上海にて

 仲秋まる一ヵ月の旅であった。六十有余年のこの年まで十日以上にわたる旅行はしたことのない私にとって、よく思いたったものと思う。流石にまだ船に乗っているような疲れが身体の底に残っている。頭を掠める旅の印象を追っていると、なお支那に遊んでいるのか、京都に帰っているのか錯綜として、不思議な気持を払いきれない。
 昨日の新聞に米船ハリソン号を浅瀬に追いつめて拿捕だほに協力したと輝かしい偉勲を伝えられている長崎丸、私が長崎から乗った往路は多分その長崎丸であったろう。十月二十九日の晩のことで、一行は京都を出発する時から、華中鉄道副総裁のでんさんの夫人始め三谷十糸子など、内地をそのまま支那に移したような身のまわりであった。衣服も改まるわけでなく、食べものもずっとゆく先々で京都にいる時とあまり変らぬ日本料理がいただけたし、身体にも気持にも大した変化もなく旅を続けることが出来た。もっともおよばれもあり、いわゆる本場の豪華な支那料理を出される機会は多かったが、つねづね小食な私はほんの形ばかり箸をつけるばかりで、そのため迷惑を感じるようなこともなかった。天気にも非常に恵まれ蘇州で少し降られただけである。こうして終始平静な旅を普段とあまり変らぬ状態で続けている気持は、日本と支那とがいかにも近く考えられるのだった。東亜共栄圏という文字が実にはっきり来るのである。
 船が揚子江を上り、上海近くなると知名の新戦場も甲板の上から指呼のうちにあるのだが、それには狎れた乗客達なのかみな近づく上海の方ばかりに気をとられている風であった。もう戦場という気持はすっかり洗い去られているのであろう。それにつけてもこれまでにした兵隊さん達のことを思わずにはいられない。これは恐らく支那を歩いている間、誰の胸をも離れない感懐だろうと思う。

     楊州にて

 娘と母親が漕ぐ画舫がぼうは五亭橋へ向っていた。朱の柱の上に五色の瓦をいた屋根、それに陽が映えた色彩の美事さもあることであったが、五亭橋の上にあがっての遠望は、まさに好個の山水図であった。
 楊柳をあしらった農家が五、六軒も点在したろうか。放し飼いの牛が遊んでいる。悠々たる百姓の姿が見える。いまは葉を落とした桃の木がある。
「あれが咲いている頃やあたらな」
 と、花の色を心のなかに描いて、どんなによいだろうと息をのむ。
 遠景の山には平山堂、観音堂などの堂がある。田圃には翼を悠々とうって丹頂の鶴が舞っている。澄み透るような静かな陽射し、このさまをみては武陵桃源という文字もありそうなことだと思うし、白髪の仙人がことをもった童児を従えている図も絵空ごととは思えない風景である。
 またしても思うのは戦争など何処でしているということである。野鳥も打たれぬ風習に狎れ、悠々と自然のなかに溶けこんでいる。これが支那の本来の姿なら、これをわれから好んで戦禍に巻きこんでいった為政者の罪は一目でわかることである。白い紙をいたずらに墨で汚しているような勿体もったいなさと、押しあげて来る憤りに似たものが私にも湧いた。
 楊州でお目にかかった兵隊さん達はもうすっかりお友達になってしまい、その夜は楊州に宿とまって明朝蘇州にゆくのだというと、どうでも部隊にとまれとまれと熱心にすすめた。部隊だって立派な設備があるから不自由はさせないと、まるで久々に来た親類の者をとめでもしているように無邪気に明るい人々であった。出来るだけ各地の部隊病院はお訪ねしたいと思っては来たが、私の場合は慰問という字はあてはまらないかも知れない。かえって兵隊さん達に親切にされる、それをよろこんでお受けする、それで兵隊さん達が満足される、それをせめてもに思って貰うほかはないといった塩梅あんばいである。病院でも年寄の女がはるばる来たというためでもあろうか、白衣の方々を一堂に集めて挨拶をお受けしたりした。これではまるで逆になり、勿体なくて困るので、次からは集って頂くのは遠慮することにして貰った。

     蘇州にて

 陳さんの家では菊の真っ盛りであった。京都でも今頃はそうだろうと思うよりも、支那にこんな立派な菊の育て方があったのかと不意をうたれた気持の方が先であった。陳さんは前の省長で私達は御馳走になったうえに御家族の方々とこの立派な菊の鉢を前にして写真を写して貰ったりした。菊はほとんど私の肩にも及ぶほどであった。
 此処では妙なことから支那の田舎芝居の楽屋で写生帖をひらいたりした。
 お迎えをうけた特務機関長がお話好きで、あれこれと時間を過ごしたのだが、話が丁度支那芝居のことにおち、それでは一度御覧なさいということになり、秘書を案内に貸して下さった。
 楽屋は二階をあがったりおりたり、特有な臭をおしわけてゆくような処で、日本でいう大部屋という感じだった。チャリも三枚目も女形も大将軍も一部屋にごちゃごちゃと座を持っていた。
 私が写生帖をひらき皇帝になる役者を写し始めると、ほかの者もよって来てあれこれと批評している。似ているとか似ていないとか言っているのだろうが、そうすると折角のモデルの皇帝までがのこのこと写生帖をのぞきに来るのには弱った。
 モデルにもなれず、写生帖ものぞくひまもなく舞台に出て行った役者の一人は、舞台をすますと大急ぎで走り戻り、自分も写して貰いたいのだろう、ほどよい処に陣取って形をつくってすましかえっている御愛嬌には笑わせられた。私はふっと特務機関長のところの門衛の支那兵を思い出したりした。

     杭州にて

 杭州では西冷印社という印肉屋に朱肉を見に行ったりした。少し茶色がかった朱肉などもあった。
 西湖に姑娘クウニャンが漕ぐ舟を浮べ私や三谷は写生帖を持ちこんだ。
 平仙寺雲林寺等の山門は戦禍をうけていたが寺々のものは何ともなっていなかった。その寺の奥には、寝床、便所、風呂場もある大きな防空壕が廃墟のように残っている。いずれ支那兵あたりが使用したものであるが、いまはそれも見世物で、私達が近よってゆくと、五つ六つの襤褸ぼろをまとった女の子が、
「今日は……」
 と、日本語で声をかけて案内にたった。
 ひとりひとり蝋燭を一本ずつもたされ壕にはいると、女の子はまた日本語で、
「アスモートに御注意下さい」
 という。足許といっているのである。そして見物し終ると、これも日本語で、
「案内賃下さい」
 と、片手をつき出して実にはっきりと事務の如くにいう。ほかに十二、三の男の子も案内にたっているのだが、とてもこの敏捷な幼い女の子にはかなわない。男の子がうしろの方でもじもじしている間に、女の子はさっさと一行の案内賃を請求しているのである。私達は笑いながら銭をつかませてやった。
 蘇州の寒山寺、獅子林、明孝陵。鎮江金山寺、杭州の浄慈寺、それに前に書いた平仙寺、雲林寺という風で、従って仏像も沢山見た。実に沢山ある。だがそれは数ばかりでその容姿風貌には日本の仏像のように尊いところがなかった。これらの仏像がつくられた頃から、支那の現在の国運はすでに定っていたのかも知れない。

     南京にて

 十三日。南京に着いて宿舎にいこう暇もなく汪精衛主席に会う都合がついたからと公館に挨拶に出かけることになった。
 此処も数限りない菊の真っ盛りであった。大きな亀甲模様の床、深々とした椅子、その大広間にも菊の鉢がずらりと並んでいた。
 汪主席はかねて美術に理解のある方だと聞き知っていたが、眼にとまるところに砂子地に鶴を描いた六曲屏風が据えられていた。いずれは日本の知名の方の贈物かも知れない。日本画の筆になった新しい絵のようであった。或は知っている作家かとも思うが、少し遠いので落款らっかんをはっきり見ることが出来なかった。
 物静かな、大柄な、青年のような汪主席はいまは日本にとっては多く親しまれた風貌であろう。部屋には新聞社の写真班の方々もどやどやと見えていた。お話は通訳を通してのことであるが、汪主席は始終にこにこと微笑を浮べていられる。黒っぽい背広に、地味なネクタイ、角刈の頭といった、何処までも品のよい落着きを身につけている方であった。これが常に支那のために身を挺して闘って来た人であるという激しさはどうにも汲みとれない静かさである。
 私は型ばかりの手土産にと持参した色紙をお贈りしたが、これもあふれるような笑顔で受けて貰えた。そして、
「画風はどんなものか」というように聞かれたので、私は風俗をやっていると答えたりした。
 帰りに眼にはいった次の間には、日本の具足が一領飾られてあったようであった。
 同じ南京では畑支那派遣軍総司令官閣下に御挨拶に参上した。後宮総参謀長その他の幕僚も御一緒であったが、畑大将は私が杭州で風邪をひき、二日ばかり微熱のために静養したのを土地の新聞か何かで御存じであったのであろう、
「杭州でお悪かったそうだが、いかがです」という風にたずねられた。
「お蔭様で、もうすっかりなおりましたので……」とお答えすると、
「それはよかった。然しまあ無理をしないように……」と言われた上に、追いかけるようにして、
「それからどんなことがあっても生水だけはのみなさるな」
 と、細かい注意をして下さるのであった。これは常々兵隊の身を案じ続けていられる心遣いが私のような者の上にもにじみでるように出たお言葉であろうと胸に響くものがあった。大将こそ身体を御大切に、ついそう念じないではいられなかった。
 これはまた汪主席にお会いしたときと、違った気持で、まことに感銘の深い思いであった。

     光華門にて

 南京の城内には博物館があると聞いた。私は大きな収穫を期待し、是非にと見物に出かけたのだが、先ず第一に絵画というものが新古ともに無いのに失望してしまった。或は戦争に巻きこまれぬ前はこうでもなかったのかも知れないが、まことに落莫らくばくとしたものである。模様や字様のものの細々と彫っている大きな玉板であるとか、あまり風懐に富んでもいない石仏とか、いずれは考古学上にはそれぞれ由緒あるものであろうが、おかしな言い方であるが、妙に重いもの、かさばるものばかりであるといった感じだった。それにあまり珍しいとも思えぬ動物の剥製など。私の眼をひいたものと言えば種々の墨ぐらいのものであった。相当よいもので、これも装飾用のものでもあろう、大きなものであった。
 皇軍の尊い血の匂いのまだ残っている新戦場としての光華門では、当時此処の戦闘に参加した将校さんの説明を聞いた。四辺は既に片づけられ、此処に散華した勇士達の粗末な墓標が、まだ仮りの姿で立っているだけであるが、季節も丁度こんな頃ではなかったのか、澄み透る空気に、鮮かな匂いを見せた秋の日射し。それは身体の中を洗いきよめてゆくようであった。
 松篁が三年前に此処に立った時には、激戦当時を想像させる身の気のよだつようなものがあり、あたりには枯骨も見えたということであった。なかには絵に描かれているような髑髏どくろがそこはかとない秋草をしとねにすわっていたという土産話も、今では嘘のようである。
 私たちは当時の一人一人の勇士の顔形を胸に描き合掌する気持で秋の日射しの中を歩いて帰った。

     支那の娘

 首都飯店にあった宴会で私は上品で可愛い給仕娘に眼をとめた。私は滞在中その娘を借りて来てスケッチした。一人で来て貰うと何処かかたくなって気詰りらしいので朋輩を一人連れて来てもらうことにした。そして二人が話しあったりしているなかから、支那の娘の自然の姿態を描きとってゆくことにした。
 この娘にしても、純粋な本来の支那を持っているわけではない。どこの娘もがそうであるようにすっかり洋化されている髪形である。といって日本の娘の上に考えられる洋化とも違う。そこにはやはり昔からの支那風にこなされ渾然としたものをかもし出しているのであろう。楚々そそとした感じは一点の難もないまでによく調和したものになっている。
 そこにゆくと支那の児童達は昔の支那をよく残している。日本の子供といえば、頭の恰好はほとんど定っており、男か女の子かも大体一眼でわかるのだが、支那の子供達の頭は大袈裟にいうと千差万別といってよい。前額に二、三寸にくしけずれる程の髪を残してあとは丸坊主の子、辮髪べんぱつ風に色の布で飾ったお下げを左右に残すもの、或は片々だけに下げているもの。絵にある唐子からこの姿で今も南京上海の街、田舎の辻々に遊んでいる。
 莫愁湖の畔にもの寂びた堂があり、そこでは付近の子供を二、三十人集めて寺子屋のような学校がひらかれていた。その二、三十人がみんなその唐子達である。私たちが近よると物珍しいと見えて、その唐子達はついて来る。私は面白がってそのなかの一人の頭に手をやると、その唐子は驚いたようにして逃げて行ってしまった。

     秦淮シンワイにて

 楊州で画舫がぼうを漕いでくれた母親の方にはまだまだ昔の支那が残っていたようである。私は秦淮の街にスケッチに出かけて、そういう女も写したりした。そこには画舫も沢山浮き、古来多くの詩はそこの美しさをたたえている。それほどの名所でありながら、いまはきたない。江水も画舫も思う存分きたない。そこへ安物店の食べもの屋が出ているのである。
 大きな傘を立てただけの店で、油揚げのようなものを売っている女。私は次々とスケッチして歩いた。
 支那の人達は悠々としているという話は度々聞いている。雲雀を籠にいれて野山に出かけ、それを籠から出して大空に鳴かせあって日を暮らすという話などよく聞く。それと同じ気持なのだろう。こういう雑踏した街で、しかも角の真中に女が坐りこんで着物などのつくろいをしている。四辺あたりはどうあろうともそこだけはぽかぽかと陽当りよく、余念もない女の針がひかっているのである。
 物静かな京都の街なかでもこんな風にお前はお前、私は私といった風景はみられはしないであろう。
 そういえは此処の自動車は何時間でも人を待っていてくれる。上海のホテルの六階から見おろした表通りに、それこそ何百台と数えられる自動車がずらりと並んで駐車しているのを思いだす。あれだけの自動車がいつ客を乗せる番に廻り合わせるのかと思っただけで気が揉めるであろうのに、支那人は悠々と待っているのであろう。

     連絡船にて

 往路の長崎丸は静かな船旅であったが、帰途の神戸丸は上海を出離れるとすぐから少しゆられた。人々はすぐ寝こんだので私もそれにならい、ついに船酔いも知らずにしまった。
 長い旅の経験もない私にとって一ヵ月といえば大変なものであるが、過ぎさったものはほんの短い時日にしか思えない。この年になって日本以外の土地に足跡を残したのは思いもよらぬ幸いといわなければならないであろう。だがいま自分は日本に向っているのだと思うと、やはり沸々とした心楽しさがあるように思われる。船特有のひびきは絶えず郷愁のようなものを身体に伝えて来る。
「陸が見えますよ」
 と、いう声は本当になつかしいものに聞こえた。激しい向い風のなかに見え始めた故国日本の姿はまったく懐かしい限りであった。そのくせ帰りついて昨日まで支那人ばかり見ていたのに、四辺あたりはどこを見ても日本人ばかりなので、どうにもおかしな気持でしかたがなかった。
 みんなは「支那ぼけでしょう」といって笑っている。あるいはそうかも知れない。まったく支那ぼけとそう呼びたいような疲れが身体のどこかにまだ残っている感じである。

底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「画房随筆」錦城出版社
   1942(昭和17)年12月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。