暮れも押し詰まった夜の浅草並木亭。
 高座では若手の落語家はなしか橘家圓太郎が、この寒さにどんつく布子ぬのこ一枚で、チャチな風呂敷をダラリと帯の代わりに巻きつけ、トボけた顔つきで車輪に御機嫌を伺っていた。
 クリッとした目に愛嬌のある丸顔の圓太郎がひと言しゃべるたび、花瓦斯はなガスの灯の下に照らしだされた六十人近いお客たちは声を揃えてゲラゲラ笑いこけていた。こんな入りの薄い晩のお客は周囲に気を兼ねて、えてして笑わないものである。いや現に今夜のお客も、最前まではその通りだった。それが圓太郎が上がってから、にわかに爆笑の渦が巻き起こった。
「ウッフッフッフ」
「ワッハッハッハ」
 ひッきりない笑いの波だった。
 そのなかで、圓太郎はニコリともしないで、ムキになってしゃべり続けた。それがいっそう皆のおかしさをそそり立てた。
 演題は「長屋の花見」。
 例の貧乏長屋のひと団体が渋茶を酒に見立て、たくあんを玉子焼に、大根の輪切りを蒲鉾かまぼこつもりにした御馳走を持って、お花見に繰り出してゆく、そのおかしさを、ここを先途せんどと圓太郎は熱演しているのだった。
 まず今月の月番と来月の月番が汚いお花見の荷物を差し荷にして担いでゆくと、向こうからゾロリとしたものを着た若夫婦がやってくる。それを見つけた月番のひとりが、あの夫婦の着てる物は地味なくせに気のきいた本寸法のものばかりだ、たいしたもンだなアと感心したのち、ところで俺たち二人の着物はいったいいくらくらいの値打物だろうナと訊く。すると、もうひとりの月番が、「そうよなァ、まず二人でたかだか十二銭ぐらいのものだろう」とガッカリする。
 だが、そうしゃべっている圓太郎師匠その人があまりにもこの長屋の住人らしく、ほんとに十二銭ぐらいなきたな着物の汚な手拭、汚な扇子ときているから、気の毒みたいに真に迫っていよいよお客はおかしがらずにはいられなかった。
 ……やがて花の山へかかってきた。番茶の酒盛――“おか盛”がはじまったい。発案者たる大家さんはひとりで気分を出して悦に入るが、長屋の衆はアルコール分がないから滅入るばかりだ。第一、ダブダブの茶腹には、春の日の風が冷たかった。ますます御恐悦の大家さんは一句詠めとおっしゃるけれど、ダ、誰がおかしくって。それでもやっとこさ誰かの一句詠んだのが、「長屋中、歯をくいしばる花見かな」。
 ウヘッ、これじゃア詠まないほうがいい。そのなんともいえない馬鹿馬鹿しいなかに江戸っ子らしいやせ我慢なところが無類で、ここも圓太郎は上出来だった。お客は抱腹絶倒した。
 ……トド今月の月番先生、お茶ケに酔っぱらったつもりでクダを巻くので、よろこんだ大家さん、だいぶ御機嫌らしいがどんな気分だえと訊ねると、
「なにしろお腹ンなかはお茶でダブダブでしょう。大家さんの前だけれど、この前、井戸へ落っこちたときにそッくりでさア」
「…………」
 ボソッと圓太郎が頭を下げて、オチといっしょに立ち上がったとき、ワーッと満座は最後の歓声を上げた。拍手と笑い声とでしばし鳴りも止まず、いつまでもいつまでもお客は笑いどよめいていた。その笑い声に送られて、ノソノソ圓太郎は楽屋へ下りてきた。が、やっぱり今の長屋の月番先生みたいなまぬけまぬけした姿の彼であることに変わりはなかった。
「アア、いい春だった今夜は」
 前座の汲んで出したお茶を飲もうともせず、圓太郎は出を待っていた音曲師の勝次郎のほうを向いていった。
「よせやい圓太郎。今日はお前、十二月の二十日じゃねえか。なにがいい春だイ」
 あきれて横にいた色の黒い長い顔の古今亭今輔が言った。
「春じゃアねえか」
 圓太郎は自信たッぷりの顔つきをした。
「どうしてよ」
 今輔が訊き返した。
「どうしてッてお前、理屈じゃアねえやな、陽気なんてものは。暦に出てるンだよチャンと暦に。十月から四月まではみんな春だとよ。してみりゃア今夜いい春だアな」
 言い終えて、ケロリとしている。
「こいつァいいや」
「とんだ大笑えだ」
 今輔も勝次郎も、見習いの前座までが思わず釣り込まれて笑い出してしまった。ドッという笑い声が、今度は楽屋から寄席へと響いていった。


「いつまでそんなところに立ってねえで座ったらどうだイ、圓太郎」
 懐手ふところでをして立ったまんまの圓太郎を見て、今輔が声をかけた。
「ウム。そうしちゃアいられねぇンだ」
 圓太郎は振り向きもしなかった。
「えれえ景気だな。掛け持ちがあるのか」
 意地悪そうな目を、今輔が向けた。
「よしてくれ病づかせるのは。そんなンじゃアねえ。こちとら、貧乏の“棒”が次第に太くなり、振り廻されぬ年の暮れかなだ」
「じゃアちッともいい春でもなんでもないじゃアねえか」
 今輔はいっそ馬鹿馬鹿しくなって、
「なら、なぜ、師匠ンとこへ小遣いをせびりにゆかねえンだ。稽古こそ日本一やかましいが、人一倍弟子思いの師匠だ。まして当時飛ぶ鳥落とす三遊亭圓朝師匠じゃアねえか。なにもクヨクヨしていることはあるめえ」
「ウウン。イヤだ」
 圓太郎は首を振った。
「師匠からはもらいたくねえ」
「どうして」
「だって芸のことでウンと面倒を見てもらってるンだもの。このうえ、おあしのことまではいい出したくねえや」
「感心だなお前。いつどこでそんな了見を持ち合わせてきたンだ」
 今輔はてにはの合わない顔をした。
「元からそうなンだよおいら。こう見えたって橘家圓太郎は文明開化の落語家だからネ。人間万事独力独行さ。第一そのほうが成功したときに精神爽快を覚えるよ」
「オヤッこん畜生。黙って聞いてりゃアたいそう七面倒くせえことを言い出したゾ。精神爽快を覚えるよだっていやがら。てめえ、そんな難しい言葉、どこで覚えた……?」
「宝丹の広告で覚えたよ」
 シャーシャーとした顔で圓太郎は、答えた。
「やられた。なるほど。守田宝丹たア気がつかなかった。なら圓太郎。さしあたりこの暮れに独力独行、精神爽快を覚える金儲けを教えてやろうか」
「そんなものアありゃしめえ」
「ところがあるンだ。お前がやりゃア必ず儲かる。たんとのことにもいくめえが、元日一日で三両か五両には確かになる」
「エ、三両か五両だって――」
 にわかにペタペタと座る圓太郎、今輔の傍へいざり寄っていった。
「現金な野郎だな。金儲けだって言ったらすぐに座っちまやアがった。しかし圓太郎、お前、ほんとにやる気か」
「やる気だやる気だ、兄貴頼むから教えてくれ」
「じゃア元旦の朝、からすカーで飛び起きて、浅草の仲見世でもいい、両国の広小路でも、芝の久保町の原でもいい。なるたけ人の出盛りそうなところへ持ってって売るんだ」
「売るンだってなにを売るのさ」
「お精霊しょろさまンときブラ下げる盆提灯があるだろう」
 一段と声を低めて今輔は、
「あいつを売るンだ。元日の朝なら羽が生えたように売れてゆくぜ」
「フーム、そうかなア。だけど兄貴、俺よく知らないけど盆提灯ての暑い時分に吊るもンだろう」
「そうよ」
「ホラ、あの蓮の花の絵や萩の絵やそれから夕顔の絵のくッついてるお提灯だろう」
「そうよ」
「ハテあんなものが三両になるかなア。いったいどういうわけで暑い時分に売るものが今頃羽が生えて売れて……」
 圓太郎はどうしても腑に落ちないらしい顔をした。
「わからねえヘチャムクレだなア。暑い時分のものを、元日に先を見越して売るから、ずんと儲かるンじゃアねえか」
 いよいよ今輔は大真面目に、
「オイ考えてみや圓太郎。一年中でいちばんめでたいのは正月だ。その次が盆だ。世間でも中元大売出しってワイワイ騒ぐだろう。いいか。そのめでたい正月に盆提灯を売りに出るンだ。たいてい縁起を祝って買うだろうじゃねえか」
「ア、なるほど」
「たとえにも言うだろう。だから盆と正月が一緒にきたようだって。その盆と正月をいっしょくたにしたものを売ろうてンだ。儲からねえわけがねえや。これが売れなきゃ東京は闇だ」
 おかしさを耐えて彼は言った。
「わかったわかったよ。なるほど盆と正月か。そうだ、まったくその通りだ、ホ。こいつァ素晴らしい金儲けができそうだネ」
 いつか、圓太郎はホクホク相好を崩していた。
「どうだ。いい思案だろう。その代わり圓太郎、儲かったら俺にパイ一飲ませなけりゃダメだゾ」
あた棒だよ。そのときァなんでも兄貴の言う通りのものをおごってやらア」
 圓太郎はもうすッかり一陽来福の新玉あらたまの春がやってきたような明るい気分にさえ、なってきている。そのとき拍手の音が五つ六つ起こって、勝次郎が下りてきた。入れ違いに今輔が高座へ上がっていった。が、圓太郎は腕こまねいたまま、そのほうへ目もくれないでいた。目前に迫った金儲けのことを考えて、しきりと心が舌なめずりをしているのだった。
「お前さん、ネエお前さんてば」
 歯切れのいい若い女の声が、耳もとでした。
 ハッと圓太郎はわれに返った。色白の目鼻立ちの粗く美しいキリリとした女が、大太鼓の薄暗い傍らにスッと立っていた。ついこの間母親に死なれ、今では圓朝の家に引き取られている下座のお八重だった。
「ア、お八重ちゃん」
 柄にもなく顔中を真っ赤にして圓太郎は、ドキマギした。


「お前さん、さっきの話、ほんとに儲かると思ってるの」
 勝次郎の帰ったあと、お八重は言った。
「ウン」
 圓太郎はコクリとした。
「ほんとに」
 牡丹の花のようなお八重の顔が、ジイーッと覗き込んできた。
「だって盆と正月が一緒にくる商売を始めるンじゃねえか。古今亭の兄貴が太鼓判を押したンだ。儲からねえはずがあるもンかな」
「マー、じゃアやっぱりあんた本気にしていたのねえ。注意してあげてよかったワ」
 大柄の弁慶縞の襟をかきあわせて、お八重はホッとしたようだった。思いなしか、ランプの光に浮き出しているパッチリした美しい目が濡れていた。
「ネエ、圓太郎さん。よく考えてみてちょうだい。お盆てものはお迎火を焚いて仏様をお迎えするときなのよ。だからどこの家でも坊さんを呼んでお経をあげるのよ。盆提灯てのはつまりそのときに吊り下げるものなのよ。死んだ人のために吊すお提灯がなんでおめでたいの」
「…………」
「そンなものを、事もあろうに元日早々、盛り場へ持ち出してって売ったら、縁起でもないって半殺しにされちまうわよ。それに売ろうたって今時分、盆提灯なんぞどこの提灯屋にもあるもンですか」
「…………」
「第一、教えた人がいけないわ。よりによってお前さん、ホラ今さんじゃアないの」
 高座の今輔のほうを、チラリと彼女は見た。
「世のなかにあンな法螺吹ほらふきあるもンですか。口から出放題のでたらめばかり言っちゃ、しょッちゅう皆をかついでる人じゃないの。そンな人の言うことでもやっぱりあんた信用する……?」
「ア、そうか、ホラ今かア」
 はじめてシマッタという顔を、彼はした。そうだそうだ、平常ふだんからとても人の悪い今輔の野郎だったッけ。エエそうだッけ、俺としたことが――。
「ネ、わかったでしょう」
「わかったわかったよ、すッかりわかった。畜生、今輔の野郎ひでえ野郎だ。とんだ恥をかくところだった、ほんとにほんとに……」
 しばらく口惜しがっていたけれど、
「ありがとよ、お八重ちゃん」
 ピョコリとひとつお辞儀をした。
「アラいいのよそんなお礼なんか。それよりわかっておくれでほんとによかったわ。でもこれからもあることよ。みんなそりゃ人が悪いンだからよっぽどあんた気をつけなくちゃ……」
「ウン、ウン」
 おとなしくうなずくと、
「じゃ、ありがとう。またあしたの晩」
 テレくさいのか、プイと立ち上がってそのまま楽屋口から出てゆこうとした。
「ア、ちょっと待って圓太郎さん。明日の朝早く、おッ師匠さんが来てくれって。なんだかお前さんに話があるンですって」
「エ、師匠が。いけねえ。また小言じゃねえかしら」
 日常生活にカラだらしのない圓太郎。小言ときたら番毎ばんごとだった。チョイと心配そうな顔をした。
「サー、なんだか知らないわ。でもたぶん小言じゃないでしょう。もしも小言だったってだいじょうぶよ。そンときはあたし、あやまってあげるわよ」
「ウム。なにぶん頼んだよ」
「引き受けたわ。だから安心して……」
 お八重はニッコリ笑ったが、
「ア、そうそう圓太郎さん、お前さん春のお小遣いないンでしょ。ないンだったらおッ師匠しょさんにおもらいなさいよ。言いにくいンだったら言ってあげてもいいし、もし少しくらいだったらあたしだってなんとかなるわよ」
「ソ、そんなことだいじょうぶよ、お八重ちゃん。俺だってどうにかなるよ」
 あわてて彼は手を振った。
「そう、ほんとにいいの」
「いいンだよ、じゃ明日の朝早くゆくよ。でも今夜のことお八重ちゃん、師匠には黙ってておくれネ。じゃ、さよなら」
 ガラガラと格子を開けて、威勢よく圓太郎は表へ飛び出していった。路地の溝板がカチカチにてて、月が青い冷たい光を投げていた。
 路地の出はずれまで早足で行って振り返ると、格子につかまって見送っているお八重の白いクッキリした顔が小さく見えた。ゾクゾクするほど[#「ほど」は底本では「ほと」]彼はうれしかった。ことに今夜の心づくしを考えるとき、涙ぐまれるほどありがたかった。圓太郎は右手を上げて振ってみせた。
 俺はお八重坊が好きなンだ――圓太郎はそう思った。あの女のもっているもののひとつひとつが、みんな血にかよう親しさ懐しさだった。
 でもあの娘は俺みたいなドジブマなまぬけな野郎に金輪際惚れてくれるわけがねえ、そう考えるとにわかに日が暮れたように寂しくなった。
 しかたがねえ、高座は一人前以上でも常日頃のことにかけちゃアカラだらしのねえ俺だもの。夜中の町を駆け出してゆきながら彼は、身体中でベソを掻いていた。


 梅咲くや財布のうちも無一物――禅味のある一流の字で認められた山岡鉄舟先生の半折をお手本にして、三遊亭圓朝は、手習いをしていた。浅草代地河岸の圓朝の宅。ツルリと抜け上がった額を撫でながら圓朝は、「梅咲くや」「梅咲くや」となんべんも書いては消し、書いては消していた。その前にかしこまって圓太郎は、いまだ用件も聞かされないままでいた。
 ギイ……ギイ……ギイ……墨田川を滑ってゆくの音が聞こえて、師走の朝日の濡れている障子へ映る帆の影が、大きく、のどかに揺れていった。その帆影をボンヤリ見ながら、今日はお八重ちゃんはいないンだな。圓太郎はそんなことを思っていた。でも朝早くからいったいどこへ出かけていったンだろう。
「あの……お前、昨日ねェ」
 そのときだった。ムックリ圓朝が顔を上げた。そうして話しかけた。
「……ヘ、ヘイ」
 フイを食って圓太郎はドキマギした。
「イエ、あの昨日たのんだお座敷ねェ。あれはお前、確かにつとめてきておくれだったのかえ」
 やさしい声で圓朝は、訊ねた。
「ヘイ。あの昨日のお座敷って、あのホレ年寄の養老院の一件でござンしょう。エエあれならもう間違いなく行って参りましたよ。落語家なんか滅多に来ねえから、面白え面白えってよろこんでくれるもンでついうれしくなって、馬力をかけてやりましたよ、五席ばかり」
「五席? おやおやたいそうおやりだったねェ。してなにとなにをおやりだったえ」
「病人の噺にゆき倒れの噺に宿無しの噺だったかナ。ついでに、アアそうそう。泥棒の噺を二席たッぷり聞かせてやりましたッけ」
「…………」
 とうとう圓朝はおなかをかかえて笑い出してしまった。場所もあろうに養老院へ行って宿無しやゆき倒れの噺をすれば世話はない。
「アレ師匠。なんだって笑うんです。気味が悪いなあ」
「なんでもいいんだよ。それより圓太郎、私アお前に昨日越中島の養老院の年忘れに落語はなしをやってきておくれとお頼みしたンだよ。だのにお前、とんでもないところへ行っておしまいだったねェ。おまけにそこで泥棒の噺までおやりだったと言うじゃないか。まア、その書付をよーく見てごらん」
 クスクス笑いながら鉄舟居士の半折を脇へやって圓朝は、その下にあった奉書包みの書付をポーンと圓太郎の前へ放った、恐る恐るそれを開いてみて、アッ。さすがの圓太郎もドキンとした。思わず顔色を変えずにはいられなかった。
 今回当監獄所囚人ヘ落語無料長演シ奇特千万ニ付キ、模範囚人苦心調製の七宝製大メダル一箇贈呈ス
石川島監獄所主事
          月 日
猪熊秀範※[#丸印、U+329E、57-10]
          橘家圓太郎殿
 ウヘツ。越中島の養老院だと今の今まで思い込んでいたのに。なんとこれはまた、石川島の監獄所へ余興に行ってきちまったンだ。しかもそんな囚人たちを前にして、泥棒の落語をば長講熱演してきたなんて。
だ師匠。道理で養老院だてのに若えおッかねえ野郎ばかりゾロゾロいると思いましたよ。ウルル、気味が悪い」
 大袈裟に立ち上がって身ぶるいをした途端、
「ア、いけねえ」
 ヒョイと蹴つまずいて圓太郎は、モロに足もとの土瓶をひっくり返した。ダブダブお茶が流れ出して、みるみるうちに鉄舟居士の半折がシーンと端から濡れていった。
「濡れる濡れる、早くどかしておしまい」
 さしもの圓朝が眉をしかめた。
「ス、すみません。でもだいじょうぶですよ師匠。ホーラ、ちゃんとこの通り持ち上げていますから」
 鬼の首でも取ったように圓太郎は、シッカリ両手で、土瓶のほうを差し上げていた。
「アラ違うわよ、土瓶じゃないのよ圓太郎さん。こっちのこの半折のほうなのよ」
 いつの間に戻っていたのだろう、ソソクサ次の間から走ってきたお八重が赤いたすきもかいがいしく、圓太郎を突き退けるようにしてビショ濡れの半折へ飛びついてゆくと、濡れた両端をソーッと持ち上げ、縁側まで持っていって、日に当てた。男勝りのクッキリした、横顔が朝日を浴びて、薔薇色にかがやいていた。
「すみません、申し訳ございません」
 が、肝腎の圓太郎のほうはまだ土瓶を差し上げたまま、いつまでもいつまでもあやまっていた。


「なんとも彼ともお詫びの申し上げようがございません。これからほんとに気をつけます。御勘弁願います」
 ひと片づけすんだのち圓太郎は、平蜘蛛のようになってあやまった。が、もう圓朝はなにごともなかった前のような顔をして、風雅な火桶に手をかざしていた。
「いいンだよ圓太郎。毎度のことだから、家はもう馴れているけれどもね。よそ様へうかがったときはお気をおつけよ。お前は人一倍そそッかしいンだからネ」
「申し訳ございません」
 圓太郎は自分で自分が怨めしくなっていた。穴があったら入りたい。ほんとにそうした気持ちだった。
「サ、御褒美だよ」
 二十銭貨が五枚、手をついている自分の前へバラバラ圓朝の声と一緒に落ちてきた。
「冗、冗談しちゃいけません師匠、失敗しくじったのに褒美てえのはないでしょう。そんななにもダレさせるようなことをなさらねえでも」
「ダレさせやしないよ。御褒美は嘘だけれど、実はその一円でお頼みがあるのさ。お前さん、元は大工だろう。ひとつ大工さんの昔に返って一斗ますをこしらえてもらいたいンだ」
「一斗桝。ヘーエ、一斗桝てえとあの師匠、一升桝の十倍ですねェ」
「そうだよ」
「一升桝の十倍か」
 クリクリした目をつむってしばらく圓太郎は胸算用をしていたが、
「ヘイ、よろしうござンす。あしたの朝までに間違いなくお届け申します」
「頼みましたよ。ほかにも入用のお金があればいくらでもあげますからネ。遠慮なくそう言っておくれよ」
「承知しました。じゃア師匠、明日の朝」
 思いがけなく春の小遣いにありつけたうれしさ。圓太郎は有頂天になっていた。
「ア、圓太郎。もうひとつ頼みがあるんだ。頼まれついでにもうひとつ。台所へ棚を吊ってッておくれでないか」
「おやすい御用で。すぐ吊りましょう」
 ここが忠義の見せどころと、スッと圓太郎は立ち上がった。菰冠こもかぶりがひとつドデンと据えられ、輪飾りや七五三しめ飾りがちらばっている大きな台所へゆくと、チャンと大工道具が置かれてあった。お八重が棚板を二枚持ってきてニコッと笑っていった。
「オイきた」
 その棚板を左手でかかえ、右手で鉄槌かなづちを、口で釘を三、四本含んで圓太郎は、荒神様と鼠入らずの間の板壁のところまでゆくと、瞬くうちに棚をひとつ吊りあげた。すッかりこさえあげると、二、三間離れて様子を見、また近づいてはためつすがめつしたのちに、ウムウムとうなずくと、
「できましたよ、師匠。じゃアさっそく一斗桝のほうへとりかかります」
 奥の間のほうへ声をかけて、そのまんま帰っていった。
「マー、餅屋は餅屋。さすがにうまいもンだわねエ」
 初めて圓太郎から男一人前の仕事を見せてもらえたそのうれしさ。大きな擂鉢すりばちげてがかった丼を三つ四つ、急いで持って出てきた彼女は次々に棚へ載せてみた。と、その途端にだった。ガクンとひとつねじがゆるんだように棚がかしいで、ガラガラガタンと落ちてしまった。擂鉢以外の瀬戸物がみんな板の間でコナゴナに砕けて、あたり一面にちらばった。
 アラッ。無惨な丼の破片やだらしなく落ッこちているまんまの棚板をあきれてジーッと見つめていたお八重は、やがてのことにソッと呟いた。
 いよいよあの人、高座の他はなにをさせてもみんな駄目なンだわ。だからチャンとしッかりしたお神さんがついていてあげなきゃ、一生出世しないと思うわ。そのしッかりしたお神さんに私ならなってあげられるのにと考えて、お八重は思わずドキンとした。こんな自分の心のなかを、もしや誰かに覗かれてはしないだろうか。ソッと辺りを見廻してみたが、もちろん、誰のいるわけもなかった。
 急いで落ちている棚を取り上げた。それからお釜の蓋の上に置かれてあった鉄槌を手にした。
 トン。トン。トン。トン。さっきのところへ持ってゆき、両端へ釘を打ち込むと、難なく元通りに棚は吊られた。続いて擂鉢と別の丼を思い切って五つ六つ載せてみた。やっぱり棚は落ちようとせず、載せただけの瀬戸物がチャーンとして載せられていた。
「ウフッ」
 さすがにお八重はおかしくなった。丼の破片をたもとを広げた上へ集めながら、クックッ彼女は笑い出した。


 トヽヽヽヽヽヽ、トン。
 トヽヽヽヽヽヽ、トヽン。
 その頃、圓太郎は新福富町の四畳半ひと間きりしかない自分の部屋で、豆絞りの手拭で鉢巻をし、片肌ぬぎで鉄槌を振りまわしていた。一升桝が七十四個、行儀よく前へ並べられていた。ひと口に七十四個というが、七十四個の一升桝はなかなかの壮観であり偉観だった。
 一斗桝ってのは一升桝の十倍だ。
 理屈ではそうとわかっていても、実地に並べてみないことにはトックリと肯けるものでない。そこで圓太郎は心やすい荒物屋へ行って借賃を払い、これだけ借りてきたのだった。
 借りてきた一升桝を十個ずつ、ズラリと彼は四方へ並べてみた。たちまち一升桝十個ずつで取り囲まれた万里の長城みたいな正四角形ができあがった、続いて上へも崩れないように一升桝を十個ずつ四隅へ積み上げた。見上げるような高さだった。
 よしよし。これでいい。ほくそ笑みつつ彼は寸法を測った。
 驚くなかれ。縦の高さが五尺、横の長さが一間というデカバチもない見積りができあがった。じゃ、ひとつこの四角ン中へ入って仕事をするかな。正四角形の真ん中にあたるところへ入り、大あぐらをかいて圓太郎は、せッかちに鉄槌の音をさせはじめた。後払いの約束で手金を打ってもらってきた部厚な板で、まず底にあたる部分をセッセとこしらえた。まもなく大チャブ台をふたつ合わせたような底ができあがった。すぐそれを敷いて、ドスンと彼はその上に座った。しかしずいぶん材料にお銭がかかるなア。こんな高えもんたア思わなかったよ。たちまちながら今度は四隅に取りかかった。東側をひとつ削りあげると、手早く底へ打ちつけた。北側へかかった。これもできた。また打ちつけた。西側もでき、これで板囲いみたいな三方がどうやらできた。
 さアもうひとつだ。最後の勇気をふり絞って、ゴシゴシ南側の板を削りはじめた。削り終ると、すぐにトヽヽヽヽンと打ちつけた。四隅が塞がれたのでにわかに目の前が薄暗くなり、その暗い中で見上げると、早桶の倍もありそうな桝の中に小さく自分が座っていた。
 できたできた。圓太郎はよろこんだ。
 さア、今のうちひとッ風呂浴びて、汗を流してくるとしよう。急いで立ち上がると、東側のフチへ手をかけて出ようとしたが、高くてとても出られなかった。いけねえ。西側へまわってみたが同じことだった。
 オヤオヤ。北側も南側も駄目だった。どうしても出ることはできなかった。いつまでやってみても同じことだった。だんだん辺りが暮れかけてきた。部屋の中が暗くなってきた。
 いけねえいけねえ、こいつァいけねえ。圓太郎はジリジリしてきて――。誰か誰か来て。お隣の小母おばさアん。早く梯子はしごを持ってきて――。とうとうムキになって彼は、怒鳴りだした。


 翌朝。大八車で運ばれてきた据え風呂桶の化け物みたいなこの一斗桝を見て、圓朝は肝をつぶした。
「ナ、なんだイこりゃアお前」
「一斗桝ですよ」
 圓太郎は得意そうだった。
「一斗桝? そんな馬鹿な。お前こんなバカバカしい一斗桝がありますか」
「だって師匠そう言ったでしょ昨日。一斗桝てのは一升桝の十倍だって」
「アア」
「だからあれから懇意なとこで一升桝をたくさん借りてきて、十ずつ縦横四隅へ並べてみてその寸法でこしらえたンですよ。だから間違いッこはありゃしません」
「あきれるねェ、お前にも」
 圓朝は言った。
「違うンだよ。そりゃ一斗桝は一升桝の十倍に違いはないけれど、十倍てのは内側の正味のものを測るところの十倍だよ。それをお前は外側を十倍にしちまったからこんな馬鹿馬鹿しいものができてしまったんだよ」
「ア、そうか。中身の十倍か。そうと知ったらこんなに板を買うンじゃなかった。じゃア、まア師匠、手金を二十銭置いちまったからこれだけお返し申しましょう」
 圓太郎はがま口の中から昨日の二十銭銀貨を四枚取り出した。
「いいンだよ、いいンだよ」
 あわてて圓朝は押し返した。
「なにもやったお金を返してくれと言うンじゃないよ。取っておおき、取っておおき。それはお正月のお小遣いにあげたんだから」
「そうですか師匠、でもなんだか……」
「いいンだよ、しかし圓太郎。お前はよくよく大工は名人だねエ。昨日吊ってくれたあの棚ねエ、あれもすぐに落ちてしまったよ」
「アレ」
 圓太郎は丸い目をさらに丸くした。
「それもいいけど、お八重が直したらすぐ吊れて、今度は落ちもなんともしないよ」
 情けねえことになったもンだ。じゃ俺が吊った棚の後始末はお八重ちゃんがしたのかイ。アア、それであの子、俺に愛想をつかして、今朝は姿も見せないンだな。
「しかし師匠、あれが落ちるわけがねえンだがなア」
 未練らしく圓太郎は言った。
「だって、お前、落ちたものはしょうがない。女のお八重に吊れるものが、男の、まして大工のお前さんに吊れないンだ」
 圓朝は笑った。
「でもそんなそんな。そんなはずはほんとにないンだけれどなア」
 なおもひとしきり小首を傾げて考えていたが、やがてのことにポンと手をうって、
「ア、わかった師匠。じゃアあなた、あッしの吊った棚へなにか載せやしませんか」
「オイオイ、いい加減におしよ馬鹿馬鹿しい。世のなかに載せない棚てのがあるもンかネ」
 あきれ返って圓朝はもうなんにも言わなくなると、しばらく細い目をパチパチさせていたが、
「まア、そんな話はどうでもいい。ここに紋付が出ているから早くそれを着ておしまい。すぐ近江様へ年忘れの芝居噺のお座敷にゆくンだ。いいかイ、私も着替えてくるから」
 言いつけたまま奥へ入っていった。
 まもなく支度のできた二人は、代地河岸の家を後にした。うやうやしく三つ扇の黒紋付を着た圓朝の後から圓太郎は、芝居噺の道具の入った大きな風呂敷を担いで両国橋を東へ。横網の近江様のお屋敷へと急いだ。△△侯爵邸を俗に近江様という、横網の河岸ッぷちに名物の赤い御門が見えていた。その赤門のくぐりから圓朝主従は入っていった。
 案内を乞うと、用人がすぐ二人を楽屋にあてられた休息所へ連れていった。が、圓太郎はそこにオチオチしていられなかった。すぐ芝居噺の組み立てにかからねばならなかった。背負っていった大風呂敷を持って彼は、舞台のほうへ出かけてゆくと、定式幕じょうしきまく野遠見のどおみの背景や小道具の稲叢いなむらを飾りつけた。それからヘッピリ腰で欄間へあがると、またしても不器用な手つきで鉄槌を握って、今度は立木や灯入りの月や両袖などをトンカチンと打ちつけた。
 こんな高えところへあがってると目が眩んで、ガタガタ足がふるえてしかたがねえや。片手を柱へしがみつくように巻きつけて彼は、いちばん大きな杉の立木のすわりをよくしようと、片手で鉄槌を振りあげかけると、ベリッ。綿入れの袖を小枝へ引ッかけ、ひどい鉤裂かぎざきをしてしまった。
 しまった、ギクッとすると手がお留守になり、鉄槌はスルリと指と指の間を抜けて下へ落ちていった。いけねえ重ね重ねだ。いまいましそうに圓太郎は舌打ちした。そのときだった。十ぐらいになる内裏雛だいりびなのような品のいい男の子が藤納戸の紋服に手遊びのような大小を差してお供もなく、チョコチョコ駆け出してきた。ヒョイとその子の上へ目を落とすと、
「オイ坊や――」
「…………」
 男の子は立ちどまり、怪訝そうに彼を見上げた。
「いいところへ来てくれたな坊や。すまねえがお前の足もとの鉄槌をちょっと拾ってくンねえな」
 口を尖らし、唇のさきで圓太郎は鉄槌のありかを指すようにした。
「これか」
 言われるままに男の子は鉄槌を取り上げると、圓太郎のほうへ手を伸ばした。
「それだそれだ」
 そいつをグイと伸ばした右足の親指とで挟んだ彼は、
「ありがとよ坊や。アトで小父さんがうんと美味しい南京豆買ってやるからな」
「この馬鹿野郎、いい加減にしろ」
 あっけにとられていた男の子が廊下の彼方へ行ってしまったとき、白いほど青くなって飛び込んできた師匠の三遊亭圓朝だった。
「なんて真似をしやがるンだ圓太郎。世のなかにお前のような不作法千万な男がありますか」
 圓朝はたまたま道具しらべに入ってこようとして次の間からこのていたらくを見たのだった。
「今のはこちらの若様じゃないか」
「…………」
「高貴のお方に鉄槌を取らせ、申すさえあるに、足の指で受け取るとはなんてえことです」
「…………」
「おまけに、坊や後で小父さんが南京豆買ってやる。近江様の若様が南京豆なぞお上がンなさるか。私ァ聞いててハラハラしました」
 光った圓朝の額に冷汗がにじみ、呼吸づかいがただごとでなく乱れていた。
「あいすみません、実になんともはやどうも」
 ようやく圓太郎にも事の重大性がおぼろげなりに感じられてきて、欄間の上から頭を下げた。
「私にあやまってどうなります。ことによるとお手討だゾお前は」
 情なさそうに圓朝は言った。
「…………」
 が、そう聞かされても圓太郎は顔色ひとつ変えなかった。キョトンと首を傾げているばかりだった。
「冗談じゃねえ、お前お手討だよ」
 圓朝はまたおしかぶせて言った。
「そうですか、お手討ですか、エエ、よござんすとも」
 ますます彼は落ちつきはらっていた。
「アレ、この野郎お手討を平気でいやがる」
 あきれたように圓朝は、
「圓太郎、お前いったいお手討ってなんだか知っているのか」
「…………」
 言下に彼は首を左右に振ってみせた。
「アレだ。よく聞いとけよ。お手討てのはナ、新身の一刀試し斬り。お前の首と胴とが生き別れになるンだぜ」
 世にもおそろしい顔つきで圓朝に言われた途端、
「エ。私の首と胴とが離れる? ソソソそれは。ヒ、人殺し――」
 悲鳴をあげた圓太郎は立ちのまま全身を硬ばらせ、白眼をむき出して両手を差し上げたからたまらない。ガラガラガラガラン、バリバリドタドタドタドタンピシーン。仰向けざまに彼の身体は芝居噺の美しい道具の中へ落っこちてきて、そこらじゅう、滅茶滅茶になってしまった。
「あやまッといてくださいよ師匠、ごめんなさい、ごめんなさいよウ」
 こんなことを言いながら慌てて起き上がった圓太郎は、脱兎のように駆け出していってしまった。


「お前のような馬鹿馬鹿しい奴をいつまで三下同様に追い使っていたのは私の間違いだった」
 その晩、代地の家で圓朝はまだ青い顔をしたまんまの圓太郎を前にしてシミジミ言った。
「お前のような男は一人前の真打になってはじめて人間の馬鹿らしさまでが人からほめられる。こうやって三下さんしたでくすぶっているうちはいつまでもいつまでも馬鹿扱いだ」
「…………」
「これは今の日本の国のことにして考えてみても同じだろう。たとえば、国民皆兵――」
 言いかけて、ふと圓朝は口をつぐんだ。国民皆兵なんて漢語の意味の、とうてい圓太郎にわかるはずのないことに気がついたからだった。
「つまり国民は皆兵隊さんだというけれど、身体のそれに向かない人はてんでてんでの商売に精を出して、お国へ御奉公をするだろう。お前もそれだよ。前座二つ目のチマチマした修業はやめて、芸一本槍で血の汗を流してゆくよりありますまい」
「…………」
「まったくお前は生まれながらの落語家だ。することなすことひとつひとつがみんな落語になっている。ずいぶんいろんな弟子をおいてみたが、死んだぽん太とお前ほど奇妙な奴は初めてだ」
 圓朝は笑った。ぽん太というのは蚊帳かやを着物に仕立て直し、その蚊帳の四隅のかんを紋の代わりに結いつけてすましていた変わり者だった。
「幸いに今日のお前の失敗も、近江の殿様は下情に通じてお出だから、お笑いになって事がすんだ」
「…………」
 アア、よかった。しんから圓太郎はホッとせずにはいられなかった。
「もう今日ッきりお前に前座同様のコマコマした仕事は言いつけないから安心して芸にお打ち込み。いいかえ。今月と言ってももう晦日みそかだから、正月の下席からお前は真打だ。両国の立花家で看板をお上げ」
「エ」
 圓太郎は耳を疑った。真打に。この俺が真打だ。考えられないことだった。夢のような話だった。ありがてえ。自分から後光がさしてくるような明るい晴れがましい気持ちがされてきた。
「ついてはお前。真打が女房もなしでくすぶっていちゃウダツがあがらないよ。お神さんをお持ち。私がいいのを世話してあげよう」
 圓太郎の顔を覗きこむようにして圓朝は、言った。いかにもこの弟子がかわいくてかわいくてならないという風情だった。シミジミその温かい師匠の心持ちが圓太郎の胸に流れ入ってきて、ジーンと目頭が熱くなった。
「お前、鳥越のお松さんをお知りだろう」
 圓朝は言った。鳥越のお松は浮世節語りで、もう四十七、八の大年増。デクデクに肥って小金を貯めていると評判だった。
「お松さんならよく知っています」
「お前とは年が違いすぎるが亭主を欲しがってるということだから、話をしてみたら圓太郎さんなんかと断られてしまった」
 面白そうに圓朝は笑った。
 ヤレヤレ。あのデクデクお松に断られりゃ世話ァねえ。嘲るような笑いがおのずと圓太郎も口もとへうかんできた。
「それに新内のお舟。手踊りのお京。手品づまの春之助。いろいろ訊いてみたけれど、帯に短し襷に長しでねエ」
「…………」
 フン。どうせみんな先様からお払い箱なンだろう面白くもねえ。心のなかで圓太郎はふてくされていた。
「…………」
「ところがお前、捨てる神があれば拾う神がある。世のなかは面白いねエ。あの、ホラ、常磐津の文字捨ねエ」
 いよいよいけねえ。常磐津の文字捨は五十八だよ。
「あの文字捨に言われて気がついたンだけれど」
 なんだ、お捨婆さんじゃなかったのか。圓太郎はすこし安心した。
「お前、うちの、お八重と一緒になってみる気はないかえ。お八重のほうがお前にぜひとももらってもらいたいと言ってるンだ」
「嘘だ、からかッちゃいけねえ。だってだって師匠そんな」
「イイエ、お八重はお前の芸に惚れている。芸のよさに惚れている。あの子はああいう勝気な女だろう。だから五分の隙もない、なにからなにまで気のつく男はかえってイヤだと言うんだ」
「…………」
「第一、ほかの落語家がヤレかんざしだソレ櫛だとあの子の気に入りそうなものを買ってきては御機嫌をとるなかで、お前だけは八重になにひとつ言いかけなかった。そこをまたあの子はたいそうたのもしく思っているンだ」
「…………」
 言わなかったのじゃない。俺なんかとても資格がないと思ってはじめから言えなかったンだ。圓太郎は苦笑した。
「じゃアお前、お八重と一緒になっておくれかえ。不服はないねエ」
 シンミリと圓朝は言葉を重ねた。
「冗、冗談でしょう師匠。不服どころか、あッしはもう……」
 圓太郎はよろこびで身体中を汗にしていた。寝耳に水のうれしさでうきうきせずにはいられなかった。
「万歳――」
「万歳――」
 そのとき潮騒のように万歳の声が。つづいてドンズドンドン。花火がどこかで景気よく打ち上げられた。なんだろうあの騒ぎは。まさかお八重ちゃんと俺が夫婦になるからって祝ってくれるワケじゃあるめえ。
「馬車だ、馬車だ」
「乗合馬車だ」
 多くの人たちの声々が流れてきた。
「圓太郎。乗合馬車が通るらしいよ。私は一昨日煉瓦地で見た。お前さんはまたなにかの参考になるだろうから、サア早く茅町かやちょうの通りへ行ってごらん」
 思いやり深げに圓朝は言った。トップリ暮れつくした師走の夜の屋根と屋根との間に覗かれる表通りの明るみを鳥瞰みおろしながら。


 圓太郎がギッチリ二列三列に詰まった人波のうしろへ立ったとき、ドッとまた浅草見附のほうでどよめきの声が起こり、プープープーと異国的な喇叭らっぱの音色が、憂々たる馬車の響きと一緒に流れてきた。
 思わずグビリと圓太郎は固唾かたずを呑んだ。冷たい夜風のなかから、甘い匂わしい黒髪の匂いがスーイと鼻を掠めてきた。
 オヤ、傍らを見ると、
「……お八重ちゃん」
 夜目にもクッキリ白い顔が、輪郭の美しさを見せて、大輪の花のように開いていた。
「アラ」
 あわてて彼女はお辞儀じぎをしたが、それッきりうつむいてしまった。いつもの勝気にも似ず、今夜は圓太郎の言葉も耳に入らないほどワクワクしている様子だった。
 プープープププー。このとき喇叭の響きはいっそう近づいてきて、ハイカラな乗合馬車がお客様を巨体へいっぱい鈴鳴りにして走ってきた。スコッチ服の馭者ぎょしゃがキチンと馭者台へ座ってときどき思い出したように片手の喇叭を吹き鳴らしながら、往来を横切ろうとする老人などに、
「お婆さん、オイ危いよ」
 と声高に叱りつけた。いかにも文明であり、開化であった。人々は感激し、熱狂した。興奮のルツボのなかでやたらに喇叭が鳴りつづけていた。
「立派だこと」
 お八重は切れ長の目を潤ませていた。
「素晴らしい、ほんとにこいつア」
 いつかピッタリお八重のほうへ肩を摺りつけるようにしながら圓太郎も、満足そうにつぶやいた。なんとも言えない幸福感でいっぱいだった。背が三寸ほどひと晩のうちにスクスクと伸びたような気がされた。と次の瞬間、彼、圓太郎の素晴らしい芸術欲がモクモク頭をもちあげてきた。
 それは文字どおりの日進月歩してゆく開化日本の象徴のようなこの絢やかな乗合馬車の姿を目に見てだった。見るからに急進国の素晴らしさを誇るような馬のいななき、わだちの響きを耳に聴いてだった。颯爽さっそうと時代の新風が乗合馬車そのものには吹き流れていた。そうしてそれは圓太郎のような男の胸にまでピチピチしたものを投げつけずにおかなかった。瞼が熱く痺れてくるような言いしれぬ興奮だった。感激だった。
 そうだ。来月看板をあげたら、俺は高座で、本物の喇叭を吹いてこの乗合馬車の馭者の物真似をしてやろう。そうしてこんなにも開化した日本の美しい姿を、せめて俺も自分相応の芸のなかで祝福しよう。途端に圓太郎は右手で鞭を打ち鳴らすかっこうをし、左手を喇叭のつもりで口へ当てた。一見、馭者になっていた。やがてラッパの圓太郎と謳われて一世を風靡し、昭和の今日まで圓太郎馬車の名を遺すにいたったもむべなるかな。
 プープープーと喇叭の音を口でやりながら圓太郎は、間もなく群がる人波を押し分けかき分け、
「お婆さんお婆さん、危いよ」
 と代地のほうへ駆け出していた。
 あとからお八重が美しく上気しながら、夜霧のなかを同じように駆け出していた。

底本:「圓太郎馬車 正岡容寄席小説集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年8月20日初版発行
底本の親本:「圓太郎馬車」三杏書院
   1941(昭和16)年発8月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月12日作成
2012年12月19日修正
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