アトリエとその中庭は、節子の死後、全く手入れもせずに放つておかれたので、彼女が繪に描くために丹精して育てられてゐた、さまざまな珍らしい植木は、丁度それらの多くがいま花をさかせる季節なのでごちやごちやにそれぞれの花を簇がらせながら、一層そこいらの荒れ果てた感じを目立たせてゐた。彼女の父親が一種の愛惜と無關心との不思議な混淆から自然とさういふ状態におかせてあつたのである。一つにはその中庭には、ただアトリエのフレンチ・ドアからだけしか出られないやうになつてゐたが、その扉がそもそも最近にはめつたに開かれるやうなことがなかつたのである。
 誰もそのアトリエには這入ることさへ避けるやうにしてゐた。それほどひつそりとしてゐたアトリエの中には、しかし、まだ、數年前の夏から秋にかけて節子の描いた、そしてそれが彼女の最後の製作になつた、數枚の靜物が壁にかけられたままになつてゐた。生前アンドレ・ドランの重厚な、憂鬱な感じさへする繪をいたく愛して、彼女自身も好んでそんな地味な筆觸の繪ばかり描いてゐた。さういふちよつとドランばりの、しかしさすがにどこか少女々々した繪が大部を占めてゐた。――節子はその秋なかば、病氣になつてから、翌年の春、山のサナトリウムに轉地するまで、一時そのアトリエを病室にしてゐた。日あたりが惡いといつて醫者に反對せられても、彼女はどうしてもそのアトリエを離れたがらなかつたのだつた。そのとき寢臺やら鏡臺やら衣裳箪笥アルモワアルまでその中にもちこませて、隅におかせてゐたが、それらもいまだにアトリエに他の繪の道具なんぞと一しよくたにそのままになつてゐた。節子が、當時フィアンセだつた弘に附添はれて、山のサナトリウムにいつてしまつてから、ときどきそのアトリエへ彼女の父親が默つてはひり込んで、それきりなかなか出て來ないやうなことがあつたが、そこで何をしてゐるのだかは誰にも分からないでゐた……
「お父う樣が何をなすつていらしたのか、私だけは知つてゐたのよ。一人でね、骨牌占ペエシエンスをなすつていらしつたのよ。……」
「まあ」
 そんなことまで、節子の小さな妹の洋子がこの頃何かとつげぐちするのを、伸子は熱心になつて聞いてやつてゐた。
 そのアトリエがそんな具合になつてゐることをただ弘から聞いてゐるだけで、まだその中にはついぞ一ぺんもはひつたことのない伸子には、いつもその家を訪れるたびに、そのアトリエが何か氣にかかつてならないのだつた。弘にはそのアトリエが、さういふ荒れ果てた庭といふよりか花さける藪といつた方がいいやうなものに取りまかれてゐるために、かへつて大層好もしい場所になつてゐるかのやうな言ひぶりだつたが、さういふロマンチック趣味をあまり持ち合はせてゐない伸子には、それが弘には亡くなつた節子の思ひ出がそれによつて只そつくりそのままになつてゐるからだらう位にしか思へなかつた。もつとさういふ弘の好みにも自分から近づいてゆき、それを解せなくてはと思ふのだけれど、その一方、彼女自身のはひつてゆく餘地のないやうにすらときどき思へるほど弘の心をいまだに占めてゐる亡き人のさういふ思ひ出に對して彼女自身でも氣まりの惡いやうな氣もちさへもちかねなかつた。さうして、かうやつて月に二三度は、この家を訪ねて、いま病氣で仆れてゐる弘と、こちらの家と、それから自分の家との間に立つて、一人でやきもきしながらすべての用談を一人で果たさねばならないやうな羽目になつた、われとわが身を、何か羽がひじめにせられるやうな思ひでかへり見ないわけにはいかなかつた。こちらの父の熱心な勤めに最後の決意をうながされて、弘との婚約を承諾するとまもなく、弘は節子とおなじく病氣で仆れたのだつた。しかし、そんな事ぐらゐは何んでもないと強い決心をして、弘と一しよになるつもりになつてゐる、――さうして、さういふ弘には、いま無くてならないのは、丁度自分のやうな女であることもよく自覺してゐる彼女だつた……
「私、お姉えちやんにいぢめられてばかりゐたのよ。だから、お姉えちやんの死んだときも、ちつとも悲しくなかつたわ。……」
 小さい妹の洋子は、本當の姉の節子以上に、伸子になついて、何もかも彼女に自分の思つてゐる事を女の子らしくもなく卒直に話したが、そんな事までいふことがあつた。そんなたんびに、伸子は、何かいままでちつとも知らなかつたやうな故人の面を知らされたやうな氣がするのである。が、さうやつて思ひがけないやうなところから光をあてられた、亡き人の樣子の方が、弘なんぞが故人と共に聞き手の彼女をもいたはるやうに話してくれる姿よりも、かへつて生き生きとおもかげに立つて、一瞬彼女は胸がしめつけられるやうな氣がする位だつた。さうして彼女はそんな事を平氣で言ひながら自分の腕にもたれてゐる小さな洋子を、一層力強く抱きしめずにはゐられないやうな事があつた。……
「けふは弘さんに頼まれて、なんでもこちらに來てゐるといふ御本をさがしにきたのよ。そんなお姉ちやまのもつていらしつた御本、どこにあるか知つてて?」
 或日、伸子はそんなことを先づ洋子に訊いたのだつた。
「ええ、知つてるわ。……みんなアトリエよ。……」
「ポオル・クロデオルの『マリヤへのお告げ』といふ御本なの……洋子ちやん一人でいつて、搜してきてくださる?」
「…………」洋子ちやんはさも困つたやうな顏をしてゐた。それからやつと「お姉えちやんと一しよになら行くわ」と答へた。
「だつて。……ぢやあ、お父う樣にお願ひしてきて頂戴。……」
 伸子はふいとけふは、そのアトリエに自分も何氣なくみんなと一緒にはひつて行くことになりさうな――そして自分の裡にだけ何かが急に起りさうな――氣がした。彼女はわれ知らずぶるぶるとかすかな身ぶるひがした。
「お姉えちやんにも一しよに來て、さがしてお貰ひ。――さあ、あんたが先に立つて……」いままで自分の居間で書き物をしてゐたらしい彼女の父は、何か人が好ささうににこにこしながら小さな洋子を先に立てて、伸子をうしろに從へながら、廊下を突きぬけて、アトリエに向つていつた。そこのドアには外から鍵がかかつてゐた。洋子は手にもつてきた鍵で一人でもつてあけようとしたが、それがうまくまはらないので、とうとう父にあけさせた。「まあ鍵なんぞまでかかつてゐるんだわ……」伸子は、そのアトリエにはひるのを何か恐れようとしてゐる自分を自分自身にも氣づかせまいとするかのやうに、そんな鍵のことなんぞをわざと大げさに考へてゐたのである。
 何かむせるやうな匂がした。ながいこと締め切られてゐたので、急に一どきにいろんなものがごつちやになつて發するにほひだつた。それも、そこにある事物を一つ一つといふよりも、むしろそれらの事物がそこで過してゐた時間を感じさせるやうなにほひだつた。それほど、すべてのものはひつそりとしてゐた。が、さすがにそれらの上にかかつてゐた亡き人の息ぶきももう薄れてきてゐるやうなのは否めなかつた。さうしてながいこと使用せられないので、いかにも氣の拔けたやうになつてしまつてゐる家具類や繪の道具にとりまかれながら、ただ僅かに、壁にかけられた數枚の繪だけが、いまだに生き生きと、それらの小さな生命を保ちつづけてゐた。「まあ、こんな繪をお描きになつてゐたんだわ……」彼女は數少ない本が傾いたなりになつて竝んでゐるやうな本棚から、「マリヤへのお告げ」をすぐ見つけ出してから、アトリエの中を半ばこはごは、めづらしさうに眺めまはしてゐた。彼女はすぐ、さういふ繪のなかに、弘がそんな繪のそこにもあることを一度も話さなかつた、一人の若い女の顏だけを描いた、小さな繪のあるのを目ざとく見つけた。それが彼女の心をとらへた。それは、いつか見せられた故人のアルバムのなかの數葉の寫眞なんぞともちがつた感じで、彼女の性格の或一面が妙にヴィヴィドに出てゐる、節子の自畫像にちがひなかつた。「一人でぼんやりしてゐるときは、こんな顏をしてゐるのよ……」さう言ひかけてゐるやうな、うつけたやうに、心もち大きく見ひらいた、そのくせ自分自身のことは何もかも呑み込んでゐるやうな聰明さから來るらしい、透明なふかい目ざしが、伸子には何んだか氣もちが好くつて溜らないほどだつた。それと同時に、彼女の胸が何かしれず一ぱいになつたのも事實だつた。
 伸子はその小さな繪も、他の繪と一しよに何氣なく見すごすやうな風をするのに、いくぶん氣をつけるやうにした。それから洋子と父とが手に手にカアテンをあけて、いかにも久しぶりのやうに兩方に愉しげにひらかれたフレンチ・ドアから、丁度いまは初夏で、そこいら一めんに花をつけた茂みが、どれがどれだか見分けられないほどに枝と枝とをこんがらかせ、かへつてそんな花の多過ぎるために、又一つにはそれらが珍奇な種類の花ばかりのために、あたりの廢頽した感じを深めてゐるやうな、そんな庭といふよりも花藪にちかいものを、三人三樣のちがつた思ひで見つめ出してゐた。
「繪に描きたいというて、ずゐぶん珍らしい花を方々から取りよせとつたんですよ……」父はそんなことを言ひながら、いま咲いてゐる花のほかにも、まだいろんな、しかしもうちよつと思ひ出せない種類の花がたんとあつたことを浮べながら、どれを見るともなく見入つてゐた。そしてそれきり何も言はなかつた。
 伸子は自分のそばに寄つてきた洋子をそのまま引きよせて、その肩に手をかけながら、彼女にその花を一つ一つ指でさしながら、あの紅いのは何、その下の方の黄いろいのは何、といふ風にきいてゐた。洋子にはなんにも答へられなかつた。あれは蘇枋すはう、こつちは金雀兒えにしだ、それからその隣りはライラックと、――それに答へてくれたのは、結局、二人がかりでその花のありかを漸つと教へたので、そんな花が吹いてゐることにその度にはじめて氣のついたやうな顏をする老いたる父親だつた。
 そんな荒れ放題になつてゐる中庭をみながら、伸子は伸子で、そこいら中には何かが一ぱいになつてゐるやうな氣がし、ちよつとそれに手入れをさせてみたらと考へる餘地すら、いつも何もかもがきちんとしてゐないと氣のすまないやうな性分の彼女にさへ無いやうにおもへるのだつた。
 伸子はふいとうつけたやうな目つきになり出した。彼女の目は、それらの花のあひだに、さつきちらりと見た若い女の繪姿をくつきりと浮べ出したのである。しかし、その繪姿はかうやつて、めづらしく揃つてそのアトリエからそんな荒れた庭なんぞを眺めてゐる三人の者にも、又いまをさかりに咲いてゐる、生前の彼女があれほど愛してゐた花々に對してすら、いかにも無關心のやうに見えた。ことにその何を見てゐるともつかないぼんやりとした目ざしは、「私が好きだつて嫌ひだつて、なるやうにしかならないわ。これでだつていい事よ……」といつてゐるかのやうだつた。ああ、自分はいつになつたら、そんなすべてにこだはらないやうな、空虚なくらゐな氣もちになれるのかしら。小さな事に氣をとられて、いらいらばかりしてゐる自分のやうな女は。……さういへば、その繪姿は、きつともう不治の病に犯されてから、それと自ら知つて、しかも氣もちのいつになく靜かになつた日にでも、ふいと何んの苦心もなしに、一筆でもつて描いてしまつたやうな繪なのではないかしら。なんだかそんな氣がする。……
「お姉えちやんに着て貰へるやうなものがあるかな?」
 父はふいとアルモワアルの前で足をとめて、伸子をふりかへつた。
「すこし背がちがふやうだが……こしらへたきり、一度も手をとほさん奴がいくつもあるんぢやが……」
 父はアルモワアルをひらいた。そしてなんの表情もなく、いかにも何氣なささうにさう言つたのである。
 伸子も、相愛らず小さな洋子を前に立てて、それに近づいていつた。
 いくつもいくつも、ブルウやグリインの目立つた、いかにも背のすらりとした痩せすぎな若い娘のからだつきをさへ思はせるやうな、瀟洒な衣裳が竝んでかけられてあつた。いくぶんくすんだやうな情熱と強い意志をさへ感じさせる、ドランばりの繪の地味な印象から、つい知らず識らずのうちに節子を自分と同じ年頃のやうな氣のしだしてゐた伸子には、それらの思ひがけないくらゐ派手な色の着物が、それらを殘してその持主の死んでいつたのは、いまの自分なんぞより三つも年下であつたのをいまさらのやうに思ひ出させた。そのどの一つだつて、とてもいまの自分には着られさうもない事は分かつてゐたが、伸子は何か切ない氣もちで、――むしろ、自分がそんな切ない氣もちになるのをかへつて氣味のいいやうな風に、――そんな何かしら身うちまでひやりとするやうな、つめたい感觸のロオブを、一つ一つ手でいぢつて見てゐた。
「ちよいとこれなら自分にも着られさうだな」ふいとそんなことを思つて、すこし厚手の、ちやうど秋ぐちなんぞには着てみたくなるやうな鼠色のスポオツ・ドレスにいつまでも手をかけてゐると、
「それはあんたにも着られさうぢやないか……しかし、それは二三度手をとほして居つたやうぢやが……」
 さういふ父の目ざしには、彼女がそれを見ることを恐れてゐるやうな變つた表情はなんにも生じては來なかつた。すべては家常茶飯事のやうだつた。――
 結局、歸るときに伸子は弘に頼まれた「マリヤへのお告げ」のほかに、亡き人の身につけたものをおかたみ分けにいただいて、一しよに持ち歸ることになつた。しかし、女學校を出てから、よつぽどの氣まぐれでも起さないことにはめつたに洋裝なんぞをせず、ずつと和服を通してゐる彼女だつた。なかなかそんなスポオツ・ドレスなんぞを着るやうなことはなからうかと思へたので、こんなものを頂戴していつたつて、ともおもつたが、何かひよいとした輕い氣もちで自分がそれを着るやうなことでもあつたら、弘はそれを見てきつと苦笑ひしながら、それでも心のうちで一種の言ひ知れぬ滿足を覺えるかも知れない、などとそんなときの弘のいかにも困つたやうな、どことなく子供らしい目つきまで浮べてゐると、そのすこし大きな包みをかかへてゆくことも彼女にはそれほど苦にもならなかつた……
「弘君はこのごろ具合はどうぢやな?」
「はあ、大ぶおよろしいやうで……なんですか、來月になつたら、もう輕井澤へ行きたいなんぞと申してをります……」
「さうか、そりあいい…ぢや、そのうちに私でも行つて、それまでに別莊を見つけておかうかな……」
「本當に恐れ入ります……」彼女はさう言つて、いかにもうれしさうにした。しかし、一方、きつと我儘な弘には、自分たち二人がはじめて一しよに暮らすことになつてゐる、その山の別莊は、どんな小さいのでも、自分でいつて見つけるといつてきかないのではないかしら、と思つた。そんな氣の弱いくせに、どこか我の強い弘がちよつとまだ彼女の手には負へなくおもへ、又、同時にそんな彼に何んともいへず心をひかれた……
 すこし大きな包みを片手にかかへ、「マリヤへのお告げ」は車のなかででもちよつと讀まうとおもつてそのまま手にして歸つて行く彼女の前を、かならず驛まで見送りにくる洋子は、いつものやうに小犬のリリイを引つぱつて、――むしろ、ちよこちよこ走りたがる小犬に引つぱられるやうにしながら、ずんずん先きに走つて行くのだつた。そんな小さな犬なんぞを、このすこし風變りな少女は、ごく子供の時分から好きで好きで、小學校の歸りがけなど、道ばたに棄てられてゐる小犬でもあると、どんな汚ない犬だらうが見さかひもなしに拾つてきては、母や姉の節子に嫌がられて、こんどは半分泣き泣き元の場所にその犬を棄てにやらされたりしたものだつた。しかし、いまはそんな事をうるさくいふ母も姉もとうに死んで、もう女學校へいくやうになつたのに、まだ、何處からか拾つてきて自分でリリイと名前をつけてやつた、その小犬とさうやつてふざけ散らしながら、いつも驛まで彼女を送つてきてくれるのだつた……
 その道はしばらく麥畑に沿うてついてゐた。郊外もここいらまで來ると、まだそんな麥畑がところどころに殘つてゐるのである。そしてそれらの麥は、丁度いま黄いろく熟し出してゐた。他のところは音もなく過ぎる六月の軟かな微風も、その實の熟れた麥と麥との間を渡るときだけは、ざわざわと一種特別な、どこか秋風めいた音を立てて過ぎた。「麥秋」――そんな言葉がふいと伸子の口を衝いてでた。ああ、麥秋といふのはこんな感じをいふんだな、と彼女はおもつた。いままで何かでそんな字を見て、そらんじてゐたが、何のことだかよく分らずにゐた――それが、いま、いかにもぴつたりと彼女には感ぜられた。が、それだけではなかつた。
 すべてのものが初夏の、明るい、もう暑いほどな、氣はひを見せてゐるなかで、(彼女には、その唯一の例外のやうに、アトリエの荒れ果てた庭の狂ほしいやうな花の簇がりやうが、ふいと無氣味なやうに浮んだ……)麥畑だけがいかにも冷え冷えとした感じを漂はせてゐる。それがなんだか、ふいといまの自分自身の姿のやうな氣がした。――まだ二十五やそこいらで、どんなところへでも嫁いでゆける身なのに、自ら好んで、一生を病氣で過ごすかも知れないやうな弘なんぞの傍に、一生を委ねようとしてゐる自分自身が、自分でもふいと淋しくなつた。しかも、その弘には既に愛する人があつた。どうせ自分なんぞは……
 麥畑を通りすぎた。少女とリリイはときどきうしろをふりかへりながら、ずんずん走つてゆく。彼女もふいとそれに釣られて、ふり向いてみると、黄いろい麥畑の彼方に、その赤い屋根の一部だけをのぞかせてゐる家の前あたりに、人影が立つて、こちらを見送つてゐた。彼女はそちらへ向きなほりながら、もう一度、いつも彼女が人に對する快活な身ぶりで、大きくお辭儀をした。その人影は彼女の方に手をふつた……
 それが又きつかけになつて、彼女は急に元氣よく考へ出した。「何もかもいいわ……」そんなことを言つてゐさうな、夭折した人の繪姿が浮んだ。「本當に私、ときどきいけなくなるわ」伸子は思ひ返した。自分にはこれから幸福に、でなくとも少くもこの人生を居心地よくさせてあげなければならない人があるのだ。そしてそれだけがまた自分を幸福にさせてくれるのだ。自分はいま自分の前に立ちあらはれるすべてのものを、もつと深い悲しみをもつてなりと、もつと大きな氣もちで、心から素直に受けいれなければならない……
 もうずつと麥畑から遠ざかつてゐるのに、さつきその中を通り拔けてきた、黄いろく熟れた實のざわざわいふ音がまだ彼女の耳には殘つてゐた。麥秋――もう一度、彼女はそんな言葉を口のなかに繰り返しながら、もう向うに見え出してゐる驛の前で、白い耳をかしげながら、きよとんと坐つてゐる小犬と共に、こちらをぼんやりとして見てゐるらしい洋子の方へ、「マリヤへのお告げ」をもつた方の手を快活さうにふつてみせた。

底本:「堀辰雄作品集第二卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年6月30日初版第1刷発行
初出:「新女苑 第四巻第五号」
   1939(昭和14)年5月号
※初出時の題名は「麥秋」です。
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2012年9月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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