暑い暑い言うたのも束の間にてもはや秋風たちはじめ、この頃では朝夕膚さむいようになりましたが、まことに久しくおたよりも致さず、あね様はじめ小さい菊ちゃんにもお変りもあらせられませんか。おうかがい申上げます。思えばいまだ暑い盛り、油津よりおたよりいたせし以来今日まで何らの音信もいたしませず、さだめし、いずこいかなるところをさまよい居るかと雨につけ風につけお噂にのぼりお心なやませし御事と今更のように相すまぬ心地がいたします。いつも御地のこと心にかかりつつも余りに浅間しく悲しき身の上に、いつもいつもつい一度として嬉しきたよりは聞えあげぬこととて、何んとか身の落ちつきのついてからと一日一日と長びきて加様に御無沙汰いたせし次第、何卒御免下され度候。
 あね様。
 おたよりせなんだ約百日ばかりの間、言葉につくせぬ苦労をなめました。
 日向路さしてさまよいこんでよりつい一日として好い事とてはなく、慣れぬ水、慣れぬ気候にあてられて親子三人が病いの床につく有様、わたくしは昨冬弓子の産後の不養生が今にさわりて痩せ衰え、ひきこんだ風邪がいまだにぬけず、朝夕の苦しい咳といったら、胃の腑までもつきあがってくる思い、良人にも勧められて仕様ことなく診察してもらいましたところ慢性の気管支かたるとのこと、余りに烈しく咳する時は肺にかかる怖れがあるとの医者の言葉、良人はまた良人で当地方の気候にまけ脳をわるくする始末、夏の初め、舞台で卒倒して以来体の衰弱がはなはだしく、果ては寝こんで舞台を休む様な悪運つづき、加うるに鶴江まで疫病にかかり発熱して食べものがそのまま出るというような有様にて、悲惨と申すも言葉の現わしようもなく、何事も前世にて犯せし罪の報いと諦めて居りました。
 余りの事に良人も心細くなりましたものとみえ、しきりに岡村へ皈りたがり、おれも、もう五年も皈らぬし、伊助も休暇で皈る頃故あれの顔もみたいから一度戻ってみようではないか、達者になったら今度は岡村の近く、くれ近所で働こう、何よりも生れた土地の近くが一等だ、など言いまして涙ぐむ仕末に、わたくしも心動かされ、旅費には困るけれど幸い大阪直行の汽船が三津につきます故、荷物を売り払ってでも皈ろうと存じ、岡村のあに様へ加様の次第故加様に思うていると言ってたよりを出しましたところ、あに様よりの返事には今、落ちぶれた姿で皈られては世間への手前もあり考えものである。自分にとってはたった一人の血を分けた弟であるし、そんなに困っているなら何んとかつくしたいのは山々であるが、何せ伊助も商業へ出していること故なかなか金がいるし、それに当今はゴム靴ばやりの事とて店の方もとんと売れゆきが減り、自分も永年の下駄商にみ切りをつけて靴の方へ手出しをしてみようかと思っている矢先きだから資金の調達をせねばならず、心に思うばかりにてつくせぬのはざんきの至りである、加様な有様なれば自分など頼りにせず、おかよさんのお父御にすがって何んとかして貰うてはどうだろう、とのお言葉。良人は病いの床の気短く、泣いたり怒ったりいたしますのを、傍にみていた鶴江がまわらぬ口にて、お父うちゃんお芝居のお稽古、など悦び手を叩くには良人も思わず笑ったことでございます。
 思いかえせば永いことながら、伊助を岡村へおいてきてからもはや十二年、旅烏の身には何かと不自由させがちの子供をつれて歩くのは不憫にて、幸い、あと継ぎがないから、という岡村のあに様のたっての所望に、倅の身のためとも思い絞らるる胸をおしほどいて渡しはしたものの、忘れる日とてはなく、立派な学校へ入れて頂いて居ります仕合せも我がことのように嬉しいのですが、たよりの度に伊助が伊助が、と伊助を恩にきせた金の断り様、いつぞや訪ねた時の、大食いの、穀つぶしの、と育ち盛りの子をつかまえての叱り様を思い合せては、この身もつらく、手を合せて貰ってくれ、と願ったわけではないのにと、時には愚痴も言いとうなるのです。いかに落ちぶれたとて生れた土地だもの、岡村の家へは頓着なしに是が非でも皈ろうと意気まく良人をなだめて父の許へ無心のたよりをやりましたところ、母の名前でこっそり十円、別に小豆だの小麦粉だのを、親爺さんには言わんといて、と副え書きして送ってくれました。どうせ店にある品故、こうして時折り送りたいとは思うのだが親爺さんの頑固がいまにとけず、この十円をまとめるのも並大抵の苦労ではなかった、と母のたより、ただただ有りがたさで胸のふさがる思い。その金で養生をします内、何んとした不仕合せなことか鶴江がチブスみたようになり一時はとても難かしく、病める父と病める母が交る交る抱いて明しましたのも幾夜でしょう。太夫元からは鶴ちゃんの病状が病状故若し避病院へでもやられては興行をさし止められるから、とて医者にかけるのを拒まれたり、そのつらさといったら申し様もございません。
 その上に、あね様、わたくしと鶴江の病気のみなればまだしもですが、肝心働き手の良人に寝つかれてしまっては……当分は体がほんものにならぬとみてとるや、今日こんにちの物価の高いのに親子三人を遊ばせて食わせておくのを怖れた座元は、何んたる無情でしょう、南那珂郡福島という地、日向の南のはずれ大隅と隣接する一寒村に我々を置き去りにし、自分らのみ鹿児島へと乗りこんでしまいました。
 ああ、その時の心細さ、初めて入りこんだ土地風俗も分らぬ九州の南の端しに病める親子三人が残された時の心地お察し下さいませ。
 良人は水に不慣れのため脚気みたようになり杖にすがらねば歩けず、わたくしは立ちくらみする程の貧血衰弱、鶴江は坐わる力なき程衰えて居ります有様は何んの罰か報いかと思われ、何度、親子心中をねがったかしれません。
 耐えかねて再び父の許にすがってやりましたが、父からは何んとも言うてはこず、母からの返事に、夫婦ひき分けて、鶴江は自分らが引きとり、わたくしをば再縁させるつもりのところ、わたくしが言うことをきかず、親すら捨てて一緒になった良人故苦労は覚悟の前、と言ってやって以来、父の怒りがとけず、親でもない娘でもない間柄で金の無心などきいてやる訳がない。苦労苦労言うても、自分から好きこのんでする苦労ではないか、と相かわらずの一徹さ、口では喧ましく言うても親爺さんも何せ年をとりなすったから……とのたよりに、ただ訳もなく泣けて泣けて……。巻紙の中には七円入っていましたが、これだけ集めるのにどんなにか母は心を痛めたことでしょう。さしずめ宿賃や米代の払いにし良人の体がすこしでも快くなったら売られるものは売り払って久留米辺りまで出よう、と語り合っている内に、岡村のあに様よりたよりがあり、大隅にいる戸部の伯父を訪ねてみてはどうか、と知らせてまいりました。
 あね様にはまだお話してなかったと思いますが、戸部の伯父というのは良人の実の伯母のつれあいなのです。伯母が亡くなってからはここ七八年もゆき来をせず、久留米をひきはらって大隅へ移ったということも岡村からの知らせで始めてわかったようなものでした。伯母のいる頃、良人は一、二度遊びにいったこともあるそうですが、金貸しをして居り、何せ評判の倹約家で、ものにすたりはないと言い、一本の爪楊枝も無駄にはせずささくれたら又削って楊枝入れへさしておく、といった調子、便所へは新聞紙を小さく切って入れておくのだそうですが、その減りかたが激しいといって伯母などよく叱られていたそうです。朝晩芥箱をのぞくのはおきまりで、自分で考案した竹の鋏で何や彼やを拾ってきては、勿体ない、を言いつづけ、大根の尻っぽや人蓼の皮まで、味噌汁のだしにしたりして用立て、人からきた手紙の封筒やかん袋など裏がえして帖面にとじておく、というような気のつき様、噂をきくさえ嘆じいる他はありません。
 良人の話ですと、戸部の伯父は何んでも抵当流れで儲けたんだそうですが、その抵当物の鑑定のかけひきのこつは誰れにも掴み得ないとのこと、資産も莫大なものだろうなど申して居りました。
 何はともあれ、戸部の伯父が大隅にいるということは仕合せなことだ、と良人は悦びいさみ、何んとかおすがり申してくるからと躯に元気をつけて大隅まで出かけていったのです。珍らしいから、一ト晩ぐらいはひき止められるかもしれない、と言いおいて出かけましたのに、暮れきらないうちにしょんぼり皈ってまいりました。話をきくと、伯父はともかく悦んではくれたそうですが、伯母のあとには後妻が入っていて二人の子まであり、伯父と良人が話している傍から離れずにいるものです故、何んとなく部屋の空気が堅くるしく、金の話をせずにきたとの事、折角の足代も無駄になったというもの、仕方なく一時の融通かたをたよりで頼むと、大方どこぞよりきた手紙らしいペン字で書いた罫紙の裏へ筆太に書かれた返事には、お民がいない今は貴方と自分とは何らのつながりもない他人である事、金を融通してくれとの話であるが何か抵当物をお持ちか、自分は小口は余り好ましくないが、まア昔の縁故もあることだし話には乗ってみよう。但し日歩は十銭がぎりぎりだ、というような商談だけがしるされてありました。
 大隅には後妻の里があり、戸部の伯父は大きな農園をもそこで経営しているとのことです故さぞ立派な財産をおもちでしょうものを、今更羨やんだところで詮ないことでございます。世の無情に泣きくれる良人をみては、わたくしとて生き甲斐のあろうはずがなく、この世への恨みつらみのありったけを日毎夜毎に愚痴って居ります内、捨てる神あれば助ける神ありとやら、この地の常磐座の持主で、鹿児島県の多額納税者である尾形というかたの奥様が旅の空で可哀そうに、とのお心からわたくし共に眼をかけて下すったのです。尾形というかたは常磐座の他に志布志というところの劇場も有って居られ、酒と醤油の醸造家でもあるそうです。奥様は、良人が常磐座で月形半平太をうって居りました時は二度も御覧になられたとか、芝居は子供の頃から好きだったとか、良人にいろいろと幕内の事どもを尋ねたりなさいました。幟があったらどんなのでも宜しいから一枚くれ、と仰言り、少々古ぼけてはいましたが、持合せの茶地に白で染め抜いた市川多賀之丞丈江を一枚さしあげたのです。奥様の悦びようといったらありませんでした。何んになさるのか、とおききすると、ただ納っておくのだ、とお笑いになるばかり。
 わたくしも良人の果報を少しはねたましく思ったことでございます。
 お邸には、幸い六年もいたお針さんが病気で皈った故四十人からいる雇人の縫物に困っているから気分さえよくば少しずつお針をしてくれ、それに良人は良人で庭の手入れの方でも手伝って貰うから安気に住みこんで貰いたいとのお言葉。先方様から加様に仰言って頂く御親切は始めてのこととて、良人も手を合せんばかりの嬉しがりよう。早速親子三人お邸へ入りこんだのでございます。娘時代にしこまれたお針が今ここで役立とうとは思いもかけず、わたくしも精を出し、良人が快りきるまでは、と寝かせておいて下さる奥様のお心づかいに二倍の元気を出して働きつづけました。お邸にはちゃんとお医者も抱えてあり、三度三度の食事も勿体ない様にて、おかしい程に親子のものが肥ってまいりました。
 殊に鶴江はめきめきと丈夫になり、病後の事とて食慾が激しく、奥様はみんなにかくして、よく袂へ菓子などしのばせておいでになり、鶴ちゃん鶴ちゃん、と可愛がって下さるのですが下賤の子の礼儀もわきまえず、ありがと、のひと言もいわずに、ひったくるようにしてむしゃつく哀しさ、身のせつなさお察し下され度候。
 お邸に慣れるにつれ、内々の事どもを見ききするようになりましたが、この世の仕合せと羨やんで居りました大家の奥にも暗いかげがあり、奥様には子供さんがなく、お妾に四人もの子があってお袋様は孫の愛にひかされてお妾にかたうどする有様、御主人はまた滅多に家には居ず、たまに帰っても仕事にかまけて奥様とは口もききなさらず、奥様はまったくの独りぼっちなのでございます。御器量といい、おやさしいお心根といい、一点非のうちどころのないかたのようにみうけられますのに、御夫婦仲のよくないということが解せず、お妾は時折りお邸へもお出でるのですが、すが目のでっちりな女でとてもとても奥様とはくらべものにならず、月とすっぽんの何んとやら、御主人のむら気には呆れはてたものでございます。
 奥様は何かにつけわたくし共におやさしく、いまは慢性になって居る故寝こむ程のこともありませんが絶えずゴホンゴホンと咳いるわたくしをみかねてか、鹿児島の海岸にある別荘へ行ってくるようにとのお言葉、朝起きると夜ねるまで針の取り通しに、家の人たちへも気がねがあり、寸時も気を休めることとてはなく、咳を押し殺して仕事をすれば眼のまわりが腫れたりする有様に、良人も勧めて、丁度別荘へお出でのお袋様にお供をし、鶴江ともどもまいりましたが一ト月も居ります内顔色もみちがえるようになり、この元気の好さを良人にもみせてやりたく、はやる心をおし沈めてお邸へ戻りはしたものの、そこに不幸が待っていようとは誰れが想像いたしましょう。
 あね様。
 良人が奥様の男妾になっているという噂がわたくしを待ちかまえていたのでございます。
 男妾……しかも奥様の……ああ、何としたことでございましょう。良人に限って、いや、奥様に限ってそんなことがあるものか、奥様の御器量や御身分をねたみ、言葉をかけられる良人の仕合せをやっかんでの下賤もののはしたなさだろう、とは堅く信じてはいるものの、常日頃の、良人にみせる奥様のおやさしさを思うては不安も募り、堅い心も突き崩れるという他愛なさ。
 お邸へ出いりするおのぶさんという髪結いの話では、別荘へやって下すったのも奥様の魂胆とやら……美男子の亭主をもっていると気苦労なこった、とあてつけがましいものの言いよう。ええ、言わんでもいいことを、と気もちがたかぶり、つい、むかむかと良人に食ってかかりますと、ただ申訳ない、ゆるしてくれの言いつづけ、仰山な恰好にてその場へ泣き崩れるのを、芝居は家では沢山だ、と思いもよらぬたんかなどきったわれとわが身の浅間しさに良人をかき抱いてすすり上げるという仕末。あね様、この苦しみは何にたとえようもありませぬ。
 きけば、おたがいの同情が溶け流れて深間へ落ちこんだとか、良人は生来の正直もの故、あったことのありったけを語りきかせたい素ぶりに、過ぎたことはもうそのままに……と無理にもおし止め、奥様には何事もきかず知らん顔、いつものようにお針でまめに仕えている一方、良人には幕内の気安さを説き、丁度、常磐座へかかっていた沢村海老蔵一座に話してみたところ、役者の足りないところとて早速の承諾、良人も新らしい希望にもえ立って一座の人となりました。
 思えば、このわたくしが小娘の頃、良人の舞台姿にこがれて夜毎々々通いづめ、いま奥様の心情をその当時のわたくしに移しかえてみぬ訳ではありませんが、何んとしても殺し切れないものは嫉妬の虫ばかり、それからは奥様とわたくし共の間がしっくりゆかず、一座が福島を旅立つにつれて、わたくし共もお邸をおいとますることになりましたが、別れしなに奥様は鶴江に何か買うてくれ、とて二十円も包んで下さり、何事も何事も水に流して、わたくしも奥様には悪気はもたず、有りがたさにおし頂いてお邸を出たことでございます。
 涼しくはなりましたし、良人も病気上りの目立つ程に肥えふとり、鶴江も至って元気にてこの頃ではセリフの覚えも早く、子役で時折り舞台へ出る程になり、幸いの神もようようめぐり来たかと悦んでは居りますものの、ただ気になるのはこのわたくしの躯、顔色がなおったとは言い状、咳は又してもひっきりなし、それにこの頃の胸わるさ吐き気はどうやら子が宿っているらしく、弓子の死んだあとはもう見きりをつけていたものの、この境遇にまた一人ふえられてはどうしたものだろう、出来ぬでもよい身には出来、欲しい人には出来ぬ、と歎けば、良人は、縁あればこそ子も生れるのだ、犬猫でさえ何んとか育てていくではないか、また、生んだ時は生んだで何んとかなるだろうから、くよくよ案じるな、と力づけてはくれますが日増しに重くなる身で再び旅から旅へのさすらいとは……ああ、あね様、何やかや考えるとこの身の置きどころもないように思われ、心細くて心細くてなりません。
 実は、尾形家に居ります内にも一本葉書なりと差上げるつもりでありましたが、他家にいる身にはまるでくくられているようで、御飯の時以外には体の休む時はなくたよりひとつ書けず、良人は良人とて牡丹刷毛はもてど筆もつすべは知らず、ついつい明日は明日はとのびのびになり加様に御無沙汰いたせし次第何卒々々おゆるし下され度、ねがいあげ候。
 鶴江の育つをみるにつけ、菊ちゃんもさぞ大きくなられたであろうと存じますが、おかわりもありませんか。またあなた様のことは時折り夢にさえみ、あの黒髪のゆたかさなど懐しくしのんで居ります。岡村へはあのままたよりもいたしませず、余りの御無沙汰に、今日はこのあとに一本書いて出すつもりで居りますが、あね様からもおついでの時くれぐれも宜しく、伊助の写真でもありますならどんなに小さいのでもよろしいから一枚送って下さるよう、おねがい申して下さいませ。また、あれの書きました習字でもありますなら(どんな書きくずしでもよろしく)これも一枚おねがいいたします。
 いつもいつも嬉しいたよりはきこえあげず、さぞかしおうるさい事でありましょうが、父からはかえりみられず、岡村のあに様や戸部の伯父とてあの様なもの堅さではとりつく島もなく、ただただ頼りになるのはあね様のみ、嬉しいにつけ悲しいにつけ、つい、お耳にいれておすがり申したきこの心情、何卒御推察下さいますよう。
 つきましては、加様に不甲斐なきわたくしの躯故、またもまたもと良人に薬買う金もせがまれず、さりとて、このままにては何時果てるやもしれず、あね様ひとりを頼りと思い、たってのねがいおきき届け下さいますよう、金十円程を御融通下さる訳にはまいりませんでしょうか。出来なければ九円でも八円でもよろしく、これはひと興行終りますれば良人の手にも幾ばくかの金が入ります故、是非にでもおかえし申しますれば、御安気下され度。この久留米にはあと半月も居りましょうから、まだまだおたよりはさしあげますなれど、お躯くれぐれもお大切にあそばすよう、伏してねがいあげます。
かよ

底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「文学界」
   1934(昭和9)年8月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月16日作成
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