私は「夏の花」「廃墟から」などの短編で広島の遭難を描いたが、あれを読んでくれた人はきまつたやうに、
「あの甥はどうなりましたか」と訊ねる。
「健在ですよ」と答へるものの、相手には何か腑に陥ちない様子がうかがはれるのであつた。してみると、どうもあのところは書き足りないのではなかつたかと思へる。それで、甥のところだけを切離してちよつと書添へておく。

 私たちは八月六日に広島で遭難し、八日に八幡村に移つたが、中学一年生の甥だけはまだ行衛不明であつた。末子の死体をまざまざと途上で見て来た両親は、長男の方のことも、口に出しては云はなかつたが、殆ど諦めてゐたらしい。ある昼、突然、縁側で嫂の泣き喚く声がした。
「わあ、生きてゐたの、生きてゐたの」
 と嫂は廿日市から自転車でその甥の無事だつたことを報らせに来てくれた長兄にとり縋るやうにして泣き狂つた。甥はしかしその日、廿日市の長兄のところまで辿りついたが、疲労のためまだこちらへは帰つて来なかつた。甥がこちらへ戻つて来たのはその翌日であつた。
 戻つて来た甥は思つたより元気さうだつた。あの朝、建もの疎開のため動員されて恰度、学校の教室にゐたが、光線を見た瞬間、彼は机の下に身を潜めた。次いで教室は崩壊したが、机の下から匐ひ出すと、助かつてゐる生徒は四五名しかゐなかつた。みんなは走つて比治山の方へ向かひ、途中で彼も白い液体を吐いた。――かういふことを語る甥はいたつて平静であつた。一緒に助かつた友達と翌日、汽車に乗り彼はその友達の家へたどり着いた。そこで四五日滞在し静養してゐたのである。この神経質でおとなしい少年は、何か鋭い勘とねばりを潜めてゐた。奇蹟的に助かつたのも、偶然ではなかつたのかもしれない。だが、甥にとつての危機は決してこれで終つたのではなかつた。戻つて来た甥は二三日すると、私の妹と一緒に遠方の知人のところへ、野菜を頒けてもらひに出かけた。朝はやく出かけ、山一つ越えて行くのだつた。妹は昼すぎに戻つて来たが、甥は四五町さきの農家の軒下に蹲つてゐるといふことであつた。暑さと疲れのため、もうどうしても歩けなくなつたのである。やがて日が傾いた頃、甥は蒼ざめた顔で戻つて来た。まだ戦災の疲れも癒えてゐないのに、ここではみんなが空腹のまま無理をつづけなければならなかつた。台所の土間からつづく二畳の部屋が食事をする場所だつたが、そこに坐ると、破れ窓を塞ぐためにマツチのレツテルらしい一メートル四方位の紙がぶらさげてある。その毒々しい細かい模様を眺めると、それがそのまま何か血まみれの記憶と似かよつてゐた。小さな姪たちは耳や指を火傷してゐたし、次兄の肩の傷もヒリヒリと痛むらしかつた。
 ある朝、食事の箸をおいた甥は、ふと頭に手をやつて、「髪の毛が抜ける」と云ひだした。
「禿頭になつたのかしら、ひとの帽子を借りたので」と不審がる。さういへば、甥はここへ戻つて来たとき大きな麦藁帽をかむつてゐたのだつた。まだ禿というほど目だつてもゐなかつたが、妹に連れられて廿日市の方の医者に診てもらつた。結局はつきりしたことは判らなかつた。がそれからも脱毛は小止みなくつづいた。「いくらでも脱ける」と、甥は心細さうに呟き、だんだんいらだつて来た。そのうちに彼の頭はすつかりつるつるになつてゐた。私もその頃、猛烈な下痢に悩まされひどく衰弱してゐたが、ある日、廿日市の長兄のところで何気なくそんなことを話してゐると、傍にゐた近所の人が、
「それはよほど気をつけた方がいいですぞ」と、何かぞつとするやうな調子で心配してくれた。今度の遭難者で下痢や脱毛や斑点が現れると、危険だといふことが、そこではもう大分知れわたつてゐた。今迄無事で助かつてゐたと思ふ人もつぎつぎ死んで行くし、鼻血が出だすともう助からないといふこともその時耳にした。妹は甥の様子がだんだん衰へて行くのに気づき、
「あれはもうあぶない」と囁きだした。
 甥は食事の度毎に神経質に顔をしかめ、
「これは何か厭なにほひがする」と、ひどく不平さうに呟くのだつた。後で考へてみると、臭いにほひがするのは神経の所為ではなく、その頃彼の内臓が腐敗しかかつてゐたためなのだらう。斑点の話が出て、私たちが自分の体を調らべ、二つ三つあるなど云ひあつてゐると、黙つて側できいてゐた甥が、
「僕にもある」と、はつきりした声で云つた。が、それは何か冷やりとさすものを含んだ調子であつた。

 その前の日から甥は血を喀きだしたが、恰度廿日市の長兄のところへ立寄つてゐると、夕食を済したところへ、八幡村から電話がかかつて来た。長兄も嫂も今夜は八幡村の方へ泊るつもりで出掛けた。私たちは長い暗い路を歩きながら、また人の死に目に遇ふのかとおもつた。暗い夜空からは雨が降りだした。私の眼の片隅には、神経に異常でも生じたのか、頻りに青い小さな羽虫のやうな焔がちらついてゐた。それは歩くたびに煩いほどつきまとつて来た。家に着くと、私たちは甥の枕頭に坐り込んだ。甥はいつのまにか、綺麗な縞の絹の着物を着せられ、禿げ上つた頭と細い顔は陶器のやうに青ざめてゐた。鼻腔には赤く染まつた綿が詰められてゐた。枕頭の金盥は吐くもので真赤だつた。それでも甥はパツチリと黒い眼をあけ、ときどき苦しげに悶えた。
「がんばれよ」と次兄は側から低い声で励ました。甥の枕頭には一枚の葉書が置いてあつた。それはあのとき一緒に逃げた友達の親許から寄来された死亡通知であつた。みんなはそつとその葉書をみて押黙つた。
「際の際まで、意識は明瞭だといふことです」と嫂は声を潜めた。夜が更けてゐたので、私たちは一まづ二階へ引あげた。私はいつ呼び起されるかしれないつもりで、夜具に潜つた。陰惨な光景にはあきあきするほど遭遇してゐたが、さつき見た甥の姿は眼に沁みるのだつた。だが、階下の方はひつそりとして何の変つた気配もなかつた。そのまま夜は明けて行つた。朝になると、みんなは吻とした。何だか助かつたのではないかといふ気持が支配した。事実、甥は持ちこたへて行くらしかつた。急変がないのをみて、廿日市の長兄たちも一まづ帰つて行つた。

 危篤状態は過ぎたらしかつたが、まだ甥は絶えず頭を氷で冷やしづづけ、医者は毎日注射をつづけた。嫂はせつせと村の小路を走り廻つて氷や牛乳や卵を求め看護しつづけた。そこの家を吹飛ばしさうな、ひどい颱風が訪れたときも、甥は寝たままでまだ動けなかつた。
 長雨や嵐の陰惨な時期がすぎると、やがて秋晴れの好天気がつづいた。村では久振りに里祭が行はれ、すぐ前の田の向に見える堤の上を若衆が御輿を担いで騒ぎ廻つた。だが、私たちは空腹の儘その賑はひを見送つてゐた。その祭りの賑はひの最中のことであつた。階下で急に甥の泣き叫ぶ声がして、嫂の烈しく罵る声がした。あまり激越な調子なので何事がおこつたのかとおもつた。
「死んだ方がよかつた」と甥は私がやつて来たのを見ると、また抗議するやうに低い声で呟いた。
「くそ意気地なし。誰のお蔭で助かつたのか。ひとが一生懸命看護してやつたのも忘れて」と嫂はまだ興奮してゐる。
「どうしたのです」
「今さき村の子供がここを通りながらこちらを覗き込んで『禿がゐる、禿がゐる』と罵つたのです」
「悪い子供だな。学校へ云つてやるといい」
「禿が一たい何ですか。男でも女でもこんど禿になつたのはあたりまへのことで、恥でも何でもない。禿と云はれた位で、それ位のことで死にたいとは……その意気地なしが情ない」
 甥はもう何も云はなかつたが、私は病後の甥がこんなに興奮していいのかと心配だつた。
 学童疎開に行つてゐた二人の弟たちが還つて来ると、狭い家のうちはごつた返し、暮しは一層苦しくなつてゐた。甥はもうかなり元気になつてゐたが、どうかすると階下では物凄い衝突がもちあがつた。平素はおとなしい性質なのに、喧嘩となればこの甥はねちねちしてゐた。甥は炬燵にもぐつて、英語のリーダーなど勉強しだした。大病のあとだし、一年位は学校を休ませた方がいいだらうとみんなは云つてゐたが、年末頃になると、禿げてゐた頭に少しづつ髪の毛が顕れだした。
 年が明けると、私はいつまでもそこの家に厄介になつてゐるのも心苦しく、頻りに上京のことを考へてゐた。甥は既にその頃から広島まで学校に通ひだした。八幡村から広島の郊外まで往復すれば、元気な男でさへ、かなり疲労する。電車までの路が一里あまり、電車に乗つてからも、それは決して楽なことではなかつた。私は甥がよくも続けて通学できるのに驚かされた。甥は毎日、軍から払ひ下げになつた、だぶだぶの服と外套を着て、早朝出かけては日没に戻つて来るのだつた。私はその年の春、漸く八幡村を立去ることが出来たが、その後、上京してからも、あの甥は元気になつたのかしらと思ひ出すことが多かつた。私が甥の元気な姿を再び見たのは、翌年の正月であつた。その時、次兄は広島の焼跡にバラツクを建てゝ恰度八幡村から荷を運んで来たばかりのところだつた。あたりはまだごつた返してゐた。甥はだぶだぶの軍服を着て、シヤベルで何かとりかたづけてゐた。私の来訪もあまり気にならない位、彼は忙しさうに作業に熱中してゐた。

 私がこの頃になつて、甥のことなど書いてみる気になつたのは、何か私の現在の気持の底に、生き運といふものを探し求めてゐるからでもある。甥の頭髪はもとどほり立派に生え揃つた。あの時、禿になりながら、その後立派に助かつてゐる人は甥ばかりではなかつた。槇氏もやはりその一人である。彼は大手町で遭難し火のまはるのが急速だつたため、細君を助け出すことも出来ず、身一つで河原に避れた。その後、髪の毛が脱けだすと、彼は田舎の奥へ引込んで、そこで毎日、野菜ばかりを摂取してゐた。薬剤師の心得のある人だが、医者にもかからず自分の勘一つで独特の療法をつづけた。さうして、この人も無事に頭髪が生え揃ひ、ピンピンしてゐるのであつた。
 私は家の近所の水槽の中に身を浸し、そこで猛火を避けながら、遂に生きのびてゐたといふ女の話もきいた。その水槽の前にはコンクリートの建物とちよつとした空地があつたが、それにしても一昼夜燃えつづける火のなかで助かつてゐたとは恐しいことだ。フイリツピンでジヤングルに脱走し生きのびて還つて来たといふ人とも逢つた。どんな天変地異のときでも、生き運のある人は助かるのであらうか。
 私が八幡村から立去らうと考へてゐる頃のことであつた。たまたま私は天文学の解説書を読み耽けつてゐたが、何億光年、何億万光年といふ観念は私の魂を呆然とさせた。私は廿日市の長兄のところから八幡村へ戻る夜路で、よく空の星をふり仰いだ。冬の澄んだ空には一めんに美しい星がちらばつてゐた。広島が一瞬にして廃墟と化したことも壮大なことではあつたが、その一瞬は宇宙にとつて何ほどのことであつたのだらう。だが、戦災で飢ゑ、零落してゆくこの私の身は、それでは、この凍てた地球の夜にとつて、何ほどの意味があるのだらう。だが、私はこの身の行衛を、己の眼でいま少し見とどけたいのであつた。
 その後、私は東京の友人のところで間貸りして暮すやうになつたが、一年あまりすると、余儀ない事情でそこも立退かねばならなくなつた。宿なしの私は行くあてもなく、別の知人の下宿へ転がり込んだものの、身を落着ける部屋は見つからないのであつた。出来るだけ早く私はその知人のところも立退かねばならない。だが、行くあてはまるで見つからない。私の眼の前にはまた冬の夜の星の群が見えてくるのであつた。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「饗宴」
   1948(昭和23)年6月号
入力:ジェラスガイ
校正:林 幸雄
2002年7月20日作成
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