今夏は、私は誠にすがすがしい心持でおります。と申しますのは、この六月、皇太后陛下御下命の御用画の三幅双を完成いたしまして、折りから、京都行啓中の陛下に、目出度く上納申し上げ得たからでございます。
 新聞紙上に二十一年前からの御用命を果たしたと書かれてありましたが、思えば大正五年の秋、文展第十回展開催中、御用命を拝したのでございましたから、なるほど二十一年の歳月が経ったわけでございます。
 当時、私は四十二歳でありました。文展第十回展には、「月蝕の宵」を出品いたしました。当時、皇后陛下でらせられた皇太后様は、毎年文展に行啓あらせられ、殊のほか絵画に御興深くあらせられるように拝されました。この年、私の「月蝕の宵」がお目に止まったものか、突然、「御前揮毫きごうをせよ」という電報を、京都の宅でお受けいたしました。早速上京いたしまして、文展の会場、府美術館内で御前揮毫の栄に浴しました。描きましたのは鎌倉時代の白拍子でございました。
 御前揮毫の栄には、その後二度浴しました。大正六年に京都行啓のみぎり、京都市公会堂で、梅の木を配して鶯の初音をきいている享保時代の娘をえがきました。初音と題しました。次は大正七年文展会場で、藤原時代の紅葉狩の風俗を描き、叡覧えいらんに供しました。御前揮毫は、いずれも御前で短時間で描きますので、即興的に、色も淡彩でほどこし、そのまま献上いたすわけでございます。
 最初の御前揮毫の節に、当時の皇后宮太夫三室戸伯爵を通じて、改めて二幅双か、三幅双の揮毫を、上納申し上げるようにという御用命を拝したのでございました。早速、構想を練り「雪月花」の三幅双の小構図を美濃紙に描き、伯爵を通じてお納めいたしますと、「これでよいから、大きさはかくかく」というお言葉を賜りました。その時以来、毎年毎年春がめぐって来ると、今年こそは、上納の画に、専心かかろうと心に定めております。すると、あっちからも、こっちからも、以前から依頼されておりました催促が来ます。「父の代からお願いしたのに、今度は孫が嫁を貰おうとしていますから、是非それまでに一つ」というようなこともいわれますと、どうも断わりきれなくなりまして、まあそれだけ一つと描き始めます。
 私の画は、元来密画ですから、どんな小さいものでも、一気にサッと描けるものはありません。構想を練り、下絵を描き、はじめて筆をとるのですから、時日もかかります。また、私はどんな用向きの画でも、現在の自分の力を精一杯尽くして描かなくては、承知できないたちですので、いい加減に急ぎの頼まれものを、片づけてしまうというようなことがどうしてもできません。こうして、間に一つ仕事をはさみ込みますと、どうも気持ちが二つに割れて工合よくゆきません。気軽にかかれるものでしたら、さっさと、次の仕事に移れますが、上納の画こそは、永久御物として、御保存のごく名誉の御用画として我が精根を打ち籠めたいと思えば思うほど、そうは運びません。秋には展覧会に是非出品せねばならず、またその後少しく健康をそこない、かくしてついのびのびと相成り、いつしか永き歳月をかさね、あまりにも恐れ多く、たえず心痛をいたしておりました。
 この二、三年来、非常に健康になりましたので、今年は是が非でも上納申し上げねばと、心に定めました。そして永年延引のおわびには非常なる力作をお納め申し上げねば相すまぬと心に存じました。丁度三室戸伯爵からも、今年六月に皇太后陛下がお久し方振りに京都に行啓あらせられるから、その折りに間に合うようにというお話もありました。
 早春二月から、一切の頼まれものはお断わりし、雑事を排して、専心、上納画の下絵にとりかかりました。藤原時代の衣裳の考証に、ある時は写生に外へ出かけたりいたしました。四月には心にかなった下絵ができ上がりましたので、いよいよ幅二尺、縦五尺六寸の絹に、雪の一幅からとりかかりました。
 毎朝、五時に起きまして、体を浄め、二階の画室の戸をすっかり開け放ちます。画室には朝の清浄な空気が充ち満ちます。そこでピタリと閉めて、終日仕事をいたしました。早朝は虫も木の葉の陰に止まって眠っており、塵、埃も静まっていますので、画室の中は、実に清浄な気が一日、保たれるのでございます。
 その上、絵の具は、使わぬ時はピタリとふたを閉じておきますので、絵の具の中には、ちり一筋も入りません。私は、他のことは杜漏ずろうですが、画に関する限り、誠にキチンと骨身を惜しまずいたします。絵の具が汚れていたり、辺りを取り散らかしていては、決して清い画が描けるものではないと存じております。こうして、精進をつづけて、雪の図ができ上がりました時、三室戸様が御上洛なされ「なかなかの力作だ、是非、六月の行啓に間に合わせ、御所で上納できるよう一層励んで下さい」といわれました。
 遂に、六月二十日、「雪月花」三幅を完成いたしました。藤原時代の御殿の風俗を雪月花の三幅に描き出したものでございます。雪は、清少納言になぞらえたものと思って下さってもよいでしょう。
 二十四日、三室戸様に伴われ、皇太后様御滞在中の御所へ、上納の御挨拶を言上に上がりました。翌日、二十五日陛下御誕辰のき日、三室戸様が御拝謁の折りは、丁度、画を叡覧遊ばされていらせられ、一層御満足の御様子に拝されたと漏れ承りました。
「今年こそは、果たさなくては相すまぬ」と、夢寐むびにも、思いつづけて来たとはいえ、御恩命を拝してから二十一年の歳月を経たことは、誠に畏れ多く相すまぬ次第ではございますが、はからずも、その間、二十年の研究をこの絵に盛ることができましたので、私といたしましては、相すまぬながら、長く宮中にお残しいただく絵として、心残りなく描かせていただいたという心持がしております。

     生いたち

 どうして私が生涯を絵筆を持って立つようになりましたものか、ただ、私は小さい時から絵が好きで好きでたまりませんでした。この血は母方から伝わったものに違いありません。母も絵心のある人でした。母方の祖父も絵が好きでありました。その兄弟に柳枝と号して俳諧をよくしたものもおりました。父は、私が生まれた年に亡くなりました。
 家業は父から受け継いだ茶舗を、母が営んでおりました。祖父は、大阪町奉行であった大塩後素の甥に当たりまして、京都高倉の御召呉服商長野商店の支配人を永らくいたしておりました。祖父は、一時、主家の血統が絶えようとした時、縁つづきの人をさがし出し、この人を守り立てて主家再興に尽くしたというような、誠実と、精励をそなえた人であったそうでございます。家業柄、私の生まれ育ちましたのは、京都でもっとも繁華な四条御幸町でありました。一人の姉と共に、母の手一つで育てられたのでございます。

     絵解きの手紙

 口もろくに回らぬ時から絵が好きだったらしく、こんな笑い話があります。四つぐらいの時でした。お祭りか何かで、親戚の家へ一人で招ばれてゆきました。
 その頃、木版画や錦絵を並べている店を私共は「絵やはん」と呼んでいました。「絵やはん」の前を通るとこれが目に止まり、絵がほしくてたまらなくなりました。しかし、幼いながら親戚の人に買ってというのは恥ずかしく、ようよう我慢していますと、丁度そこへ私の家の丁稚でっちが来ました。そこで紙にまるをかき、真中に四角をかき、その間に浪の模様をかきました。これを六つ並べて、丁稚にこの絵の通りのものを、家から持って来てくれと頼みました。当時の文久銭は浪の模様がついておりまして、その絵は、文久銭六つで買えたものだったのです。口の回らぬところも、絵筆の方は回ったようでありまして、この意味が大人に通じ、皆に笑われたものでした。

     帳場の陰で画ばかり描いている

 七つで小学校に上がりました。開智小学校という小学校でした。遊放の時間にも、私は多く、室の中で石板せきばんに絵を描いていたものです。友達から、「私の石板にも絵をかいておいて頂戴」と頼まれたのを覚えております。
 学校から帰ると、母から半紙をもらい、帳場に坐って、いつも絵を描いていました。母が買ってくれた江戸絵の美しい木版画を丹念に写したりしたものです。賑やかな四条通りの店ですから、お茶を買いに来るお客さんは引きも切りません。
「あすこの娘さんはよほど絵が好きと見えて、いつも絵ばかり描いてはる」と評判になっていたようです。
 お茶を買いに来るお客さんの中には、いろいろの人がありました。頭がじょうのような白髪のお爺さんが、私の絵の好きなことを知って、度々極彩色の桜の絵を見せてくれました。この老人は、桜戸玉緒といって桜花の研究者だったのです。また文人画の修業に京都に来ているという画学生から、竹や蘭の絵をもらったこともありました。
 こうして私の絵好きは、親類知人の「女の子は、お針や茶の湯を習わせるものだ、女の子に絵など習わしてどないする」という非難もよそに、「本人の好きなことを、伸ばしてやりたい」という、しっかり者の母の味方で、当時、二、三人よりなかった女の画学生になるところまで来てしまいました。

     府立画学校に入る

 十三、四の頃でした。今の京都ホテルのある場所に、京都府立画学校が設けられてありましたので、早速そこに入りました。初めは、花鳥を習いました。唐紙とうしにお手本を写し描き、運筆の練習をいたしました。時には写生をしたり、古画の模写等をしました。私は幼い時から、母から江戸絵の美人画を与えられたせいか、人物画が好きでした。けれど画学校では人物画は一番難しいものとして、最後に教えることになっておりました。師の鈴木松年先生が私の心持を知って、
「それほど人物が好きなら学校の帰りに私の処にお寄りなさい。特に人物画を教えて上げましょう」
 といって下さったので、大喜びで松年塾へ通いました。
 暫くして、松年先生が学校を退かれたので、私も学校をめ、松年塾で学ぶようになりました。松園という雅号は、その頃、松年先生からいただいたものです。その後、幸野楳嶺先生に師事し、先生の歿後、竹内栖鳳先生を師といたしました。

     一山のスケッチ帳

 人物画は、江戸絵、錦絵のあった、東京方面にはよいお手本もありましたが、京都には花鳥の画家が多く、ほとんど美人画を見る機会がありませんでした。ですから、鏡に自分の姿を写して写生したり、いろいろの人をスケッチしたりして、ほとんど自分で勉強いたしました。いつも袂に矢立と半紙を入れて歩きました。祇園祭りは、他の人と異なる意味で、私には特別に楽しみに待たれました。と申しますのは、中京辺りの大だなでは、どこの店でも家宝とする立派な屏風を、祇園祭りの間中店に飾ります。代々つづいている大きな老舗しにせでは、誠に立派な屏風を持っております。「お屏風拝見」といえば、どこの店でも快よく上へ上げて見せてくれる習慣ならわしがありまして、お客が多いほど自慢となるのです。私も、道を歩いていて、よい絵の屏風があると、「お屏風拝見」といって上がり込みます。
「お二階の方にもありますからどうぞ、お上がりやしてみておくれやす」と、いう調子で、快よく見せてくれますので、これ幸いと拝見し、これは写して置きたいと思うと、
「ちょっと、写さして頂きます」といって、半日も知らぬ家に坐り込んで、写していることもありました。
 当時は今のように展覧会等も度々あるというわけには参りませんので、よい絵を見る機会がなかなかありません。人からどこそこにこういうよい絵があると聞きますと、それこそ、千里も遠しとせず拝見に上がりました。また、名家の売立などにも、よいものがありますので、必ず見に参りました。博物館へはお弁当持ちで一日出かけたものです。そして必ず写生帳に写しとって来ました。お寺にはよい絵がありますので京都はもちろん奈良までよく出かけました。こうして、支那日本の古画を丹念に模写しました。
 博物館などにゆくと、貫之の美しいかながきなどがありますが、またむずかしい字をうまく、くずし方などあると、絵の横に書きとって来ることがありました。これが自然手習いになったようです。ある大名の売立に行くと、美事な貫之のかながきの巻物がありましたので、一、二行うつすつもりで書き始め、とうとう巻物全部をうつし取ってしまいました。傍の人に、あなたの方がうまいなどと、ひやかされたことがあります。若い時から、折々に描きためた、こうした縮図本が、今私の手許に一山ほどになっています。苦心して見つけ、手を労して写した古画など、二十年、三十年のものでも、判然はっきりと今も目に浮かびます。けれど、その後便利な世の中になって、写真版などで見たものは、その時はよく覚えていても、じきにすっかり忘れてしまいます。この縮図本を繰る毎に、その頃のさまざまな思い出がなつかしく思い出され、私には一番大切なものになりました。
 後年のことですが、私の家の近くに火事が起こりました。一時は風下になり、もう危いから荷物を出すようにといわれました。この家は自分で建てたものだが、まあ焼けるならそれも仕方がない。さて、何か大事なものをと思った瞬間、頭に浮かんだのはあの縮図本でした。そうそう、あれあれと大風呂敷を持って二階に上がり、縮図本をすっかり包みました。そのうちに風向きが変わり、もう心配はないというので、三階に上がり、男達のいる屋根にのぼり、消防につとめる様を、こういう光景は滅多に見られるものではないと、そんな余裕も出てよくよく観察したものでした。

     初の入賞は十五歳の時

 私の絵が展覧会に入賞したのは、明治二十三年、十五歳の時でした。東京で催された第三回内国勧業博覧会に、「四季美人」を出品しましたのが、一等褒状となりました。四人の四季の美人を、二尺五寸に五尺の大きさに描いたものでした。これが当時我が国に御来遊中であった英国の皇子コンノート殿下のお目に止まり、お買上げの栄に浴しました。その時、京都の日の出新聞に出た記事が、最近の紙上に再録されておりましたので、面白く思い、切り抜いておきました。何でも十五歳の少女の画が一等褒状、その上英国皇子お買上げの栄に浴したと大分もてはやしてありました。今ちょっと見当たらず、お目にかけることはできませんが。
 かくして、私の絵筆の生涯の幕が開かれたのでございますが、別に一生絵で立とうと考えてはおりませんでした。けれど私の画業は、次のように進んでおりました。
明治二十四年 東京美術協会「和美人」一等褒状
同年     全国絵画共進会「美人観月」一等褒状
同 二十五年 京都春期絵画展覧会「美人納涼」一等褒状
同年     米国シカゴ博出品(農商務省下命画)「四季美人」二等賞
同 二十六年 東京美術協会「美人合奏」三等銅牌
同 二十七年 東京美術協会「美人巻簾」二等褒状
 本当に、絵で一生立とうと考えたのはこの後で、二十歳か、二十一歳の時でありました。それからは、花が咲こうと、月が出ようと、絵のことばかり考えておりました。
 母は一人で店を経営し、夜は遅くまで裁縫などしながら、私の画業を励ましてくれました。

     烈しい勉強

 それからの私は、心は男のように構えておりましたが、悲しいことに、形は女の姿をしております。そのために勉強の上にも、さまざまな困難がありました。私は体は小さくても、生来母譲りの健康体を持っておりましたから、はげしい勉強にはいくらも堪えられました。けれど写生などに行きたくとも、若い女の身で、そうやたらな所へ一人で行くことはできません。仕方がないので、男学生十二、三人の写生旅行に加わって行きました。朝は、暗いうちに起きて、お弁当を腰につけ、脚絆をつけて出かけます。日に、八里、九里も男の足について歩きました。歩いては写生し、写生しては歩くのです。ある時は吉野の山を塔の峰の方まで、三日間、描いては歩く旅行をしました。家に帰ると流石に足にが入って、大根のように太くなり、立つ時は掛声でもかけないと立てないほどになったことがありました。
 お陰で今も足はたいへん丈夫でございます。四、五年前、信州の発哺はっぽ[#ルビの「はっぽ」は底本では「はっぱ」]温泉に行きましたが、あの急な山道を平気で歩いて登りました。

     私の制作年表

 その後の、私の制作を年代順に並べますと、次のようなものでございます。これ等は展覧会に出品したものばかりで、この他に依頼されたものなどを大分描いております。

明治二十八年 「清少納言」第四回内国勧業博出品(二等褒状)「義貞勾当内侍を観る」青年絵画共進会出品(三等賞銅牌)
同 二十九年 「暖風催眠」日本美術協会出品(一等褒状)「婦人愛児」日本美術協会出品(一等褒状)
同  三十年 「頼政賜菖蒲前」日本絵画協会出品(二等褒状)「美人観書」全国婦人製作品展出品(一等褒状)「一家楽居」全国絵画共進会出品(三等銅牌)「寿陽公主梅花粧」日本美術協会出品(三等銅牌)
同 三十一年 「重衡朗詠」新古美術品展(三等銅牌)「古代上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)」日本美術協会出品(三等銅牌)
同 三十二年 「人生の春」新古美術品展出品(三等賞)「美人図」全国絵画共進会出品(銅牌)「孟母断機」
同 三十三年 「花ざかり」日本絵画協会出品(二等銀牌三席)「母子」巴里万国博出品(銅牌)「婦女惜別」新古美術展創立十周年回顧展出品(二等銀牌)
同 三十四年 「園裡春浅」新古美術品展出品(一等褒状)「吹雪」第一回岐阜県絵画共進会出品(銅牌)「半咲図」絵画研究大会展出品(銅牌)
同 三十五年 「時雨」日本美術院展出品(三等賞)
同 三十六年 「姉妹三人」第五回内国勧業博出品(二等賞)「春の粧」北陸絵画共進会出品(銅牌)
同 三十七年 「遊女亀遊」新古美術品展出品(四等賞)「春の粧ひ」セントルイス万国博出品(銀賞)
同 三十八年 「花のにぎはひ」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 三十九年 「柳桜」新古美術品展出品(三等銅牌)「税所敦子孝養図」
同  四十年 「花のにぎはひ」北陸絵画共進会出品(一等賞)「虫の音」日本美術協会出品(三等賞)「長夜」文展第一回出品(三等賞)
同 四十一年 「月かげ」文展第二回出品(三等賞)「桜がり」北陸絵画共進会出品(一等金牌)「秋の夜」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 四十二年 「花見」ロンドン日英博覧会出品「花の賑ひ」ローマ万国博出品(金大賞)「虫の音」新古美術品展出品(三等銅牌)
同 四十三年 「人形つかひ[#「人形つかひ」は底本では「人間つかひ」]」新古美術品展出品(二等銀牌)「花」巽画会展出品(二等銀牌)「上苑賞秋」文展第四回出品(三等賞)
大正  二年 「化粧」「螢」文展第七回出品(三等賞)
同   三年 「娘深雪」大正博出品(二等一席)「舞仕度」文展第八回出品(二等賞)
同   四年 「花がたみ」文展第九回出品(二等賞)
同   五年 「月蝕の宵」文展第十回出品(推薦)
同   七年 「焔」文展第十二回出品「天人」
同  十一年 「楊貴妃」帝展第四回出品
同  十五年 「娘」聖徳太子奉賛展出品「待月」帝展第七回出品
昭和  三年 「草紙洗」御大典記念御用画
同   四年 「伊勢大輔」「新螢」伊太利日本画展出品
同   五年 「春秋二曲屏風一双」高松宮家御用画
同   六年 「虫ぼし」独逸ベルリン日本画展出品
同   七年 「虹を見る」
同   八年 「春秋双幅」高松宮家御用品
同   九年 「青眉」京都市展出品「母子」帝展第十五回出品
同   十年 「天保歌妓」春虹会展出品「鴛鴦髷」東京三越展出品「春の粧」大阪美術倶楽部記念展出品「土用干」東京三越展出品「夕べ」五葉会展第一回出品「春苑」東京高島屋展出品
同  十一年 「春宵」春虹会展出品「時雨」五葉会展出品「序の舞」文部省美術展覧会出品「秋の粧」京都表装展出品
同  十二年 「春雪」春虹会展出品「夕べ」学習院御用画
     「花ざかり」

 制作表を見ておりますと、一つ一つの絵について、さまざまの思い出が心に浮かんでまいります。
 明治三十三年に日本絵画協会へ出品いたしました「花ざかり」は、花嫁とその母とを描いたものでございます。その頃、私の家の本家の娘がお嫁入りすることになりました。昔のことですから、美容院などというものはなく、髪は髪結いさんにってもらいますが、お化粧は身内の者がいたします。
「つうさんにしてもろうたらよかろう」
 私の名前はつねと申しまして、つうさん、つうさんと呼ばれておりました。そこで私は、三本足というて、襟足を三筋塗り残して、襟足をほっそりみせる花嫁のお化粧をいたしてやりました。その折りに、身近に見る花嫁の高島田や母親の髪などをスケッチしたりしましてあの「花ざかり」ができたのでございます。

     「花がたみ」

 花がたみは謡曲の「花がたみ」から取材したもので、大正四年、文展に出品したものでございます。狂女を描くのですから、本当の狂人をよく観たいものと思い、岩倉精神病院へ、二、三度見学にまいったものでした。院長に案内されて病棟を歩きますと、千差万別の狂態が見られました。夏のことで、私は薄い繻珍しゅちんの帯をしめておりましたが、繻珍の帯が光ったのか、一人の狂女が走りよって、
「奇麗な帯しめてはる」
 と、手を触れて見ておりました。一室には、もと、相当なお店のお内儀かみさんだったという品のよい女がおりました。舞を舞うのが好きと見えて、始終、何やら舞うていると聞きましたので、私が、うたいをうたってみますと本当に舞いはじめました。男女さまざまな狂態を見まして、これは一種の天国だと思いました。挨拶、応答など、聞いておりますと、これでも狂人かしらと思われるほど常人と変わらない人も、目を見るとすぐ解りました。

     「母子」

 祇園祭りの時でしたでしょうか、ずっとずっと昔のことです。中京の大きなお店に、美しい、はん竹のすだれがかかっておりました。その簾には、花鳥の絵が実に麗しく、彩色してありましたので、頭にはっきり残りました。
 ある年、あの簾を配して何か人物を描いてみようと思いつきました。いろいろの人物をあの記憶の簾の前に立たせて見て、もっとも心にかなったのが母子おやこの姿でした。これが、昭和九年、帝展出品の「母子」になったのでございます。

     「序の舞」

 昨年(昭和十一年)、文展に出品いたしました「序の舞」は、品のよい令嬢の舞い姿を描きたいものと思って描き上げたものでございます。仕舞のもつ、古典的で優美で端然とした心持を表わしたいと思ったのでございます。そこで嫁を、京都で一番品のよい島田を結う人のところへやりまして、文金高島田を結ってもらいました。そして婚礼の時の振袖を着てもらい、いろいろな仕舞の形をさせ、スケッチいたしました。途中で、中年の令夫人にしようかとも思いましたので、早速嫁に丸髷を結ってもらい、渋い着物を着て、立ってもらったこともございました。私の謡の先生の娘さんがよく仕舞を舞われますので、いろいろな仕舞の形をしてもらって、それも、スケッチいたしました。
 いよいよ令嬢で、形は序の舞のあの形と定まりましたが、扇子を持つ手一つでも、いろいろと苦心をいたします。子供から女中まで家中の女に同じように扇子をもたせて見てスケッチしてみますと、どれもどれも多少異なった形をしております。その中で一番よい手の形をとり、それを私の理想の手に描き直しました。すべて、写生の上にでて、美しく芸術化するのでございます。

     これは必ずよいものができる

 よいものを描くには、さまざまな研究をしなくてはならないことはいうまでもございませんが、一番に必要なのは「信念」というか一つの「気魄きはく」であろうと私は思っております。どんなものを描きます時も、いえ、描く前の構想、それを練る時から、
「これは、必ずよいものができる」
 という信念を、私は持ちます。構想がまとまり、いよいよやきずみを当てて見ます。かかって見ると案外うまく行かないことがあります。さまざまの誤算が出てきます。この時に「必ずよいものができる」というあの信念をすてたらもう駄目です。己れの弱気に克って信念を強め、どうしたらよくなるか、このつまずきはどこから来たかと粘り強く研究して行きます。スラスラでき上がったものより、途中さまざまな失敗のあったものにかえって良いものができることを度々経験しております。制作にあたってこの気魄を持ちつづけ得られれば、決して後に見て悔いるような作品をつくることはございません。私がいささかでもこの気魄と克己心を持っておりますのは、母から受けついだ血であり、母の励ましのお陰であろうと思っております。

     母

 母と申せばこんなことがございました。ある年、文展の締切が近づきますのに、どうしたことか何としても構想がまとまらず、だんだんにねばってきてしまいました。今、思えは明治四十二年、文展第三回の時でした。気持はいらいらむしゃくしゃしてまいります。そうすると、一層、まとまらなくなります。始終、そばにある母には、私のその心持がすぐわかりました。そして言うのに、「今年は出品をやめなさい」。私は毎年出品してきたのに、今年だけ出さないのは残念と思いますので、なかなかそんな気持にはなりません。ジリジリしながらも、まだ粘っておりますと、母のいわくには、
「文展はまあ、皆の画を並べている店みたいなものじゃないか。大空からその店を眺めるつもりになってごらん。心を大きくして大局から物を考えると、何も一回ぐらい文展に出さないでも来年うんとよいものを出せばよいじゃないか、まあ今年はやめなさいやめなさい」と。
 自分の絵に対してそれほどの自信とうぬぼれを持ってみよと教えたのでございましょう。母は度々、竹をスパッと割るように、私の心機を一変してくれることがありました。その時は、「人形つかひ」の構想が、できかかっていたのですが、それをまとめて描き上げるには、期日が迫りすぎておりましたので、その年の文展は、母の言葉通り思いとどまったのでございました。この「人形つかひ」は、翌年、前から依頼されておりました新古美術展へ出品いたしました。これはイタリーで催されたものでございました。
 母は一昨年(昭和十年)八十六の高齢で亡くなりましたが、七十九歳で脳溢血に倒れるまでは、医者にかかったことがなかったほど健康な人でした。七年間、半身不随でおりましたが、亡くなるまで頭はしっかりしておりました。毎日沢山の新聞に全部目を通しておったようでございます。
 私が今日六十三の年をして、画家としてこれだけの精進ができますのは、この母の驚くような健康体と克己、勤勉さをもらい受けたためと思っております。母が亡くなる直前、私の古い弟子の一人が、母の写真をり、絹地に大きく引き伸ばしてくれましたので、唯今仏間に掲げてございます。これがあまりによく写されておりますので、今も生きてそこにおられるかと思うほどです。息子の松篁しょうこうも私も、旅に出る時は、ちょっと、
「行ってまいります」と頭を下げ、帰ると「唯今かえりました」と自然、挨拶をするようになりました。

     謡曲・鼓・長唄

 余技としましては、金剛流の謡曲を二十年近くしております。仕舞を舞うこともございます。鼓と長唄もしております。昔は地唄をいたしたものです。余技とはいえ、私はこれらのものを、遊びとは考えておりません。相寄って私の芸術を豊かなものにしてくれるような心持がいたしております。春秋には謡のおさらい会がございますが、シテになって一人で謡うことがあります。息子の松篁もしておりますので、謡った後で、
「私のはどうやった」ときいて見ますと、
「上手下手は別として、とに角、堂々とうたってはる」と申しましたので、笑ってしまいました。謡の先生も「何より心から楽しんで謡うのが本当です」と言われましたが、少しぐらい、上がり下がりがあろうと、本人はよい心持で精一杯謡っているのですから、何の心配もなく楽しいのでございます。

     八方に耳と目を働かす

 画を描くには、いつもよほど耳と目を肥やしておかなくてはならないようでございます。若い時は市村水香先生に漢学を、長尾雨山先生に漢詩の講義など聴いて勉強いたしました。時代時代の衣裳の研究に、染色祭の時などいろいろな陳列がありますから見にまいります。打掛、加賀友禅、帷子かたびらなどが見られます。芝居へも行きますが、他の方のように気楽に楽しんで見られず、いつも肩を張らして見てきます。美しいある瞬間を、スケッチに捉えます。衣裳風俗も覚えてまいります。時には映画も、見にまいります。猛獣の写真、海底の採魚など生態がわかって、面白うございますし、美しい景色の画面と人物は、よい参考になるものでございます。今、流行の衣裳の陳列会も見逃しません。美術クラブ、公会堂、八坂クラブなどで催されますが、忙しい時は、日に三ヵ所も見て回ることがございます。
 ずっと見通しますと、今年の最新流行の色はこう、古典味のある流行色はこうと、よくわかります。また、図案の会、陶磁器の会、彫刻の会なども見て置きます。

     絵三昧の境地

 絵筆を持って五十年、今の私は筆を持たない日とてはありません。何の雑念もなくひたすら画の研究にいそしんでおります。筆を持っている時が一番楽しく、貴く、神の心にピッタリかなっているような、大丈夫の心持でございます。絵三昧に入っているのであります。画壇のめごとも、対岸の火事を眺める気持がして、その渦中には入れません。この境地に入るまでには、人生には雨があり風があり、沈むばかりに船が傾くことがありますように、私もさまざまな艱難辛苦の時を経てまいりました。ある時は芸術的な行き詰まりに、ある時は人間的な悩みに、これほど苦しむなら生きているより死んだ方が、楽に違いないと本気で思ったことが、幾度もございました。そんな所を、幾度も通り抜けますと、人はほんとうに、強く強く生きられるものでございます。今思いますと、若い時の沢山の苦しみが積み重なり、一丸にけ合って、ことごとく芸術的に浄化されて、今の境地が作り出されたのではないかと思われてなりません。
 私の心は一日中画のことでいっぱいです。夜は殊にそうでございます。私の一日のうちで、一番貴い時は、眠りに入る前の四、五十分の時です。若い時から私は床に入ると、新聞か雑誌をちょっと見なくては眠れない習慣があります。しばらく、読んでいると、眠気がさして来る。そこでスィッチをひねります。体を伸ばして静かに手を胸に組んで目をつぶります。そのまま眠ってしまうかというとそうではなく、しばらく静かにしておりますと、閉じた目の前に美しいさまざまな色彩が浮かぶ、昔見た美しいとじ糸のついた絵日傘が浮かぶ、いつか見た絵巻物が鮮やかに展開する。そうしていつかしら私はぐっすり眠ってしまいます。また次の夜も同じように見ます。こうして一週間もたつと、制作のヒントが具体的にこの夢現ゆめうつつの中に得られるのが度々でございます。
「今夜は早く寝ましょう」と人にもいって、平常の習慣で、画室の戸締まりをしに入りますと、昼間描いた絵がふと目に入ります。つい筆をとって一筆ひとふで加える。そばの参考の本をめくって見る、また筆を加える。気がついた時は夜は深く更けてしまっております。
 今の私は、少しでもよい画を描きたい、よいものを遺してゆきたいと思うほか何も考えておりません。禅の言葉に、「火中の蓮華れんげ」ということがあります。その深い意味は知りませんが私はこう思っております。火の燃えさかる中にカッと開いている蓮華のさまは、如何にもさかんで勇猛心に燃えているように思われてなりません。私は、近来殊にこの勇猛心を持っております。よわいは傾きますが、私の画に対する勇猛心は、日毎に、強く燃えさかってゆくようでございます。

底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「婦人の友」
   1937(昭和12)年10、11月号
※底本で副題となっている「皇太后陛下御下命画に二十一年間の精進をこめて上納」は、初出誌においては最初の項目の見出しとなっています。
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月15日作成
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