今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに一人の年老としとつた乞食が、行き倒れてゐました。風雨に曝され垢にまみれたその皮膚は無気味な、ひからびた色をして、肉が落ちてとがり切つた骨を覆ふてゐました。砂ぼこりにまみれたその白髪の蓬々としたひたいの下の奥の方に気味の悪い眼がギヨロリと光つてゐました。
 行き倒れの傍を取り巻いた子供達はその気味の悪い眼光に出遭ふと皆んな散り/\に逃げてしまひました。が、子供達が、その日暮方のしばらくの明るさの中を外で遊んでゐますと、其処にさつきの乞食が、長い竹杖にすがつてよろ/\しながら歩いて来たのでした。子供等は、また気味悪さうに一と処によりそつて乞食を通しましたが、やがてそのよぼよぼした後姿を見ると、ぞろ/\後へついてゆきました。
 乞食は、村にはいつて街道を少し行くと左側にある森の中にはいつてゆきました。其処は此の村の鎮守なのです。子供等は其処までついてゆきますと、木立の暗いのと乞食が再び後をふり向いた恐ろしさに、一目散に逃げてかへりました。
 次ぎの日、子供達は昨日の乞食の事などは忘れて、お宮の前の広場で遊ばうとしていつものように、その森の中にはいつてゆきました。すると昨日の乞食がお宮の石段に腰を下ろしてそのやせた膝を抱いて白髪の下から例の気味の悪い眼を光らして子供達を睨み据えました。子供等は思ひがけない邪魔にびつくりして外の遊び場所をさがすために、お宮から逃げ出しました。
 しかし、夕方になると、彼れ等はあの乞食の事を忘れられませんでした。其処で皆んなは、しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないように、めい/\の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。
 今度子供達の眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何んとも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。
『ワツ!』
 子供達は今日はうしたのか悲鳴をあげてめい/\につかまへられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、馳け出して来ました。
 丁度、其処を通り合はせたのは、村の巡査でした。子供達が真青になつて、逃げ後れたのは泣きながらお宮を飛び出して来たので、巡査はいそいで、お宮にはいつて行つたのです。子供達は巡査がはいつて行くと、しばらく通りに一とかたまりになつて立つてゐましたが、やがて巡査が、お宮の傍の家の裏で働いてゐる男に声をかけるのを聞きました。
『おうい、為さん! 水を持つて来てくれ、桶に一杯!』
 巡査はさうどなりながら、為さんの家の方へ近づいてゆきました。為さんが水桶をさげてお宮にゆくのを見ると子供等はまたゾロ/\暗くなつたお宮の境内にはいつてゆきました。
『体もろくにきかん癖にかう火をいて、あぶなくつて仕様がない、』
 などゝ、二人は話しながらシユウ/\と音をさせて、火に水を注いで消しました。
んな乞食は何をするか知れたもんぢやありませんよ、追つぱらつてしまひませう。』
 為さんは口をとがらして巡査を煽動します。
『何に、俺もさう思つたが、まるでグタ/\で、動かないんだ、今からおつぱらつてもどうせ何処までも行きやしないから、今夜は勘弁しておいて、明日の朝追立てる事にしよう。』
 巡査は仕方がなささうに笑ひながら、為さんと一緒に引きかへしました。子供等もゾロ/\家へかへりました。

 其の晩、此の辺には滅多にあつた事もない火事がありました。老人達は二十年目だとか二十五年目だとか云つてさわぎました。火を出したのは、村の真中頃にある荒物屋で、台所から火が出たらしいのです。大きな藁屋根ですから一とたまりもなく焼け落ち、その並びに隣り合つて建つてゐる三軒がまたゝく間に焼けてしまつたのです。そして四軒目に火がうつつたときに、やつと消防手の手で消されたのでした。
 しかし、珍らしい火事沙汰で、その夜から翌日まで、村中がひつくり返るやうな騒ぎだつたのです。そして翌晩はさはぎつかれて皆んな寝てしまひました。
 すると、続いて又、昨晩の火事の場所から一町半ばかり東よりの村で、一番賑かな通りにある居酒屋と隣りの床屋とが、同時に焼け出しました。
『火事だつ!』
 バタ/\騒ぐので、起き出した方々の家ではびつくりしてしまつたのです。火事が大変だと云ふ事よりも昨夜と今夜が、まづ皆を驚かしたのです。今度は二軒とあと両方にわかれて一軒づゝ焼けました。そして、その火が消えかけた時に、その火事場の向ふ裏にある百姓屋の納屋がどん/\燃えてゐたのです。
 明かに放火だと云ふ事は分りました。しかし、あまり思ひがけない火事に、村の老人等は色を失つてしまつたのもあります。
 翌朝、町の警察から五六人も巡査が来るやら、何かえらさうな人達が火事跡に来てウロ/\見まはつたりして、村中が何となく殺気だつて来ました。
『つけ火だ、つけ火だ、』
 と皆んな云ひながら、犯人の見当はまるでつかないのでした。巡査や刑事達は村人の誰彼を捉へてはいろんな事を尋ねました。しかしさうなると、皆んな自分の云つた言葉の結果がどんな事になるかしれないと云ふ、不安と恐怖で、だれも、巡査達とはか/″\しい口をきく事はなかつたのでした。
 二晩つゞけての火事におびえた村では、冬だけにする火の番をはじめました。そして二時間位に一度づゝ村中を見まはる事にしました。

 三晩は何事もなくすぎました。村人達は、時はづれの火の番が馬鹿々々しくなつて来ました。
『二た晩つゞけて火事があつたからつて急に火の番をしたつて、さう幾度もつけ火をする奴もないだらうから、何だかつけた奴が見ると馬鹿気てるに違ひないと俺は思ふよ。』
『さうさ、さうまたつゞけて焼かれてたまるものかい。』
 四晩目にはそんな不平がましい口をきゝながらほんのお役目に通りを一とまはりして来たのだ。
 処がどうでせう! 彼等が、西の端の番小屋に帰つて一服してゐますと、急に騒々しくなつて来ました。番の人達がびつくりして外に出て見ますと、たつた今、自分達の見て来たばかりの、東の方に火の手が高くあがつて盛んに火の子を降らしてゐるのです。
『アーツ』
 と云ふなり一人の老人は腰をぬかしてしまひました。
 他の人々が、騒ぎ出して大勢で馳けつけた時には、焼けた床屋の丁度向ふにある小さな駄菓子屋が焼けてゐるのでした。

 しかし、此度は夜明前に、此の村を騒がせた放火の犯人はつかまつたのです。丁度其の夜、隣り村から或る家の不幸を知らせに村へ来た二人連れの人達が、村にはいらぬうちに火の手が見えるので、急いで来かゝる途中、村はづれの共同墓地の辺に来ると、影のような人間が、向ふから来かゝつたが、自分等の姿を見ると、急いで墓場の中へはいつた、と云ふ話をしたのです。集まつた消防手連中が早速墓場へ馳けつけて、さがして見たのですが一向分りませんでした。
 東が白んで来る時分に、さがしあぐねた連中が、ボツ/\帰りかけて、フト気がついたのは、墓場のそばの共同の葬式道具を入れておく小屋でした。
 二三人で其の戸を引きあけて見ますと、案の定其処に痩せさらばつた一人の男がうづくまつてゐたのです。彼等はそれを見つけるとカツとなつて、ろくに腰もたゝないまゝの老爺を往来まで引きずり出して来ました。そして皆んなで顔を覗いて見ましたが、それは見知らない、汚い乞食でした。
 彼れ等は、一度はガツカリしましたものゝ思ひ起して此の乞食を引き立てゝ来ました。そしてその乞食の姿を見た巡査はヅカ/\傍によつて行きました。もううすら明るくなつてゐるのでしたが、さしつけられた提灯のあかりにその乞食の顔がハツキリ照らし出されました。彼れは三四日前に村にはいつて来た乞食でありました。

 昼頃になつて、その乞食が、三回に渉る放火犯人だと云ふ事と同時に、此の村や、其他近在を充分に驚かし得るような事の内容が、村の人達の間に伝はりました。
 此の乞食は、其村の片隅にある特殊部落の××原と云ふ処に生れた彦七と云ふ男でした。彼は、其の生れた処からは何十年と云ふ間行衛不明になつてゐたのでした。それで、其の村でも彦七の家と関係のあるものか、年老としより連中でなければ彦七を記憶してゐる者はない位なのでした。
 彼れの生れた部落でも、或時は、彼れがすばらしい金持になつて或る処に豪奢な暮らしをしてゐるのだ、と伝はり、或時は彼れは博徒の中にはいつて、すばらしい喧嘩をして監獄に行つてゐると伝はりました。しかし実際どうなつてゐるか確かな事は分らなかつたのです。
 処が、三十年と云ふ長い月日が経つてから人々に忘れられた時、彼れは見る影もない乞食姿になつて瀕死の体を故郷に運び、さうして放火犯人として捕へられたのでした。しかも彼れは、放火犯として、前科二犯も持つてゐる放火狂なのでした。しかもなを彼れは、息の根が絶えるまでは、此の火をもつての呪ひを止めないと云つてゐると云ふのです。

『穢多ん坊! 穢多ん坊!』
 彦七は小さい時からさう云つて村の子供等から、自分等部落の者が卑しめられるのが心外で仕方がありませんでした。
 自分達には何処と云つてちがつてゐる処もなければ、村の奴等の世話になつて生きてゐる訳でもないのに、何故村の奴等は俺達を馬鹿にするのだらう、口惜しいな、と始終考へつめてゐました。そして彼れは其の友達と何時もその事ばかり話してゐました。
 だん/\大きくなるにつれて、彦七はさうして村人達に卑しめられるのが、訳もなく口惜しく、馬鹿々々しいと云ふ気持がます/\激しくなつて来ました。さうして、遂に或る時、自分の家をぬけ出して、城下町に行きました。其処でなら、誰にも卑しめられずに、愉快に働く事が出来るにちがひないと考へたからでした。
 処が彼れは、町に一人の知るべもありませんので、仕事もなか/\見つかりません。彼れは二三日足を棒にして仕事をさがしまはりましたが、奉公人を置きたいと云ふ家でも、誰れか、知人か親類の者でも一緒に頼まなければ、使はないと云ふのです。
 それでも、数日してから、町はづれの瓦焼き場の火を燃す仕事にありつけました。其のとき、彼れは十六でした。生れてはじめて、彼れは其のときに普通の人間として他の職人達と交際が出来たのです。
 彦七は、それは可なり激しい労働だつたのですが一生懸命に働きました。彼れは湯にも他の人間と一緒にはいり、食事も一緒にし、他のどの人間とも区別なく、枕を並べて眠りました。彦七が自分の部落で話しに聞いたり見たりしたように、人間としては到底忍べないような侮辱を受ける事はありませんでした。彼れは村を出るときに考へたとほりに気持よく一年ばかりを働くことが出来たのでした。
 或る日、彦七は若い職人の一人に誘はれてお祭りを見に町の方へ出かけてゆきました。二人が、もう少しで、お祭りの雑踏の中にはいらうと云ふ処で二三人の若い男が向ふから来て、彦七の顔を見て何か頷き合ふと、一ぺんすれちがつたのを、またわざ/\引きかへして、彦七のそばをすりぬけて前へ出るとその中の一人が、彼れを呼びかけました。
『こら! 彦七! 誰も知つてるものがないと思つて、いやに生意気な面をしてゐるな。穢多の分際で、あんまり大巾にこんな処を押しまはすと承知しないぞ。こんな処、貴様みたいな畜生がウロ/\する処ぢやないや。』
 彦七は自分の名前を呼ばれた時に、ハツとしました。その連れは、自分もよく顔を知つてゐる村の者達で、やはりその町に奉公に来てゐる連中でした。
 穢多畜生、と云ふ言葉を聞くと彼れはカツとしてしまひました。彼れは物をも云はずにその連れに打つてかゝりました。相手はびつくりして身を引きましたが、然し彼れが自分等に反抗して来るのだと知ると彼等も一とかたまりになつて、彦七に立ち向いました。彦七は、何時の間にかぬいで手に持つた下駄で、相手の横ツ面を手ひどく打ちました。
『アツ』
 相手が其処に手を当てゝ身をそらすと一緒にまたもう一と打ち続けて打たうとした時に彼れは足を払はれて横ざまに倒れました。と同時に体中の、彼方あっち此方こっちも用捨なくこぶしが当てられ下駄に踏みにぢられるのでした。彼れは、彼れ等を取り巻く群集のさわぐのを耳にしながら口惜し涙をながしてゐるのでした。そして彼れは起き上ると、砂まみれ、血まみれになつた顔を引きつらせて群集の中を突きぬけて、一刻も早く町外れの瓦屋の方へ帰つて行かうとしました。彼れが、漸くその家の近くまで行つた時に、まだ彼れを追つかけて来た一団がありました。
『かりにも友達が貴様のやうな穢多にきずつけられたのを其のままにして置くことが出来るものか。』
 彼れ等は、さう云つてよろ/\してゐる彼れをまた/\散々になぐり飛ばし、蹴とばして、彼れが虫の息になるまでいぢめぬいて引き上げて行きました。
 彦七は這ふ事も出来ないで、瓦屋近くの藪のそばで、一と晩呻きとほしてゐたのでした。
 あくる朝、近所の人がその惨めな姿を見つけて瓦屋へ知らせました。しかし瓦屋では彼れの穢多であることを知つたので、もう親切に扱はうとはしませんでした。昨日までは仲よくしてくれた二三人の職人が、一枚のムシロをもつて来て、何か汚い者をいぢるように、彦七の体をムシロの上にころがしのせて、三人でそのムシロを引きずつて、瓦屋の裏口の納屋の軒に置きつぱなしにして仕事場にはいつてしまひました。
 彦七は、昨日までの友達が一と言も慰さめてもくれず、水一杯持つて来てくれないのを恨むよりは、死にかけた犬つころのように納屋の前の大地に敷いたムシロの上にころがされた自分の身が情なさに、また新しい涙をポロ/\と流しました。穢多と云ふものは斯んな犬猫のやうな扱ひをするのを他の者共は当り前にしてゐるのだ。俺が、あの部落にさへ生れて来なかつたら、昨夜のような目に遇ふ事もなし、またこんな扱ひを受ける事もないのだ。何故俺はあんな村に生れたのだ? だがあの村に何の因縁があれば、其処で生れた者が迫害されねばならないのだ。…………、彦七はガンガン鳴る頭の中で繰り返し繰り返しそんな事を考へてゐるのでした。

 さうした惨めな彦七の体を、七月頃の暑い陽が、遠慮なく照りつけて、一層彦七の苦悩を増さすのでした。納屋の前を折々通りかゝる人達はみんな、其処にころがされてゐる彦七を汚いものでも見るように横目で睨んで通りながら『ペツ』と唾を吐いたり、わざわざ近づいて、その醜く腫れ上つた汚い顔を嘲り気味に覗き込んでゆくばかりで誰一人声をかけるものもないのでした。
 彼れは恥と怒りでそのたびに体をピク/\させながら、何うかしてこんな処からのがれようと思ひました。けれども彼れは昨夜から咽喉がピリ/\する程かはいてゐるのに水のある処まで行くことはおろか、少し動かしてもたまらない程いたむ体をもてあつかつてその、のどかはきの苦しみと体のいたさとを我慢しなければならなかつたのです。
 しかしひる頃になりますと、彦七はもう我慢がなりませんでした。
『死んでもいゝ、死んでもいゝから、こんな処は出かけよう。そして村へかへるのだ。そうして、今に見ろ、何かで仇うちをしないでおくものか。此の恥と苦しみをこれから出来るだけ貴様達に背負はしてやるぞ。』
 彼れは、非常な決心で、その体を少しづつ起しました。しかし、起した体は激しい痛みの為めに直ぐくづをれるようにべたりと落ちるのでした。それでも彼れは恐ろしい我慢でとう/\起ちました。そうして、彼れは一足々々にこたへる痛さを堪える為めに全精力を集中させたように物凄い上づつた眼を据えてソロ/\と歩き出しました。
 納屋の前から四五間歩きますと、井戸は右の方にまた五六間行つた処にあるのです。彦七は井戸端まで真直に歩いて行きました。広い瓦干場にも誰も人の影は見えませんでした。井戸端まで辿りつきますと、彦七はホツとして、痛む手をさしのべて、其処に据えた水がめにつけたひしやくをかはき切つた唇につけやうとした時でした。
『まあ汚い! お前なんかの唇つけられてたまるものかい。』
 頓狂な声を出して台所から下女が飛び出して来て、其の太い手で、彦七の手からひしやくをもぎとりました。彦七の体は怒りの為めにブル/\震えました。彼れはそのカサ/\にひからびた唇を噛んで燃えるやうな眼で下女の真赤にふくらんだ顔を睨みつけました。
『おう恐い。そんな眼をして、化けて出られちや大変だから、水くらいならタントおあがんなさいだ! ホラ、あすこにお前さんのお茶碗がありますからさ、あれでどつさりおあがんなさい!』
 彼女は台所の入口の敷居際の土の上に棄ててある、昨日まで彼れが使つた茶碗やお椀を指さして、憎々しくさう云ふと、此度は台所のまどから顔を出してゐるもう一人の朋輩と顔を見合はせて笑ひながら、
『穢多ごろつてものは執念ぶかいつてから恨まれると大変だ。おむすびでも施してやるかねお松さん。』
『ふゝゝゝ』
 彼れは棄てられた茶碗をぢつと見ました。こみ上げて来る涙をのみ込みながら唇をふるはせて、そろり/\その茶碗をとりに行きました。そして生ぬるいかめの中の日向水を息もつかずに、続け様に五六杯も飲んだのでした。
 今の今まで、責めさいなんでゐた渇きが癒やされると、彦七はがつかりして其処に倒れようとしました。しかし、ボーツとしかけた意識を漸く取り直して、自分が一年間寝とまりした職人の為めの長屋の方に歩いて行きました。
 彦七が漸々ようよう其の長屋の前まで歩いて来ました時に後ろから瓦屋の隠居が声をかけました。
『彦七、ひどい目に遇つたさうだな。まあそれもお前が先きに手を出すと云ふ法はないのだから仕方がない。家でも、お前の体が不自由なのを見かけて云ふようで済まんが、お前の身分を知らなかつたからこそ、今日まで使つたようなものゝ分つて見れば、皆と一緒に置くわけにも行かず、殊にお前の仕事は火を燃くことで、これは一番清浄な者のやらねばならん仕事だし、体が動くなら、今日限りで家へ帰つて貰ひたい。昨日まで預りになつてゐる分の金は此処に置くから――』
 隠居は自分の云ひたい事だけさつさと云つて、手に渡してやるのもけがらはしいと云ふやうに、持つてゐた金包を入口の敷居の上に乗せて母屋の方に引き返して行つてしまひました。彦七はその敷居の上の金包をぢつと見つめて立つてゐました。そしてその眼を屋内にやりますと、僅かばかしの彼れの持物が、職人等の下駄を片よせた土間の隅に放り出してあつたのです。
 彼れは復讐心に燃えながら疵ついた体を故里に運びました。彼れの両親や兄弟は彼れを大事にいたはつてやりました。彼れは引つつれたやうな顔をして、長い間ぢつとこれから先きの自分の生活を撰んでゐました。そして何んの罪もない自分を、死ぬ目に遇はした世間の奴等の仇になつて、どうすれば一番彼れ等を苦しめる事が出来るかを一生懸命に考へました。
 やがて、健康の回復した彼れは、驚くばかりに働き出しました。彼れは一体あまり口数をきかぬ人間でしたが、それが輪をかけただまりやになつてしまひました。そして、一日中或は一年中のどの時間でも無駄に過ごす時間と云つてはありませんでした。
 彦七の家は部落でも暮らし向きはいゝ方で六七反の田畑はみんな自分のものなのでした。彦七は両親や兄弟をたすけて、激しい百姓仕事を二人前も働きました。そしてひま/\にはわらじをつくる草履をつくる、縄をなふその外、何にかぎらず、金になる仕事ならば何んでもしたのです。盆だ正月だと、他人の休む日でも、彼れは一時間も怠けませんでした。たゞ黙々として働きました。

 彼れが廿歳の秋の収穫がすむと直ぐ、彼れは、両親の家の傍に小さな掘立小屋を自分ひとりの手で建てました。それは普通の農家の馬小屋よりも小さく、見苦しいものでした。彼れはだまつてそれを建てて、だまつて自分ひとりだけ、其の大地の上に並べた板の上に蒲団を敷いて寝ました。勿論食事も自分ひとりでしました。他の家の者よりも、彼れ一家の者が此のだんまりの仕事にづ驚きました。
 いろいろな質問や反対に対しても彼はただ黙つてゐました。部落では、彼れの変人だと云ふ事をば知つてゐますので、別に驚きはしませんでしたが、親の家を離れて一戸を構へたものが当然しなければならない、部落の交際を彼れが断つたのに対しては非常な批難がありました。しかし、そんな事には耳も傾けずに、彼れは平気で、どんな慣習でも礼儀でも容赦なく無視して、たゞ働くのに夢中でした。
 たつた一つ、彼れの楽しみらしいのは、何処から連れて来たのか、一匹の小さな犬でした。彼れは、此の犬を少しも放した事はありませんでした。犬と一緒にだけ食べ、犬と一緒に寝、そして犬と一緒に話し、犬と一緒に歩くのでした。
 昼間は彼れは自分の借りた田に出て働くか、山に枯枝を集めにゆくか、畑に出るか、とにかくうすら明るくなつた早朝から真暗に暮れてしまふまで外で働いてゐます。そして夜になつて晩飯をすますと、土器の中に少しばかりの種油を注いで細い燈心をかきたてながら、たゞ手許だけがボンヤリする位な明るさの中で、藁をうつて草履やわらじや、縄をつくるのでした。そして彼れは手をせはしなく動かしながら、何かボツ/\一緒にうづくまつてゐる犬に話しかけてゐるのでした。
 彦七が、どの位金を溜めたらうと云ふ事は部落中のものが始終気にして話し合ふ事でした。しかし、誰れも見当のつくものはゐませんでした。
 彼れは殆んど三人前の働きをして、その利益をみんなおさめてゐたのです。そして彼の食物は玄米でした。彼れは調味料として僅かばかりな塩を父親の家から分けて貰つてゐました。畑のものもろくに彼れは口に入れてはゐない様子でした。彼れは、決して自分で買物に出かけないのでした。そして他人に頼んで買つて貰ふものは僅かばかりの種油と燈心だけでした。
 彼れは夜になると蒲団にはいつて寝ましたが昼間はどんな場合でも汚くよごれた仕事着を着てゐました。何年かの間盆が来ようが正月が来ようがそれで通しました。彼方此方あちこちが破れて、体が出ても平気なものでした。其処で、母親や兄弟が見兼ねて、別のものを着せると云ふ風にして、これにも金はかゝらないのでした。
 かうして、彼れは四年間独居生活をした後に或る夜其の住居を引き払つたのです。彼れの姿は犬と共に見えなくなつてしまひました。

 彼れの第一期の生活がそれでおしまひになつたのです。彼れに復讐心をあほつた町に、再び彼れは姿を現はしたのでした。
 彦七は先づ一軒の家を借りました。そして彼れは家主に、自分が少々金を持つてゐる事を話して、それを貸し付けたいのだから、困つてゐる人があれば、世話をしてよこしてくれと頼んだのでした。頼まれた家主の爺さんは、若いのだか年老りだか分らないやうな干からびた貧相な顔をした此の男が金貸しをしたいといふのを怪しむように、だまつて彦七の顔を見てゐました。
 彦七は爺さんに頼んだだけでなく、いろいろな方法で、自分の商売の広告をしました。世間には僅かな金で困つてゐる人は随分多いのですから、勿論彦七が金貸をしたいなどゝ云ふ本当の真意を知つてゐるものはありませんし、彦七の商売は忽ちの間に繁盛しました。
 それから彦七がどんな事をしたかは、読者の想像にまかせます。彼れは世間の人間を出来るだけいぢめる為めに金貸しをはじめたのですから、世間の非道な、たゞ金に目がくらんでする金貸の惨忍よりはもつと/\ひどい惨忍を平気で重ねました。そして一方には金をふやしてます/\魔の手をのばすと同時に世間の人間を泣かせて思ふ存分楽しんでゐたのです。
 勿論、彼れは十年十五年とするうちには、ずいぶんひどい迫害にも幾度も遇つたのですが、そんな事には決して屈しなかつたのです。金をつかんでゐれば、どんな者にもまける心配はないと云ふのが、彼れの築き上げた信条でありました。

 彼れから金を借りた悲惨な貧乏人のうちで殊に悲惨な一家がありました。それはつい彼れの住んでゐる隣り町の鍛冶屋でした。鍛冶屋と云つても、その男は田舎の百姓の農具に用ひてゐる金物をつくる鍛冶屋の向ふ槌を振るより他に芸のない、殊に働きのない鍛冶屋でした。その代りに又、彼等夫婦は誰にも憎まれる事のない好人物なのでした。彼れ等の間には十一になる男の子と九つになる女の子の二人の子供がありました。鍛冶屋の細い働きは到底此の二人の子供と女房を安穏に養つて行く様にはゆかないのでした。其処で女房は一寸ちょっとした洗濯物をしたり、彼方此方あちらこちらの使ひあるきをしたりして、暮しを助けてゐたのです。
 此の一家の一番大切な役目をつとめてゐる女房が或る時突然大熱を患つてしまひました。鍛冶屋は心配して、因業な奴とは聞いて知つてゐたのですが、彦七から参円ばかりの金を借りて、女房の療治につとめました。そして、女房は漸々快方に向いて来ましたが、借りた金は、返すどころの沙汰ではなく、少々の利息もなか/\払へないやうになつて来ました。
 約束の期限が切れると、カタのやうに彦七は矢の催促をはじめました。最初の間は尋常に手をついてあやまつてゐました鍛冶屋も、イロ/\彦七が惨忍な金貸の態度を見せはじめますと、もう我慢が出来なくなつて、三度に一度は彦七の云ひ分に楯をつくようになつたのです。
 処が、或る夕方鍛冶屋は仕事がへりの往来で、バツタリ彦七に出会ひました。
『オイ、寅さん、お前さんは一体何時あの方のらちをあけてくれるつもりだい。もう期限が切れてから一と月あまりになるのに、利子も録々払つてくれないぢや、俺の方も商売だからな、困るよ。僅か三円かそこいらの金ぢやないか』
 彦七はいきなり高声に催促をはじめたのでした。鍛冶屋はムツとしたのでせうがそれでも下手に出て、
『それや、云はれなくつてもわかつてるがね、何しろ其の日稼の事だから、お前さんはたつた三円と云ふけれど、此方にやなか/\大変さ、もう少しまあ待つてお呉んなさい。何んとか工夫するから。』
『工夫/\つて此の間からお前さんはさういつてゐるけれど、工夫ぢやおつつかないよう』
『まあさ彦七さん、此処は往来ぢやないか。私も今仕事のかへりでくたびれてる。云ふ事があるなら、あとでうちへ出掛けて来たらどんなもんだい、往来のまん中で、高声で借金の催促はあんまり見つともない。』
『へん、見つともなきやお前さん、他人から金なぞ借りないがいゝや。此方は貸した金を返して貰はなくちやならんのだ。往来中で催促してはならんといふ理屈はないしさ。貧乏のくせに贅沢な事いひなさんな。催促されるのがいやなら、借りないが第一だ。借りたらさつさと返すがいゝや。』
『まあ何を云はれても仕方がないけれど、さうしたもんぢやないよ。まあ何にしろ往来では催促は御免を蒙むるよ。』
 鍛冶屋はムシヤクシヤするのをおさへてさう云ひ放したまゝ行きかけました。
『これ/\寅さん。さうお前さんの勝手にゆくものか。俺はさう閑人ひまじんぢやないから丁度此処で会つたが幸ひだから何んとか返事をして貰はう。何? 家へ来い? いけないよ。家へ来いとは何んだ。本来ならお前の方から出て来てこれこれだと断るのがあたりまへなんぢやないか。それを何だつて! 家へ来いだ? 此処で埓をあけて貰ふのだよ。僅か三円ばかりの金ぢやないか。逃げずと男らしく片をつけな。』
 彦七は憎々しく云ひつのりました。これが平生それ程借金を苦にしない貧乏人ならそれ程でもありますまいが、生憎あいにくと鍛冶屋は、これまで貧乏はしてゐても、借金をした事のない男ですから、気にかゝつて仕方がない処を往来で恥かしめたのだからたまりません。をとなしいけれど一徹な鍛冶屋はすつかり逆上してしまひました。
『もう分つた! こん畜生! 貴様のような因業な奴は斯うしてやるんだ!』
 彼れは夢中になつて、丁度持ち合はせてゐた大きなヤツトコでいきなり彼の頭をなぐりつけました。
 彦七の横びんからおびただしい血が噴き出すのとその体が倒れるのと殆んど一緒でした。鍛冶屋は夢中になつてヤツトコを振り上げて倒れた彦七の上にのつかゝりました。が直ぐに傍の見物人に抱きとめられました。そして初めて我に返つた鍛冶屋は其処に倒れてゐる彦七の顔を流れてゐる血を見ると、呆然として大地に座り込んでしまつたのでした。
 鍛冶屋はそのまゝ帰りませんでした。彼れは警察の拘留場から監獄に放りこまれてしまつたのです。
 半月ばかりすると、まだ繃帯をしたまゝ凄い顔をした彦七が、近所の人達にいたはられながら漸く其の日々々を悲しみながら暮してゐる鍛冶屋の家にはいつて来ました。彼れは、女房の嘆願には耳もかさず、何日いつも眼ぼしい物のない家の中をかきまはした後で子供達二人が縮こまつて眠つてゐる蒲団をハギとつて子供達を畳の上にころがし、台所のかまどから釜を持つて出てゆきました。
 此の無情の仕打に、泣きぢやくる二人の子供を抱いて女房は歯ぎしりをして恨み泣いたのでした。そうして近所の女房が見兼ねて貸してくれた蒲団に子供達を寝かすと女房は自分の二人の兄弟に子供の行末を頼む書置きをして家を出て行つたのでした。
 其の夜中過ぎ、彦七の家は三方から火をかけられて燃え上りました。彼れが目をさました時には、火はすつかりまはつてしまつてゐました。それでも、彼れは枕頭まくらもとの手文庫をかゝへて走り出しましたが、入口でしたゝか足を払はれて転んだ拍子に、飛び出して来た人間にその文庫は奪はれてしまつたのでした。
 彼が気狂ひのやうになつて、その怪しい者の後を追はうとしました時には、文庫はもう火の中に投込まれてゐたのでした。鍛冶屋の女房は、とう/\彦七を素裸にしてしまつたのです。
 火は彦七の家から三軒目でとまりました。彦七は何一つ残らぬ焼け跡に呆然と立つてその醜い顔を引きゆがめてゐました。
 彼は火の為めに、彼が命をけづるやうにして築き上げた彼の今までの生涯を跡かたなく失くしてしまつたのです。彼れは激しい落胆の為めに、失神したやうになつて、二三日の間は、ただ焼けあとをうろ/\してゐたのです。
 しかし、やがて、彼れの眼にあの盛んな何物をも一気に焼きつくしてしまふ火焔が不断にチラつくやうになりました。彼れは今までの金による復讐を、此度は魅力にとんだ火焔と取り換へました。そして、長い間、彼方此方を徘徊しながら、その呪ひを止めなかつたのです。
 彼れが生れた村に帰つて来たのは、最後の思ひ出に、最初に彼れの呪ひ心を培つた土地に呪ひの火を這はす為めでした。
[『改造』第三巻第八号・一九二一年七月夏期臨時号]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
   2000(平成12)年3月15日初版発行
初出:「改造 第三巻第八号」
   1921(大正10)年7月15日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月11日作成
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