ゴッホの三本の柱

 ゴッホの人間及び仕事を支えていた三本の大きな柱として、私は次の三つのものを考えた。これは私がゴッホを好きで彼からの強い影響を受けて来た十代の頃から半ば無意識のうちに掴んで来たものであるが、この春ごろから、いよいよ戯曲に書くために改めて彼のことを考えたり、式場さんその他の研究書を調べたりした結果、さらにハッキリと確認したものである。劇を見てくれる人たちの参考になるかも知れないので、それを簡単に書く。
 第一に、言うまでもなく、彼の持っていた高度に純粋な創造的な性格である。「あまりに純粋な」と言うべきかもしれない。生涯が、ほとんど燃えた生涯であった。生んで生んでさらに生んで生んで「燃焼」は常に白熱を帯びる。多分、彼の生活には、強度の芸術的昂奮と深い疲労しかなかった。ゆるやかな、中等度の気分や生活――普通の人々の「幸福」を作り上げるために必要なアヴェレッジな要素は、極度に少なかった。彼においては走っているか倒れているかの二つの姿しかなかったとも言えよう。創造的性格というものは、いつでも多かれ少なかれそのようなものらしいが、ゴッホにおけるほど極端に純粋な例は、他に多く見られない。それは刻々に火が燃えているのと同じだ。美しいのと同時に、あぶないような、怖ろしいような、感じでつきまとう。
 ゴッホの生涯を見ていると、セツなくなり、少し息苦しくなって来るのは、たしかにそのセイである。私は彼を、普通言うところの精神病者としては見ないのだが、右に述べたような意味でならば、彼の性格全体の中には「狂」に近いものがあった。そして、それが、非常に強い美と真実の感じで、われわれを打つ。
 第二のことは、ゴッホが徹頭徹尾「貧乏人の画家」であったこと、言うところのプロレタリヤ画家の意では必ずしもない。貧乏に生れ、貧乏人の中に在り、貧乏人の気持で絵を描いたと言うことだ。サロンのためや、特権者たちのためには一枚も描いていない。しかもそれが、特に意気張った態度や、特定の思想体系から来たものでなく、きわめて自然なナイーヴなものとして出て来ている。それだけにまた、どんな場合にどんな目に逢っても取替えようのない根深い態度になっている。これがまた、私には、しんから美しく貴い姿に見える。
 第三に、彼の中に生きていたキリスト教だ。ゴッホを、正当な意味でキリスト者と呼び得るかどうかに就ては議論があろう。また、現に、キリスト教の教師の家に生れ育って青年時代に宣教師になって後しばらくしてキリスト教を捨てているのだから、「ゴッホの持っていたキリスト教」と言うのは、当らぬとも言える。私の言うのは、キリスト教を彼が捨ててからさえも、彼の血肉の中に生き残りつづけた宗教性のことである。一般にキリスト教的伝統を持たない日本人がヨーロッパ人を理解しようとする時に最も大きな障害になるのは、この点である。それも、一つの理論ないしは観念としてならばある程度まで理解出来ないことはないが、理論や観念の域を脱した深奥の血肉の世界や日常の空気の中にまでにじみこんでいるキリスト教的実体となると、掴まえることがほとんど不可能なくらいに困難である。私がゴッホをとらえるのに一番困難を感じたのもこの点であった。しかも、たしかにゴッホの人間には終生を通じてキリスト教的血肉を除外しては理解出来ないものの在るのを私は感じる。実は彼の絵にも根幹の所にそれがあると思う。そしてその点が彼をして他の後期印象派の画家たち、またはその後の近代画家たちから区別している最も大きな要素のような気がする。
 以上三つのことが、私がゴッホを掴まえようとした追求の結果であるのと同時に、ゴッホを掴まえるための重要な拠り所でもあった。
 私の戯曲にそれらがどの程度にまで生きたものとして実現されているか、今のところ私自身にはハッキリわからない。ただそのために出来るだけの努力はした。後はさしあたり、戯曲をよんでくれ、劇を見てくれる人々の批判に、素直に耳を傾けたいと思う。
(一九五一年八月末)
 人生画家ゴッホ

 画家は即ち画家とだけでたくさんで、それ以外の形容詞は要らないのだが、仮りに人生の画家という言葉が在るとするなら、ゴッホほどこれにふさわしい画家はいないであろう。
 理屈ではない。また彼の生きがいの歴史を調べたうえでの結語のようなものでもない。ゴッホの絵を見て、ジカにわれわれの感ずるものとしてである。作品が彼の人生そのものとピッタリと一本になっている実感を持っていること。つまり「絵を生きている」こと彼のごとく素朴にして強烈な画家は他にあまりない。一枚のタブロウ全体でも、ひとタッチずつの中でも彼は生きている。
 生きるということは、意識と無意識とを一度に働かして物にぶちあたることだ。行動の直中にキチガイになるということだ。そのことの直中に燃え、燃えつきるということだ。
 画作十年の全作品を通じてそうであるが、特に完全に自己の独創に立って矢つぎ早に傑作を描いた晩年三、四年間の作品には、近代画家の大概にあるところの、自然を三段論法風に「解釈」した跡が、ほとんどない。無邪気に、無雑にただセッセと描いているだけ。自然や人間をながめたものを「それ自体」と信じ切って、それに筆を従わせているだけのようだ。絵を見る人の受け取り方まで計算に入れて、それに対応する「手」としての理論や構築や作為はないように見える。
「解釈」から絵を描けば、一方において唯美主義やデカダンスが生れ、一方においてキュービズム、アブストラクト、シュールその他が生れる。そのような絵になれた人たちが、ゴッホの絵に物たりなさを感ずるのも、いくらか当然ともいえよう。しかし、ゴッホの良さと強固さも実はその点に在る。
 他の文化文物におけると同様に、絵も絵だけとして発達し爛熟すると、ライフから浮き上り、離れてしまい、そして衰弱する。それを時々、人生画家が出て来て救い、本道に立ちもどらせる。現在、パリその他に、アブストラクトやシュールを批判して否定して、もう一度強固な人生と実在を踏んまえて立とうとしつつ素朴なリアリストたちの動きが現われて来つつあるのはそれだろう。そして、それらがいろいろの意味でゴッホに血脈を引いていることは疑いのない所だろう。
 美が美だけとしてライフから切り離されて追求された所で絵が描かれれば「手品」になる。西洋にも日本にも現在手品じみた絵が多過ぎる。そのことを反省する意味でもゴッホの絵は、今、丹念に振返って見られる必要があると思う。
(「毎日新聞」一九五一年九月五日付)
 炎の人

 私がゴッホの絵に引きつけられ、彼の一生の足跡から強く動かされたのは、早く十代の中学一二年からのことである。
 もともと絵がひどく好きで、青年時代まで画家になるつもりでいた。青年時代に、絵を描くだけではどうしても満たされない飢えのようなものから促されて詩を書き出し、それが発展してやがて劇作に移って行き今日に至っているが、その間も絵を描くことはやめない。時間が充分でないのと持続的に描かないため上達はしない。それに一枚の絵を永くつつくタチなので完成した絵は極く僅かしかない。現在も描いている。原稿を書くために二時間も机に坐っていると頭が痛くなってくるが、頭の痛い時でさえイーゼルに向って絵具をいじっていると三時間ぐらいは夢中に過ぎてしまう。絵画は主として感覚中心の仕事ゆえ、人を酔わせる作用があるからとも思うが、それよりも私という人間が本来ひどく感覚的な人間のためではないかという気がする。五官が過敏すぎるのである。とくに嗅覚と視覚がそうだ。物の匂いがあまり鼻に来るので、まるで犬のようだと人からいわれたことがなんどもある。また初夏の林の道などを歩いていると、あまりに多種多様の緑色が見えすぎて、その刺戟のために目まいを起して倒れることがある。私が神経衰弱になりやすいのは、これらの感覚過敏のためらしい。時にそれが呪わしいような気がすることがある。しかし、次第に、それも自分に生れついたものだとあきらめるようになって来た。あきらめるというよりも、これが自分というものだ。これらの過敏さを抜きにしては自分というものは存在し得なかったのだ、これは自分に与えられたものだ、してみれば自分にとってかけがえのないという意味で貴重なものであると考えるようになった。
 私がゴッホに本能的に引きつけられることの理由に右のようなこともあるかも知れない。ゴッホの絵が唯単に良い絵として私に受け取られたのではない。実はゴッホの絵を「うまい」と思ったり、「美しい」と思ったりしたことは、ほとんどないのである。ただドキンとするような感じがこちらに来るだけなのだ。彼の絵を貫いている根源的なイノチのようなものが、他人のもののようでないジカな感じでこちらの内部に入りこんでしまった。だから私がゴッホから受けたものは影響とはいいにくいかもしれない。もっと中心的なところを動かされてしまったらしい。いわば私はゴッホを「食った」らしいのである。それが私の薬になったか毒になったか私は知らない。しかし、どうも食ったらしい。良かれ悪かれ食ったものは自分の血肉の一部になってしまっているのだろう。
 私が時々ゴッホの絵の「ヘタさ」かげんが鼻について「なんとまあ小学生のようなヘタさだ」と、まるで自分の作品のアラを見つけて嫌になった時と同じ気持に襲われたりするのも、そのためかもしれない。また、ゴッホと同じ血液を持ちながらゴッホの持たなかった静謐を持っていたジオットや、近代ではゴッホから出発してクラシックな安定の中に腰をすえたドランなどに強く引かれるのもそのためらしいし、また、ルオウに敬礼しながらも彼の絵を永く見ていることに飽きてしまって「わかった、わかった。もうたくさんだ」といいたくなるのもそのためらしい。それからまた、小林秀雄などが「麦畑の上を飛ぶ烏」などを褒めちぎったりすると「じょうだんいってもらっては困る。あれは私の頭の調子が変になりきった時の、落ちついて絵具をしっかりカンバスに塗っていられなかった時の絵で、絵そのものが少し狂っている。異様なのは当然だろう。第一、あんたが打たれたという空のコバルトは、私の塗った時とは恐ろしく黒っぽく変色しているんだ。褒めるなら、せめてそれくらいのことはわかった上で、もっとマシな絵を褒めなさい」とつぶやいて見たくなるのも、そのためかもわからないのである。
 ――それほど私にとって親しいものになってしまっていたゴッホではあるが、そのゴッホのことを自分が戯曲に書くことがあろうなどとは想ってみたこともなかった。だから去年のはじめ劇団民芸の諸君からそれをすすめられた時には二重にギクリとした。一つはとんでもないことをいわれた気持と、一つは何か道具はずれを鋭く刺されたような気持だった。いずれにしろ自分の力に及びそうには思われないので再三辞退したが、どうしても書けという。特に滝沢修君の熱意は烈しかった。それで、いろいろ考えたり調べたりしているうちに、自分に書けるだろうとは思えなかったが、これほど少年時代からゴッホに動かされて来ている人間だからゴッホのことを書く資格だけは有るのではないかと思った。するとパッと視界開けて書く気になった。
 書くのはかなり苦しかった。画家の肉感を自分のうちにとらまえて離さないようにするため、原稿紙ののっている机のわきに常にイーゼルを立てて置き、時々カンバスに油絵具をつけては、指の先で伸ばしてみたりしながら書き進んだ。ゴッホが狂乱状態になって行く所を書いている時など、私の眼までチラチラと白い火花を見たりした。書きながら、だから、ゴッホが錯乱して行く、行かざるを得ない必然性が、はじめてマザマザと私にわかった。そして今さらながら戯曲を書く仕事の良さと、それから怖ろしさが身にしみた。だからこの作品を書いてはじめて私はゴッホを私なりに真に理解し得たといえる。
 この作品で、かつてオランダに生きていたゴッホという画家がチャンと書けているとは私は思っていない。それはとても書けるものではない。まず西洋人である。西洋人には東洋人にはどうしてもよくわからない何かがある。次にゴッホの人間を深いところで決定づけていたキリスト教の実体がわれわれにはなかなか掴めない。この二つを掴むために私は私に出来る限りの努力はした。しかしこれでよいという気にはどうしてもなれなかった。
 せいぜい「私がこんな人ではなかったろうかと思っているゴッホという人間」の姿の一部というところだろう。芝居としても上手に書けたという気にはどうもなれない。しかしゴッホという人間画家の一角に僅かながら爪を立てることだけは出来たと思う。
(『三好十郎作品集』より)
 ゴッホとのめぐりあい

 言うまでもなくこの人は私にとって見も知らぬ外国人なのに、それに対して実に強い親近感を懐いている。それは非常に近しいイトコのことでも考えるように強いもので、しかもそれがごく自然だ。この感じは「炎の人」を書くためにゴッホのことを調べたりしたために生れたものではなくて、ずっと以前からだ。
 なぜだろうと考えても理由はよくわからない。第一ゴッホの絵を複製で見たり生涯のことを知ったのがいつだったか覚えていない。もともとすべてのことについての年月日についての記憶力が薄弱な人間だが、それにしてもこれほど強い影響を自分に及ぼしたゴッホとの最初のめぐりあいのことをこれほど忘れてしまっているのはチョット不思議だ。そうしてそのことがまた、ヒョイと気がついてみたら自分のイトコがすぐにそこに立っていたのに気がつきでもしたように、ゴッホへの親近感の深さや自然さの証拠になるかもしれない。
 私は少年時代から青年時代へかけて非常に絵が好きで、人のかいた絵をみるのを好み自分でも水彩画を描いた。ことに中学の一年二年三年あたりの時代では夢中になって絵をかいた。主として自分の身辺の自然を写生した。今思い出してみると面白いことに私が生れて初めてまとまった金をかせいだのはその当時で、自分のかいた絵によってである。私はひどく貧乏で中学の学費だけは親戚の者たちからわずかづつ支給してもらっていたが、いつもほとんど金は持っていない。それが書店の店頭で雑誌を見ている間に、その当時あった雑誌の一つで確か武侠世界という雑誌で表紙の絵を懸賞募集していることを知ったので急いで描いて送ったが、まさかと思っていると次の月のその雑誌の表紙にどこかで見たような絵がのっていると思ったらそれが自分の絵で、びっくりしていると賞金が送ってきた。当時の金としては多額のものでそれに十八金製のエバーシャープの副賞がついていたように覚えている。その金でかねてほしいと思っていた書物や絵具などを買いこんだ上に、かねておごってもらうばかりの友達たちに今度はこちらがチャンポンやまんじゅうをふんだんにおごってやって一週間くらいで金の方は使ってしまった。当時中学の絵画の先生から愛されて私だけはクラス中で特別に優遇され、年一回県庁で催される六人の画家たちに交って私一人が作品を出品する資格を与えられたりした。その時代の大人の画家たちとも二三知り合いになったりして、いずれそういう人たちからゴッホの話を聞いたり画集を見せてもらったに違いない。ゴッホの絵を初めて見た時分は非常に驚いたに違いないが、今からそれを思ってみても格別それほどいちじるしいことが起きたようには感じない。まるで水が低い方に流れるように、自分がゴッホを知ったということが自然に思われるのである。
 思い返してみると私の青少年時代は普通の人に比べてびっくりするくらい変化の多い生活であったが、ことに中学の一二三年ぐらい私の上には境遇の点でもまた私という人間形成の点でも言ってみればシュトルム・ウント・ドラングの時代であって混乱と動揺に満ち満ちた月日であった。そうだ、当時の私がおそろしく貧乏で孤独でそして絵が好きであったという点では、ゴッホと類似があるかもしれない。食べる物も学費も着るものもいっさいがっさいが気まぐれな叔父叔母のめぐみによるものであって、学年末に至るまで教科書がそろわないことが常例であった。それに両親の味を知らない孤児で、自分を育ててくれた祖母は十二歳の時にすでに亡くなっていた。親戚や友達は多かったが心はいつでも肉親の愛に飢えていた。絵は前述の通り何よりも好きであったが、その水彩画を描く画用紙や絵具が完全にそろっていたということはめったになかった。それでいながら私の性格にはどこかしらのん気な所があって、そういうことをさまで苦にやんでいなかった点はゴッホの若いころとはだいぶ違うようだが、しかし貧乏で孤独であったという点では似ていたと言えよう。貧しい人間は本能的に貧しい人がわかるものだ。孤独な人間はこれまた本能的に孤独な人をかぎわける。そうだ、私のゴッホに対する強い親近感はあるいはそのようなところにも根ざしているかとも思う。
 しかしもっと根本的にはゴッホの絵の本質に私が強く強く自分の内部を動かされたからだという気がする。彼の絵をじっと見ている私の内部の、ほとんど自分にも気がつかないような深いところが刺戟され、そこがうずき走るように快い。私は一般に絵画が好きだからどのような画家の絵も喜んで見るが、ゴッホの絵を見て感じを与えられる画家は他に幾人もいないのである。この感じは私に非常に親しいものであるのと同時にいつでも新鮮なものだ。言葉でも文章でもこれは説明ができない。しかしゴッホの絵を見ていると、それがそこに実在しているということをなんの疑いもなく私は感じる。そしてゴッホのことを「真の画家である」と思うのである。
(一九五八年九月上旬)

底本:「炎の人――ゴッホ小伝――」而立書房
   1989(平成元)年10月31日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年3月24日作成
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