一

 教育心理に於て相變らず中心の問題をなすものは、學習の法則である。一方に動物心理から發達したソーンダイクやワトソンの法則があり、他方に形態心理の見地から主張したコフカやオグデンの法則がありて、互に論爭をつゞけ、中には兩者の折衷を試みんと企てゝゐるものもある。
 ソーンダイクの學習の法則は準備、練習、結果の三つであるが、その中心をなすものは結果の法則である。即ち學習の最初の行動は試行錯誤によりて行はれ、その中で結果を持ちきたすものゝみが漸次に固定されて行き、遂に學習するやうになるといふのである。しかもこの法則はソーンダイクが最初述べたものから漸次に變化を被つて居るやうで、最近の彼の著作「人間學習」によると、可なりに彼の思想の發展を示して居るやうである。
 彼の最近の考へによると、結果の法則に對して五つの新しい概念を設定してゐる。第一は附屬することで、これは二つの事物の繼續に於て、後のものが前のものに附屬することが必要である。即ちかゝる繼續は關係又は附屬を有することを意味して居る。第二は同一視で、一の状態又は一の反應が他のそれと容易に結合することは、その状態又は反應の質に關係するといふことである。即ち二つの状態又は反應の質の間に同一關係があればあるほど兩者は結合する。第三は有用で、反應が役に立ち或は喚び起され得る程度に比例して結合が容易に出來上るといふことである。第四は試行で、目的に對し不適當又は不正の反應をする場合を説明するために之の試行を用ゆる。第五は系統で、聯合的習慣を作り上げる結合傾向で、それは精神生活の根本的な動的樣式を生ずるものである。

             二

 かやうに述べてくると、形態心理學の主張と接近して來たかのやうに見ゆる。形態心理學によると、學習とは組織又は形態の構成であるとする。而してこの組織の構成にはソーンダイクのいふ附屬すること、即ち關係の感を包含して居るといへよう。殊にケーラーの如きは類人猿の學習にこの附屬の成分を發見して居るし、レヴィンは人間の學習にその成分を認めて居る。
 次にソーンダイクの同一視は、形態心理學に於て、ある構造は安定して居り、ある構造は不安定であるといふことに近い。ゴットシャルトは最も簡單な且つ最も普通に經驗される幾何學的圖形の再認を命ずると、その再認圖形はそれの全體的圖形によりて影響されるといふ結果を得た。即ちある構造は安定性に於て相違するから、ある構造の部分は他の構造の部分よりも遙かに分離され易く、而して新な全體の部分になりて安定を得るといふのであるが、ソーンダイクが結合する反應又は状態の質によりて結合が容易であり又は困難になるといつたことゝ相似て居るやうに思はれる。又構造の安定性は經驗の多少有無によりて影響されるものでないとのゴットシャルトの結論は、ソーンダイクと同一の事を考へてゐるともいへよう。
 次に反應が役に立つといふソーンダイクの條件は、シュワルツの實驗と關係を有し、氏は反應の有用性は、その反應を含む全體の構造によるとする。構造の安定性に變化が生ずると、一定の反應がその全體から分れて表はれてくる。即ち構造の安定性が新しい反應の出現を規定するもので、一定の状態に學習又は習慣構成を生ずるか否かはこの安定性に基づくものである。かくして有用といふことは構造の安定性と關係があるといへる。
 次に試行といふことには、ある問題が與へられると、それを解決せんとて種々の行動を試みることの意味も含まれて居る。而してその目的が達せられると、その種の行動は止まつて他の行動に轉ずる。それは遠くにある目標の知覺、緊張が無くなること、平衡を得ること等と關係し、更に動機づけについての形態説の根本概念と關係して居る。
 最後に系統といふことも、聯合的習慣を形造るのであるから、精神生活の根本的な動的形體を取る結合で、その結合は組織とか構造を作り上げることを意味すといへるのである。

             三

 以上は形態説とソーンダイクの主張とを、双方から少しく歩み寄らせた上のことであるが、兩者の間には尚越ゆべからざる空隙がある。今少しくソーンダイクが結果の法則に連關して述べて居る所を引用して見よう。
 心理學者は學習の原因として、滿足することに力を與へることを恐れ、それは、相互作用、快樂説、神秘説、快樂論的意識の未知の生理的類推であると恐れ、結合の結果の直接行爲は時間關係を不可能ならしむると恐れ、頻繁、新進、強度を殆んど信じられない位に無理に使用し、それで不足する場合には、適合、優勢、禁止からの解放、主なる反應、殘存結果の再現等を使用する。しかし子供に最初旨い食物を口に入れて、次に食物を入れる場合と、最初苦い食物を口に入れて、次に食物を入れる場合とを比較すると、前の方が子供は容易に口を開くのは當然で、その場合には所謂「附屬」を生ずる。即ち滿足を與ふる行爲は、その何物かを後に殘し、その結合に相應して、食物を見ると、それを口に入れるやうになる。かやうな事は生理學的見地からいふと神秘的に見えるかも知れないが、事實は確かである。何にも間接的行爲をなすことによりて、それが行はれもせず、又旨い味の心像とか他の表象がその働をなすと推定する必要もない。結合した第二の行動に先んじて表象があることは眞であるが、しかしその表象と行動とは全く無關係である。旨い物を第二回目に見る場合は、最初それを見る時よりも遙か容易に反應を引き起す。故に第二回目の反應の進歩は、第二回の反應が初まる以前に已に出來上つて居ると考へられる。要するに學習に於ける結果の法則は、滿足を持來たすもの以上のことを要求せず、また或る痕跡を殘すといふよりも、附屬又は結合を生ずること以外にないものである。
 ソーンダイクはまた次のやうなことを他の所で言つて居る。
 學習には反復を要するが、その反復といふことは單なる時間的連續を意味しない。單なる時間的連續では學習は成立しない。そこには「附屬すること」が必要である。即ち系列の反復的出來事が、系列の第一の項と第二の項との間の結合を強めるためには、常に又は殆んど常に「附屬すること」を必要とする。しかしこの附屬することは、その言葉が意味する以上のものでない。そこに論理的とか、主要的とか、生來的とかに結合するを要しない。何れのこれが、それと共に行くことで十分である。ジョン君と一四九二番とが電話番號のために結びつくことは、コロンバスと一四九二年とが結びつくのと同一であると。
 如上の言から見ると、ソーンダイクは、滿足なる結果を招來しない場合には眞の學習が成立しないことを信じて居るやうである。之に反して形態論者は[#「形態論者は」は底本では「形熊論者は」]、學習の成立には構造の安定、平衡、成全を必要とする。成全や安定の構造と滿足の結果とはその極致に於て、同一のものであるに相違ないが、それに達する途上に於ては兩者が必ずしも一致するとは言へない。その所に兩者の主張の對立がある。ソーンダイクは生物學的見地よりして、生物の滿足といふ點に着眼し、滿足なる結果に至つて安定すと考へて居るやうである。之に反して形態論者は現象學的に見て、構造の安定に留意し、安定せる結果に至つて滿足を感ずと考へて居るやうである。故に兩者の主張は全く立場を異にする所からくるもので、詳言すれば生物學的立場からはどうしても滿足の感が必要であるし、現象學的立場からは形態構造が必要になつてくる。從つて同一立場に於ける爭論と異つて、その主張の眞否を論ずるよりは、寧ろその立場の如何を論ずべきである。而して心理學の研究からいへば、一面に精神現象をあるがまゝに記述すると共に、他面には欲求とか滿足とかを考慮して、その現象變化の状勢を説明する必要がある。換言すれば人間活動は物的に支配されると共に生物的に規定されるから、吾人はその雙方の立場より研究の歩を進むべきである。雙方の立場の近い所を取りて歩みよりを企て、無理に妥協せしむるよりも、全く異つた立場を固執して、人間活動の究明に進むべきものであると私は考へる。

             四

 尚學習について問題となつて居るのは、動物は盲目的な試行によりて學習するといふ主張と、動物すらも洞察を用ひて學習するといふ見解との對立である。而してこの考へは人間の學習にまで推し及ぼされて、一方に人間も行ふことによりて學ぶといひ、他方に洞察によりて學習すると言はれる。今動物實驗についての論議を省き、人間の學習に於て、果して試行錯誤のみで行はれるか、それとも洞察によりて學習が完成されるかの問題を吟味して見よう。
 私の考へによると、この對立は試行とか洞察とかの意味にあまり捉はれ過ぎた結果であると思ふ。殊に成人の學習實驗を試みるとその感を深くする。ある研究者は之を以て程度の差と考へて居る。例へば困難な問題に遭遇すると洞察が利かなくなり、試行錯誤的の行動をとる。所が目的や方法の洞察が行はれる所では試行錯誤的行動は表はれないと。これは極めて明白なやうであるが、しかし安價な妥協ではあるまいか。かやうな妥協をなす位なら、試行一點張り又は洞察一點張りでも説明が出來る。即ち容易な問題では錯誤が少なく數回の試行で目的に達し、困難な問題では多數の試行が行はれるといふことも出來るし、又容易な問題では直ちに洞察が行はれて學習され、困難な問題では洞察が遠く働くことが出來ず、當面の難關の所に停滯すといふことが出來る。
 故に試行と洞察との概念を確立することによりて、この對立は緩和されるやうに思はれる。殊に近時ハルトマンが十種の問題解決に於ける洞察對試行の研究によると益々私の主張を確かにする。即ち氏の結論によると、洞察が達せられると、學習は確立してくる。學習者の未知の状態に從つて、洞察は突然、直ちに、漸徐に表はれてくる。正しき構造を完成するまでに、試行錯誤は試驗的組織の要素を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したり、排除したりするに必要であると。
 今この二種の概念を吟味すると、洞察といふことは關係の認知といふ所謂狹義の洞察を示す場合と、状態や問題を見透す所の達觀を示す場合とがある。又試行錯誤といふことも問題解決に對して直接の効果を持來さないものではあるが、廣い意味に於ては全くの無關係でない行動の場合とよりよき方法への轉換、即ち成功への試行の場合とがある。故に私は洞察といふことを關係の認知に限定し、状態や問題の解決を見透すことを達觀と稱へ、試行は直接に結果に關係のない行動をさすことにすれば、人間學習には試行もあり、洞察もあり、また達觀もあるといひ得ると思ふ。かくして試行と洞察の對立は無くなつてくる。

             五

 次に興味ある問題は類型である。類型とは吾人の活動の方向又は形式で、それの研究に靜的方法と動的方法との二方面がある。前者に於ては型の判斷と客觀的測定との間の關係を求めんとするもので、主として米國流の統計的研究者に見る方法である。例へばクレッチュマーの體型の研究に於て、身長、體重、胸圍等の測定は勿論、その他の身體的特徴に於ても出來るだけ客觀的測定を用ひ、それ等よりして客觀的標準を設定し、その標準と型とを結びつけようとする。所が現象的にそれ等の間に一對一の相關を發見しない爲めに、體型の存在を否定するものがある。かゝる態度は單に體型ばかりでなく、他の幾多の精神型の研究に於ても看取される。
 これ等の研究方法と對立して居るものは主として獨逸流の研究者の中に見るもので、前述の如き研究態度に對して批判を加へ、動的方法を主張する。即ちそれによると、比率、指數、角度等の靜的測定と、型の動的決定とは相違して居る。クレッチュマーの設定した肥滿型とか痩身型とか等と、身長、體重の比とを關係づける企ては、形式と内容との區別を全く無視したものである。榮養をよくしたり、飢餓に陷らせたりして、その者の身體的外觀を變化し得るが、しかしそれは現象型の一つか二つかを研究者に示すに過ぎない。彼が若し現象的に肥滿型であれば、それが飢餓に迫ると、現象的に痩身型になるかも知れない。比率やその他の客觀的靜的測定はこれ等の現象的變化を考慮に入れない。かやうな靜的測定を動物型の判斷に使用することは誤謬で、動的型には動物測定を使用すべきであるとする。
 この動的方法の主張者は又在來の人相學、骨相學、筆蹟學の方法をも批判する。即ちそれ等の學は、靜的樣式と動的特性との相關に立脚するもので、それ等は人格の形式と内容とを混同して居る。例へば書かれた文字の靜的線は、人格の動的又は變化的表現を示すものとは言へない。その一々の線は動的全體又は方向の一の徴表に過ぎない。故にその線は類型によりて規定された一の變數であり、他の幾多の變數と結合して、動的全體又は型の精密なる描寫がなされ得るのであると批判する。
 尚動的方法の主張者によると、今日物理學者の測定が相對的である如くに、心理學者も同樣なことをなさなければならぬとする 變化系統は無變化の尺度によりて測定することは出來ない。若しその系統の將來の行動又はその系統の方向を測定の結果から豫言したり統制したりするには、無變化の尺度や道具を用ひて測定してはならぬ。心理學に於ける解決は人間有機體である。人間有機體は變化しつゝあり、それは動的のものである。故に測定の道具は動的のものでなければならぬ。過去に於て心理學者と教育者とはテストを標準化し、觀察者の影響を出來るだけ除去せんと企てた それは彼等が彼等の測定を出來るだけ靜的不變化の尺度に歸せしめたことを意味し、又それが測定一般の理想であると考へた。その結果彼等は豫想し統制することが出來なくなつたと非難する。

             六

 如上の批判は古い精神檢査者に對して極めて適切なものである。動的測定を靜的測定に歸せしむる企ては、人間有機體を除去し、漸次に非人格的、客觀的テストにたよるやうになり、それ等の檢査者は豫想し、統制する能力を失ふに至るであらう。それには彼等の測定に動的解釋を下す必要がある。しかし動的解釋に當りて主觀的分子、甚だしきは任意的解釋の介在してくる餘地が十分にある。今日の類型研究者の中にはこの種の弊に陷つたものもあるやうである。故にその弊を救ふには、觀察者の標準化が必要になる。かの醫師が實際彼等の判斷を標準化し、從つて彼等は豫想し、統制することが出來て居るやうに、將來の類型研究者は判斷の標準化を企つべきで、かくして彼等の判斷は高い程度の精密さに於て相互に一致するに至るであらう。
 實際今日の類型研究の結果が互に相接近して來て居ることは極めて興味あることである。ユングの定めた内向と外向の型は、クレッチュマーの乖離的性格と循環的性格とに關係を有し、これ等兩氏の型はまたイェーンシュの直觀像による分類と關聯して居る。即ちイェーンシュのT型は内向型と乖離性とに接近し、B型は外向型と循環性とに關係がある。尚種々の實驗的研究、例へば單調の作業を永く持續するやうに命じ、その作業量の變化形式と前記の精神型との間に關係が發見され、幾何學的錯視圖を示し、その際に於ける圖形の動搖によりて型を分類し、筋肉的反應と體型との關係を見、手書の一定の樣式の中に共通の型の一群があることが發見されて居る。而して此等の實驗的研究を一貫せる意圖は、個人が如何に反應するかの研究で、個人が反應として何をなすかでない點である。彼等は智能、所謂人格的特質、環境を考察することなく、偶然的因子の介在には無頓着の態度を取る。その上彼等は個人間の類似の點に眼を向け、差異の點に基礎を置いて研究しないやうである。
 尚少しく精密に言へば、環境、個人、文化的全體又は世紀は變數である。それ等は相互に依存關係を有するが、しかし必ずしも相互の間に一對一の關係を有するものでない。かくして環境は有機體の中にそれに相應する變化を引起すことなく、一定の制限内に變化し得る。環境が變化を引起さないとは言はないが、その變化は些少で、精密に相應する反應でない。變數の正常の範圍を越えた變化は有機體に著しい變化を生じ得る。同樣に有機體に於ける變數は一定の範圍内では、相互に獨立して變化し得るのである。(假令それ等が根本的には相互に依存しても)。智能は一個人の中に各瞬間毎に變化し得る。又欲求、情緒及びその他の成分も亦個人の全體像を變化することなくして變化し得るのである。只それ等が正常の制限を越えて變化した時にのみ、構造組織の上に變化が表はれてくる。かくして環境、有機體、文化的全體の中に不變恒常の成分が働いてゐることを發見するといふのが、類型學者の考へ方である。

             七

 かやうに類型學者の求むる所は、不斷の變化の中にありて、固定不變の規準を發見することで、環境、文化的全體の變化に左右されず常に一定の方向を取る所の樣式でなければ、眞の類型とはいへないであらう。類型學者の研究としてはこの種の類型の發見で滿足すべきであるかも知れないが、これが實際教育の上に適用される場合には、それでは不十分になつてくる。
 今一例を擧げて見よう。茲に類型學者によりて構造的に内向型であると判斷された一兒童があるとする。彼は内氣で正直で温和な者であり、又正直のテストをすると高い點を取つたとする。しかし彼が家計の變化のために正に餓死に瀕せんとするに至るや、彼は不正直な事を敢てするかも知れない。變數の正直は環境の中の飢餓の變數と密接な關係に立つ。しかし彼は餓死するか否かに拘らず、依然として構造上内向型であるといふ場合を考へて見よ。類型研究者からいへば正しい判斷を下したといへるが、實際教育者からいへばこの種の靜的な類型の發見よりも、環境によりて彼の行動が如何なる變化を蒙るか、又その變化の方向や範圍は如何等の動的研究が大切になつてくる。即ち兒童の人格の構造は如何なる範圍に於て變化しないか、同一構造のものでも、環境の變化によりて行動に如何なる變化を引起すか、場の力が兒童の行動に如何に働くか等を知る必要がある。この種の環境研究の新傾向については拙著「環境の心理」に詳述して居るから、茲に之を省くことにするが、それ等の環境研究者の結果によると、人間の欲求が環境の状勢によりて、異なる方向を取るばかりでなく、又その衝動の力にも變化を來たすことが明かにされた。故に吾人は一方に恒常的方向を取る類型を把握すると同時に、他方に環境によりてその方向に歪みを生ずる場合を知らなければならぬ。(十、二、十一)

底本:「文献選集 教育と保護の心理学 昭和戦前戦中期 第1巻」クレス出版
   1997(平成9)年6月25日発行
底本の親本:「学校教育」
   1935(昭和10)年
初出:「学校教育」
   1935(昭和10)年
入力:岩澤秀紀
校正:小林繁雄
2008年3月4日作成
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