「その父賢にして、その子の愚なるものはめずらしからず。その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来まれなり」

 わたくしは、かつてのわたくしの作「孟母断機」の図を憶い出すごとに、一代の儒者、安井息軒先生の、右のお言葉を連想するを常としている。
 嘉永六年アメリカの黒船が日本に来て以来、息軒先生は「海防私議」一巻を著わされ、軍艦の製造、海辺の築堡、糧食の保蓄などについて大いに論じられ――今日の大問題を遠く嘉永のむかしに叫ばれ、その他「管子纂話」「左伝輯釈」「論語集説」等のたくさんの著書を遺されたが、わたくしは、先生の数多くの著書よりも、右のお言葉に勝る大きな教訓はないと信じている。
 まことに、子の教育者として、母親ほどそれに適したものはなく、それだけに、母親の責任の重大であることを痛感しないではいられない。
 息軒先生のご名言のごとく、賢母の子に愚なものはひとりもないのである。
 昔から名将の母、偉大なる政治家の母、衆にすぐれた偉人の母に、ひとりとして賢母でない方はないと言っても過言ではない。

 孟子の母も、その例にもれず、すぐれた賢母であった。
 孟子の母は、わが子孟子を立派にそだてることは、母として最高の義務つとめであり、子を立派にそだてることは、それがすなわち国家へのご奉公であると考えた。
 それで、その苦心はなみなみならぬものがあったのである。

 孟子は子供の時分、母と一緒に住んでいた家が墓場に近かった。
 孟子は友達と遊戯をするのに、よくお葬式の真似をした。
 母は、その遊びを眺めながら、これは困ったことを覚えたものであると思った。明け暮れお葬式の真似をしていたのでは、三つ子の魂百までもの譬えで、将来に良い影響は及ぼさぬと考えた。
 そう気づくと、母は孟子を連れて早速遠くへ引越してしまった。

 ところが、そこは市場の近くであったので、孟子は間もなく商人の真似をし出した。近所の友達と、売ったとか買ったとかばかり言っている。

 三度目に引越したところは、学校の近くであった。
 すると果たして孟子は本を読む真似をしたり、字を書く遊びをしたり、礼儀作法の真似をしてたのしんだ。
 孟子の母は、はじめて愁眉をひらいて、そこに永住する決意をしたのである。
 世に謂う孟母三遷の有名な話であるが、孟母は、これほどにまでして育てた孟子も、成長したので思い切って他国へ学問にやってしまった。

 しかし、年少の孟子は、国にのこした母が恋しくてならなかった。
 ある日、母恋しさに、孟子はひょっこりと母のもとへ帰って来たのである。
 ちょうどそのときは、孟母ははたを織っていた。母は孟子の姿を見ると、一瞬はうれしそうであったが、すぐに容子を変えて、優しくこう訊ねた。
「孟子よ。学問はすっかり出来ましたか」
 孟子は、母からそう問われると、ちょっとまごついた。
「はい、お母さま。やはり以前と同じところを学んでいますが、いくらやっても駄目なので、やめて帰りました」
 この答えをきいた孟母は、いきなり傍の刃物をとりあげると、苦心の織物を途中でってしまった。そして孟子を訓した。
「ごらんなさい、この布れを――お前が学問を中途にやめるのも、この織物を中途でやめるのも、結果は同じですよ」
 孟子は、母が夜もろくろく寝ずに織った、この尊い織物が、まだ完成をみないうちにられたことを、こよなく悔いた。母にすまない気持ちが、年少の孟子の心を激しくゆすぶったのである。
 孟子は、その場で、自分の精神の弱さを詫びて、再び都へ学問に戻った。

 数年ののち、天下第一の学者となった孟子に、もしあのときの母親のきびしい訓戒がなかったなら、果たして孟子は、あれだけの学者になれていたであろうか。
 まことに、賢母こそ国の宝と申さねばなりますまい。

「孟母断機」の図を描いたのは、明治三十二年であった。
 そのころ、わたくしは市村水香先生に就いて漢学を勉強してい、その御講義に、この話が出たので、いたく刺戟されて筆を執ったものであるが、これは「遊女亀遊」や「税所敦子孝養図」などと、一脈相通ずる、わたくしの教訓画として、今もって懐かしい作のひとつである。

「その父賢にして、その子の愚なるものは稀しからず、その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
 息軒安井仲平先生のお言葉こそ、決戦下の日本婦人の大いに味わわなくてはならぬ千古不滅の金言ではなかろうか。そして孟母の心構えをもって、次代の子女を教育してゆかねばならぬのではなかろうか。
 ――孟母断機の故事を憶うたびに、わたくしは、それをおもうのである。

底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年4月5日作成
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