深い悩みが、其の夜も、とし子を強く捉へてゐた。予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行をふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。払い退けやうと努める程いろ/\不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面をすべつてゆくにすぎなかつた。
 レツスンが済むと、何時ものやうに熱いお茶が机の上に運ばれた。子供はとし子の膝の上に他愛なく眠つてゐた。快活なY氏夫妻の笑顔も其の夜のとし子には、何の明るさも感じさせなかつた。小さなストーヴにチラ/\燃えてゐる石炭のほのおをみつめながら、かたばかりの微笑を続けてゐる彼女は、其のとき惨めな自分に対する深い憐憫の心が、熱い涙となつて、今にも溢れ出さうなのをぢつと押へてゐたのだつた。
 外は何時か雪になつてゐた。通りの家々はもう何処も戸を閉めて何処からも家の中のは洩れて来なかつた。街燈だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光りを投げてゐた。無理々々に停留所まで送つてくれたY氏と、言葉少なに話しながら電車を待つてゐる間も、とし子の眼には涙が一杯たまつてゐた。矢張りあの家に帰つてゆかなければならないと思ふと情なかつた。もう此のまゝに帰るまいかとさへ思つて来た家に、どうしてもトボ/\この夜更けに帰つてゆかなければならない。
『こんな時に、親の家でも近かつたら――』親の家――それもとし子には思ひ出せば苦しい事ばつかりだつた。三百里も西の方にゐる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過して来た。それも彼女自らが叛いて、離れて来たのであつた。真つ直ぐに、自分を立て通したいばかりに、親達の困惑も怒りも歎きも、すべてを知りつくしてゐながら、強情にそれを押し退けて再度の家出をして後は、お互ひに一片の書信も交はさなかつた。そして全くの他人の中での生活に、とし子は迫害され艱難に取りまかれた。けれど、すべては最初から覚悟してゐた事であつた。彼女は本当に血が滲むほど唇を噛みしめても、その艱難には耐へなければならないと思つた。その苦しい生活がもう二年続いた。そして、此の頃とし子は自分の生活を省みる度びに、其処に余りに多くの不覚な違算を発見しなければならなかつた。その上になお思ひがけない他人の、何の容赦もない利己心の餌である事を忍ばねばならぬ奇怪な、種々な他人との『関係』が、此の頃よく肉親と云ふ無遠慮な『関係』の人々を思ひ起さすのであつた。けれども、そうした境界におしつけられて思ひ出すことも、とし子には辛らい事の一つであつた。それでも、今かうして、本当に嫌やでたまらないの他人の冷たい家の中に、かたくなな心冷たい気持で帰つて行かねばならぬ情なさに迫まらるれば、矢張り深夜であらうと何であらうと遠慮なく叩き起せる家の一軒位は欲しかつた。
 漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。電車の内はいてゐた。皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。とし子は安心してまた向き直つた。そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附よつやみつけに近く来てゐた。
 四ツ谷見附で乗りかへると、とし子は再び不快な考へから遠ざからうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。けれど水道橋まで来て、其処で一層はげしくなつた吹雪の中に立つてゐる間に、また取りとめもなく拡がつてゆく考への中に引きづり込まれてゐた。刺すやうな風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。足元には、音もなく、後から後からと見る間に降り積んで行く。
『何処かへこのまゝ行つてしまひたい!』
 白い柔かな地面に射すうつすらとした光りをぢつと見つめながら、れてゐるのか、落ちついてゐるのか、自分ながら解らない気持で考へてゐるのだつた。
『何処へでも、何処でもいゝ。』
 此処にかうして夜中たつてゐても、今夜出がけに苦しめられたやうな家には、帰つて行きたくない。腹の底からとし子はさう思ふのだつた。けれど、背中に何も知らずに眠つてゐる子供を思ひ出すと、とし子の眼にはひとりでに、熱い涙が滲んで来た。
『自分だけなら、他人の軒の下に震へたつていゝ。けれど――』
 何にも知らない子供には、たゞ温かい寝床がなくてはならない。窮屈な背中からおろして、早くのびのびと温かな床にねかしてやりたい。そして可愛想な母親が子供に与へるたつた一つの寝床は、矢張りあの家の中にしかない。とし子の眼からは熱い涙が溢れ出した。
 漸くに待つてゐた電車が来た。ふりしきる雪の中を、傘を畳んで悄々しほしほと足駄の雪をおとして電車の中にはいつた。涙ぐんだかおをふせて、はいつて来た唯だ一人の、子を背負つたとし子の姿に皆の眼が一時にそゝがれた。けれど座席は半ば以上すいてゐて、矢張り深夜の電車らしくひつそりしてゐた。
 春日町かすがちょうでまた吹雪の中に取り残された。長い砲兵工廠の塀の一角にそふておよそ二十分も立つてゐる間には、体のしんそこから冷えてしまつた。

 因習的な家庭の主婦たるべく強ひられる多くの試練に対する辛らい忍耐、一人の子供に強奪される終日の勤労、それはとし子にとつては全く思ひがけない違算であつた。
 たゞひたすらに、忠実な自己捧持者でのみあるべき彼女は何時の間にか、不用意のうちに、他人の家に深く閉ぢ込められてしまつてゐた。その家のあらゆる習慣と、情実を、肯定しなければならなかつた。そうしてまたその上に不用意な愛によつて子供と云ふ重荷を負はねばならなかつた。若い、無智な、これから延びてゆかなければならない、とし子にとつて、この二つの重荷は、彼女の持つ、すべての個性の芽を、しつぶして仕舞ふ性質のものであつた。彼女自身もそれは可なりはつきり意識してゐた。けれど、もし彼女が本当に強くその意識を何時も把持し、それに悩まされてゐれば、彼女はどうしても、その重荷から逃れなければならなかつた。しかし、彼女はその意識と共に、また、その重荷から逃がれる事は出来ないものだと云ふ、あきらめをも持つてゐた。その重荷から逃げる事は、卑怯な一つの罪悪だとさへ思つてゐた。『あきらめ』と云ふ事は忠実な自己捧持者にとつては一つの罪悪だと不断主張してゐるとし子も、自分の実生活の上に来た矛盾の前には『あきらめ』で片附けるより他はなかつた。悉てを、『運命』と云ふ最高意志にまかせるより他はなかつた。
 しかし、とし子は自分のその『あきらめ』を決して『あきらめ』だとは思つてゐなかつた。それには、彼女自身では、それ相応な理屈をつけてゐた。彼女は、どんな難儀な重荷を負はされようとも、その為めに決して自己を粗末に扱ふと云ふやうな事はしないと云ふ自信、それから、その重荷も決して、他から強ひられた重荷ではなく、どうしても自分の意志から云つても背負はなければならないものであると云ふことがその理由であつた。殊に、子供に対する重荷は殆んど重荷とは感じない程だつた。
 唯だわづかに呼吸をし、食物を要求する事等の生きてゐると云ふのみの状態から、人間らしい智能がだん/\に目覚めてくるのや、一日一日とめざましく育つてゆく体を注意してゐると、何とも云へない無限な愛が湧き上つて来るのであつた。この小さい者の為めには何物も惜しまないと云ふ感激が不断に繰り返されるのであつた。彼女の子供に対して与へるものは無制限に拡げられて行つた。
 しかし、それでも猶、彼女は決して彼女自身の生活を忘れはしなかつた。彼女はどんな重荷を背負はされても、自己を忘却したり、見棄てたりするやうな事はしなかつた。それはまた、彼女自身を省みる都度つど、その云ひ訳けに役立つ所の、唯一のプライドでもあつた。
 他人に強ひられる重荷を背負つて他人の満足を買ひ、そして忠実な自己捧持者たらうとする欲ばつた考へが、もし他人の事であつたら、とし子は真つ先に立つてゞも、嘲笑しかねなかつた。しかし、今は彼女自身がその欲ばつた考へに夢中だつた。
 彼女の第一の重荷は、男の家族への奉仕であつた。その母親、弟妹、その連れ合ひ、さう云ふ人との毎日の交渉に、身も心も細つて行つた。それに彼女は普通の場合より更にその人達に対して引け目を感ずるいろいろな事情を持つてゐた。
 とし子は、家族の人達の考へによれば、かれ等の生活の支持者である男を失職せしめた。さうして彼等から生活の安定を奪つた。かれ等は、口に出して責めるやうな事は、なかつたけれど、それけにとし子は、もつと意地の悪い、いやみのあてこすりでいぢめられた。
 実際に、男の失職は、とし子の事がもとになつてゐないではなかつた。しかし、そんな事よりも彼はもうとうから、その仕事に倦きてゐたのだつた。彼は機会を見て、教職などは退いて、他の仕事に転じたかつたのであつた。それは家族のものたちも知つてゐた。しかし、思つた程、仕事は直ぐに見附からなかつた。そして必然に窮迫が襲ふた。とし子にとつては辛らい事の数々が日々にせまつて来た。
 若い時から家族の為めに働きつゞけて来た男は、体の自由だけでも、どんなにか呑気のんきだつた。少々の窮迫位は何んでもなかつた。彼は一切の事を、何とかしなくては済まぬ位置におかれたとし子にまかして、いゝ加減に怠惰な日を送つてゐた。家族の者にとつては、それは大変な損失だつたことは云ふまでもない。彼等はしきりに彼に就職を迫つた。とし子はさうした場合何時でも辛らい板ばさみになつた。彼女は男をかばふ代りに、家族のものに対しては、彼の代りになつて重荷を負はねばならなかつた。
 一つの遠慮が、とし子の悉ての考へを内輪に内輪にと押へた。家の中の情実や習慣を何処までも通さうとする母親、気の強い妹、それ等の人達と、出来るだけ不快ないさかひをせずにすまさうとするとし子の努力は、大抵なものではなかつた。母親は、年老としとつた人としては、まだ物わかりのいゝ穏やかな人であつた。しかしそれでも家の中の情実に対しては多くの無駄を固持してゐた。窮迫がはげしくなるといろ/\な愚痴がとし子の前に、一つ一つならべられた。妹は本当に勝気な無遠慮な女であつた。彼女に会つてはとし子は、とても勝身はなかつた。理屈などはまるで通らなかつた。どうかすると、母親さへも彼女にはめつけられて困ることがあつた。とし子はそれ等の人々の機嫌を気にしながら、どんな侮辱をも無理な皮肉をも黙つて忍ぶやうに、何時の間にか馴らされかけて来た。
 しかし、彼女は決して自身から他へ目をそらすやうな事はなかつた。彼女はその自身の忍従に対して染々しみじみとひとりで涙ぐみながら、その気持をいとほしんでゐることもあり、また或る時は、自分のその意久地いくじなしに焦れてゐることもあつた。しかし、大抵の場合は、反抗心にみち/\た、我意の強い自分が、さうした家族人達の中にあつて、よく忍んでゐる事に対して、淡い誇りを持つてゐた。それにはまた彼女が家の外の仕事としてやつてゐる雑誌の同人を中心として集まる女達に対する世間の批難が其頃随分激しかつた。そして、その批難の大部分は下らない、外部に現れた行為による事が多かつた。しかもその批難の的となる、多くの突飛な行為は、大抵彼女等のあずかり知らぬ事のみであつた。とし子は、それ等の種々な批難を聞くたびに、傍の人達に笑はれる程、むきになつて憤慨した。そしてさう云ふ世間に対する憤慨が、此処にも及ぼして、彼女は強ひられた忍従を、自ら進んで努めるのだと考へて、それに誇りをもつてゐた。
 けれど、それを折にふれては馬鹿らしく、くだらない事に考へる事が、度々あつた。殊に、一歩後へ引けばその一歩がすぐに、対手あいてのつけ目になつて、ずん/\無遠慮にふみ込んで来られるのには、どうにも我慢のならない事があつた。さう云ふ時に、彼女の苦痛を知らないではない男の、何とか一言の口出しで、どうにか喰ひとめる事が出来るものを、彼はあくまでさう云ふ事には素知らぬ顔をしつゞけた。とし子には、彼の気持はわかつてゐた。どつちに口添へをしてもうるさい、黙つてなるまゝにまかすがいゝと云ふ風に、彼は何時でも考へてゐるらしかつた。けれど、それにしても、これから、たゞ一生懸命に勉強して、自分の持つてゐるものゝ芽をのばさうと心がけてゐるとし子に理解を持つてゐる彼なら、とし子の悉てをうち砕いても仕舞ひさうな、重荷の上に、更に多くの譲歩を強ひられる場合、もう少し位は、かばつてもくれさうなものと云ふ不平は、よくとし子の心に起つた。でも彼女はすぐとその気持を引つこめた。彼女はたつた一度だけ、その不平を彼の前に出した事があつた。そのとき、彼は一言のもとにはねつけた。『自分の事は自分で何とでも始末するがいゝ。』そして、とし子には、それで充分だつた。さうだ、どんな事があつても、他人をたよりにするものぢやない。自分で困る事は自分で始末するより他はない。とし子は、反射的にさう思ひ、またそれが何処までも真実な事だと信じた。それでも、一方ではまた、さう云ふ理屈を楯に、矢張り煩さい事から成るべく遠ざからうとする、男の利己的な心が何かしら不快な影を、とし子の心に投げるのであつた。とし子にはその影が何であるかは、ハツキリとは解らなかつた。しかし、彼女は他人を頼つてはならぬといふ男の言葉が本当だと思ひながら、真に快よくそれを受け容れる事は出来なかつた。何処かにそれをそのまゝ受け容れることを渋る気持があつた。そしてその気持を納得させる努力が、彼女に何となく、淡いたよりない悲しみを抱かせた。そしてその気持の下から二度と再び彼にそんな事は云ふまいと云ふ反抗心が起つた。

『こんな生活を何時までもしてゐるのは馬鹿々々しい。』
 彼女はだん/\さう思ふ日が多くなつた。重り合つて迫つて来るいろんな家庭内の迫害を、甘受してゐる事の恐ろしい不利益を考へては、うかして立ち直つて、自分を救ひ出したいと思つて努力した。けれど、それが、どうしても、少々の努力では追い付くことが出来ないと気がついてからは、彼女はもうその家庭から逃げ出すより他はないと思つた。
 けれど、そんな気持が根ざしかけた頃には、彼女は母親になつた。一人の子供の出生によつて其処に小康が保たれた。子供は母親の限りない愛の対象となつた。そしてまた、とし子の愛の対象でもあつた。暗い家の中はその小さいものゝ出現によつて、急に賑やかに、明るくなつた。皆んなが、その一人の子供にのみ注意と興味を持つて行つた。不快な雲が一とづ晴れた。
 みんなは歓びのうちに日を暮らした。殊にとし子は、この小さな者によつて家の中が明るくなつた事に、どの位感謝をしたかしれなかつた。けれど、それはとし子を更らに大きな苦悶に導く前提だとは彼女自身すら、まるで気がつかなかつた。子供は、とし子と男との関係を束縛した上に、他の家族の人達との間を一層面倒にした。
 日を経るまゝに子供は育つて行つた。そして子供に就いてまるで無経験なとし子は、凡てを母親の指図どほりにするより他はなかつた。たまに、いくらか彼女が、多少育児に関して知つてゐることを持ち出しても、『経験』を楯てに、一々おし退けられてしまつた。多くの無駄や不自由を少しでも除かうとして、母親の流義とは違つたことをしやうものなら、母親はむきになつて怒つた。母親は、とし子が、子供の為めにかける手数や時間の無駄を、少しでも除かうとするのを、子供に対する不親切な面倒くさがりだと解釈した。さうして、反抗的に、子供を大切にかけてかばひたてた。その結果は、みんな容易ならぬとし子の骨折りになるのだつた。子供は終日、大人達の手から手、膝から膝と渡された。家中の者が子供にかゝり切りになつてゐなければならなかつた。殊にとし子は、一時間も子供を離れてゐる訳にはゆかなかつた。
 更にまた、その上のとし子の苦しみは、子供が育つに連れて、その一枚のきものにも、出来る丈けの派手を見せたい母親の止みがたい見栄から、一層経済上の窮迫に対する不平が昂じて来た事であつた。しかも男はもう此の頃は、自ら職業に就かうとする意志は、まるでないのだとしか、とし子には思へなかつた。
『何んとか、せめて自分だけでも積極的に働く方法を講じなければならない。』
 とし子はさう思つては、あれか、これかと働けさうな仕事を物色した。けれど、母親は子供を抱へたものが、外で仕事をする事には一切不賛成であつた。とし子がさうした覚悟を見せる程母親は息子を責めたてた。そして子供の世話については、八ヶやかましく指図するだけで、手を貸すのはほんの、お守りの役に過ぎなかつた。とし子が止むを得ない用事ででも、外へ出たときの半日の留守は、母親にとつては大変な重荷であつた。
 だん/\に、とし子は、子供の為めに、自分を束縛されて来たのに気がついて来た。子供は可愛くてたまらなかつた。けれど、一日中、また一晩中、子供にばかり煩はされて、時間の余裕と云ふものが少しもないのには、苦痛を感じない訳にゆかなかつた。どうかして、せめて読書の時間だけでも出したいと焦つた。このまゝにゆけば、やがて子供を一人育てる為めに、自分と云ふものを、殺しつくして仕舞はなければならないやうなはめになるかもしれない。そんな事があつては大変だ。すべての苦しみが、みんな自分を活かしたい為めなのだもの、それを殺してどうならう。さう思つては彼女は、しきりに始めから志した読書や、語学の素養を心がけた。けれど彼女が子供を寝かしつける間や、授乳の間を見ては、また折々は台所で煮物の片手間にまで、書物を開いてゐるのを見ると、母親はきまつて、彼女が何か道楽なまねでもしてゐるやうに苦い顔をした。
『私なんか子供を育てる時分には、御飯をたべる間だつて落ちついてゐたことはない。』
 などゝ口ぐせのやうに云つた。母親は、彼女がたゞ間断なく、子供の為に働き、家の事で働いて、疲れゝば機嫌がよかつた。実際また、読書をするひまに、他の仕事をする気があれば、する事は、母親の云ふとほりに山ほどあつた。
 けれど、とし子には家の中の事を調へて子供の世話でもしてゐれば、それで女の役目は済むと云ふ母親達とは、違つた外の世界を持つてゐた。その役目を果すことを決して厭やだとは思はなかつたけれど、そしてまたそれにも相応の興味をもつて果すことは出来たけれど、そればかりでお仕舞ひにしてしまふ事は出来なかつた。
 一歩家の外に踏み出すと、彼女は、自分のみすぼらしさ、意久地なさを心から痛感した。うかうかしてはゐられないと云ふ気がしきりにするのであつた。友達のHもNもSもそれからYも、皆んなが熱心に勉強してゐる。そして、一番若い、一番無智無能な自分が何にも出来ずに家の中でぐず/\してゐるのだ、と思ふと、何とも云へない情なさ腑甲斐ふがいなさを感ずるのであつた。何の煩ひもなく自由に勉強してゐる人の上が羨ましかつた。束縛の多い自分の生活が呪はしかつた。と云つて、今更逃れる事も出来ないのを何うすればいゝか? 彼女は本当に、それを考へると、たまらなかつた。
 けれど、かく彼女は、家族の人達からは批難されやうと、少々位な厭や味を聞かされやうと、自分の勉強だけは止めまいと決心した。たとへ、まとまつた勉強らしい勉強は出来なくとも、せめて、普通の文章位いは読みこなせる丈けの語学の力だけでも養つておきたいと思つた。

 その頃とし子は、友達のHから雑誌の仕事を全部ひきついでゐた。彼女がその雑誌を引きつぐ事になつたのも、Hからその仕事を持つてゐては勉強が出来ないから止めると云ふ決心を話されて、折角持ち続けて来たものを止めると云ふ事が惜しいのと、他の一方にはこの仕事を利用して、自分の勉強の時間を、仕事の時間から出さうと云ふ魂胆もひそんでゐた。そして、その雑誌の同人の一人であるY夫人の処を訪ねたとき、其処でY氏が夫人の為めに、いま大きな社会学の書物を読む計画があるから勉強する気ならと誘はれて、毎週二回くらいづゝ其処に通ふ事になつたのであつた。Y氏は、その書物を手に入れる事がむづかしい為めに、毎週読む筈の幾ページかの部分をわざ/\タイプライタアで写さして送つて寄こした。とし子は、その親切を、本当に、心から感謝しながら、少しでも、さうした勉強の機会を外づさないやうに心懸けてゐた。
 けれど、とし子が家の外に仕事を持つことになつたのは、家族の人には、大変な迷惑でも振りかゝつたやうに感ぜられた。この頃になつて、子供は前より手がかゝる位であつたけれど、それには、W夫婦と云ふ人達が親切に大抵毎日来ては面倒を見てくれた。汚れたものゝ洗濯、掃除、さう云ふことにまで働いてくれた。妹などには別に何一つ重い負担がふえる訳でもなかつた。それでも此度は、さう云ふ人達に、よけいな手伝ひをさせて、毎日のやうに出入させる事に対して、いろ/\な批難が矢はり、とし子の仕事の上に降りかゝつて来た。ことに書物をよみに他所よそまで出かけてゆくなどゝ、家持ち子持ちのする事ではないと云ふ激しい反感がしきりに起された。とし子はもう、そんな事に対しては一切無関心な態度でゐるより他に仕方はないと思つた。

 其の夜のとし子の悩みは、矢張りそれに関連したことだつた。母親は例のとほりに、子供を持つた女が、始終出歩くことの不可をしきりに云つた。そしてだん/\に、家の中のきまりのつかないことをならべたてゝゐるうちに、とうとう総てが男の怠惰が原因だと云ふ処まで押して行つた。母親に、露骨に云はせれば、彼が遊んでゐる為めに、主人としての男の権威が踏みつけにされるのだと云ふのであつた。そして、男が踏みつけられてゐる為めに、自分までが、とし子自身がさうした我まゝをしたい為めに、総ての家の外の事までを自分で背負つてゐるのだと云ふ事にもなつた。ふたりは其の夜さん/″\に母親の為めに愚痴を云はれ、口ぎたなく罵られた。そして母親の云ふ処は、せんじつめれば、彼女を家庭の内にとぢ込めて、彼女の仕事をうちの中だけの事にして、自分の手ごろに合ふやうな嫁にするやうに、それは早く何かの職業につくやうにと云ふ息子への注文であつた。けれども、ふだん思つてゐること、不平に耐えないことを、何も彼も、順序なしに、一度に出して仕舞はうとするので、滅茶々々なものになつてしまつた。
 とし子はそれを黙つて聞いてゐた。彼女は母親の気持には理解も同情も出来た。如何に口汚く罵られても、いやみを云はれても、別に腹立たしい気は起らなかつた。しかし、どうしてもこの家族の人達と一緒に生活することは我慢がならないと云ふ事だけは不断よりも一層強く感じられた。例へ男に何かの収入の道がついたとしても、彼女は決して母親のねがふやうな、嫁になりおほせる事が出来ない事を思ふ程、さうして、母親が必然に自分の思ふ通りになるものと極めてゐる気持を考へれば考へる程、これから先きの長い双方の暗闘が、とし子の心を暗くするのであつた。
 とし子は坐つてゐればゐるで、何時までも、一つ事を繰り返されるのがいやなのと、丁度Y氏の処にゆく晩なので、子供のことを頼むのも面倒と思つて、子供を背負ふて家を出たのであつた。途に母親の言葉を思ひ出すと今度はその無反省な、虫のいゝ、または悪感にみちた母親の云ひ分に対して、先刻その前でしたやうな冷静な気持での同情などは出来なかつた。不断忍んでゐる多くの不快が、一時に雲のやうに簇々むらむらと頭をもたげ出して、その一つが、彼女のそれに対する憎悪をそゝるやうに、明瞭に思ひ出させるのであつた。そして、自制を失つた感情は一斉にその記憶によびさまされて躍り上つて来るのであつた。さうなると、とし子はもう家族の人々に対して、何とも云へない憎悪を感ずるのであつた。どうしていゝか分らないやうな、ふだん抑へてゐるすべての感情の為めに、一時にさいなまれた。
 しかし、やがて、その感情が引いてしまふと、後はどうする事も出来ない事実に対する深い悩みと、それに対する底しれぬ哀しみが残るだけであつた。
 男と別れさへすれば、それ等との関係は片づいて仕舞ふ。本当に、何の雑作もなく片附いてしまふ。それは分り切つてゐる。けれど今、あの男と別れる事が出来やうか? あの男に対しては愛もある、尊敬も持つてゐる。そして、今あの家を自分が出れば困るのは男ばかりだ。自分が、少々不実な女と見られる位は仕方がない。けれど、あの男を、自分のやうなものにだまされる、馬鹿な、ウスノロな男だとあの母親の口から罵らせる事は辛らい。けれど、それもまんざら忍べない事はない。前にはさう決心した事もあつた。けれど今は子供がゐる。子供がゐる。これをどうすればいゝのだらう? あゝ、矢張り、子供の為に出来る丈けの事は忍ばなければならないのだらうか? 前には、意久地のない事だと思ひもし、云ひもした、その子供の為めと云ふ口実を、自分も口にせねばならないのだらうか? 仕方がない、仕方がない。とし子は一生懸命に目をつむらうとした。その下から直ぐ、深い悔恨が湧き上る。不用意に、かうした家庭生活に引きづり込まれた自分の不覚が恨まれる。思ふまいとしても、自分の若さが惜しまれる。自由な自分ひとりの意志で自分をかしたいばかりに、何時も争ひを続けながら、直ぐまた次のものに囚はれる自分の腑甲斐なさがはがゆい。どうすればいゝ自分なのだらう? あゝ! 本当に、何物も顧慮せずに活きたい。たゞそれ丈けの望みが何故に果せないのだらう?
 多くの気まづさと、冷たい反目が待つてゐる家! もう帰るまいか、逃げて仕舞はうかと思つた家! 其処に向つてかへりながら、とし子は、ぢつと思ひふけつてゐたのであつた。

 頭の上には、真青な木の葉が茂り合つて、真夏の焼けるやうな太陽の光りを遮ぎつてゐた。三四間前の草原には、丈の低い樫の若木や栗の木が生えてゐるばかりで、日蔭げをつくる程の木さへなく、他よりずつと高くのびた草の、深々とした真青な茂みの上を遠慮なく熱い陽が照つて、草の葉がそよぐ度びによく光る。とし子は、森の奥から吹いて来る冷たい風を後ろに受けながら、坐つて、草の葉の照りをうつむいた額ぎわに受けながら、ぢつと書物の上に目を伏せてゐた。それは、
『伝道は、或る人の想像するやうに、「商売」ではない。何故なら、何人でも奴隷の勤勉を以て働らき、乞食の名誉を以て死ぬかも知れないやうな「商売」には従事しないだらう。かくの如き職業に従事する人々の動機は、ありふれた商売とは違つてゐなければならない。誇示よりは深く――利害よりは強く――。』
 と云ふ言葉を冒頭においた、エンマ・ゴルドマンの伝記であつた。とし子は、その筆者の調子のいゝ然し熱情のこもつた文章にひかれて熱心によみ進んでゆく。それは主に、一女工として移住して来た若いエンマ・ゴルドマンが、知名な無政府主義者としてアメリカの公生活中に異彩を放つやうになつた今日までの、多くの障礙しょうがいと困難に戦つた目ざましい彼女の半生が描いてあつた。
 其処には、あらゆる権力の不正な圧迫が如何に彼女を殺さうとしたかゞ、また、理解を遮ぎられた彼女の仲間でさへもが如何に彼女の霊魂をかきむしつたかゞ明白に描かれてあつた。そして、彼女はそれ等の凡てに打ち克ち、知名の伝道者として、何処までもその不屈の精神と絶倫の精力と多くの人の持つことの出来ない勇気をもつて、絶えず困難な彼女の仕事を続けてゐるのだ。とし子は、その彼女の如何なる困難に出遇つても屈する事を知らぬ強い精神に、その困難に出遇ふ程燃えさかる真実に対する愛の情熱に心を引かれるのであつた。同時にまた、彼女を迫害する諸権力の陋劣な手段もにくまずにはゐられなかつた。更に、深い理解と友情の必要な場合程、俗衆と同じ見地にまで成り下る暗愚な仲間に対する侮蔑を禁ずる事が出来なかつた。
『革命思想の代表者は二つの火の間に立つ。一方に於いて社会状態から生ずる悉ゆる行動に対して彼に責を負はす現在権力の迫害。他方に於ては、狭い見地から屡々しばしば彼のあらゆる活動を判断する、彼自身のもとにある同主義者の理解の欠乏。斯くして主動者は、屡々彼を囲繞する群集の中に、まつたく孤立する。彼の最も親しい友人すら、如何に彼が孤独寂寞を感じてゐるかを理解するものは稀れだ。それが公衆の眼に顕著な人の悲劇である。』
 筆者も彼女の、半生の苦悩を描く前にまづさう書いてゐる。とし子は、さうした一句々々にも強い同感を強ひられるのであつた。
 彼女は一八六九年にロシアのコブノ地方で生れ、七歳までカランドのある土地で育つた。両親とも猶太人ユダヤじんで、父は其処で官吏をつとめてゐた。七歳から十三歳までは東プロシアのケニヒスベルグの祖母の許で育つた。その当時の小さなエンマはまつたくドイツの雰囲気になづんでゐた。彼女の好んで読んだものはマルリツトのセンテイメンタルロオマンスであつた。又のルイ女王の非常な称讃者であつた。しかしやがて、彼女の重要な最初の一転機が来た。一八八二年に、彼女の両親は彼女を伴ふて、セント・ペテルスブルグに移つた。其処でエンマは全く違つた世界を発見した。
 当時のロシアは、国中に大きなあらしが吹きまくつてゐた。専制政治と智識階級の間の死物狂ひの闘争が国中に漲つてゐた。一八八一年にはアレキサンダア二世がたおされた。さうして、彼女がペテルスブルグに到着した八二年には、その暴君の死刑を執行したソフイア・ペロヴスカヤ、ゼリアボフ、グリネヴイツキイ、リサコフ、ミカイロフ、その他の勇敢な人々は既に不死のワルハラに、はいつてゐた。世界はかつてまだこのやうな、自由の為めの戦ひを見たことはなかつた。虚無党殉教者の名が万人の唇に上つた。そして、幾千の若い追随者がその戦ひの中に飛び込んで行つた。革命的感情が、全露西亜ロシアの悉ゆる階級に滲透した。露西亜語の研究につれて、若いエンマもまた革命思想の伝道者とその新思想に接近した。マルリツトの位置は忽ちにネクラソフやチエルニシエフスキイによつて奪はれた。そして彼女は自由の為めの戦ひに一生を捧げやうと決心する程の、ゆるやうな熱心家になつた。
 然し保守的な両親には、この新思想は理解する事が出来なかつた。魂をかきむしるやうな家庭内の争ひが続けられた。そして彼女はとう/\彼女自身で生活の途を立てやうと決心した。そうして他の多くの人々が、『人民の中に』這入はいつた例にならつて、彼女も或るコルセツト製造の工場の女工として這入つた。若しも彼女が、そのまゝさうしてロシアに止まつてゐたら、他の人々と同じく早晩、シベリアの雪中にうづめられて仕舞ふのであつたかもしれない。然し彼女の為めに、更に、新しい局面がひらかれた。彼女が十七歳になつたとき、姉のヘレンと共に、大きな、自由の国、新らしい光明の世界の、アメリカを慕つてロシアを後ろにした。
 しかし、アメリカに対する理想的概念は、直ぐに破られた。ザアもゐずコサツクもゐず、チノヴニクもゐない、共和国、自由平等の国では、一人のザアの代りにその数人を発見した。コサツクは重い棍棒を持つた巡査に代り、チノヴニクの代りにもつと苛酷な工場奴隷使役者がゐた。さうして、彼女はロシアのそれよりもずつと、組織立つた、不自由な、些の慰藉もない苛酷な工場に仕事を見つけた。彼女はまるで、牢獄に等しいその工場生活に、その暗い冷たい雰囲気に窒息しさうになつた。しかし、彼女の為めに更に重要な場面が、それからそれへと展けてゆく。

 若いエンマの前に展かれる、彼女を一層正しい処に導いてゆく多くの社会的事実が、更に深くとし子の心を捉へた。一八八〇年代のロシア、その頃の革命運動については一エピソオドでも、のがさずに知りたいとおもふ程、とし子はそれ等の話にふれると興味をそゝられるのであつた。エンマは、その運動を目撃し、そして直接にその洗礼を受けた。その上に、更に彼女を自覚した伝道者につくり上げる多くの都合のいゝ局面が彼女の前に展開されるのだ。とし子はその若いゴルドマンと、彼女をとりまく周囲に、その周囲の生きた事実に導かれるゴルドマンが、心から羨ましいやうな気持で、読み進んで行つた。悉ての事実が、それを読む丈けのとし子を興奮さす程にも、ゴルドマンにとつては、都合のいゝ、試錬であつた。

 エンマ・ゴルドマンが、セント・ペテルスブルグで洗礼を受けた一八八〇年代の革命運動に従事した人々は、その当時、西欧羅巴ヨーロッパやアメリカに起りつゝあつた社会的観念に対する知識は、殆んどなかつた。その人達の最終目的は、専制政治の破壊で、その手段は人民の教育であつた。その人達には社会主義や無政府主義の名さへも知られてはゐなかつた。
 ゴルドマンがアメリカについた時には、丁度、彼女がペテルスブルグに着いた時とおなじような社会的政治擾乱の時代であつた。労働者はその労働状態に反抗した。同盟罷業者と巡査の間の闘争の轟きが国中に反響した。そして、その闘争の極点が、シカゴのハアヴスタア会社に対する大同盟罷業となり、罷業者の虐殺となり、労働者の首領等の死刑執行となつた。しかし、何人も此等の事件の真相を知らうとはしなかつた。
『アメリカの大抵の労働者のやうに、エンマ・ゴルドマンも非常な興奮と心配をもつてシカゴ事件を注目した。彼女もまた、平民の首領等が殺されようとは信ずる事が出来なかつた。一八八七年十一月十一日は彼女に全く違つた事を教へた。彼女は、権力階級からは何等の慈悲をも期待する事が出来ず、ロシアのザリズムとアメリカの資本家政治との間には名義以外に何等の差異もない事を是認した。彼女の全身はその罪悪に激昂した。そして彼女は、彼身に厳粛な誓をたてゝ、革命的平民階級に結びつき、賃銀奴隷状態から彼れ等を解放する為めに、全身全霊を捧げようと決心した。』
 彼女は非常な熱心をもつて、社会主義無政府主義の文学に親しみはじめ、同じ主義の傾向をもつた労働者と懇意になつた。そしてやがて、ジヨン・モストの『自由フライハイト』によつて、無政府主義者としての自覚を得、更にアメリカの最上知力者によつて、無政府主義の思想を学びはじめた。
 それから、彼女が無政府主義者の集会の演壇に立つようになり、演説者としての伎倆ぎりょうを認められるやうになつたのは直ぐであつた。病気で一たん、ロチエスタアの姉の処に帰つたエンマがニユウヨオクに出たのは、彼女が二十歳の時であつた。そして左程の困難なしに、ジヨン・モストと親しくなつた。更に彼女にとつて一層重要な役割をもつたアレキサンダア・ベルクマンとの親交も此の時に初まつた。さうして、それ等の人々と一緒に彼女はその火のような熱誠と雄弁をもつて、一方に絶えず労働しながら煽動者として活躍した。また一方にはロシア革命の亡命家等と親しくなり、その人々が彼女に与へた霊感も小さいものではなかつた。ロバアト・ライツエルに会つたのも此の時分で、彼によつてエンマは近代文学の第一流の著者に親しんだ。

 彼女の全身全霊を挙げての火のやうな主義に対する熱誠は、休息といふ事を知らなかつた。幾許いくばくもなく、知名な無政府主義者として目ざましい活動を始めた彼女の上には、いろ/\な迫害が来た。彼女は勇敢に大胆に戦つた。彼女の熱心と勇気と精力とは何物をも恐れなかつた。しかし、やがて恐るべき試練の時が来た。
 一八九二年に、大同盟罷業がピツパアグに勃発した。ホームステツドの闘争、ピンカアトンの敗北、そして国民軍の出動によつて散々ににじられた労働者の様子に心の底まで動かされたアレキサンダア・ベルクマンは彼れの生命を賭して、実行的無政府主義者が労働者と如何に密接な行動をとつてゐるかと云ふ実物教示を、アメリカの賃銀奴隷に見せようと決心した。彼はピツパアグの労働者の敵たるフリツクを斃さうとした。が、それは失敗に終つて、二十二歳の彼れは二十二年の処刑を申渡された。
 エンマ・ゴルドマンが此の事件によつて受けた迫害は非常なものであつた。九年後にレオン・ツオルゴオズが大統領マツキンレイを暗殺した時に受けた迫害と共に、それは彼女の霊魂を引つかきむしつた。資本家の新聞雑誌の陋劣ろうれつ讒誣ざんぶ虚報や、警察官等の法外な迫害は左程彼女を傷めはしなかつた。しかし、自分達の仲間からの攻撃は彼女にとつて堪えがたいものであつた。誰れも、殆んどベルクマンの行為に理解を持たなかつた。その理解を妨げる程同主義者に対する迫害が、ひどかつたのだ。そして同志の、公私の集会でひどい責罪と攻撃が続いた。彼女はベルクマンと彼の行為を弁護し、革命的の行動をとつたと云ふので悉ゆる方面から迫害された。彼女は寝る場所さへも失くして公園で夜をあかすことをさへ忍ばねばならなかつた。彼女やベルクマンと一緒にゐた青年は、此の状態に堪え得ず自殺を企てた程であつた。
 マツキンレイ暗殺事件から受けた迫害も同一のものであつた。それはベルクマン事件よりは更に苛酷なものであつた。その事件に対する彼女の説明は一層迫害の度を増さしめたのみであつた。彼女は実際野獣のように到る処ではれた。さうした社会の迫害と同志の無理解は彼女の伝道を妨げた程であつた。
 しかしそれ等の迫害に打ち克つて、彼女は間断なく運動を続けて来た。どんな迫害も彼女の進む道を防ぎ止める事は出来なかつた。むしろ困難に出遇ふ程、彼女の情熱は炎え上る。よしベルクマン事件ツオルゴオズ事件の後のように一時隠退を余儀なくされるような場合があつても、彼女は決してそれ等の時間を無為には過さない。それ等の時は彼女の貴い知的修養の時間であり、再び闘場に帰るべき準備の時である。
 かうして彼女は廿数年以上も主義の為めに戦ひ続けてゐる。今では彼女はアメリカの社会的、政治的生活の強力な要素となつてゐる。そして悉ゆる不法な迫害を受けた彼女の真実が知識階級から一般人へと、だん/\に認められて来た。

 多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジヤステイス』を拾ひ上げる事が現在の社会制度に対してどれ程の反逆を意味するかと云ふ事はとし子も前から、いくらか理解はしてゐた。けれど、さう云ふ社会的事実に対しては殊にうといとし子には、一人の煽動者に対して、大共和国の政府がとつたあらゆる無恥な卑劣な迫害手段は不思議な程であつた。始めて知り得たそれ等の事実に対して、とし子は彼の数多あまたの人々をシベリアの雪に埋めた旧ロシアの専制政治に対してよりも、もつと違つた、心からの憎悪を感じないではゐられなかつた。
 しかし、それよりも更に一層強くとし子の心を引きつけたものは、何よりもゴルドマン其人の勇気であつた。燃ゆる情熱であつた。何物にも顧慮せずに自己の所信に向つて進む彼女の自由な態度であつた。読み進んでゆく一頁毎に、彼女の立派な態度は、敵の陋劣な手段と対して、どんなに、とし子の眼には輝やかしく映つたらう? とし子は静かに自分達の周囲をふり返つて見た。
 此処でも、凡ての『ジヤステイス』は見返りもされなくなつてゐた。悉ての者は数百年も、もつと前からもの伝習と迷信になずんだ虚偽の生活の中に深く眠つてゐた。偶々たまたま少数の社会主義者達が運動に従事しようとしても、芽ばえに等しい勢力ではどうする事も出来ない。束縛のむすび目の僅かなゆるみをねらつて婦人の自覚を主張し出した自分達にしても、何一つ満足な事は出来ない。そして必ず現はれなければならない新旧思想の衝突が本当に著しい社会的事実となつて現はれる事すら、まだよほどの時をおかなくてはならないのではあるまいか、とさへ考へさゝれるのであつた。

 とし子はそんな事を考へながらも、すばらしいゴルドマンの生活に対して、自分達の生活の見すぼらしさをおもはずにはゐられなかつた。
『生き甲斐のある生き方』は、とし子が自分の『生』に対する一番大事な願望だつた。何物にも煩はされず、おおきく、強く生きたいと云ふ事は、常に彼女の頭を去らぬ唯一の願ひであつた。その理想の生活が、ゴルドマンによつてどんなに強くはつきりと示された事であらう?
 本当に、それ程の『生き甲斐』を得る為めになら、『乞食の名誉』もどんなに尊いものだか知れない。その『名誉』の為めなら、奴隷の勤勉も何んで惜しまう?
 だが一体、何時になつたら日本にもさう云ふ時が見舞つてくれるのだらう? さう考へると、とし子は急につまらない気がした。さうして染々と、人間の個々の生活の間によこたはる懸隔を思はずにはゐられなかつた。

 とし子達が、その機関誌『S』を中心としてつくつてゐる一つのサアクルは、在来の日本婦人の美しい伝習を破るものとして、世間からは批難攻撃の的になつてゐた。みんなはムキになつてその批難と争つた。けれどそれがどれ程のものであつたらう? たゞみんなその『S』誌上に僅かな主張を部分的に発表するのが仕事の全部であつた。集つて話すことも、自分達の小さな生活の小さな出来事に限られてゐた。そして、みんなが与へられたものを着、与へられた物を食べ、与へられたへやに住んで、小さな自己完成を計つてゐた。実際に社会的生活にふれてゐるものは殆んどなかつた。『S』誌に向つての攻撃の一つは、物好きなお嬢様の道楽だと云ふのであつた。実際さう見られても仕方のない程、みんなの生活は小さかつた。皆んなが自分達の生活の弱点に気がねをしながら婦人の自覚を説いた。けれどそれは決して道楽ではなかつた。皆んな一生懸命だつた。けれど、まだ自分達の力をあやぶんでゐる皆は、本当に向ふ見ずに種々な社会的事実にブツかるのが恐いのだつた。然し彼女等の極力排している因習のどの一つでも、現在の社会制度を無視して残りなく根こそぎにする事が出来るであらうかと云ふ事になれば、どうしても『否』と答へるより他はなかつた。けれど、その点には出来るだけ触れたくもないし、触れずにゐればそれで済ましてもゐられるのが、皆んなの実際であつた。
 けれど、とし子だけは、そのサアクルの中でも、ちがつた境遇にゐた。彼女は一たんは自分から進んで因習的な束縛を破つて出たけれど、何時か再び自ら他人の家庭にはいつて、因習の中に生活しなければならぬようになつてゐた。彼女は其の最初の束縛から逃がれた時の苦痛を思ひ出す程、其の苦痛を忍んでもまだ自分の生活の隅々までも自分のものにする事の出来ないのが情なかつた。彼女はたゞそれを、自身の中に深くひそんでゐる同じ伝習の力のせいだとおもつてゐた。さうして彼女はそれを理知的な修養の力によつて除くより他はないとおもつてゐた。しかし、彼女の生活は、他の友達よりは、他人との交渉がずつと複雑にされなければならなかつた。そして其の他人の意志や感情の陰には、到底、彼女の小さな自覚のみでは立ち向ふことの出来ない、社会と云ふ大きな背景が厳然と控えてゐた。彼女は、それを思ふと、どうする事も出来ないやうな絶望に襲はれるのであつた。自分ひとりが少々反抗して見たところで、あの大きな社会と云ふものがどうならう? と思つた。けれど、と云つて、自分の握つてゐる『ジヤステイス』を捨てる訳にはゆかない。『要するに、皆んなが自覚しなければ駄目なのだ』さう思ひながら熱心に、矢張り自己完成を念じてゐた。けれど、いつかは一度は立ち直つて、その大きな力にぶつかる時があるにちがひないとは其の度びにひそかに考へてゐた。
 けれども今、とし子に示されたゴルドマンの態度はまるで違つてゐた。彼女は社会の組織的罪悪を、その虚偽を、見のがす事が出来なかつた。彼女はその人間の心をたわめ、冷くする社会組織に対して激昂した。そしてその虚偽や罪悪に対する憎しみの心を、其のまゝそれにぶつかつて行つた。本当に何物も顧慮する隙を持たなかつた。たゞ、正しい自己の心を活かす為めに、多くの虐げられたものゝ為めに、全身全霊を挙げて其の虚偽に、罪悪に、ぶつかつて行つた。其処に彼女の全生命が火となつて、何物をも焼きつくさねばおかぬ熱をもつて炎え上つてゐるのだ。とし子の頭はそれを思ふとクラ/\した。今にも何か自分もさうした緊張した生活の中に悉てを投げ棄てゝ飛び込んで行きたいような気持に逐はれて、ぢつとしてはゐられないような気がするのだつた。

 彼女が、そんな回顧に耽りながら、沈み切つた顔をうつむけて家に帰りついた時には、雪はもう真白にすべてのものを包んでしまつてゐた。
 子供を床の中に入れると、そのまゝ自分も枕についたが、眼は、どうしても慰さめ切れぬ心の悩みと共に、何時までも悲しく見開いてゐた。電燈の灯のひそやかな色を見つめながら果てしもなく、一年前にゴルドマンの伝を読んで受けた時の感激を、まざ/\と思ひ浮べて考へつゞけてゐた。
 それは、最近に彼女の心の悩みが濃くなつてからは、殊に屡々頭をもたげて彼女を憂欝にするのであつた。そして、一年前よりは一層複雑になつた現在の境遇に省みて、諦めようと努める程、だんだんに其の感激に対する憧憬が深くなつてゆくのが、自分にもハツキリと意識されるのであつた。
[『乞食の名誉』聚英閣、一九二〇年五月二八日]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
   2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「乞食の名誉」聚英閣
   1920(大正9)年5月28日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月11日作成
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