14-87)あうんの呼吸をはかりながら、今にも火花を散らそうとしていた。
「諸君!」
 と、小沢は声をかけた。
「誰や、お前は? ……どこのどいつや」
 と、隼団の一人が言った。
「僕は一介の復員兵士だ」
 と、小沢は言った。
「――僕は君たちのように、龍だとか豹だとか虎だとか、親のつけた平凡な名前以外の名前を持っておらん。また、青蛇だとか、隼だとか、まるで動物園まがいの団体にも加盟しておらない」
「何ッ……? お前らの出る幕やない。引っ込んでろ」
 と、一人が叫んだ。
 小沢は平然として、物凄く速い口調で喋り立てた。
「なるほど、僕は出番をまちがえて、他の役者の出る幕の舞台へ飛び出した間抜け役者かも知れない。しかし、とにかく舞台へ飛び出したのだ。何とか科白を喋ってから引き下るということにしなければ、恰好がつかないし、今更引っ込みもつかない」
「じゃ、何を喋りに来たんや」
「結論を先に言おう」
 と小沢はじろりと一同を見廻して、
「――喧嘩というものが、いかにくだらぬものであるかということを、君たちに納得させたいんだ」
「大きにお世話や。引っ込んだらどうや」
「まア、聴け! 日本人はかつては、暴力や喧嘩沙汰の好きな国民だった。だから戦争をおっぱじめて、こんなみじめなことになってしまったんだ。ところが君たちは、これからの日本の再建に一番重大な役割を果さなきゃならない君が、今なお暴力や喧嘩を好み、腕力でことを決しようとしている」
 小沢はいつか演説口調になっていた。
「――こんなことで、一体どうなるんだ。しかも、君たちの中には、携帯を禁じられている銃を、持っている者もいる。君たちは瀕死状態の日本を、ますます窮地に陥入れたいのか」
「…………」
 誰も答えなかった。小沢はつづけた。
「世には、暴力を以てしか解決できないような問題は、何一つとして存在しない筈だ。撲らなきゃ判らないというのは、もう昨日の日本人の言葉だ。今日の日本人は、人を撲ったり、傷つけたり、殺したりする野蛮な手を封じられた代り、口を使ってする自由は許されている。口は飯を食うためのものだ。が、飯は腹一杯食べられない。だからといって、口の用途を十分発揮できないというわけではない。いや、接吻のことを言ってるのじゃない」
 クスリという笑い声が起った。
「――僕の言っているのは、言論の自由ということだ。君たち、喧嘩をするくらいだから、むろん双方とも言い分があるんだろう。どちらの言い分が正しいか。僕は第三者としてきいてあげるから遠慮なく言ってみたまえ」

 小沢は頬に微笑を浮べながら、言葉をつづけた。
「――諸君は僕をおせっかいと思うだろう。たしかにおせっかいだ。しかし、おせっかいにならざるを得ないのだよ。日本のことを心配するからだ。なるほど、他人のことは放って置けばいいのかも知れない。日本人は島国根性で、偏狭で、すぐ他人のことをとやかく言いたがる。小言幸兵衛が多すぎる。しかも僕は復員したばかしで、明日の米、いや、今日の米にも困る人間だ。他人のことは――いや、他人のことにかかわっている余裕すらない人間なのだ」
 そこで小沢はまた一同を見廻して、
「――しかし、げんに暴力沙汰が行われようとしているのを見ながら、放っても置けないじゃないか。だから、おせっかいを買うて出たわけだが、もし、諸者が僕の言ってることの十分ノ一でも判ってくれたら、とにかく、諸君の言い分を言いあったらどうだ。――誰からでもいい。どうだ君は……。何か言い分があるだろう。言ってみ給え!」
 小沢は隼団の龍太を指した。
 が、龍太は咄嗟に返答できず、あっけに取られながら、苦笑していた。
「君はどうだ……?」
 小沢は豹吉を指した。
「言い分……? そんなもん、ちゃんちゃらおかしくって、言えるか」
 豹吉はペッと唾を吐いた。
「君はどうだ……?」
「…………」
「君はどうだ……?」
「…………」
「君は……?」
「わては、何にもおまへん」
 と、亀吉は頭をかいた。
「君はどうだ……?」
「…………」
 そして、最後に唖の娘をさして、
「君は……? 言い分は……?」
「…………」
 無論、彼女はだまっていたが、お加代は傍から、
「あっても、この娘は言えやしないよ。この娘は唖だよ」
 と吐きだすように言った。
 小沢ははっとして、薄闇をとおして唖の娘の顔を見た。
「あ!」
 見覚えがある。
 梅田の食堂から刺青の男に連れられて行った娘だ。
 小沢はじっと見つめていたが、やがて一同の方を向くと、
「じゃ、みんな言い分がないんだね。言い分がないとすれば、喧嘩する理由がなく、喧嘩するのはくだらないじゃないか。無駄だよ。エネルギーの浪費だよ。よした方が気が利いている。よし給え……」
 と、畳みかけるように言った。
 龍太は微笑しながら、
「おい、豹吉、こんな奴おれ知らんよ。こんな邪魔が飛び入りしたら、もうおれは気が抜けてしもたよ。――どや、今夜はこれで幕ということにしようか」
 と言った。

 隼団の龍太に、もう喧嘩はやめようと言われて、豹吉は両の頬ににやっとえくぼを浮べながら、ペッと唾を吐き捨てると、
「そやなア。この演説屋の長講一席に敬意を表することにしようか。だいいち、おれは人をあっと云わせることは好きやが、売るのも買うのもあんまり好きやない」
 そう言った途端、ふと渡辺橋で釣をしていた男の言葉を想い出した。
 ――「食わん魚釣って売るつもりか」
 ――「……? ……」
 ――「変な顔をするな。喧嘩のことや」
 豹吉はいきなり呟いた。
「……あの男は死によったが、おれは死に損うた」
 龍太は拳銃をポケットに入れると、
「じゃ、引きあげよう」
 と、隼団の連中を連れて、引きあげかけた。
「一寸、待った!」
 と、小沢は呼びとめた。
「まだ何か用か」
「うん。――その拳銃、僕に渡してくれ」
「何……?」
「君たちは、いや、僕ら日本人は警察官以外拳銃を持つことは許されていない。しかも君たちがそれを持っていることは、君たち自身ばかりでなく、日本人全体に迷惑が掛かる。――渡して行ってくれ」
「………」
「僕は君が拳銃を持っているのを、黙って見てるわけにはいかないんだ。日本人として見るにしのびないのだ。渡して行ってくれ。それとも渡すのがいやだと、云うんなら、僕は、くどいようだが、もう一度君たちの前で……」
 と、小沢はちらと豹吉の顔を見て、
「――演説屋の長講一席をくりかえさなくちゃならない」
 龍太はだまっていた。
 すると、兵古帯のお加代はいきなり、小沢の手に自分の拳銃を渡して、
「あんたに渡すのじゃないわよ。日本人全体の迷惑になる――っていう、あんたの言葉に渡すのよ」
 と、言った。そして、龍太に、
「――あんたも渡したら、どう?」
「うん」
 龍太はいやいや返事して、未練たらしそうな顔で、小沢に拳銃を渡した。
「ありがとう。それでこそ君たちは……」
「日本人だと言うんやろ。おだてるのはやめてくれ」
 さア行こうと、隼団が引きあげると、青蛇団も引きあげかけた。
 小沢はお加代を呼びとめて、
「その唖の娘は、いつから青蛇団にはいったの」
 と、優しくきいた。
「今日から」
 と、お加代は言って、ふとしみじみした口調になると、
「――ほら、見てやってごらん」
 と、唖の娘の腕をまくり上げて、
「――可哀想に刺青の墨の色がまだ濡れてるわよ」
「刺青……?」
 小沢は急にはっとして思い当ることがあった。

 唖の娘の二の腕の刺青……。
 その生なましい青い墨の色を見た途端、小沢の頭には……。
 梅田の闇市で見た刺青の男――市電の釣革にぶら下った青い腕――細工谷町の四ツ辻――唖の娘を連れてはいった「横井喜久造」の標札のあるしもた家――伊部の家の近所――四ツ辻――裸の……娘。
 これらのイメージが同時に閃いた。
「そうだ、たしかにそうだ、たしかにあの男だ、あの家だ」
 小沢はそう叫ぶと、一同が引揚げるのも待たず、ぷっと駈け出して行った。
(映画の手法に従えば、ここで場面は当然針助の家に移るわけだ。作者は試みにこの場面を、シナリオ――つまり映画台本の形式で書いてみることにする)
    …………………………
  ┌────────┐
  │ 針助の家の中 |
  └────────┘

針助、腕をまくり上げている。刺青が見える。
裸にされた次郎と三郎がブルブルふるえながら、恐怖の眼で畳の上に置かれた刺青用の針の先を見ている。
針は電燈の光を浴びて白く冴えかえっている。
針助の異様に燃える眼が迫る。

  ┌─────┐
  │ 四つ辻 |
  └─────┘

小沢、かけつけて来て、四つ辻を曲り、標札を見ている。
門燈のあかりに「横井喜久造」という標札の字が浮び出ている。
小沢、立ち停り、玄関の戸に手を掛ける。

  ┌────────┐
  │ 針助の家の中 |
  └────────┘

小沢はいって来る。
針助はぎょっとする。
針助「誰や、お前は……?」
小沢「豹でも龍でも亀でもない」
と、気ざっぽい科白だが、中之島公園で演説した気持の延長で、言う。
針助「な、なにしに来た?」
小沢、ふと部屋の隅に掛った女の着物を目ざとく見つける。
小沢「着物を取り戻しに来た」
針助「着物……?」
小沢「そうだ。そこに掛っているその着物だ。昨夜、ここから裸のまま飛び出した娘の着物だ。その娘は、着物がないために、宿屋の着物を盗もうとして、警察へつき出された。その娘を救うために、証拠にその着物がいるんだ」
針助「そんなこと、おれは知らん」
小沢「白っぱくれるのはいい加減にしろ、唖の娘に今日刺青をしたのは誰だ。この子供らを何のために裸にしているのだ。昨夜の娘は何のために裸のままここを逃げ出したのだ」
針助「うーむ」
と、うなっていたが、いきなり畳の上の針を手に取って、次から次へ小沢めがけて投げつける。
小沢、体をかわす。
針助、飛び掛って行く。
小沢、簡単に針助を投げ飛ばして押えつけ、次郎と三郎らに眼くばせして、針助を縛らせる。
針助の背中の刺青に、食い入るように、きつく紐が掛けられる。
(シナリオなら、ここでこの場面が消えるのである)

    氷の階段

 中之島公園を引き揚げた豹吉、亀吉、兵古帯のお加代、唖の娘その他青蛇団の連中は、やがて堂ビルの横を東へ折れて行った。
 その辺り――堂ビルの裏側は焼跡で、ひっそりと暗かったが、たった一つ、ぽつりと灯がついているのを見ると、豹吉は、
「ああ、あそこや、あそこや」
 と指した。
 ブルウスカイ(青空)というコッテエジ風の喫茶店兼料理店であった。終戦後大阪の町々に売出した喫茶店は、たいてい俄づくりのバラックで、荒削りのいかにもドサクサまぎれに出来たという感じの、味もそっけもうるおいも色彩もない店だが、ブルウスカイはやはりバラックづくりながら、コッテエジ風の建て方や、店の装飾に、アメリカ式の軽快なスタイルと仏蘭西趣味の色彩が採り入れられていて、戦前の豪華な喫茶店よりも、かえって垢ぬけていた。
 深夜、焼跡の中にぽつりと灯がともっているというのも、何か山の小屋のような感じで、豹吉はふっと心に灯がついた想いだった。
 一つには、一度だけこの店へ、
「まだ、店をひらいているだろうか」
 と、心配しながら来てみると、案の定灯がついていて、ほっとした――というよろこびのせいだった。
 それというのも、自分の生命を救ってくれた青蛇団に御馳走してやりたかったし、そしてまた、ブルウスカイでのささやかな饗宴が、もしかしたら豹吉の最後の饗宴になってしまうかも知れなかったからだ。
 なぜなら、これから雪子を救い出しに行って、そのまま帰って来られないかもわからないのだ。
 それだけになお一層、焼跡の中のブルウスカイの灯は、豹吉の人恋しい心をしびれるように甘く、なつかしく、温めた。
「珈琲出来る……?」
 扉を押してはいると、そう豹吉はきいて、
「――ああ、じゃ、珈琲と、それから何か……、サンドイッチでも……」
「おビールは……?」
「そうだな」
 と、豹吉はちょっと考えた。
 最後になるかも知れない饗宴に、ビールでも飲みたいところだった。しかし、いかなる時にも冷たく醒めていたいのが、豹吉の掟だった。何ごとによらず、陶酔したり、われにもあらず昂奮したり、驚いたりすることは、豹吉の掟に反していた。
「――まア、よして置こう」
 珈琲とサンドイッチが運ばれて来ると、豹吉は一寸口をつけただけで、いきなり起ち上った。
「みんな、ここで待っていてくれ、おれ一寸行って来る」
「どこへ……?」
 行くのかと、お加代がきいた。が、咄嗟に答えられなかった。さすがにお加代の手前、雪子を救いに行くとは言えなかったのだ。
 豹吉はまるでそのあたりの闇市へ煙草を買いに行くような顔で、扉を押すと、暗がりの中へ出て行った。

 雪子が連れられて行った道順から考えて、豹吉は雪子が留置されているのは、S署にちがいないと思っていた。
 S署――差し障りがあってはいけないから、わざと頭文字だけにして置くが――S署は大阪の表玄関にある警察署である。いわば大阪の代表的な警察署だ。
 その警察署へ、単身乗り込んで行って、雪子を救い出す――という計画、いや思いつきは、むろん向う見ずであった。二十歳の単純な頭が思いついたにしても、呆れるくらい乱暴である。
 もっとも、さすがの豹吉も単身では無理だということは判っていた。
 せめて、青蛇団の一党を率いて行った方が……ということも考えた。
 しかし、お加代の手前があった。昼間雪子に惚れているのだと、はっきりとお加代の前で言った――その手前、雪子を救い出すから、力を藉してくれとは、言い出し兼ねたのだ。
 照れくさいのである。それに、一人でやるところに、豹吉はいかにも豹吉らしいやり甲斐を感じていた。
 もっとも、豹吉は向うみずではあったが、莫迦ではなかった。
 だからS署の前まで来た時、さすがにいきなり飛び込んで行くような、滅茶苦茶な真似はしなかった。
「どうしたら、最も効果的に救い出せるだろうか」
 と、立ち停って考えてみるだけの、思慮分別は持っていた。
 S署の玄関は、警官が出たりはいったりしていた。
 制服ではないが、玄関の石段を登って行く歩き方で、
「私服だな」
 と、すぐ判るものもいた。
 真青な顔で、泡を食いながら、ソワソワと石段を登って行くのは、掏摸にやられて届けるのか、それとも駅で置引に荷物を盗まれたのだろうか。
 シャツをズタズタにして、顔中血まみれの男が二人、昂奮しながら、警官に連れられてはいって行くのは、いわずと知れた喧嘩だ。
「なるほど、喧嘩というやつは見苦しいわい」
 と、豹吉は呟いた。
 棍棒を持った若い警官が五、六人、あわただしく出て来て、駅の方へかけ出して行った。
 どんな事件だろう。
 若い女が泣きながら石段を駈け登って行く。
 何を訴えに行くのだろう。
 夜は次第に更けて行った。
 いかにも深夜の警察署らしい、そのS署の玄関の往来を豹吉はしばらく新聞記者のような眼で観察していたが、やがて、いらいらした声で、
「いつまでも、こないしていても仕様がない」
 と呟いた。
 何か大事件が起って、警察署の全員が出動した――その隙をねらって、雪子を救い出すという虫の良い考えにも、もう頼っておれなかった。
 豹吉はペッと唾を吐き出した。
「どうにでもなれ!」
 唾と一緒にその言葉を吐き出すと、豹吉は玄関の階段を、固い姿勢で登って行った。

 S署の玄関の石段を、固い姿勢で豹吉は登って行った――と、作者は書いたが、たしかに警察署の玄関へはいって行くことは、署員か御用商人か、新聞記者か、それとも警察の関係者以外にとっては、何か薄気味悪いものである。
 脛に傷を持たなくても、やはりいい気持のものではない。
 戦争中にくらべると、警察というものの持っている感じも、随分圭角がとれて来たし、まして、大阪の警察は例えば闇市場の取締り方一つくらべてみても、東京のそれよりもはるかにおとなしいというものの、それでもさすがに何か冷やりとした冷たさは、依然として、失われていない。
 まして、豹吉は脛に傷を持つ人間だ。おまけに、これからS署の中でやろうとしていることを考えると、まるで玄関の石段は氷の階段であった。しぜん、固い姿勢になったのだ。
 その固い姿勢のまま、石段を登って、扉を押そうとすると、
「やア」
 と、声を掛けられた、
「やア、変なところで会いますね」
 普通なら驚くところだったが、自分はけっして、驚かないという豹吉だ。つとめて平気な顔をして――いや、むしろ微笑して、つまり、可愛いえくぼを浮かべて、豹吉はそう言った。
 声を掛けたのは――小沢だった。
 小沢はちょうどS署の扉を押して、出ようとしているところだった。
 小沢がなぜS署から出て来たのか。どんな用事で、S署へ来ていたのか――それはしばらく読者の想像に任して置いて、さて――。
「うん。奇遇だね」
 小沢も微笑を泛べて、
「――さっきはどうも……」
 と、言った。
「いや、こちらこそ……」
 中之島公園でのことを想い出して、豹吉は微笑しながら、
「――こんなところで、会おうとは思わなかったよ」
「いや、案外会うんじゃないかと思っていた」
 小沢はにやにやしながら、言った。
「えっ……?」
 それには答えず、小沢は、
「ところで、君ひとり……?」
「……? ……」
 豹吉には小沢のきいていることが、直ぐには判らなかったが、やがて、
「ああ」
 と、豹吉流に解釈して、
「――むろん一人です!」
 昂然と胸を張って答えた。
「そう……? しかし、まア、一人でもいいだろう」
「一人で十分ですよ」
「そりゃ、一人でも悪いとはいえないが……。とにかく、はいり給え!」
 そして小沢は急に声をひそめると、
「――君、自首しに来たんだろう……?」
「自首……?」
 豹吉は思わずきき直した。
「そうだ。しかし、よく自首する気になったね。大したもんだ」
 小沢はひとりでそう決めていた。

 豹吉はあっけに取られた、腹が立つというより、むしろ噴きだしたかった。
「早合点もええ加減にしろ。ここは中之島公園とちがうぞ」
 と、豹吉は例の唾をペッと、S署の玄関の石段の上へ吐き捨てて小沢に言った。
「――誰が自首なんかするもんか」
「じゃ、何しに来たのだ……?」
「…………」
 咄嗟に答えられなかった。雪子を救いに来たと言えやしない。
「正直に云ったらどうだ。自首だろう……?」
「…………」
「年貢の収め時――という古くさい言葉があるが、君もそこへ気がついたのは莫迦でなかったよ。ガマン(刺青)の針助はとっくにつかまったんだから」
 と、小沢は普通の調子で言った。
 読者はもう想像がついたであろう。小沢が何のためにS署へ来ていたかということを。
 察しのつく通り、小沢は細工谷の針助の家で針助を縛りあげるとその足で、S署へ送ってきたのだった。
 わざわざS署をえらんで送って来たのは、雪子の行方を空しく探し廻っているうちに十時が来て中之島公園へ駈けつけようとしてS署の前を通り掛った時、警官に連れられてS署の玄関へはいって行く雪子の姿を見たからであった。
 小沢は針助を送って行くと、針助の家にあった雪子の著物を署員に見せて、
「この著物がないため、あの娘はふと魔がさして宿屋の著物を盗んだのです」
 と、雪子のために弁明し、釈放をもとめたが、生憎雪子の係の刑事は、当直ではなかったので、雪子を留置するとそのまま自宅へ帰ってしまっていた。
 小沢はその刑事が翌朝出署してから、改めて交渉しようと、ひとまずS署を辞すことにして、玄関を出ようとした途端、豹吉に出会ったのである。……
「えっ、針助が……?」
 つかまったのかと、豹吉はもう少しで、掟を破って、驚くところだった。
「そうだ。針助は何もかも白状したよ。君たち青蛇団はみんな、針助の針にひっ掛って、背中に蛇の刺青をしているそうだね」
「…………」
 豹吉は唸っていた。
「いずれ一斉検挙になるだろう。今のうちに自首したらどうだ。いや、自首するつもりで来たんだろう」
「大きなお世話だ」
「いや、世話を焼きたいよ。君たちのように若い青年が、刺青をしたまま、一生悪事を働いて暮すのかと、思うと黙って放って置けない」
「ふーん。黙って放って置けんからそれで密告したんやな。ご立派だよ」
 豹吉はきっと小沢を睨みつけた。
「密告……? まさか。密告するくらいなら誰も一人で中之島へ行きやしない。あの時、警察のトラックに乗って行けばよかったんだ。しかし、そんなことしたくないからわざわざ一人で行って、今もこうして自首をすすめているのじゃないか」
「ほな、どうしても自首せエいうのやな」
 豹吉の声は急に力が抜けていた。
「そうだ、どうあっても自首しろと言いたいのだ」
 小沢の声は、豹吉の何か弱まった声と反対に、急に決然とした調子を帯びて来た。
「君たちは敗戦につきものの混乱と頽廃の園に咲いた悪の華だ。が、日本はもう混乱、頽廃から起ち直ってもいい頃じゃないか。それにはまず、悪の華をなくしてしまう必要がある。しかし、僕は何もいきなり刈り取ってしまおうとは思わない。それよりも、むしろ君たち悪の華が向日葵の花のようになることを、望んでいるのだ。悪の華は夜光虫の光に憧れる。が、向日葵は太陽の光線に向って伸びて行くのだ。夜光虫の光と太陽の光と、君たちはどちらを選べばいいのか。……むろん、太陽の光だ。夜光虫の光に憧れた君たちこそ、一層太陽の光に憧れなければならぬ筈だ。いや、君たちは内心ひそかに太陽の光に憧れている筈だ。……と、僕は思う、それとも君たちはあくまで夜光虫の……」
「判った」
 豹吉はいきなり小沢の言葉をさえぎった。
「――判ったよ。自首しよう」
「えっ……」
「もう面倒くさくなった。自首すればいいんだろう。自首するよ。自首する勇気もないのかと思われたくないからな」
 豹吉はぺっと唾を吐くと、
「――どうせ、雪子の救い出しに失敗して、ぶち込まれるにきまっているのだ」
 と、ひそかに呟いた。
 豹吉が単身このS署へ雪子を救い出しに来たのは、はっきりと救い出せるという確信があって来たというよりも、むしろ雪子が留置されている場所へ少しでも近づきたいという気持でやって来たのだった。
 してみれば、自首をすすめられたのは、まるでもっけの倖いかも知れなかった。いや、何かサバサバした気持だった。
「自首という手もあったんだな」
 自首して留置されれば、雪子に近づけるわけだ。と、思ったのだ。
「手間がはぶけて、手っ取り早いわい」
 そう呟いたが、しかしさすがに豹吉はふと寂しそうだった。
「そうか、自首してくれるか。ありがとう」
 小沢の声は思わず弾んだ。
「そんなにうれしそうな顔をして、礼を言うのはやめてくれ。けったくそ悪いよ」
 豹吉は再び唾を吐いて、扉の中へはいって行こうとした。すると、小沢はあわてて、
「いや、一寸待ってくれ。僕は君ひとりやりたくない」
「じゃ、誰とや……」
「君の仲間と一緒に自首させたい」
「おれに、仲間を説き伏せろというのやな」
 豹吉はふとブルウスカイで待っている青蛇団の連中の顔を、想い出した。
「そうだ、虫のいい願いだが、そうしてくれないか」
 豹吉は石段の上へ眼を落した。睫毛がかぶさって眠っているようだった。やがて、ふと顔を上げると、
「あんたの役はいい役やなア。同じ自首をすすめるのでも、おれの方は悪い役まわりや」
 しょんぼりした声だが、しかしふとえくぼが泛び、したたるような微笑をたたえながら豹吉は言った。

 小沢は急に眉を曇らせた。
「あんたの役はいい役やなア」
 という豹吉の言葉が、皮肉のようにも、また小沢を責めているようにも聴えたのだ。
 なるほど、考えてみれば、小沢は得意の雄弁にものを云わせて、豹吉に自首の決心をさせることに成功したが、もうそれだけで充分満足すべきであった。
 が、小沢はなおそれ以上のことを、要求した。ブルウスカイで待っている青蛇団の連中を説き伏せて、一緒に自首しろ――という難題だ。
 豹吉にとって、これほど辛いことがまたとあろうか。
 むごい――という言葉があてはまる。たしかに、むごすぎる。
 さすがの小沢も、
「おれは今血も涙もない、非情の石ころになっているのかも知れないぞ」
 と、もはや豹吉の顔を正視するにしのびなかった。
「しかし、心を鬼にして――ということがある」
 大阪の市民のため、ひいてはこの国の社会の秩序のため――いや豹吉はじめ青蛇団の連中が、向日葵のように太陽の子に甦生するためにも、心を鬼にして非情の石となって、無理な要求をしなければならぬと、小沢はあわてて自分に言いきかせると、もうきっと冷かな眼をして、
「…………」
 豹吉の少女のような美しい、しかし、やや青ざめた顔を、見つめた。
「…………」
 豹吉も暫らくだまって、小沢を見つめていたが、やがて、投げやりのような微笑をふっと泛べると、
「仕様がない。癪やが、あんたのいう通りにする。あんたには負けたよ。――三十分ここで待っていてくれ。皆んなを連れて来る」
 と、言いながら石段を降りて行こうとした。
「あ。君」
 と、小沢が呼び停めようとすると、豹吉はふと振り向いて、
「心配しなはんな。逃げたりするもんか」
 石段を降りると、豹吉はやがて梅田新道の方へ姿を消した。
 そして半時間たった。
 夜が沈み、小沢の心も重く沈んでいた。
 その重い心の底を、五月の風がさっと冬の風のように吹き渡り、小沢は何か寒々とした想いで、S署の玄関に佇んでいたが、やがてひょいと顔をあげた途端、小沢ははっとした。
 豹吉、お加代、亀吉、唖娘――その他中之島公園で見た青蛇団が一人残らず、風に吹かれて、風のように、小沢の眼の前に現れたのだ。
 予期していたものの、豹吉がこんなに早く説得して連れて来たのを見ると、さすがに驚いた。
 風のように現れた一同は、やがて石段を、氷のような石段を登ると、風のようにS署の中へ姿を消してしまった。
 小沢はそのうしろ姿をじっと見送ったまま、ついて行こうとしなかった、ついて行く気もしなかった。いや、ついて行けなかったのだ。小沢の眼はいつかうるんでいた。

 S署の刑事室――。
 自首した青蛇団の連中の表情には、少しも暗い翳はなかった。
 ことに、豹吉は昂然として、寂しそうな顔なぞ見せず、
「おれたちは堂々と自首したのよ」
 という自虐的な快感を覚えていた。
 それに、豹吉にとって、ますます愉快なことには、青蛇団が自首したことで刑事はすっかり驚いてしまっていた。
 小沢がふん縛って連れて来たガマンの針助の自白によって青蛇団の正体はもう明らかになっていた。だから、S署では明朝を期して、一斉に検挙の網を打とうと考えていた。
 そこへ、いきなり青蛇団が自首して来たのだ。
 針助がつかまったことを、知ってか、知らずにか、――とにかく、意外だった。まさか自首して来ると思えなかった。よしんば、自首を計算に入れていたとしても、その来方があまりに早すぎる。
 だから、刑事は驚いたのだが、その表情を見ると、豹吉は煙草の味がうまかった。
「人を驚かせるが、自分は……」
 云々。
 つまり、自首したということは、「何か人をあっといわせるような、意表外のことを……」
 と、つねに考えている豹吉の心にかなったわけだった。
 いいかえれば、効果は十分にあったのだ。
 そう思うと、豹吉はますます相手の刑事を、あっと言わせてみたくなった。
 一応、取り調べが済むと、豹吉は言った。
「……ほかにもう一つ、悪いことをしました」
「ふーん。なんだ、どんなことだ」
「人を殺しました」
「えっ……?」
 と、刑事は驚いた。効果はやはりテキメンだった。
「――いつ、どこで……?」
 豹吉は少年らしい虚栄に胸を張って、
「今朝、六時頃渡辺橋で釣をしている男を、川へ突き落して、殺しました」
「えっ……?」
 と驚いたのは刑事よりも青蛇団の連中だった。
「なるほど、釣をしていた男をか。う、ふ、ふ……」
 刑事の方は気味のわるい笑いを泛べているだけだった。驚いていないのだ。
 豹吉は拍子抜けした。何かすかされた感じだったから、もう一度声をはげまして、
「殺人罪です、すぐ送局して下さい。覚悟はしています」
 と、言った。
「まア、そのことはあとで調べる。――とにかく、はいっとれ。おい、煙草は捨てるんだ」
 にやにやしながら、一同を留置場へ連れて行った。
 お加代と唖娘は女の留置場へ――。
 豹吉は亀吉たちと一緒に留置場の小さな入口――というより、穴をくぐってはいった。
 そして、じろりと中を見廻した途端、
「あッ!」
 豹吉は思わずぎょっとして、棒を呑んだようになった。

 豹吉がぎょっとしたのは、針助が坐っているのを見たからではない。
 針助がつかまったことは、小沢から聴いていた。
 だから、そのことでは、豹吉は驚かなかった。
 豹吉が見たのは――。
 留置場の隅の方に、しょぼんと坐っている伊部の姿だった。
 伊部――今朝、渡辺橋で釣をしていた得体の知れぬ奇妙な男!
 その男を殺した――と、たった今刑事に白状して来たのだ。
 ある時は、その殺したという罪で、自責の念にかられ、ある時はそのことを昂然と口にすることで少年らしい虚栄心を満足させて来た――いわば、今日一日とにもかくにも豹吉の心を支配して来たその男――死んだ筈のその男が、豹吉の眼の前に坐っているのだ。
 さすがの豹吉もぎょっとせざるを得なかった。
 われにもあらず、驚いたのだ。掟を破ったのだ。すかさず、亀吉が言った。
「兄貴、どないしたんや。顔色変えて……」
「どないもこないもない。こんなに、びっくりしたのは、生れてはじめてや」
「ほな、千円くれ」
「……? ……」
「兄貴のびっくりしてる所を見たら、千円くれる約束やったな」
 亀吉は手を出した。
「阿呆! ここは豚箱やぞ。一銭も持ってるか」
 豹吉はそう言って、伊部の方へ寄って行った。
「よう。君か。ひょんな所で会うたな」
 伊部はにやにや笑っていた。
「生きたはりましたんか」
 豹吉はすっかり大阪弁だった。
「うん。泳ぎを知ってると、なかなか死ねんもんでね」
「あ」
 と、豹吉は釈然として、伊部が死んだものと思い込んでいた自分の間抜けさ加減に苦笑したが、しかし、なぜ伊部が留置場に入れられているのか、これは判らなかったので、きくと、
「なアに、一水浴びた勢いで、浴びるようにアルコールを飲んだんだよ。酔っぱらって、素裸で歩いてたらしいね」
「泳ぎを知ったはるとは、知りまへんでしたなア」
「泳ぎか。およばずながら、亀みたいもんだ。あはは……」
 亀ときいて、亀吉は自分のことを言われたのだと、勘違いして、
「あのウ、わては金槌だンね」
 と、黒い顔を突き出した。
「なんだ、お前は……?」
「青蛇団だす」
 亀吉はぱっと上衣を脱ぎ捨てると、背中を見せた。
 青い蛇の刺青!
「お前雪子という女知ってるか……?」
 伊部はいきなりきいた。
 豹吉ははっとした。伊部が雪子を知っているとは意外だった。が、それよりもなぜ、いきなり雪子の名を口にしたのだろうか。

    朝の構図

「偶然というものは、続きだすときりがない」
 と、作者はかつて書いた。
「偶然のない人生ほどつまらぬものはない」
 とも書いた。
 例えば、小沢十吉!
 普通なら、彼は復員直後の無気力な虚脱状態のまま、一種、根こぎにされた人となって、ぼんやり日を送ったところだろうが、深夜雨の四ツ辻で、裸の娘を拾ったという偶然は、次々に偶然を呼んで、まるで欠伸をする暇もないくらい、目まぐるしい一昼夜を過したのだ。
 いわば、雪子を拾った夜から青蛇団の一党を自首させた夜までのまる一昼夜くらい、充実した時間は、かつて小沢を訪れなかった――と言えよう。
 しかも、なお、偶然は小沢をつきまとって離れなかったのだから人生は面白い。
 雨男の行くところ、必ず雨を呼び起すように、この「偶然一代男」の行くところ、必ず降り掛かる偶然があるのである。
 例えば――。
 小沢はS署の玄関で、豹吉たち青蛇団を見送った足で、伊部の家を訪れると、伊部は(むろん)居らず妹の道子ひとり、しょんぼり留守番をしていて、
「兄さんはS署に留置されているのです。どんな悪いことをしたのか、知りませんが、明日あたしに出頭しろと、S署から云って来ました。小沢さん、お願いです。あたしと一緒にS署へ行って下さいません……?」
 と、いうのである。
「S署……?」
 と、小沢はきいて驚いた。実は小沢は……
「――僕も明日S署へ行くんです。いや、行かねばならないんです」
 雪子の釈放のこともあったし、自首した豹吉たちのことも気になっていた。
「じゃ、今夜はここでお泊りになって下さい……」
 若い娘一人では物騒で、寂しい――と、道子は赧くなって、モジモジ言った。
「はア、でも……」
 と、小沢は躊躇したが、考えてみれば宿なしだ。
 夜も更けている。それに、まさかアベノの宿屋へも行けない。
「そうですね」
 と、ちょっと考えるように言って、
「――じゃ、お世話になりますかな」
「はあ。どうぞ!」
 道子の眼は急にいきいきと輝いた。
 小沢はその眼を見ると、はっとした。
 そして、お互い暫く言葉もなくじっと眼と眼を見合っていた。
 道子の顔は何か上気して、ぼうっと赧かった。小沢は自分の顔の筋肉がこわばっているのを、意識してふと心の姿勢が崩れて行く危なさに、はっとした。
 夜は次第に更けて行った。
 が、作者はこの二人にとっては、かなり重要だった一夜を描写する暇をもはやもたない。先を急ごう。
 なぜなら、翌朝小沢と道子がS署へ行った時、二人を待ち受けていた偶然の方が、作者にとって興味が深いからだ。

 小沢と道子がS署へ出頭した時二人を待ち受けていた偶然とは――。
 まず、小沢は雪子の係の刑事に会うて、雪子の釈放を求めた。
 刑事は雪子を留置場から呼び出して、事情をきいた。
 雪子ははじめ、なぜ裸のまま飛び出したのか、その理由を語ろうとしなかったが、小沢が傍から、
「君、何もかも言い給え。こちらではちゃんと判ってるんだよ。ガマンの針助がつかまって、すっかり自白したんだから」
 と言うと、ほっとしてはじめて、裸のまま針助の家を飛び出した理由を語った。
 夜の女だった雪子は、針助と知らずに袖を引いて、針助の家に連れ込まれて、危く刺青をされようとした。
 だから、逃げたのだが、しかし、もしそのことを小沢に言ってしまえば、青蛇団の秘密がばれてしまう――と、おそれたのである。
 雪子は青蛇団とはゆかりはなかったが、青蛇団の豹吉には、弟に対するような愛情を抱いていた。
 だから、青蛇団をかばいたかったのである。
 アベノ橋の宿屋で着物を盗んで逃げたのも、ふと魔がさしたとはいうものの、実は小沢が帰って来て、いろいろ問い訊されると、もう隠し切れないかも知れない――と、思ったからと、一つには、これ以上小沢に心配をかけたくない――と、思ったからだった。
 その雪子の話をきいて、一番喜んだのは誰か。むろん道子である。
「あ、そうだったのか。小沢さんが女の着物がほしいとおっしゃってたのは、そのためだったのか」
 道子は小沢を疑っていたことを、済まなく思った。
 雪子はそんな道子を見て、さすがに敏感に小沢と道子の仲をかぎつけた。だから、アベノ橋の宿屋では、小沢と自分との間に何一つやましいことはなかったということを、つけ加えることを、忘れなかった。
 しかし、そのことを話しながら、雪子はふっと寂しかった。
「でも、あたしは汚れた商売女やもの」
 雪子はひそかに自分に言いきかせて、諦めていた。
 刑事は事情をきいて、釈然とした。それにガマンの針助をつかまえたという小沢の功労に報いるには、小沢の願いをきき入れてやるのが何よりだと思った。
 夜の女であったということも、充分罪にする理由だったが、雪子も充分改心して地道な生活にはいると誓ったので、刑事は説諭と始末書だけで、釈放することにした。
 やがて雪子は小沢の手によって針助の家から取り戻された着物に着かえて、刑事室を出ようとした途端、
「あッ!」
 と声を立てた。
 留置場からその部屋へ連れて来られる伊部の姿を見たのだった。
「やア。君か」
 伊部も雪子を見ると、にやりと笑った。
 伊部と雪子は知り合いだったのだ。
 しかし、偶然はただそれだけではなかった。

 雪子は伊部を見ると、すぐ伊部のうしろから刑事室へ戻って、
「お願いです[#「お願いです」は底本では「お顔いです」]。青蛇団の刺青をとってやって下さい」
 と、いきなり言った。
(作者はここで最後の偶然を述べねばならない)
 即ち、雪子はある夜、伊部とゆきずりの一夜を明かした。
 その時、伊部が外科の医者で、刺青を除去する手術を今まで何度もやった経験があるということを知った。
 雪子は豹吉たちのことを想い出した。豹吉が悪の道へぐれて行ったのは、背中の刺青という重荷のためであることを、雪子は知っていた。
 雪子はその夜伊部に、豹吉らの刺青をとってやってくれと頼んだ。が、伊部は、
「面倒くさい」
 と、言って、応じなかった。が、雪子は執拗だった。伊部は仕方なく、
「じゃ、気が向いたら手術をしてやろう」
「でも、いつあなたにお会い出来るか知れしません」
「じゃ、こうしよう。君のよく行く千日前のハナヤという喫茶店へ午前十時に行って三十分間だけ待ってろ。気が向いたら行く」
 雪子はだから、毎日ハナヤへ行って、伊部を待っていたのである。が、伊部はやはり、面倒くさがって行かなかった。
「――毎日待ってました。お願いです。刺青をとってやって下さい」
「だって、あいつらは留置場へはいってるんだ。留置場へはいってるものを、手術しろはむりだよ」
 伊部は一応断ったが、しかし、刑事もそして小沢も、いや、道子までが口をそろえて口説いた。刑事は言った。
「伊部さん、とってやって下さい。何も留置場の中で手術してくれとは言いませんよ。どうせ彼等は少年刑務所へ一応送られるが、しかし、出て来るとまた刺青のために横へそれるにきまっている。刺青があれば真面目な働きもしにくいですからな。こちらも何とか便宜をはからうから、一つやってみて下さい」
 小沢も言った。
「君はこの頃は何もせず、ぶらぶらしているそうじゃないか。道子さんが心配して毎日泣いてるよ。伊部君、この刺青をとる手術をきっかけに、もう一度病院の仕事へ戻ってくれ。君のデカダンスはそりゃ判らぬこともない。しかし、そろそろ君も太陽の光の下へ出たらどうだ」
 道子も必死だった。
「兄さん、お願いです。仕事して頂戴! 折角今日こうして許していただいて、うちへ帰っても、今まで通りだったら、何にもならないわ」
 伊部は暫く考えていたが、やがて、
「よし、やろう。あの刺青が燈台もと暗しでおれの家の近所で植えつけられたのも、何かの縁だ。それに、おれはあの青蛇団と留置場の中ですっかり仲良しになったんだよ。彼等の気持は、おれが一番良く知ってるんだ。大量手術でむつかしいが、彼等の背を真白にしてやることは、彼等の心の汚れを取るばかりでなく、同時におれのデカダンスのクリニングになるかも知れない。そう思えば、ヤリ甲斐はあるかも知れないよ。あはは……」
 伊部の口から久しぶりにいきいきした朝の笑い声だった。

 作者に[#「作者に」はママ]この物語を一まずここで終ることにする。豹吉やお加代や亀吉がやがて更生して行くだろう経過、豹吉とお加代、そして雪子との関係、小沢と道子の今後、伊部の起ち直りの如何……その他なお述べるべきことが多いが、しかしそれらはこの「夜光虫」と題する小説とはまたべつの物語を構成するであろう。

底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
初出:「大阪日日新聞」
   1947(昭和22)年5月24日〜8月9日
※「憂鬱」と「憂欝」の混在は底本通りにしました。
入力:林清俊
校正:小林繁雄
2008年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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