馬車を待つ間

目次

「やあ綺麗だなあ……」
 埃りまみれの靴の紐をほどきながら、ひよいと顏を上げた私は、さう思はずひとりごとを言つた。
 崖ばらに一かたまり、何んの花だか、赤やら白やら咲きみだれてゐるのが、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。
「その躑躅でございませう? ――本當に今が見頃でございます……」
 ひとりごとのやうに言つた私に、さう愛想よく答へたのは、一番末の妹らしい嬰兒あかんぼをおぶつたまま私を出迎へてくれて、いま私の背後に立つてゐる、二十ぐらゐの素朴さうな娘だつたが、――即座に、これが友人の話の、と私は思つたけれど、その頃は私だつてそれと知つてその娘の顏を不躾けにまともから見られるやうなんぢやなかつた。……
「へえ、あれが躑躅!……」と私はさも感嘆したやうに言つた。
 實際、躑躅なんて云ふ花は、東京の山ノ手線の停車場の崖ばらなどに散りぎは惡く何時までも咲いてゐる汚らしい奴ばかりだと思つて居たものだから、私にはその同じ花がこんなにも綺麗に咲くとはちよつと信じられない程だつた。――私はふと自分の身がいま邊鄙な山奧の温泉場にあることを思つた。さうしたら何んだか快いやうな切ない氣持になりだした。これがその旅愁と云ふものかしら。
 何しろ私の生れて初めてと言つていい一人旅だつた。それをこんなにも山の奧まで長いことガタ馬車に搖られて來たんだものを。――と、私は東京から此處までの約半日がかりの旅路を思ひやつたのである。……丁度その日の三時頃、汽車が初夏の山へさしかかり、幾個も幾個も長々とした隧道とんねるをくぐり拔け出した時分には、それをひどく心許ながつて、もう一人でなんぞ旅に出て來たことを私は少からず後悔し出してゐた。――汽車はそんな私には無頓着に、隧道から青葉へ、それからまた隧道へと走りつづけてゐたが、その隧道と隧道との間隙を見つけては、あたかも噴水がほとばしるやうに、無數の青葉の簇りがまぶしい光を浴びながら、私の眼のなかへ躍り込む。それもはんの一瞬間きりで、すぐ又すべてはもとの暗黒のなかに消え立つてしまふ。――實は、私達だけがその隧道のなかに吸ひ込まれてしまふのだけれど、それが私にはさう見えぬ。何んだか私達と一緒に、それらの青葉までが隧道のなかに吸ひ込まれて行くやうな氣がする。そしてそれらの青葉らも隧道の外にあるのは私達と同じにごく僅かな間だけなので、その間に出來るかぎり多量の日光を吸收しようとして、それらは死物狂ひになつて身もだえしてゐるのではないかと思はれる位に、如何にも目まぐるしく、まぶしく私の眼に映るのだ。それらの青葉は又、私が窓ぎはで少し深い呼吸をする度毎にはげしく匂つた。それは隧道の中では一層はげしく匂ふやうだつた……
 その日の暮れ方、私は山間の或る小さな驛に下りた。本線を何んとかいふ驛で輕便鐡道に乘り換へて、それから約一時間ばかり、その狹苦しい客車の中にちぢこまつてゐたので、私はすつかり身體中が痛くなつてゐた。だが、私の今夜泊る豫定の温泉地までは、更に二里ばかり乘合馬車に搖られて行かなければならないのだ。
 それもすぐその乘合馬車が出てくれればいいのだが、もう二三十分待たなければそれが出ないと云ふのだ。どんな温泉地かは知らぬが、こんな思ひをして其處へ行くことが私にはなんだか莫迦莫迦しくなつて來た。よし今日はどうにかその温泉地まで行きついてたにしても、また明日、これと同じやうな思ひをして次ぎの温泉地へと再び出發するやうな氣持に果してなれるだらうか知らん? それにしても、あいつはよくこんな山の中に一年近くも辛抱して居られたなあ……と、私は三四日前、何處か一週間ばかり旅行するのにいい處は無いかしらと搜してゐた時、この半島の旅を私に教へてくれた一人の友人のことを思ひ出したのである。……ふん、分つたぞ。あいつはこの邊の景色のいいことだの、温泉のいいことだのを散々私に説いた擧句、どこそこの宿屋には可愛いい娘が居るなどと言ひ出して、しきりに私を煽動するから、――それぢや其處へ紹介状を書いてくれと言つたら、そんなものなんかと笑つて誤魔化してしまつたばかりか、仕舞ひには私が彼を知つてゐる事も何んだかその宿の者に言つて貰ひたくなささうな口吻だつたつけ。……今、その理由が分つた。大かた、ゲルの事ではよく人を手こずらせる彼奴のことだから、そこの宿賃でも溜めてしまつて仕樣ことなしに一年近くもそんな山の中にくすぶつて居たのにちがひない。――こりあ飛んでもない奴に教はつて來たもんだなあ……
 そんな風に私は乘合馬車の出發を待ち佗びながら、しばらくその驛の附近をぶらついてゐたが、そのうちに輕便鐡道の細い線路の横に、何んだか得體の知れない恰好をした菰被りの荷が、それも同じやうな奴が二個竝んで轉がつてゐるのに私は眼を止めた。其處へ丁度、一人の男が自轉車に乘つてやつて來て、それを重たさうにリア・カアに運び始めた。するとその時まで私と一緒にそれを物珍らしさうに眺めてゐた、そして矢張り私のやうに乘合の出るのを待つてゐるらしい、一人の湯治客らしい男が居たが、それがつかつかとそちらへ歩み寄つて、自轉車の男と何やら話し出した。私はその二人の對話をぼんやり聞くともなしに聞いてゐた。
「そりあ何んですね?」
「これかね? これは狐の御馳走でさあ」
「へえ、狐の? ……ぢや、何處かで狐でも飼つてゐると見えますね」
「ああ……この先きに養狐所があるがね……」
「養狐所? ……へえ、其處には何匹ぐらゐ居ます?」
「さあ、かれこれ百匹ぐらゐは居るかね……」
「そんなに? ……でも大丈夫なんですか」
「…………?」
「化かしやしませんか」
「はははツ……××××××」
 最後の言葉は私によく聞きとれなかつた。しかし二人の男はその時聲を出して笑ひ合つた。何か私の解せない言葉でもつて卑猥な事をでも言つたのかも知れない。――旅びとが又聞いた。
「それは一體何んです。その菰被りは?」
「こいつは馬の足でさあ……」
 さう言ひながら、その自轉車の男はその菰被りの荷を無造作にリア・カアに積んでゐた。
 ふと立ち聞きしたそんな薄氣味の惡い話はますます私の心細さを募らせるばかりだつた。そんな山道の中途で、日でも暮れられてしまつては大變だ。何を一體愚圖愚圖してゐるんだらうと私は今更のやうに乘合馬車の方をうらめしさうに睨んだ。
 そのうち漸つと乘合が出るといふ。乘合はそれでもかなり混んだ。だが旅の者らしいのはさつき自轉車の男に話しかけてゐた男とそれから私との二人きり。あとは土地の者ばかりらしい。私は馬車の一番奧の方に陣取つた。少しぐらゐ餘計搖すぶられても、此處の方がいつそ氣樂でいいから。
 馬車はやがて川底に石の見えるやうな溪流に沿ひながら街道を走り出した。馬車から見える樹立はいづれも青々と茂つてゐたが、もう日の暮れに間もないので流石にその光り具合は弱々しくなつて居て、馬車がその木蔭を通る時は何んとなくひえびえとさへ感じられた。路傍にはところどころに農家らしいのが立つてゐた。――そのうちそれ等の一軒の前に夥しい人だかりのして居るのが私の眼に入つてくる。馬車がその方へ近づいて行くと、突然その群集の中から一人の男が飛び出してきて馬車の方へ救ひを求めるやうに兩手を擧げる。馬車が止まる。人殺しでもあつたのかしら? ……私はちよつと不安になる。その時人の環がさつと開いて、中から五六人の者が何か昂奮してがやがや話しながら出てくる。見ると、その中に一人、異樣に目を惹くやうな服裝をした若い娘がまじつてゐる。それは何んと意外なことに――花嫁すがたなのだ。おや、おや、この乘合に乘つてお嫁入りをするのかな? ……。けれど馬車が混んでゐるので、彼等は出入口のところでまごまごしてゐると見える。その間、一人のお婆さん(その花嫁の母親らしかつた)が窓の外から馬車の中をきよろきよろ覗いてゐたつけ、そのお婆さんが大きな聲でかう呶鳴つたものだ。「ハイカラさんの隣りが空いてゐるぞ!」それを聞くと私は殆んど反射的に車内を見まはした。ハイカラさんて? そんなのは一人も見あたらないではないか――が、私はやつとその意味を解する。何んだい、ハイカラさんてこの俺の事かい! ……私はちよつと苦笑する。洋服を着てゐるのはどうも私だけだ。だいぶくたくたになつた代物だが。成程、それでも、こんな田舍では珍らしいハイカラさんに違ひないや。……だが、その村の花嫁ごに私の隣りに坐られるのは、いささか閉口する。私はどうだつて構はないが、この私のスペイン製の赤いネクタイが文句を言ひかねない、――或る人に貰つたんだが、かういふネクタイは銀座のその店でしか賣つてゐないものと見えて、これを着けてその店の前を通る度にそこの店員が、私にではない、このネクタイにちよつとその目禮をするんだ。――一體どんな花嫁かはまだよく顏を見ないから知らないけれど、どうせ村の……だが、私は都合よくその花嫁ごと膝をならべずにすんだ。と言ふのは、その時まで上り口近くに腰をかけてゐた土地の者らしいのが氣を利かして、それへその席を讓つて、私のその隣りへ移つて來たので。さて、馬車にはその花嫁ごと父親らしいのとが二人だけ乘り込んだ。それからしばらく車の内と外で、やかましく喋舌り合つてゐたが、そのうち馬車は喇叭を鳴らして走り出した。
 だいぶ馬車の中にはその父親と知合なのが乘つてゐたと見えて、それらの人達が、一齊に何やら甲高い聲で話し合ひ出した。強い訛りのある言葉なのでよく私には聞きとれない。が、いづれそのお嫁入りの事でも話題にしてゐるのだらう。そんな人々の中で、花嫁ごは小さくなつて、こちらには背を見せて、默つて腰かけてゐる。うしろ向きなのでよく分らぬが、恐らくにこりともしてゐまい。ひどく固くなつてゐるやうで、それになるたけ馬車に搖すぶられまいとしてゐるものだから、一層その姿勢が苦しさうに見えるので、私はその花嫁ごに少からず同情してゐた。――その間、馬車の中は絶えずざわめいてゐる。が、結局、その方がいい。馬車の中がへんに陰氣くさいのよりも。つい先刻まであんなに悄氣切つてゐた私までが、何んだかこのユウモラスな田園劇に一役――さう、「都會から來た青年」とでも云つた端役を買はされたやうな具合で、妙にはしやいだ氣分にさへなつて居るではないか。
 私たちの馬車は、絶えずその左側に、川幅の次第に狹くなつてくる一つの溪流を見下ろしながら、それに沿うて走つて行く。街道もますます山道らしくなる。あぶなく何かの木の枝が私の頬にふれさうになる。ときをり私たちを恐れて飛び立つ小鳥がある。私にはその小鳥が馬車の窓から手づかみ出來さうに思へるくらゐだ。
 やがて街道が二股に分れようとする。そこで馬車がちよつと止まる。花嫁の一行と、それから土地の者らしいのが二三人下りる。そのわかれ道のところには、數人の男がかたまつて立つてゐる。花嫁等を出迎へるために其處で待つてゐたものらしい。これから花嫁の一行は徒歩でこの山道を登つて行くのか知らん。私はとうとうその花嫁の顏をよく見ずにしまつたが。……
 私が窓からほつとしたやうに彼女の勇敢な後姿を見送つてゐると、やがて喇叭が鳴つて馬車が動き出した。車の中は先刻から見ると、まるで火が消えたやうにひつそりしてゐる。道も急に山徑らしく、體温表のやうにジグザグしながら、かの流れはますます遙か下方に見下ろされてくる。もう日の暮れに間もあるまい。そのせゐか、あたりの風景はだんだんセピア色を帶びて來る。畑の中で夕日の最後の光らしいのを受けて一瞬間金色にひかる蜜柑を手にしてゐる子供等、蟹のやうな恰好をして片手に籠をかかへながら草を摘んでゐる娘等、馬車の窓から顏を出してゐる私に向つて何かを合圖しようとするかのやうにはげしい身振りをしてゐる大きな樹木等、――かう云ふやうな風景を今私は生れて初めて見るのにはちがひないが、なんだか今までにもこれとそつくり同じ風景を何處かで見たことがあるやうな氣がしてならぬ。私はこれとそつくり同じ風景を誰かの繪ででも見たのか知ら。それとも私は夢の中ででも見たのか知ら。――と、かういふ時に誰でもがなるやうに私もちよつと感傷的になつたが、私はふと、それらのすべては私の疲勞のせゐではないか知らと思ひ出した。何時だつたか物の本で、「視力が疲勞する時は物體が空間の中でと同じやうに時間の中でも二重に見えて來ることが屡※(二の字点、1-2-22)ある」と云ふやうな意味のことを讀んだ時、前者の場合のやうなことは、――都會でよく疲れ切つて狹苦しい喫茶店などの、居心地のわるい椅子に腰を下ろしてゐる時など、そこの壁にかかつた額縁だの、花瓶だの、茶碗だのがぼんやり二重に見えてくるやうなことは自分の經驗で知つてゐたが、――今のやうな、かう云ふ、ふと思ひ出せさうでゐて妙に思ひ出せないやうな風景の感じは、この云ひ知れず切ないやうな感じは、或ひはその後者の場合のやうに、すべての事物が時間の中でぼんやり二重になつて感じられて來るのではないだらうか。今私が居るやうに、かうして走つてゐるガタ馬車の中では。……
 日は遂に暮れた。私はふと車上から、とある一軒の山家のなかで一人の老婆がランプらしいものを掃除して居るのを見かけた。それは確かに昔ながらのランプらしかつたが、この邊にはまだ電氣さへ來てゐないのかしら。とすると今夜私の泊らうとしてゐる宿屋にも……?
 馬車が止まつた。私は二三人の者と一緒にそれを下りた。私は人に教へられた通りに、街道からちよつと横にそれて、急勾配の坂をずんずん下りて行くと、その突きあたりが友人から名前を聞いてゐた温泉宿だつた。そのうす暗い玄關の板敷にどつかと腰を下ろして、靴の紐をほどきにかかりながら、私がひよいと顏を上げると、今私の下りて來た崖ばらに、思ひがけなく綺麗な花が、白だの赤だの、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。……

 私とその娘との話し聲を聞きつけたと見えて、その時ばたばたと臺所の方から他の女中が駈けて來た。
 私を二階の座敷へ案内して呉れたのはその女中の方で。――座敷は、馬車の中からも見えてゐた例の溪流に面してゐるらしい。だが、それよりも氣になつてゐたので、私はその座敷へはひると、いきなり天井を見上げた。――占めた。ちやんと電燈がある。當然のやうな氣もするが、それでもうれしい。私は女中が階下へ行つてしまふと、ちよいと立つて行つて、そのスイツチをひねつて見た。もう部屋の中はだいぶ暗い。――だが、電燈はつかなかつた。ちえツと私は舌打ちした。――丁度そこへ、先刻の女中が、火種を持つて上つてきて、その私の樣子を見ながら、
「今日は電燈が少し遲れますやうで――いつもならもう點く時分でございますけれど……」と云ひ譯をした。
「さうかい」
 私はまるで惡戲を見つかつた子供みたやうにてれ臭さうに、そのまま坐らうともせずに、瀬の音のする方の障子を開けに行つた。溪流はすぐ私の足許を流れてゐる。未だそこだけは白々と光りながら。その流れの向う岸は、眞つ黒な色をした山だつた。それが見上げるやうに高い。――その溪流の中へ突き出すやうにして、湯槽ゆぶねがあるらしい。うすぐらいなかに、かすかだが湯の香がする。……

 翌朝のことだつた。その溪流に面した湯槽のなかに浸りながら、その硝子戸をすつかり開け放しにして置いたら、向うの山に密生してゐる松柏類が丁度逆光線を受けてくつきりと手に取るやうに見えてはゐたが、――風らしい風もないのに、何處からともなく松の木の葉がたくさん、それも青々としたのが散つて來て、一面に温泉の上に浮ぶ。私が上半身を動かすと、それがちくりと刺すのだ。そして私が湯槽から上らうとすると、まるで私の腕に刺青でもしたやうに、一しよにその松の葉がくつついてくる。ふだんはただ黄色いだけの私の肌がちよいと凄いではないか。
 そのとき私はふと聞き耳を立てた。
「あいよ」
 と一聲だが、ちよいと蓮葉な、それでゐて可愛らしい聲が私の頭の上でしたからである。
 どこか聞き覺えがあるやうな。――と何氣なしに私がその聲のした方を見上げてみると、湯槽の中からは丁度藤棚ごしに、二階の私の座敷の廊下を拭き掃除してゐるらしい娘の姿がちらちらと見える。下の方から他の女中にでも聲をかけられて、それに彼女が一言返事をしたもののやうだ。
 私が湯槽のふちに腰をかけたまま、ぼんやりその娘の姿を見上げてゐると、急にその娘がこちらを向いたやうな氣がしたので、私はまるで臆病な小鳥のやうにぢやぶりと浴槽のなかに飛び込む。湯の上にうかんだ松の葉を一面に散らしながら。――そして私がてれ隱しにそれを兩手ですくはうとすると、まるでそいつは水すましのやうに逃げてしまふ。そして私の掌にはすくひ上げた湯だけしか殘らぬ。しかしその湯の何んとすがすがしく透明なことよ! 私はそれを眼より高く差し上げて透かすやうに見入る。こんなにも自分の心は明るくなつたのだと自分自身に向つて言はないばかりに。

 私が温泉から上つてゆくと、まだその娘は二階の階段を拭き掃除してゐた。私がそれを上つて行くのに氣がつくと、帶にはさんでゐた着物の裾をちよつと外しながら、いそいで脇にどいて、氣まり惡さうに顏を赧くしてお辭儀をしたつけ。私はまた私で、いつもの癖で、默つてちよつと頭を下げたまま、神經質なこはい眼つきをしてその傍を通つた。だから、その娘とちよつと位は立ち話も出來さうだつたその唯一の機會もそれつきり。……
 私はそれから自分の部屋へ戻つてつくづくと歎じた。――己はどうして何時もかうなんだらうな。己が東京で別れて來た娘だつて、己の方ではあつちが惡いんだとひとりよがりに決めてゐたが、何時もかう云ふ己の事だから、相手を困らせて居たのはひよつとすると己の方かも知れないぞ……などと私は今も今睨めつこした宿のその娘の事から、何時の間にか、そいつの事を忘れたいと思つてかうして旅にまで出て來た東京の娘のことを思ひ耽つてゐる。……

 僅か一日かそこらの旅路だつたが、昨日のうちに私の出遇つたかずかずの事物――狐を飼つてゐる男、同じ馬車にゆくりなくも乘り合はせた村の花嫁、馬車の中から眺めてゐたセピア色を基調とした夕暮れの風景、――それ等の事物のおかげで、すつかり旅情が身について來た私は、何んだかこのままずつとこの温泉宿に泊つて居たいやうな氣持にもなつたが、また一方、一日も早く東京へ歸つてもう一度私の娘と仲直りをして見たいやうな、さうかと云つて皆の手前も豫定の旅行だけは濟まして行かないと何んだか氣まりが惡いやうな、へんに複雜した氣持のうちに、私はともかくもその宿を出發することにした。
 もう正午に近い。丁度、私の目指すところの峠を越す乘合馬車が通ると云ふので、私はいそいで早晝餉はやおひるをすませて、その待合所へ出掛けた。其處まで宿の娘が私の小さな鞄を持つて來てくれた。他の者はみんな手がふさがつてゐると見えて。――その馬車の待合所になつてゐる休み茶屋で、私が繪はがきや煙草などを買つてゐる間、その娘は床几の脇に突つ立つたまま、私のその鞄を地面などに置かずに、大事な物ででもあるやうに抱いてゐた。買ひ物をすませた私は、その鞄を殆んど引つたくるやうに受取つて、その床几に一先づ腰を下ろした。馬車が來る迄には少し間もあるやうだから。
 娘はそれでも、其處に立つたまま、ときどき街道の向うの方をまだ馬車が來はすまいかと云ふ風に振り向いて見る。私は思つた。もうこの娘には何時會へることやら分らない。ちよつと何か話しかけて見たいやうな氣もするが、それなら今のうちだ。が、何を話題にしたものかしら。――私はその時ひよつくりSの事を思ひ出した。もう私はこの宿を立ち去らうとしてゐる身だ。Sがこの宿屋にどんな不義理をして居ようと、それは私に關つた事ではあるまい。それにSがあんなに自分の事を話して貰ひたくなささうにして居たのには、何かもつと他の言ひにくい事情があるのかも知れないが、そんならそれで、それをこの娘から聞き出しても見たい。よし! と私は決心した。
「Sと云ふ男が……」と私は言ひ出した。「一昨年だつたか、こちらへ來てゐたのを覺えてゐますか?」
「はあ、Sさん……」
「Sを僕はよく知つてゐるんですよ……今度も、彼奴にこちらを教はつて來ました」
「あら、左樣でございましたか……つい……」
 なんだかちよつと煙たさうな返事をしたが、別にSの事を迷惑がりもして居ないらしい樣子だつた。私の杞憂は一掃された。
「Sは隨分長くこちらに居たさうですね」
「はあ……何んでも四月頃いらつしやいまして、お正月をこちらで……」
「へえ、そんなに長くですか? ……あの時はそれぢや卒業論文かなんか書いてゐたのかなあ……」
「なんでございますか、毎晩十二時過ぎまで御勉強なさつていらつしやいましたが……」
 娘はさう何氣なく云つてしまつてから、急にその自分の云つた言葉にはツと氣がついたやうに見えたが、その時はもう彼女は顏を眞つ赤にしてゐた。私は誰と話してゐる時でも相手の顏がまともに見られない性分なので、その時も私はその娘と話しながら、眼は絶えずあらぬ方へやつてゐたけれど、私はさう云ふ娘の思ひがけない狼狽をもののけはひで悟る事が出來た。
 私にはその娘が急にいぢらしく何んとも云へず美しくさへ思はれ出した。――それにしても、私の友よ、今まで私は君の事をへんに邪推してゐて濟まなかつたけれど、それは呉々も詫びるが、今度はその代り、君が少しばかり薄情なことを責めなければならなくなつた。だが、それは私が東京へ歸つた上でにしよう――今はただ私は君を羨望する。……
 その時私はつと立ちあがつた。街道の向うの岩角の蔭になつて、まだ馬車の姿は見えなかつたけれども、私はそれらしい喇叭の音を耳さとく聞きつけたからである。

底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
初出:「新潮 第二十九年第五号」
   1932(昭和7)年5月号
入力:tatsuki
校正:大沢たかお
2012年9月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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