秋になると、あたしの思い出に、旧東京の寄席風景のいくつかが、きっと、儚い幻灯の玻瑠絵ほどに滲み出す。
京橋の金沢――あすこは、新秋九月の宵がよかった。まだ、暮れきって間もない高座が、哀しいくらい明るくって、二階ばかりの寄席(旧東京の、ことに、寄席にはこういう建築が多かった。神田の白梅、浅草の並木、みんなそうだった。明治の草双紙の、ざんぎり何とかというような毒婦ものでもひもといたらきっとこういう寄席のしじまは挿絵に見られる)から、それこそ錦絵そっくりの土蔵壁が、仄かにくっきりとうかがわれた。
三十間堀あたりの町娘や、金春芸者のひと群が、きっと、なまめかしく桟敷にいて、よけい、「東京」らしい華やかさに濡れそぼけていた。若い女たちが嬉々と笑いさざめく時、高座では青い狐の憑いたような万橘がきっと、あの甲高い、はち切れたあけびの実みたいな声をあげて、
あれは当麻の
中将姫だよ
やっとよーいやさ
あーれはありゃりゃんりゃん
その最後のありゃりゃんを、ことさら、瓦斯の灯の燃え沸るほど、ひとふし、張りあげてうたうのだった。が、きょうびはあの飄逸な万橘の唄も、我らの欣喜渇仰するほどこの頃の寄席のお客には迎えられず春風柳の田舎唄に一蹴されて、到底、そのかみの意気だにないという。中将姫だよ
やっとよーいやさ
あーれはありゃりゃんりゃん
先の女房を虐げて追い出した(?)とかの祟りで、昔から寄席の儲かる時分になると、万橘は脳を患っては休むのが常だ――と、これも、自分は、金沢華やかなりし頃、嘘か、まことか、耳にしたことも、こうなると、いっそ秋寒い。
林家正蔵のスケをたのまれ、一度だけ自分はこの金沢の二世である東朝座の高座へ立つことがあったが、安支那料理屋みたいなペンキ塗りのバラックでそのかみのような下町娘は、金春芸者は、そして白壁は、広重は――もはや、見出せようよしもなかった。
桑名をながれる揖斐川の水は、今も秋くれば蒼いのにあの万橘の「桑名の殿様」がもう、東京という都会からは、歓迎されずに亡びてゆくか?と考えたら、それも、決して偶然な運命ではないように想われて、あたしは泪ぐみたいような気にさえなってくることが仕方がなかった――。これがあたしの思い出の第一。
本郷の若竹の銀襖を、晩夏の夜の愁しみとうたいしは、金子光晴君門下の今は亡き宮島貞丈君だった。ほんとうにここはまた、山の手らしい、いつも薄青い瓦斯灯の灯の世界であった。めくらで、あしの立たなかった、あの小せんを最後に聴いたのが、この若竹の秋の夜だった。
小せんは、通り庭になっている秋草の植えこんであるあたりを、きっと俥から下りると、前座に負われて楽屋入りした。――それが寄席からうかがわれるので、いっそ、我らに涙だった。
小せんの上がる前というと御簾が下りる。蒲団へ座った小せんの四隅を、前座がもって高座に上げる。――やがて、音もなく、御簾が上がる。――小せんは、さびしい面輪をふせて、身を、釈台に凭らせている……。
バタバタと鳴る拍手――その拍手さえ小せんにおくるお客たちのは妙にさびしく遠慮がちだったのを、あたしは、忘れることができない。その晩小せんは「近江八景」という、惚れた遊女が果たして自分のところへくるか否か、易者にみてもらう、あの噺をやったけれど、
「おめえの顔なんざ、梅雨どきの共同便所へはだしで入って、アルボース石鹸で洗ったような顔だ」
云々という独自のクスグリを、ずいぶん身にしみて、聞いた記憶がある。
小せんは、あれからじき患いこんで、翌る四月の末に死んだが、最後を秋の夜に聴いたゆえか、自分は小せんの死というと、あの若竹の秋の夜が、あの若竹の打ち水濡れし前栽が、目に泛ぶ、さらに山の手の寄席の夜らしい耶蘇の太鼓が耳につく……。
これが、思い出の第二。
もう、文展のはじまる時分、曇った秋の午後三時を、上野の鈴本で聴いた圓蔵の噺も忘れられない。
品川の圓蔵と称えられる、先々代の圓蔵である。
故人芥川龍之介は、この人を讃えて、「からだじゅうが舌になったかと思われる」と叙したが、まことや、故圓蔵の、ピリオッドのない散文詩集をよむような、黄色い美酒の酔いごこちは、いま想っても、すばらしい。
明治、大正の噺家で、いくたり、あれだけの飄逸があろう?
この日は昼席の有名会で、我が圓蔵はたしか「八笑人」をやった。
喋っているうち、だんだん秋の曇り日が暗くなりだして(その頃、鈴本は、今のところの向こう側にあって、二階と三階とを寄席にあてているこしらえだったが)白い障子が時雨れてきた[#「時雨れてきた」はママ]。
圓蔵の顔がしばらく、暗く、うすらかなしく、その中から、「八笑人」の、あの仇討のひとくさりの「ヤーめずらしや何の某……」。あすこのくだりばかりが、急速なテンポをもって、しきりと我らの胸に訴えられてきた。
広小路に早い灯花がちらほら点いて、かさこそと桜落葉が鳴り、東叡山の鐘が鳴ったが、立つ客とてはひとりもなかった。
ついでにこの日、小さんは何を演ったか忘れた。圓右が「業平文治」だった。文字花が「戻り橋」を一段語った。右女助も若手で目をパチパチと「六文銭」を聴かせてくれた。
思い出の、第三。
立花家橘之助は、今も六十近くをあの絶妙な浮世節の撥さばきに、さびしく薬指の指輪をかがやかせているであろうか? その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって、四谷の左門町に二階を借りていた。
あたしは、その頃、鴉鳴く秋のたそがれ、橘之助自身から、そのかみの伊藤博文と彼の女にまつわる、あやしい挿話をきかせてもらったことがある。
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれるときもその送別の席上、
「今度、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへお前は年に二回くらい出るようにしろ」
と、公は言われた。
「御前、それは、ほんとうですか」
橘之助は、夢かとよろこんで、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで、橘之助高座へ上がると三味が鳴らない。ぺんとも、つんとも、まるで、鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ、橘之助、何十年と三味線をひいて、こんな例は一度もない。昔何とかいう三味線ひきが、品川であそんでいて、絃の音色で安政の地震を予覚したという話さえ思い出して、これは、遠からず何か異変があるのじゃないかとさえ、心、ふるえた。
そうして、いやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち今度はスッと胸が晴れた、そういってもいつもよりかえってほのぼのとすがすがとなって弾いた、うたった。うたった、弾いた。いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっているといとけたたましい号外の声。
はてなと小首をかしげる間もなくその号外は、
「伊藤公ハルピン駅にて暗殺さる」
云々。
はじめて心に橘之助、昨夜の怪異が深く深く肯かれたというのであるがあたしは橘之助の、あの狸のような顔が、何かその時もの凄いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びたここちに、四谷の通りへ駆けて出ると、ここでも秋の夕の小寒い灯が何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、うつった。
これが、思い出の、そうして、第四。
秋の思い出は、恋といわず、無常といわず、みんな、さびしい色ばかりだ。
(昭和三年夏)
[#改ページ]寄席のちらし
たのまれて書いた戯作調の広告文は、やはり寄席や噺家のが多い。
やがては散逸してしまうであろうから、この小片へ書きつけておくこととした。
口上
昔を今に百目蝋燭、芯切る高座の春宵風景、足らわぬながら再現したく、時代不知とお叱りを、覚悟の上で催したるに、しゃーいしゃーいの呼び声も、聞こえぬほどの大入りに、ありがたいやら嬉しいやら、中席十日を限ってさらに御礼興行仕りますれば、銀座柳も蘇る今日、昔恋しい三遊柳、当時の繁昌喚ばしめたまえと、新東京の四方様方に、伏してお願い申し上げます。
(昭和七年四月、神田立花亭、初めて古風な蝋燭仕立ての会をせし時)
口上薫風五月夏祭、神田祭を今ここに、寄席へうつして短夜を、花万灯や樽神輿、さては揃いのだんだら浴衣、神器所の灯火眩ゆくも、いや眩くも千客万来、未曾有の評判得させたまえと、立花亭主になり代わって「祭の夕」の軒提灯にあかあかと灯をさし入れるは、昭和戯作者の末座につらなる。
正岡 容
(昭和七年五月、同じ寄席の「江戸祭の夕」の時)
つつしんで口上広重の空、桔梗にぞ澄む早夏六月、おなじみ蝶花楼馬楽の会、丸一社中が花籠に、二つ毬の曲に興ぜば、梅坊主連のかっぽれは、深川育ち夏姿、祭めかして懐しく、かてて馬楽トンガリ座の、若手新人熱演に、圓朝以来の芝居噺、紅白道具のどんでん返しは、演者苦心の神経怪談こころをこめて勤めますれば、偏に大入り満員の、祝花火を巨きく真っ赤に、打ち揚げさせたまえと祈るは、催主馬楽がいささかの知り合い、東都文陣の前座を勤むる。
正岡容に候こと実証
(昭和七年六月、国民講堂「馬楽の会」の時)
二人会への口上ハナシカは雪くれ竹のむら雀、ジャズっては泣き、じゃずっては哭きとは昔むかしその昔、九郎判官義経さまが、橋の袂に腰打ちかけて、向こうはるかに浅草の灯を、眺めし頃のタワゴトなり。春風秋雨二千年、さてこの頃の噺家さんは、処世に長けて貯金に秀いで、節倹は経済の基を論じ、自ら常識の地獄に堕ちて、五大洲にも誇るべき、花咲く荒唐なんせんす芸術、「落語」の情操をいたずらに、我と汚しつつあるの秋、巨人鈴々舎馬風あり、珍人橘の百圓あり、一は豪放でたらめにして、一は変才煥発なり。かかるタノモシキ珍漢ありて、八百万世のオール落語は、前途ますますめでたからんと、大提灯をもつものは、これも東都文林に、呆れ果てたる能楽野郎、あいさ、正岡容に候。
(昭和七年十月、金車亭、馬風・百圓二人会の時)
……とまれ、こうしたいかにも昔の日本の素町人みたいな、たとうれば窓辺の鮑ッ貝に咲く、あの雪の下の花にかも似た感情も、じつは、まだ、我らの感情の、どこかに残ってはいるはずである。(昭和九年秋)
[#改ページ]モリヨリヨン
モリヨリヨンは、狂馬楽が先代文楽と、それぞれの前名千枝伝枝のお神酒徳利でつるんで歩いていた頃に創作した落語家一流の即興舞踊とつたえられる。最近では近時没した両者崇拝の可楽がよく記憶えていて歌いかつ踊った最後の一人だったろう。
突如、それこそほんとうに突如、座敷の中でも、寄り合いの最中でも一人がツケ板のようなものでやたらにそこらを引っ叩いて、
モリヨリヨーン、モリヨリヨーン……
とアジャラ声を張り上げ、そのあと何が何だか為体のわからないことを歌い出すと、それに合わせて一方は目を剥き、烈しく手を振り、足を蹴り上げ、世にも奇妙奇天烈な恰好の乱舞をはじめる。もちろん、三味線も太鼓も入らない。狂馬楽はこれを師走の珍芸会の高座でくらいは演ったかもしれないが、まずまず平常は高座以外の、仲間との行住坐臥、もしくは冠婚葬祭の時にのみ、もっぱら力演これ務めたのである。思い起こす大正末年の歳晩、柳家金語楼、当時新進のホヤホヤで神戸某劇場の有名会へ初登場のみぎり、一夜、同行の先輩柳家三語楼、昇龍斎貞丈、尺八の加藤渓水の諸家と福原某旗亭において慶祝の小宴を催したが、興至るやじつにしばしば畳叩いて三語楼と巨躯の貞丈は、モリヨリヨーン、モリヨリヨーン…… と諷い出し、そのたび金語楼、あたかも活惚坊主がスネークのひと手を学び得たるかのごとき奇々怪々の演舞を示して、渓水翁と私とを笑殺せしめた。元すててこもへらへらも郭巨の釜掘りも大方が即興舞踊に端を発したるものとはいえ、それらのなんせんす舞踊には立派に曲もあり、振りもあり、よく一夕の観賞に値するのであるが、わがモリヨリヨンに至っては節もなければ、約束もない。その比喩のあまりにも突飛なるを許させられよ、もしそれ御一新に亡命せる江戸っ子の群れ、遠く南洋の島々へ落武者となって悠久の塒を定め、彼地の土人が即興の舞踊を具さに写したらんか、すなわちこれと思わるるほど、哀しくおかしい。
それにしても神戸の旗亭でモリヨリヨン踊りを見せられてから、はや二十余年の歳月が経つ。だいたい、死ぬと思われなかった貞丈まず逝き、次いで三語楼、渓水と後を追って、モリヨリヨンの同志、いまやわずかに生き残りいるは柳家金語楼と私とのみになってしまった。しかもそののち年ならずして人気、一代を圧倒した金語楼はもはや昔日の落語家ならず身辺多彩の喜劇俳優として不朽の青春をもてあそびおり、二十年一日、旧東京招き行燈の灯影を恋おしみ、寄席文学の孤塁を守りいるものは、私ひとりとなってしまった。
だが、今にして私は思う、このモリヨリヨンというものを、モリヨリヨンの「本体」というものを。それは、その頃の落語家なるもの、一に話中の八さん熊さんと精神生活を等しうしてその狂態を活写すべく、まず常日頃よりおのれが身辺に妄動する小理性の閃きを皆無たらしめんとして、かかる愚かしきなんせんす舞踊の特技をば、ことさらに研き、身につけていたのではなかったか、と。あたかもそのかみの歌舞伎女形、「疝気をも癪にしておく女形」の心得を四六時中忘れざりしがごとくに、である。しかりしこうして神崎武雄君、
「世の落語家のとにかく我々同様の愚かしきところを片相手に云々と紋切形のまくらを振るは、かくいいてまずその落語家自身の身辺にみなぎる常識、理性の色彩を抹殺せむ用意」
とかつて喝破せられしもまた、じつに同様の消息を語るものとぞ思わるる。
それ五風十雨の太平の御世なりしかば、そのような愚かもまたなし得たのだと人、誰か、いう。太平逸楽の頃の落語家にしてなおかつ、この常在戦場の心構えあったのではないかとさえ、むしろ私は叫びたい。すなわち方今の落語家諸君は、近代の儀礼教養をことごとく習得しつつ、一方その近代教養の槍衾に高座の演技、常識地獄に堕せざるよう昔日の人々の二倍三倍のよき愚かしさを身につけるのでなければなるまい。文明開化の聖代は、ついに落語家の習練にも、精神上の二重生活をしいるに至ってきたのである。まことに難しとしなければなるまい。
教養過重にて、とにかく、底抜けの笑いを発散、開拓し得ぬ年少の落語家某君を連日にわたって戒めているうち、談、たまたま往年のモリヨリヨンが珍技に及び、私は感慨すこぶる量りなきものがあった。後日のしのぶ草また数え草、かくは書き留めておく所以である。
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寄席朧夜
今から十二、三年前までは大阪の街の人たちは春がくると、美しい花見小袖を着、お酒やらお重詰やらをたくさんこしらえて堀江の裏の土佐の稲荷へお花見に出かけた。町も町も町のド真ん中のお花見だけれど、これがなかなか風流なもので昼は昼、夜は夜桜で、歌い、華やぎ、楽しんでいた。ばかりでない夏の七夕の時は町中が藪になるし、秋の地蔵盆にはどこの路地裏でも若い娘たちが三味線を弾いて踊っていた。つまりそうした古い懐かしい季節の風習を一つ一つ彼らは美しく慎み深く繰り返していったのだった。従ってその頃の大阪の落語家は、春がくると必ず春の行事を材とした落語を演り、マザマザとそうした市井の人情風俗を活写してくれた。松翁となった松鶴の「天王寺詣」にはやわらかに彼岸の日ざしが亀の池を濡らし、故枝太郎の「島原八景」は朧夜の百目蝋燭の灯影に煌く大夫の簪のピラピラが浮き彫りにされ、故枝雀の「野崎詣」は枝さし交わす土手の桜に夏近い日の河内平野が薄青く見えた、ちょっと数えても春の落語がこれだけあった。その他「桜の宮」とか「鶴満寺」とか、「崇徳院」とか等、等、等――。
そうした上方落語華やかなりしある春の夜、昔の大阪らしい春らしい人情絵巻を満喫したさに今夜も私は、オットリ灯の色を映し出している法善寺の路地の溝板を踏んでもう今はなくなった紅梅亭という寄席へ出かけていった。
逢いに来たやうに紅梅亭をのぞき
という川柳があったけれど、ほんとうにそうした慎しやかな中に何ともいえない艶気を含んだ古風の表構えだった。が――中入近くに入って行ったその寄席の高座ではフロックを着たノッポの男がカードの手品を見せていた。そのあとへは清元の喬之助婆さんが若い女の子を連れて上がってきた。かけもちの都合があるとみえて次の三木助は小噺一つであっさり踊って下りていった。いささか私はガッカリした。やっと顔を見せた染丸はなぜか季節に構わぬ「堀川」という噺をやった。
ひどい寝坊の男を、母親が朝起こすのに骨を折っていると猿廻しが浄瑠璃の「堀川」のサワリの替唄で起こしてやる。ここで下座の女に太棹の三味線を弾かせ、
お起きやるか、目痛や目痛やなア、ウヤ源さんイヤ源さんイヤ日天さんがお照らしじゃ、時間何時や知らんか(中略)イヤ腕力な、イヤさりとはノウヨホあろうかいな、けんかなぞ止めようかいな(下略)
といったようなあんばい式にやるのだが、いったいに長屋のしじまこそ滲んでおれ、主人公そのものが没義道な不快な性格で少しも愉しくなれない。聴いていて、だんだん私は今夜の清興の色褪せてゆくものを感じた。その上このクライマックスのさわりのところまでしゃべってきた時、プツンと下座の三味線糸が絶れてしまった。染丸はあの四角い顔へキッと怒りの色を見せて、「糸が絶れましたよってまた明晩お聴き直しを……」と、プイッとそのまま接穂なく高座を下りていってしまった。「オイお前、肝腎のとこで糸絶らしたら仕様ないやないかド阿呆」続いて口ぎたなく怒鳴っている声がこんな風に客席の方にまで聞こえてきた。いよいよ私は感興を殺がれた。
そのすぐあとへ隠退した音曲師の橘家圓太郎が、この間没した圓生のような巨体をボテッと運んできた。「姐ちゃんいま染丸さんに怒られて気の毒だけどひとつぺんぺんを弾いておくンなさいな」、いと慇懃に彼は言った。見ていて好感の持てるような腰の低いニコニコした態度だった。いくら古く上方に住み着いていても根が圓太郎は東京人だから、染丸と違って下座一人にもこんな気兼ねをするのだろうか。がそれにしてもあの染丸のあの態度はどうも好くない。糸を絶られて芸の情熱を遮断されてしまったあの憤らしさはよくわかる。同情もできる。が、お客へまで聞こえてくるようなあんな楽屋での叱咤怒号はなに事だ。ほんとうの芸の名人はいくら泣血の苦心をした時も汗一つかいた様子を見せないところにあるというじゃないか、春らしい噺もしやがらないで。考えれば考えるほど私は染丸がイヤになった。反対に愛想のいい芸人らしい圓太郎の姿に軽い好感さえ感じられ、そのまま立ち上がると、紅梅亭を出てしまった。こんな事があってからだんだん私は染丸の噺に溶け入っていかれなくなった。しまいには染丸がでてくるとフイと喫煙室へ立ってしまうようなことまでがあった。
三年後のある春の夜、街はもう堀江の木の花おどりの噂でソロソロ春らしく浮き立っていた。私は今別派をたてて上方落語のために苦闘している笑福亭枝鶴(今の松鶴)と南のある酒場で飲んでいた。その晩、彼はまだまだ私の耳にしていない昔の上方の春の人情を美しく織り出している落語のかずかずを、どっさり、差し向かいで聴かせてくれた。すっかりうれしくなってしまった私は、ふと思い出して何年か前の晩の紅梅亭の話をした。黙っておしまいまで聴いていた松鶴は、聞き終わるとあの髪の毛の薄い口の大きな仁王様のような赤ら顔を崩してゲラゲラ笑い出した。いつまで経ってもおかしくって笑いが止まらないようだった。やがて笑いやんだ時、彼は言った。
「ソラあんた今から三年前だッしゃろ、そうだッしゃろ。ほたら圓太郎はん上機嫌、当たり前や。ホレあの女義太夫に竹本美蝶いう別嬪おまッすやろ、その美蝶とそも馴れそめのホヤホヤで、あのやかまし屋が毎晩大機嫌の時やったンやもの」
「フームそれにしても……」
やっぱり肯えないように私は言った。
「圓太郎は圓太郎だとしても、あの下座へ噛みつくように怒鳴った染丸の態度は悪いと思うな」
そう言う松鶴はもう一度さもおかしくてたまらないというように笑い出しながら、
「ソラ仕様ない、あの下座やったら、なんぼ染丸はんに勝手なこと言われたかて。なんでてあの下座、染丸はんのおかみさんだンがな……」
[#改ページ]
草いきれ、かッたぁ
かッたぁ
この頃、山陽の「双蝶々」のスリルに魅かれて、小柳へ連日、かよいつめた。
スケに出る貞水の「頼朝小僧」も古風でおもしろく、伯治の「仙石評定」も渋谷の寺の手入れなど愉しかったが、あのしわがれ声の陵潮は「元和三勇士」の一節でとんだお景物を恵んでくれた。それは、出てくる江戸っ子の肴屋が、
「あッしァ、かッたぁ三河町でござんす」
と言ったことである。
かッたぁ――すなわち神田である。死んだ十二世雪中庵――故増田龍雨翁は、徳川の川は清かれと江戸っ子は濁音を嫌ったもので、「神田」は「かんた」「駒形」は「こまかた」「袢纏着」は「はんてんき」と当然言った。「かんだ」や「こまがた」や「はんてんぎ」では妙に近代的理性的で、つまり乙ゥ啖呵が切れないからでさぁと生前、事あるごとに教えてくれた。
なるほど、そうであろうと思っていたが、陵潮はさらにそいつを鉄火に実践して、「かッたぁ」「かッたぁ」と発音したのは、さすがと思う。
「アキハバラ」「タカダノババ」の今日では、今夏、あるところへ書いた私の小説など、校正注意と欄外へ朱書までしておいたのに、「駒形堂」を「こまんどう」とはルビしてくれず、むざんや、標準語で「コマカタドウ」でアリマシタ。
それはそれとし、「神田」をすべて「かッたぁ」で発音してしまうと「かッたぁの明神」「かッたぁ祭り」「かッたッ子」とくるから、物事万端すこぶる侠にならざるを得ない。ましてや啖呵には絶妙である。江戸っ子は相手をまったくのコケに扱い、「磔野郎」と言う時も、同じ筆法で「はッつけ野郎」となまるくらいだから、つまりはこうなるのが本寸法だろう。
「てやんでェ、はッつけめ。こッとらァ、かッたァ三河町でェ。汝らの手ごちにあうもんけえ」
なら、聞いただけでも青春溌剌。江戸はよいとこ 広いとこ……と昔の小唄のこころいきが実感されてくるではないか。
草いきれ
寒さとか、暑さとか、吹雪とか、しまきとか、野分とか、さてはまたヒビあかぎれとかそれらの俳諧の季題なるものはすべて、この人の世の辛い苦しい切ない悲しいことどもを、辛いなりに苦しいなりに、ジーッと見つめ、見守り、味わい、果ては愉しいものにすら考えていこうとひたむきになった人間たちのいみじき企てだったのだろう。火災保険のまったくなかった江戸時代に、あまりにも頻々たる火災をば「火事は江戸の華だい」と江戸っ子たちが、反語的に嬉しがった心理と似ている。そうして、その企ては、たしかに成功したと思っている。
その証拠には、今では野分とか、吹雪とか、しまきとかいうものの中に私たち多少、風流気のある奴は、一種いうべからざる趣をさえかんじつつあるからである。そうして草いきれなんかも、まさにその一つだろう。
かくいう私が、今の今まで草いきれというもの、愉しい、風流なものだとばかり、信じていた。信じきっていたから妙である。
そしたら、先月、釈場へいって西尾魯山の「東海白浪伝」――日本左衛門を聴いた(魯山は先代馬琴門下だからお家芸のこれを演るのだろうが、退屈で、渋滞で、はなはだ結構でない。いたずらに故陵潮の巧さを思い返させるのみだった。さらに私よりひと時代前の人たちは、当然の言として故馬琴の醍醐味に思い至ったことだろう)。はじめて聴いたくだりであるが、何か天竜川の近くで、昨日渡世人の足を洗ったばかりという老侠へ止むないことから喧嘩を挑みかかる日本左衛門の意気地を叙した一席だった。
その中で、サーッと大夕立が降ってくる。見附辺りの宿駅と思うが、旅人が逃げる、馬子が逃げる、女子供が逃げ惑う。その時、ある男が、いきなりこう言う。
「いいお湿りで、これで草いきれもなくなることでござりましょう」
……思わず私は息を呑み、ウーと低く言った。草いきれそのもの、あの青臭く焦々したあの匂いをば、決して多くの人たちは夏の象徴としてよろこんでいるものでないということをはじめて認識したからである。そうして、この時ほど、ハッキリ「認識」という言葉が、ピッタリと私の胸にきたこともまたない。