ああ! 漸く、ほんとにやうやく、今日もまた今のびのびと体を投げ出すことの出来る時が来ました。けれど、もう十一時半なんです。此の辺では真夜中なんです。そして、今日の裁判所での半日は、それでなくても疲れ切つてゐる私を、もうすつかりへとへとに疲らして仕舞ひました。
 出来るなら私は其処から真直ぐに家へ帰つて何も彼も投げ出して、寝床にころげ込みたいと思ひました。でも、南品川の叔父さんと叔母さんにお守りをされながら坊やが私を待つてゐるのです。私は虎の門で皆なと別れると真直ぐに新橋へ行つて坊やを迎へに急ぎました。
 大崎で電車を降りてから石ころの多い坂路をきにくさうにしてのぼつて行く俥夫のまるで走らないのをり/\しながらついて見ますと、坊やは大よろこびで私に飛びついて来ました。そして大元気でした。叔父さんも叔母さんもおとなしかつたと云つて喜んでゐました。可愛想に坊やも、私が毎日出歩いてゐるものですから、昼間はこの十日ばかりと云ふものちつとも私と一緒にゐられないのです。九時過ぎに、叔父さんに抱つこされて大崎まで送られて帰つて来ました。電車の中でいゝ工合に眠つて駒込こまごめで降りる時にもよく眠つてゐましたが俥の上で涼しいのでか眼をさまして、家まで来て蚊帳かやの中で一しきり遊んで今やつとまた眠つたところです。
 これから私も眠るのですけれど、体は非常に疲れてグタ/\になつてゐながら反対に頭は馬鹿にはつきり冴えてゐて何んだか急に眠れさうもないので、また、これからあなたに退屈しのぎに読んで頂く手紙を書かうと思ひ立つたのです。そしていゝ加減に頭をつかれさせたらいゝ気持に明日の朝までは何んにも知らずに眠れさうですから。
 けれど、頭を疲れさす為めに、と云つた処で、私は決して出鱈目でたらめを書くんぢやないんですよ。今日私の頭が何んの為めにこんなに冴え切つて、私を寝かさないかと云ふ事を書くのです。それは、今日私があの裁判所で傍聴した裁判に就いてです。そしてその被告人は女でした。けれども、私は特別にそれが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。
 あなたには、勿論こんな事はちつとも今更らしく私の話を聞くまでもなく充分承知してゐらつしやるでせう。だからこそ、始終区裁判所の傍聴をすゝめてゐらしたのです。その事はよくわかつてゐます。私をよく知つてゐて下さるあなたは、私がうして興味を持つに違ひないと云ふ事を、とうから御存知なんです。けれど、私がそれをどう云ふ風に観、どう云ふ風に聴きそしてどう云ふ点に多く興味を見出したかと云ふ事を知りたいとお思ひにならないでせうか? 私は勿論二人が一緒にゐるのなら、直ぐに、私の観たけのこと、聴いた丈けのこと、そして感じた丈けのことを皆んなあなたに話すでせう。けれど今、私とあなたは厳重に引きはなされてゐる。私が何を感じようと考へようとそれを私の口からあなたの耳へ聞かすことは出来ない。またあなたの思ふこと感じたこと、それをそのまゝ私の耳へ移すことも出来ないのです。あの十分か五分の間の面会所での話! 何が話せませう? 私達は顔を見合はすだけぢやありませんか、そして僅かな用事以外にどれだけの話が出来ます? 二日目か、三日目に会ふ数分間の時を私達は何んと云ふプロゼイツクな消し方をしなければならないんでせう? 恐らく、二ヶ月に一回、一年に一回と云ふやうな場合にでも、やつぱりあれ以上の事は出来ないのでせうね。そして、その私達に残された唯一の話し合ふ方法と云つたら手紙にたよる外はないのです。その手紙すらも、どうかすれば間で押へられる。丁度私達が、偶々たまたま遇ふあの面会の時の話を、立ち会ひの看守達にともすれば干渉されるやうに――。
 私は今此処に、どうしてもあなたに聞いて欲しい事を残らず書かうとしてゐます。あなたが、どんな気持ちでこれをよんで下さるか、それを想ふと私の胸は震へる。けれど、それがもしかすればあなたのお手にははひらずに、間で、誰か役人の机の中にほうりこまれてしまふかもしれない、と思ふとまた私の胸は暗くなります。
 けれど、それでもいゝ! それでもなほ私は此の手紙を書き終せます。私はそんな事を考へてはならない。此の手紙がよしどうならうと、此の手紙はあなたへお話しする為めに私が書くのです。他の人に関係した事ぢやない! お役人などに解る事柄ぢやない! あなたに、あなた丈けが理解して下さる筈の事柄なのですもの、私はちつとも躊躇せずに書きませう。他の誰が見るのでもない聴くのでもない、あなたが待つてゐて下さるから書くのです。二人だけの話! えゝ、離れてさへゐなければ私は口で云ひ、あなたは耳で聞く、離れてゐるから私は口の代りに手、あなたは耳の代りに眼で読むだけのことなのです。
 ねえ、でも私が斯うして今あなたに話しかけてゐる事も知らないで、あなたは今頃昼間の疲れに眠つてゐるのでせうね。それでもまだ寝もやらずに読書でもしてゐらつしやるか? 一番いやな想像で、南京虫や蚤の襲来を一生懸命に見張つてゐらつしやるのでせうか?

 私が今日後ればせに裁判所に駈けつけた時には、もう多勢の同志の方の顔が彼方此方あちこちに見えました。そして皆んなから、あなたの公判は一号法廷で開かれるのだと云ふ事を聞きました。
 其の時、一号法廷ではもう他の公判が開かれてゐるらしく少しばかり開かれた扉の処に巡査の姿が見えてゐて、その扉には傍聴者満員と云ふ札が掲げられてゐました。私はそれを見ました時に、今までの例によつて、また法廷はスパイで一杯になつてゐるのではないかと云ふ不安に襲はれました。けれど、あたりを見ますと、見覚えのあるないに拘はらず、一目見てスパイと断定する事の出来る、あの特殊な態度表情をもつた人間達が彼方にも此方にもうよ/\してゐました。私達は一号法廷の前を中心にして日蔭に休みながらしばらく様子を見てゐました。
 私が行つてから三十分ばかりすると、その一号法廷の被告人の一団がその扉口から出て来ました。そしてその後から二十人近くの傍聴者がゾロ/\出たのです。公判廷は此度は他の被告人の取調べに移つたらしい様子です。そして、私達はその傍聴人の空席を取りはづしてはなりませんでした。私達は大急ぎで傍聴席にはいりました。
 私達がはいりました時、法廷の高い法官席には型のとほりに中央に、あなたの掛りの裁判長だつたあの若い判事が、あの品のいゝ顔を少し曇らせて前にある記録を見てゐました。恐らく私達がはいつて行つた為めに起つた法廷内の一寸ちょっとの間の混雑が静まるのを待つ為めになのでせう。裁判長の右手に座を占めてゐる検事は、醜くあぶら肥りのした四十近いやうな人でした。肥つたでこぼこの多い顔を一層ふくらませながら傍聴席の方を見下ろしてゐる顔は一時ふき出したいやうでした。それにあの官帽が一層ふくれた顔を滑稽にするばかりなのですもの。書記はあなたの時と同じあの貧相な人でした。法官席の下の巖丈な柵の前の被告席には、こはれかゝつた銀杏返しに結つた女があらい紺がすりの洗ひさらした単衣ひとえを着てうつむきながら立つてゐてその後ろの弁護士席には二人の弁護士が控へてゐました。
 傍聴席が静かになると裁判長は顔を上げて被告の上に眼を落しました。よく見ると被告席に立つてゐる其の女は、生れてからまだ間もないやうな赤ん坊を抱いてゐるのです。
『何をしたのだらう?』
 私は再びまた裁判長の顔を見ました。あの裁判長の顔は本当にいゝ顔ですね。其の時には、あなたの公判廷に見た強い緊張した表情はありませんでしたけれど、私が普通裁判官と称する人達に対して持つ、いゝ意味をも悪い意味をも含ませる或る概念からは非常に縁の遠い優しさと上品さを充分に表はしてゐました。それにあの濃い眉根を少しひそめて静かに物を問ひたださうとする態度には、他人の罪を糺すとか裁くとか云ふ人達の一番の徳とされてゐる寛大と云ふのとはまるで違つた、弱いものゝ犯した罪の動機に対していたみやすい、真に道徳的感情の純なものゝあるのを感じさせると云ふ処がありました。私は自分の此の裁判長に対する第一印象が、どの辺まで信じていゝものかと云ふ事をきはめようとする熱心で、ぢつとその裁判に注意し初めました。
 訊問は私達がはひる前から始められてゐたと見えて斯う云ふ処から聞きました。
『お前は、その林谷蔵と云ふものから、何か品物を預かつた事があるかね。』
 裁判長は丁度子供に物を尋ねるやうな物穏やかな調子で始めました。
『私は断つたんですけれど、無理に投り込んで行つたんです』
 女は下を向いたまゝ、つぶやくやうな低い声で答へました。
『断つたけれど投り込んで行つた? ぢあ、とにかく預かるには預かつたんだねえ』
『無理に置いて行つたんです。』
 女はなかなか預つたと云はないんです。
『ぢやあね、向ふで無理に置いて行つてもお前の方ではどうして無理に断らなかつたのかね? あくまで断ればいゝぢやないか。』
『私は其の時に、病気で寝てゐる処に林が来て、これを預かつてくれつて云ひましたけれど、困るからつて断りましたのに無理に置いて出て行つてしまつたんです。』
 女は途方に暮れたやうにさうして一つことばかりを繰り返して云ふのでした。
『お前が林谷蔵から品物を預つたのは一ぺんきりではないやうだね。』
 女は微かにうなづきました。
『何度位だね。』
『三四度です。』
『その度びに品物を持つて来たんだね。』
『左様で御座います。』
『ぢやお前が病気で寝てゐるときに来て無理に投り込んで行つたと云ふのは何時の事だね?』
 女は黙つてゐます。
『お前が病気で寝たと云ふのは、何時の事だね? 今年になつてからかね? 去年かね?』
『去年です。』
『去年、去年は何月頃?』
『十一月頃です。』
『此の記録で見るとね、林谷蔵がお前の処に来始めたのが去年の十一月頃でそれからずつと今年の六月頃までに数回に品物を持つて行つて預けたやうになつてゐるがね、さうかね?』
『左様で御座います。』
『ぢやお前が断つたと云ふのは一番初めに来た時の事だね。』
『左様です。』
『ぢやそれから後はどうしたんだね』
『矢張り断つたんです。』
『その度にかね?』
『えゝ』
『それにどうして置いて行くのかね?』
『矢張り無理に置いて行くんです。』
『無理に置かうとしてもたつて断つてしまへばいゝぢやないか、何故断れないのだね、断つて、預かつたものも返したらいいぢやないか。たつて断るのに無理に預けやしないだらう?』
 女は黙つてしまひました。
『林谷蔵は、初めはお前に断わられたけれど、それから後は黙つて預かつてくれたやうに云つてゐるよ。それが本当なのぢやないかね? え?』
 女はうつむいたまゝ唖のやうに黙つてしまひました。
『どうしたね? 返事をしないのは困るねえ? 返事をしたらどうだね、出来ない事はないのだらう? 考へなくつてもいいんだよ、ありのまゝに答へさへすれば――』
 でも女の口を開かすことは出来ませんでした。女は全く不貞ふてたやうに口をつぐみました。
『何故、裁判所の尋ねに対して返事をしないのだね? 裁判所では、お前が黙つて返事をしないでゐても、そのまゝどつちかにきめてしまふ事も出来るんだよ、だから本当の事を云つた方が得なんだよ、どうだね返事は? 矢張り黙つてゐるのかね?』
 女は静かに低い声で、すゝりなきをしはじめました。裁判長はもてあましたやうに黙つて被告の頭を見つめてゐました。
『裁判長、被告はまだ体が本当でありませんし大分疲れてゐるやうですから、腰掛けを許して頂きたう御座います。』
 其の時まで黙つて控へてゐた弁護士の一人が立ち上つて裁判長に頼みました。
『あゝよう御座います。ぢや其処に腰をおかけ、その瓶は傍において、子供をしつかり抱いてゐないとあぶないよ。さうしておちついてよく考へてから返事をするんだよ。』
 裁判長は子供にでも云ふやうな調子で腰掛けさせると、また直ぐと訊問にとりかゝりました。

うしてお前は、林谷蔵から品物を預れないのだね』
『それは先に一度預つて迷惑をした事が御座いますから。』
『そんなら猶の事ぢやないか、何故断つてしまはないのだね』
『ですから断りましたけれど無理において行つたのです。』
『谷蔵とはお前は何時頃から知り合ひになつたのだね?』
『十年前に氷屋をして居りました時に知りました。』
『そしてお前と谷蔵は何か関係をしたのだね?』
『はい』
『で其の時から谷蔵が、あんな事をする男だと知つてゐたのかね』
『いゝえ、知りませんでした。』
『ぢや、それと分つたのは後になつてからの事だね』
『左様です』
『でそれからも行き来をしてゐたかね。』
『いゝえ』
『それでは去年の十一月頃に突然に訪ねて来たのだね』
『左様です。』
 此処で暫く裁判長の訊問はとぎれました。そして彼方此方、記録をめくつてゐました。検事の退屈さうな様子は最初から気の毒な程でした。まるで自分とは関係のない問答がはじまつてゐるのだと云ふやうな様子で、あるときは傍聴者の顔を一つ一つ眺めまはしてゐるかと思ひますと、外の方をさもポカンとした顔をして眺めてゐます。
『どうだね、さつき聞いた事は。お前は預つたのではないと云つても、谷蔵の方では預かつたのだと云つてるし、実際に品物もお前の処にあつたのだらう? さうすればどうしたつて預つた事になるぢやないかね』
 女はまた黙つてしまひました。
『あの裁判長はどうしてあゝつこくあの事を聞くのだらう?』
 私はぢつと裁判長の顔を見ながら考へました。
 女は数回に品物を預かつたには違ひないのでせう。けれど彼女が其の都度つど断つたと云ふ事も矢張り事実にちがひないのです。私が考へますのには、裁判長は何よりもその『預つた』と云ふ事実を被告に認めさせようとしてゐるし、女の方は『預かつた』と云ふ事をハツキリ認める事は、即ち自分が罪に堕されるのだと云ふ解釈をして、それもづ、自分の意志が決して預るつもりではなかつたのだと云ふ事を極力主張したいのだと思ひます。けれども、悲しい事に無智な彼女は、その自分の意志に反して起つた事実を承認する為めに必要なその説明を裁判長にハツキリとする力がないのです。しかしたら彼女は、その説明したいと云ふ気持すらも自分ではハツキリしてゐなかつたのかもしれないと私は思ふのです。彼女はきつと、たゞ無条件で『預つた』と云ふ事実を認めさしてしまはふとする所謂いわゆる『事情を汲みわける事の出来ない裁判官』に反感若しくは不満を感じて口をつぐんだのです。裁判官の問ひ方に対して不満を感じたとしても、若しもその問ひに対してハツキリと批難を加へる事の出来ないものは口を噤むより他はないかもしれません。
 ところで、あの聡明な裁判長、あの同情ある態度を見せてゐる裁判長がどうして此の被告の心理に対して無関心でゐるのでせう? とにかく、此の被告に対する判事のすべての態度は、厳正な裁判官としてよりも、もつと人情味の深い親切な態度だと云ふに憚らないのです。しかしながら此の訊問の一点に於いては裁判長は甚だしく執拗でした。いろいろに問ひ落して、どうしても其の事実を認めさせようとする風がありました。実際には裁判官の方から云へば、事実を認める事と、それについての弁明とは別のものだと云ふかも知れませんが、それは物の道理も自らよく解り理屈を云ふ事も出来る人間に対してのみ云へる事ではなからうかと私は思ひます。しかも裁判長の態度には、その教養あるものに対するのとはるでちがつた同情があるのですから、その点でも当然もう少しの理解はあつてもいゝものだと私は考へたのです。もしも、どうしてもその事実を認めさせなければ裁判の進行が出来ないと云ふのであつたら、どうしてあんな意地の悪い問ひ方をしないで、もつと他の方法で尋ねられないのでせうか。彼女は間違ひなく預かつたと云ふ事は承認してゐるのですもの、たゞ彼女は単純に『預りました。』と云ふのを恐がつてゐるのです。預かつたのがどんなに止むを得ない事情の外にあるかと云ふ事を先づ裁判官に認めて貰つた後に、確かに預つたと承認したいのだと云ふ事は傍聴者の誰にも分る事なのを、当の裁判長が気づかれないと云ふ筈はないのです。だから唯だ一言
『お前が断つたと云ふこと、預るつもりはなかつたのは分るが無理におかれたにしろ何にしろかく結局預つた事にはなつたのだらう?』
 と云つたやうな調子に出られたら女は多分素直に返事したらうと私には思はれるのです。
 どうでせう? 私の此の観方はあんまり世間観ずでせうか。もつともこんな問ひはずゐぶん滑稽に聞こえるかもしれませんね。だつて本当に世間のことに馴れ通じた人間はそんな一寸した裁判なんかを問題にしたりなんぞしませんでせうからね。でも、私はあの裁判長の特別に人情深い態度と、その執拗な意地悪な訊問に何んだか一種の皮肉な矛盾を見つけ出したやうな気がしてその点に非常に興味を引かれたのです。
 その矛盾を、私は斯う云ふ風に観たんです。あの人情深い親切な態度はあのO判事の本当の人格のあらはれで、あの意地の悪い訊問振りは、無意識の間に染みこんだ職業的な一種の慣れがあゝ云ふ半面を形造つたのだと――。
 そして私は直ぐにまた、あゝ云ふ態度を採る事の出来る裁判官がどんなに少いかと云ふ事、そしてむしろ殆んど大方の裁判官が厳正な裁判官でありたいと願つて、たゞもうその職業的な慣れをもつた裁判官と云ふ型の中に出来るだけ完全にはひらうとしてゐる事を考へますと、私は本当に心が暗くなつて来るのでした。
 刑の量定――あの世界の人達は平気でそんな事を話し合つてゐるのです。私は他人の犯した罪の審判をすると云ふ事が、こんなに大任であり六ヶむずかしい事であるかと云ふ事などは一ぺんも考へて見た事のないやうな、寧ろさう云ふ地位を天賦のものか何かのやうに考へてたゞ無自覚に、職業的な慣れで多くの根深い因果をもつた犯罪者とかたづけて行く人の事を考へますと何んとも云へない気がするのです。
 もつとも、私はまた直ぐあとから、こんな事を一々気にしてゐてどうして安閑と今の世の中に生きて行けようと思つてそんな事は考へない事にしましたけれど、その時に私がさう云ふ事を真面目に考へましたのは事実なのです。
 いくら退屈でも、もうこんな手紙はいやになりましたか? 少し長くなりすぎましたかねえ。でも聞いて下さい。私の手紙はまだこれでほんのはじめの方がすんだばかしなのです。私が此の裁判に対して或る腹立たしさを感じたのは、もつと他の事なんです。大分長くはなりましたけれど、私はまだちつとも疲れないんです。もつと/\書きたいんです。あなただつて、『監獄へくれる手紙ならどんな下だらない事を書いてもいゝ。どんなに長い手紙でも長すぎると云ふ事はない。』と仰言おっしゃつた事の手前だけでも我慢して読んで下さらなければなりませんわ。

 私が此の裁判で一番腹立たしく思ひ、軽蔑もしたのは、被告人の唯一の庇護者であるべき弁護士の態度に就いてなのです。
 前にも書きましたやうに弁護士席には二人の弁護士が控へてゐました。あ、さうさう、まだ、裁判長のあの訊問の後を書きませんでしたね。兎に角被告の女は執拗な裁判長の訊問に、とうとう負けてしまひました。
『私が悪うございました。心得ちがひを致しました。』
 彼女はすゝり泣きながら小さな声で、再三返事を促された末にやつと斯う云つたのです。彼女はどうしても自分が主張したいに違ひない『自分の意志でなかつた。』と云ふ事は結局裁判官には認めて貰へないのだとあきらめて、全く服罪をする態度で裁判長の前に頭を下げたのです。それでも彼女が最後までどうしても『預つた』と云ふ事を云はないのを興味深く観てゐました。
『心得ちがひをしました、と云ふのは何んの事かね。何か悪い事でもしたのかね。』
 裁判長はその持ち続けて来た優しい態度と声をちつとも変へずにこんな意地の悪い反問をするのでした。私は少しづゝ裁判長に反感を持ちはじめて来たのでした。
『え? 何んだつて? 盗んで来た品物を預かつたから悪い? しかし始めから預るつもりでなく断つてゐたのなら何にも心得ちがひな事はないではないか。ぢやとにかく林谷蔵から数回に品物を預つたに相違ないね。』
 斯う云ふ風にして女はとう/\屈服させられてしまひました。そして後の一寸した訊問は直きに終りました。証人の申請と云つても重要な証人も何んにもありません。たゞ一人の弁護士がその女の良人おっとが在廷してゐるから呼び出していろいろ家庭の事情などを調べて欲しいと云ふ申請がありましたが勿論この申請は却下されました。そして私はその却下を当然だと思ひました。大した必要もないのに、被告の良人として多勢の傍聴者の前にさらすと云ふ事は、どう考へても馬鹿気切つてゐます。私はそのつまらない申請をした弁護士の顔をのぞき込んだ位でした。全くお話にもなりはしません。で、其の証人申請の件が片づくと型のやうに検事の論告です。
 何んにも彼も興味なくてたゞ退屈なだけだと云ふやうな顔をしながら其の時まで無関心極まる態度をしてゐた検事は、何だか、一生懸命に聞いてゐた私の記憶にすら残らないやうな何んの表情もない言葉でほんのお役目に被告の行為を非難して『四ヶ月の懲役、五十円の罰金』と云ふ求刑を気のない調子でしてドカリと腰を下ろして、もう一と辛抱だと云ふやうにまたヂロヂロ傍聴者の顔をながめはじめました。
 被告は、其の時にはもう泣くのを止めて、うつむき加減にぢつと立つてゐました。若しも此の法廷での此の女の申立てが事実ならば何んと云ふ無慈悲な求刑でせう。前にも此の女は矢張り同一人の盗んだものをかくして刑に処せられた事があるのにも拘らず、又もや同じ事をしたと検事は非難してゐました。果してさうだとしても、自分で預る意志のないものを無理に置いて行かれる、それでもとにかく預つたと云ふ事になつて四ヶ月の求刑に五十円と云ふ罰金を払はなければならないのです。若しも女がその林谷蔵と云ふ男に対して充分抵抗が出来るものならば彼女は断然そんな品物を置かないでせう。もしまた少し分別があれば、怪しいと思へば、その品物を届け出て自分を犯罪行為から救ふ事も出来るでせう。けれどもそれけの抵抗力がなく、思慮がなく、その上またそれをしてあとで、法に対しては自分の潔白を証拠立てる事が出来ても、法律の制裁よりは、もつと恐ろしい危険が直ぐにも迫まつて来ると云ふ予想をしない訳にはゆかないと云ふ事も有り得る事ではないでせうか。さう云ふ犯罪行為にまで彼女をうて行つたいろんな事情が、彼女に切ないものであればある程、彼女がどんな気持ちでこの求刑を受けてゐるであらうかと云ふ事を、私は考へずにはゐられませんでした。
 私がぢつと彼女の後姿を見てそんな事を考へてゐるうちに、彼女の後ろに控へてゐた右手の方にゐた弁護士がまづ立ち上りました。
『腰掛けてゐてよろしい。』
 裁判長は直ぐ彼女にさう云つて腰掛けさせました。此の弁護士の弁論は至極簡単明瞭なものでした。即ち彼女は第一の刑の執行を受けた時に充分後悔をしてゐる。それ故、此度の事には彼女は最初から一生懸命に断らうとした。彼女には再び斯う云ふ犯罪を犯す気は毛頭なかつたのだ。それにも拘はらず再び斯うして法廷に立たねばならなくなつたのは全く彼女が弱くて、きつぱりと断りきれなかつたが為である。そして又、どうして彼に向つて強く出られなかつたか、と云ふ事になれば、彼女は、十年前に其の男の為めに、良人に対する貞操を破つてゐる。それが林と云ふ男に対しても、また良人に対しても唯一の弱点になつてゐる。男は彼女の此の弱点をもつて威圧的に品物を置いて行つたものに違ひないので、彼女に此の犯罪をなす意志のなかつたのは明かである。と云つたやうな論鋒でした。さうして其の弁護士は斯う結びました。
『裁判長、被告がどんな事情のもとに此の罪を犯したかと云ふ事は私の下手な弁護にまたずとも、直接被告をお調べになつた裁判長が先刻御了解の事と思ひます。全く被告の犯罪行為は其処に何等の自発的な意志を伴つてはゐないのであります。否被告の意志はあくまでこれを拒む事にあつたのであります。
 然し、被告がその意志をあくまで通すことが出来なかつたが為めに、其処に犯罪が構成されたと云ふ事になりましても、その動機は唯だ憐れむべきものでこそあれ、決してくむべきものではないと私は考へるのであります。検事の求刑は、犯罪そのものゝみに対しては至極もっともな事に存じますが、此の刑の量定に関して、私は是非裁判長の御考慮をわずらはして、大いに情状の酌量を願ひたいと思ふ事があるので御座います。
 それは、被告の家庭の事情で御座います。既に、各方面からのお調べで、裁判長も御承知になつてゐることゝ存じますが、被告は非常に貧しい暮しをしてゐる屑屋の家内で御座います。此の諸物価の高い時にあつて、彼等が一日がゝりで真黒になつて働きました処で、自分達だけの口を養つて行くだけでもともすれば六ヶしい位で御座いますのに、此の被告には、只今抱いて居ります子供の他にまだ五人の子供がゐるので御座います。で今被告が刑を受けると云ふ事になりました時に、此の家庭がどんな悲惨な事になるかと云ふ事は、誰にも充分に考へ得られる事であります。大勢の子供を抱へて被告の良人は、どうするでありませうか。商売に出掛ける事も出来ない。と云つて出なければ直ぐに其の日からの親子の糊口に困ると云ふ、誠に目もあてられないやうな有様になるのです。さうしてこんな状態が、被告や、その良人、または子供達にどのやうな影響を与へる事になりませうか、私はその遠い結果を考へますと、寒心せずにはゐられないのであります。
 裁判長、法の犯すべからざるものであることはもとより私も存じて居ります。しかし、斯うした小さな犯罪の為めに後日どのやうな結果があらうと私は考へます。何卒裁判長にも充分此の点に就いて御考慮の上、もつとも当を得た御裁決を願ひたいと存じます。即ち被告の為めに私の希望を述べさして頂くならば、執行猶予が最も当を得たものであらうと思はれます。』
 まあ、これならば普通の要領を得た弁論なのでせうね。実際にまた事件は極めて簡単なのですし、これ以上に云ふ事も一寸ないのでせうからねえ。で、私は、もう一人の弁護士は一体何を云ふのだらうかと思つてその横顔を見てゐました。そして何を云ふのだらうと云ふ期待のうちには、此の弁論が殆んど重要な云ふべき事を云つたのに対して、他の人に同一の事に就いて云ふべきやうな余地が残されてあるか、と云ふ事と、もう一つ最も私が前の弁論に対して抱いた不満が彼の弁護士にあつてはどうであらうか、と云ふ事でした。
 その私の不満、といふのは、その弁論に対してぢやないんです。其の態度に就いてなんです。最初思ひかけぬ人情深い、云ひかへれば人間の弱点に対しての或る憐愍れんびんと同情とを表した判事の自然な態度を見る事の出来た私は、此の弁護士が被告の為めに、同情すべきその生活状態や周囲の事情を説きながら、そしてそれを持つて裁判長の道徳的感情に訴へようと試みながら、かえって自身は何んの熱情も伴はない冷淡な態度を、何かしら物足りない気持ちで聞いてゐました。そして、更に被告を仲に相対した裁判官と弁護士と云ふ職業的な位置の対峙や、此の二つの職業に就いての世間の多くの人のもつ普遍的な概念などに思ひ及んでゆきますと、私は此の判事と弁護士の二人の、職業的の位置とその人格にある皮肉な対照を見出して嫌やな気持がし出すのでした。で、私はいろんな意味で、あともう一人の弁護士の弁論を待つたのです。

 然し、私の待つたもう一人の弁護士――彼は肥つた五十がらみの男で、その声、その体つき、すべてがどちらかと云へば普通の意味での紳士らしい品位からは遠い男のやうに見受けられました。実はもう彼が起立した時に私は彼に失望したのかもしれません。――は、彼がこれから続ける長い弁論のその最初の一センテンスをさへ話し終らない前に、その勿体もったいぶつた、そのくせに芝居がゝりな態度が野卑な調子を帯びた声と一しよに、私に彼がどんな低級な頭の持主であるかと云ふ事を思はせました。
『――で、私の意見も前弁護人の云はれたと同じでして、別にその点については云ふ事は御座いませんが、たゞ一つ、その、此の被告がですな、犯罪の意志がなかつたにも拘はらず、何故結局は犯罪行為をしなければならなくなつたかと云ふ点について、大いに裁判長にお考へを願はねばならぬと思ふので御座います。
 裁判長、よくお考へ下さい、被告は弱い女です。警察の調べなんかで見ますと、随分図々しい女のやうにも書いてありますけれど、被告は決してそんなに図々しい強情つぱりではないやうに思ひます。もしどうかとお思ひになりますなら、此処に、此の私の後ろに此の女の亭主が来てゐます。此の者をお呼び出しになつて、日頃の被告の行状なり性質なりお尋ねになれば直ぐ分る事です――』
 彼はわざ/\その大きな体をねぢ向けて、明かに一人のうつむいた男を指して云ひました。裁判長はチラとその男を見ましたがしかし直ぐに被告の上に視線をおきました。そして更に明かに不快な表情を示して弁護士の方を向きました。多勢の傍聴者もまた一せいにその弁護士の指した男の方を見ました。後の方にゐた人達の多くはのび上るやうにして前を見てゐました。
『かりに、――』
 弁護士は直ぐに続けました。
『かりに少々図々しい女と致しましても矢張り女は女です。一方の男は、泥棒をしたりその他悪い事を悪いと思はず平気でやる奴です、仕様のない奴なのですから、女の方はかなふ筈はありません。私達はハツキリ想像する事が出来ます。此の女の家――此の女の家と云ふのは、入谷いりやの汚い露路の中にある屑屋の家なんです。その汚い家に、此の女がつはりで寝てゐます。其処に此の林谷蔵なる奴が何年ぶりかでやつて来ます。「おい久しぶりだつたな――」と云ふやうな事を云つてはひつて来ます。ああ、悪い奴がはひつて来た、と此の女が思ひましても、「お前さんの為めには迷惑した、とつとゝ出て行つておくれ」とは此の女には云へやしません。普通のものなら、十年前に亭主のある女をもてあそんでおいて、その上に四ヶ月も懲役にぶち込むやうな迷惑をかけておいて、それで久しぶりだ、でノコ/\はいつてこられるもんぢやありません。それを何んとも思はずに、亭主の留守にズウ/\しくはひつて来るやうな奴です、気に入らん事を云へば何を仕出かすか、しれたもんぢやありません。そいつが品物を出して、「預つてくれ」と云ふ、「もう先に一度お前さんのものを預つて迷惑した事があるからお断りする」と云つても、たつて置かれゝば、此の女にはそれを押し返していやだと云ふ事は出来ません。そのうちに男は帰つてしまひます、後どうしていゝか分りやしません。何しろ、泥棒を商売にしてゐる奴ですから自分の住居なんか云やしませんから送り返す事も出来ない。と云つて亭主と相談して交番へ届けるなり何んなりする事も出来ません。何故かと云ひますと、十年前にその男と通じてゐる事が既に此の前の事件の時に亭主にわかつてゐます。しかしまあその後無関係になつて今日まで来たのに、またその男が来て斯う/\と云ふ事は女の口から亭主に向つては云へないのが本当でありませう。
 どうしようかと思ひ迷つてゐる、其処にまた二度三度とやつて来ては物を置いて行く。一ぺん預かつて後、預からないと云ふ訳にはゆかないと云ふやうな順序で、とう/\林がつかまつて分るまでそのまゝになつてゐたと云ふ事になるんです。此の事はもう、誰が考へて見ても同じ事だらうと思ふのです。』
 彼は反身そりみになつていやに勿体ぶつた態度をしながらも、その態度とはまるで違つた斯う云つた、うすつぺらな調子でベラベラとまくしたてるのでした。
[『解放』第二巻第二号・一九二〇年二月号]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
   2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「解放 第二巻第二号」
   1920(大正9)年2月1日
初出:「解放 第二巻第二号」
   1920(大正9)年2月1日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月11日作成
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