羽ばたき(Ein Marchen)

※(ローマ数字1、1-13-21)

 丘の上のU塔には、千羽の鳩が棲んでゐた。それらの鳩がいちどきに飛翔すると、空は眞暗になつた。そしてしばらくそれらの羽音がU塔を神々しく支配した。それらの羽ばたきは何となく天使の羽ばたきを思はせた。
 傳説によると、U塔のある丘は昔の仕置場の跡ださうだ。そしてこの塔の中には囚人が幽閉されてゐたといふことである。だが今では誰も知らないのだ、そのためにこんな淋しい場所になつてゐるのか、それともこんなに淋しいのでそんな傳説が生れたかを。このU塔に近づくものといへば、さういふ鳩と遊びにくる子供たちだけだつた。そのほか、ときどき浮浪者がやつて來て、塔のまはりで眠るやうなことがあつた。すると眞夜なかに、異樣な羽ばたきが彼等の夢を打つた……
 U塔のある丘つづきに、フエアリイ・ランドと呼ばれる丘があつた。
 その丘は、前者が死を象徴してゐるのに對して、生を象徴してゐるやうに見えた。その丘に近づくと、いつも噴火山のやうな音響が聞えた。それは丘の上にある大きなロオラア・スケエト場のためだつた。そこには、それのほかに、木馬館があり、サアカス小屋があり、活動小屋があり、射的場があり、酒場があつた。だが、この物語の起つたころには、ロオラア・スケエテイングがあらゆる流行の上にあつた。そしてただ、一九一二年に一軒の活動小屋から起つた「ジゴマ」の流行だけが僅かにそれと匹敵できた。
 惡漢ジゴマにはことに子供たちが心を奪はれた。何週間となく續映された「ジゴマ」が遂に上映されなくなつてしまつてからは、ジゴマごつこといふ遊戲が子供たちの間に流行しだしたくらゐに。――
 ジゴマは子供たちにとつて一種の偶像だつた。だから彼等の餓鬼大將でなければ、ジゴマの役にはなれなかつた。彼の氣に入りの二三のものがその乾分に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、そして他のものはそれぞれが小ニツク・カアタアになつた。
 子供たちは一人きりでは決して夢を見ないものだ。彼等はいつも一塊りになつて、共通な一つの夢を見ようとする。ジゴマごつこの遊戲は、最もさういふ夢の組織に適した。
 U塔の附近に遊びにくる子供たちの間では、ジジと呼ばれる少年が、いつもジゴマの役になつてゐた。
 ジジは普通の餓鬼大將とちがつて、ただ誰よりも腕力が強いだけではなく、それと同じくらゐに誰よりも美しかつた。その慓悍な眼ざしと、その貝殼の脣とが、他の仲間たちの上に異常な魅力をもつてゐるのだ。ジジは彼の貧乏なことをも彼の魅力の一つにしてゐるやうな少年だ。
 或る日、U塔を包んでゐる死が蘇つたやうだつた。鳩たちは羽ばたきながら逃げまはつた。その時ぐらゐジゴマごつこが猛烈に行はれたことはなかつたらう。ジゴマのジジをキキといふ少年が追ひかけてゐた。キキは身體の小さなくせに、頭の大きい少年だ。そのとき、突然ジジが石につまづいて、はげしく倒れた。そして死人の眞似をした。するとキキは、彼を捕縛すべき警官の役割を放棄して、ジジの肩に手をかけながら、女の子のやうにやさしく聞いた。
 ――ジジ、どこも怪我をしない?
 ジジは起き上つた。そしていきなりキキの手をふりほどくと、嘲るやうな鋭い笑ひを立てながら、全速力で駈け出した。すこし跛をひきながら……
 キキは彼を追ひかけることも忘れたやうに、ジジの足の痛みを我慢しながら駈けてゆく後姿を見送つてゐた。さういふジジにすつかり心を奪はれて。――
 だが、やがて、ジジはその傷ついた足のために容易に他の警官たちに捕へられた。彼等はジジを一本の樹に縛りつけた。その間中、キキはすこしも手出しをせずに、ただ、おどおどした眼でジジの顏を見てゐた。ジジはまた、それをうるささうに、縛られながら、よそつぽを向いてゐた。
 惡漢をそこに縛りつけてしまふと、遊戲が終つた。警官たちは彼の乾分にあとをまかせてその場を立ち去つた。そしてキキも……
 丘の上で子供たちがそんな遊びをしてゐる間に、その丘の下の、町はづれの、或る貧しい木賃宿の一室では、ジジの母が、死が自分をいぢくるのを感じ出してゐた。
 彼女は、ときどき、見知らない墜落の感じを味はつた。彼女はそれを怖がつた。彼女は、彼女の臨終のために集つてきてゐる人達に、自分の身體を寢臺にしつかり押へつけてゐてくれるように、と頼んだ。そしてしまひには、繩でもつて彼女の身體を寢臺に縛りつけて貰はねば承知しなかつた。人々は彼女のいふ通りにした。
 その木賃宿の窓からは、U塔が最も不氣味な恰好をして見えた。
 ジジは、樹に縛られたまま、いつか眠つてゐた。そしてこんな夢を見てゐた。――一羽の鳩が飛んできて、彼の頭の上にとまつた。そしてそこで熱い糞をした。その糞は彼の顏の上をたらたら流れながら、それを火傷させた。そしてそのあとが青い痣になつた。それから鳩はいかにも重々しげに羽ばたきながら、飛び去つた。彼は腹を立てるどころか、何だかその場が自分の母親のやうな氣がしてならなかつた……
 ――ジジ! …… ジジ! ……
 自分を呼んでゐる聲がだんだんはつきりしてきて、それがキキの聲になつた。――ジジは、すこしづつ目を覺ましながら、自分の前にキキが神經質な顏をして、何かしきりに叫びながら、突立つてゐるのを認めた。
 ――ジジ、お前のお母さんが死にさうなんだよ……
 ジジはやつとそれだけの言葉を聞き分けると、まだ頭の中に眠りの殘つてゐる者の不機嫌さで返事した。
 ――嘘つき! お前はそんなことをいつて、お前の仲間を裏切らうてんだな。
 ――嘘ぢやないつてば……僕はお前を早く搜してこいつていはれたんだよ……
 さういつて、キキは眞赤な顏をしてジジの繩をほどきにかかつた。ジジは、彼のなすがままになりながら、まださつきからの遊戲を續けようとしてゐた。
 繩をほどかれるとき、氣がつくと、一本の繩が彼の顏の上にかかつてゐて、そのあとが青い痣になつてゐた。ジジはそれを夢の中の痣と混同した。
 U塔のある丘から、ジジたちの住んでゐる木賃宿までは、凸凹した一本道だ。それを跛をひきひき歩きながら、ジジは怒つたやうにキキにいつてゐた。
 ――俺んちまで一しよに來るんだぜ……そしたら、お前の嘘をばらしてやるから、さう思へ。
 ――嘘ぢやないつていふのに。
 キキは女の子のやうにジジを見上げた。
 ジジはひとりで考へだした。……
 自分の母親がいつも寢臺に寢たきりであることや、彼女がいつ死ぬかわからないほど衰弱してゐることを、そして恐らくキキは嘘をついてゐるのではないだらうこと、それから自分はやがて孤兒になるだらうことなどを。……だが、彼にはそれらのことも一向氣にはならない。彼は彼の母親の年齡さへ知らない位だ。おまけに、彼女の不幸がそれを二倍にも三倍にもして見せてゐた、ほんとは三十を少し越したにすぎない彼女は、まるで九十以上の老婆のやうに萎びてゐた。ジジは彼女を、足の折れてゐる椅子や、穴のあいてゐる手袋のやうに、注意ぶかく取扱つた。よく朝など、彼女は死んでゐるやうに見えた。ジジは彼女の冷たくなつてゐる脣の上に自分の脣をあててやつた。すると温か味が次第に移つて、彼女はやつと蘇つたやうに、眼を細目に開けるのだつた……
 ジジは、自分がさういふ方法でもつて、皆が死んだと思ひ込んでゐる自分の母親を、奇蹟のやうに蘇らせてやるところをば、キキの奴にも見せてやりたかつたのだ。
 二人は木賃宿の前に到着した。その一番てつぺんがジジたちの部屋だ。其處で、ジジたちはその宿の他の人達のおかげで生きてゐた。二人は階段を大いそぎで上つて、それからジジの部屋の前にちよつと立ち止まり、猫のやうに耳を立てた。
 部屋の中はしいんとしてゐた。で、しづかに扉をあけると、同時に、ジジとキキは十字を切りながら跪づいてゐる人達の背後から、非常な驚きをもつて見出した。――寢臺の上に、まるで罪人のやうに幾重にも繩で縛られながらジジの母親の死體らしいのが横たはつてゐるのを。
 ジジはその人達の間を潛り拔けながら、彼の母親の屍に近づいた。そしてしばらく、その異樣な光景に見入つてゐたが、別に誰にも説明を求めようともしないで、いきなりその死體の上にのしかかるやうにして、荒々しく自分の脣を母のそれの上にあてた。彼には、それがいつもよりずつと冷たく、そして悲しいやうに思はれた。だが、彼はそのうちにそれが温かくなつてくるのを信ずるかのやうに、いつまでもさうしてゐた……
 キキは、さういふジジの動作をぢつと見守りながら、その部屋の一隅で、眞青になつてゐた。そして死の異常な沈默に喉をしめつけられ、誰にも氣づかれずに、少しづつ失神していつた。繩でしばられてゐる不氣味な屍、それに接吻してゐるジジ、そのジジの顏の上にある青い痣などを次から次へと目に浮べながら……

※(ローマ数字2、1-13-22)

 ジゴマ鳩!
 そんな奇妙な言葉が、ときどき、町の人達の會話の間に雜じるやうになつた。そのころ、その町中を荒しだした或る不思議な盜賊の、それは異名であつた。といふのは、その盜賊の兇行の跡には必ず鳩の糞が一面にしちらかされてあつたのだ。――一羽の鷄を盜まれた肉屋の主人は檻の中に落ちてゐる糞が鳩のであることを主張した。それから八百屋では多くの林檎が盜まれ、そして僅かにそこに殘つてゐた林檎は一つ殘らず何かに噛まれてゐた。が、それはどうも人間の齒の跡らしくはなかつた。そして最後に、或る旅籠屋の主婦は、眞夜中に臺所の方から何んだか鳩の羽ばたきのやうなものが聞えてきたので、急いで臺所へ行つて見ると、其處は何を盜まれたのかも分らないほど亂雜にされてゐた。そしてそこら中が鳩の糞だらけになつてゐた。――そしてこの主婦の證言がすべてを決定した。
 泥坊鳩!
 鳩は、その小さな町には、U塔にしか棲んでゐないはずだつた。その惡性の鳩はU塔の中に巣食つてゐるにちがひないと人々は思つた。その町の中からなら何處からでもよく見えるそのU塔の不氣味な姿は、いまさらのやうに人々から仰ぎ見られた。そして人々はますますその塔に關する迷信を深めて行つた。しかし、誰一人その塔に近づかうとするものはなしに。――
 もし人々が、數ヶ月前その母親が無慘な死に方をすると同時に行方不明になつてしまつた少年ジジのことを忘れずにゐたら、彼等はその少年とこの奇怪な鳩との關係にすぐ氣がついたかも知れない。だが、誰もかもジジのことをすつかり忘れてしまつてゐた。ただ、キキとその二三の友人とを除いては。キキらは近ごろの犯罪がジジの仕事であることを直覺してゐた。そして彼等の遊戲の有名になつたことが、彼等を一そうそれに夢中にさせた。これらの小ニツク・カアタアたちは毎日U塔の附近に行つてジゴマのジジが出現するのを待伏せた。だが空しく。――何故なら、ジジは自分勝手に遊戲の規則を替へてしまつてゐたからだ。
 ジジは彼の仲間たちを裏切つた。それまで遊戲時間に決めてゐた夕方を、彼はU塔に閉ぢこもつたきり出て行かなかつた。そして彼はもはや夜だけしか遊ばうとしなかつた。しかも自分一人きりとしか、――彼は自分の新しい遊戲の面白さを一人樂しむために、彼の仲間たちを全部ボイコツトした。ジジはジゴマごつこをしてゐるうちに、いつか本當のジゴマになつてしまつた少年だ。
 ジジはその代りに鳩を相手にして遊んだ。ジジは鳩たちを愛した。そして彼の母親が死にながら鳩に轉生する夢を何度も見た。鳩たちもジジにしたしんだ。――そのうち、一羽の鳩は、ジジが夜中に町のなかをぶらついてゐる間、必ず彼の跡からついてくるやうになつた。ジジはその鳩を自分の肩にのせてやつた。
 通行人がジジに近づいてくるのを、彼が氣づかずにゐるやうなことでもあるとその鳩は大きな羽ばたきをしながら、飛び上つた。通行人はその異樣な物音に注意を奪はれて空を見上げた。――その間にジジは物蔭に隱れることができた。
 そのやうに、夜ごと、町のなかを彷徨する奇怪な鳩の噂が擴がつて行く間に、ジジはまた別な遊戲を發明した。後は自分の美貌とジゴマの變裝とをそれに利用した。少女に變裝する――それがうまく行けば、彼は、誰にもジジであることを氣づかれずに、フエアリイ・ランドのやうな盛り場へも平氣で行かれるといふものだ。
 それに成功するために、ジジは自分の生を賭した。洋服屋の飾窓をメチヤメチヤに破壞して女の子の衣裳を盜んできたり、サアカス小屋の中で自分の寸法に合ふ少女の鬘を長いことかかつて撰んだりした……
 或る日、ジジの變裝は見事に完成した。そして彼はU塔の鳩たちをさへ欺くことが出來た! 彼が近づくと鳩たちは惶てて飛び去つた。
 かうして彼は青天白日の身になつたのだ。フエアリイ・ランドの入口で、彼は、キキ等が自分とすれちがひながら自分にすこしも氣づかないのを見て、滿足した。
 フエアリイ・ランドではすべてが新しかつた。それらを生れて始めて見るかのやうに彼は見物した。女の子たちが後を羨しさうに見つめた。彼は、スケエト場の入口の凸凹鏡の中に、見知らない少女の顏がへんてこに歪んで映つてゐるのを見て、噴き出しさうになつた。彼は最初、それが自分であるとは氣づかなかつたのだ。
 それから毎日のやうに、ジジは女の子に變裝してフエアリイ・ランドへ遊びに行つた。「畜生!」女の子のジジは活動小屋の中から出ながら、佛頂面をしてひとりごちた。「あいつがまた居やがる。今夜もまた、俺の跡を何處までもつける氣かしら? ほんとに厭になつちやふ。あいつは探偵いぬかも知れないぞ。まるでポオリン探偵の出來損ひみたいな面してやがるからな……なんて間拔けな髭面だい! あんな奴に誰がつかまるもんか!」
 ――可愛いねえさん! ちよいと……
 さういつて笑ひながら自分の前に立ちはだかつてゐる、その可笑しな髭の所有者を、ジジは、頭の上から足の先までさも馬鹿にしたやうに眺めまはしてから、くるりと彼に背中を向けた。そして構はずに歩き出した。
 だが、もうそいつはゐないだらうなと思つて、ひよいと振向くと、まだそいつの二つの眼がぢつと自分を追つてゐる。さういふときのそいつの眼差しの恐いつたら! キキならきつと泣いてしまふだらうとジジは思つた。そして、何だかそいつだけが自分を見破つてゐるやうな氣がしてならなかつた。
 二三日後、そのジジの不安な豫感は的中した。……
 その日の暮れ方、いつものやうに女裝したジジは、或る町の古道具屋の飾窓に熱心に見入つてゐた。そこには、さまざまな骨董にまじつて一箇の短刀が光つてゐた。ジジはそれが欲しかつた。そしてすすけた窓硝子に顏をくつつけながら、どうしたらそれが盜み出せるかを考へはじめてゐた……
 ――短刀が欲しいのかい? 小僧さん……
 ジジは思はず身顫ひがした。……それから自分のすぐ横に例の奴がにやりと笑ひながら、自分と同じやうに、飾窓の中をのぞいてゐるのを、窓硝子の上にジジは認めた。そんなに近くで見ると、そいつの横顏は何となく自分に惡意を持つてゐるもののやうには見えなかつた。が、そいつの手がいつかジジの手を握らうとしてゐる……
 ジジは猫のやうな敏捷さで、そいつのそばから離れた。
 毎日のやうに、スケエト場は滿員だつた。ロオラアの立てる音はますます噴火山の音響に似てゐた。人々は入れかはり立ちかはり滑つた。或る者は後向きに滑つたり、右足を高く上げて左足だけで滑つたり、いろいろと天使の眞似をして見て得意になつてゐた。
 日曜日。キキ等はスケエト場の一隅で、自分等のスケエテイングの番を持ちながら、滑つてゐる天使たちを眺めてゐた。
 そのときだ。キキが鋭く叫んだ。
 ――ジジだ! ジジだ! ……
 成程ジジが滑つてゐる――今日はどうしたのか、すつかりいつもの女の子の變裝を棄ててしまつて。ジジは滑りながら、誰を相手ともなく、やたらに巫戲けちらしてゐる。そしてこれ以上は誰にも出來まいと思はれるほど、巧妙に天使の眞似をして見せてゐる。――キキ等は、そのジジの天使ぶりに見惚れた。
 そのうちに、ジジは滑りながら、さつきから彼の右側を滑り出してゐる大きな髭のある紳士と、何か口論しだしたやうに見えた。突然、ジジがその紳士に向つて飛びついた。そして二人は同體になつて轉倒した。すると同時に、彼等のまはりに滑つてゐた人達が、ばたばたとその上に重なり合つて倒された。或る者は苦しげに叫んだり、或る者は高く笑つてゐた。そのうち漸く一人一人起き上つた。――だが、最後の一人はなかなか起き上らうとしなかつた。彼は兜蟲のやうに手足をばたばたさせてゐた。
 滑走者の一人が無理に彼を起さうとしてその肩に手をかけた。彼は青くなつて自分の手を離した。それが血だらけになつてゐた。
 ――血だ! 血だ!
 その犧牲者を見ようとして、滑りながらその場に近づいてゆく者があつた。それからまた、それにかかり合ひになるのを恐れるやうにその場から逃げてくる者があつた。彼等はあちらこちらで衝突し合つて互に倒れた。さういふ時、突然、人々の頭上で異樣な爆音がした。それは鳩の羽ばたきに似てゐた。人々が天井を見上げた時は、すでにそれらしい影はなかつた。しかし、人々はそのおかげで始めて犧牲者の倒れてゐる近くに鳩の糞が落ちてゐるのに氣がついたのであつた。
 キキ等は、さつきからあれほどに注意してゐたのに、ジジを人ごみの中に見失つた。だが、いま、彼等の目前で巧妙に行はれた犯罪はたしかにジジの仕事にちがひないのだ。そして本當の血はキキ等を彼等の遊戲にこれまでになく昂奮させた。これらの小さな探偵たちはジジを追跡するために、いそいでスケエト場を去つた。
 病院で――すつかり繃帶をされながら、犧牲者は、警官に向つていつた。
 ――加害者? それは小僧つ子ですよ……實は、その小僧はいつも女のなりをしてゐるんですが、私はそれをちやんと見破つてゐたので、一寸からかつて見たんですよ……するとその小僧め、怒りましてね、たうとう私をこんな目に遇はせたんです……だが、あの時私を刺さうとしながら可笑しなことをいひましたつけ。ポオリンの野郎つて、ね。……ほう、さうですか、あいつがジゴマ鳩なんで? 分らんもんですな……だが、ちよつと可愛い奴ですよ……
 犧牲者はその最後の言葉をいひながら、ふいにソドムのやうな異樣な笑ひを浮かべた。
 その夕方、警官隊は物々しくU塔に昇つて、その内部を隅から隅まで搜索したが、そこには鳩の糞のほかは、何物も發見されなかつた。
 キキ等がジジを襲撃するためにその翌朝を擇んだのは、本物の探偵等よりも鼻がよかつた
 襲撃は組織立つてゐた。先づ、キキが選ばれて、眞先きに塔の中に入り、他の者等は彼の合圖によつてその中に躍り込む手はずになつてゐた。――キキは一人で大膽に眞暗な螺旋階段を昇つて行つた。キキをそんなに大膽にさせてゐたのはそれは、何よりもジジに氣に入りたいためであつた! 漸く螺旋階段を昇りつめると、そこだけがいくらか薄明るくなつてゐる、がらんとした一室があつた。その中にこつそり忍び入りながら、キキは其處にぐつすり眠つてゐるジジを發見した。丁度、塔の窓の格子を通して射し込んでゐる朝日がジジの身體に當つてゐたので、ジジは眠つてゐる一匹のしなやかな縞馬のやうに見えた。
 ――ジジ! ジジ! ……ジジ! ……
 縞馬は突然、はね起きた。――彼にはそこにキキを見出したことが夢の續きのやうにしか思はれない……
 だが、キキは嚴肅に遊戲の開始を告げた。
 ――ジジ、覺悟しろ!
 みづから自分の仲間を裏切り、そして孤獨にばかり生きてゐたジジには、もはやキキ等の遊戲に仲間入りすることが出來なかつた。ジジは、キキが呼子を口にあてようとするのを見ると、怒りのために彼の持ち合せてゐた兇器をキキに投げつけた。兇器はキキの顏をかすめて飛んだ。キキは眞赤な顏をしてそれを避けながら、呼子を力一ぱいに吹いた。塔の下の方が急に騷がしくなり、それから螺旋階段をいそいで昇つてくる足音が聞えだした……
 ジジはいきなり一つの格子のない窓に飛び上つた。すつかりキキ等との遊戲を忘れてしまつてゐたジジも、まだ自分自身と遊ぶことは忘れなかつた。追ひつめられて、はじめて彼は夢の中で鳩たちから會得した飛行術を現實の中に應用しようとした。彼は塔の高い窓から飛んだ!
 その時、塔に巣喰つてゐた鳩といふ鳩が、ジジと一しよに飛び立つたやうに見えた。それらの羽ばたきは空を埋めた。そして恰も鳩たちはジジに飛行術を教へようとしてゐるかのごとく、またジジも彼等の眞似をしようとするかのやうに見えた。――だが、ジジの見知らない速度が彼のあらゆる感覺の速度を超えた。ジジは全く無感覺になつたまま、地上に墜落しだした。
 漸つと塔の窓によぢのぼつてキキらが地上を見下した時は、すでにジジは空つぽの手袋のやうに地面に落ちてゐた。
 それからまた、もう一つの死があつた。その瞬間まで空中に他の鳩たちと異樣に騷ぎながら飛んでゐた、一羽の鳩が急に石のやうになつて落ちて行つた。そしてそれは空つぽの手袋の上のインクの汚點のやうに、ジジの亡骸の上に重なつた。

底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集別冊・薔薇」角川書店
   1951(昭和26)年6月15日
初出:「週刊朝日 第十九巻第二十八号」
   1931(昭和6)年6月21日号
※副題「Ein Mrchen」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「Ein Marchen」としました。
※初出時の表題は「羽搏き」、「堀辰雄小品集別冊・薔薇」角川書店(1951(昭和26)年6月15日)収録時「羽ばたき――Ein Mrchen」と副題が附され、「前編」「後編」とわけられていたものを「」「」とし、本文に大幅の加筆訂正が行なわれた。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:大沢たかお
2012年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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