X氏の手帳

 或る夜、或る酒場から一人の青年がふらふらしながら出て來た。彼は非常に泥醉してゐるやうに見えた。タクシイ! と彼は聲高に叫んだ。
 一臺の汚らしいタクシイが止つた。彼はふらふらしながらそれへ乘つた。車はがたがた走り出した。それをちやうど巡※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)中の巡査がやや離れた所から見てゐたのであつた。車が走り去つてしまふと、その跡に手帳のやうなものが落ちてゐるのを巡査は認めた。青年が落して行つたものらしかつた。そこまで歩いて行つて見ると、それはやはり黒皮の手帳だつた。巡査はそれを取り上げて、街燈の光りで、ところどころ讀んで行つた。

午前九時に
僕は眼をさますのだ
頭の中から夢が逃げてゆくのを見ながら
僕はすこし頭痛がする
僕は新聞を讀む
食慾増進劑として
それから僕はチュウリップのやうに食事をする
そしてそれを消化するため
再びベットの上に横になる
ブライヤアのパイプを吹かしながら
それは僕のをまるで小鳥のやうに温める
僕は漸く落着く
それから僕は机に向つて
猿が蚤を探すやうに
僕のインスピレエションを探す
僕はペンを取り上げる
…………

 そこまで讀んでくると、巡査はぱらばらと頁をめくつたのである。

夜になつて
僕の部屋に一人でゐると
僕はあんまり僕になり過ぎるのだ
それは何といふ不安だ
僕は帽子をかぶつて
出かける
僕は一晩中歩く
僕はあんまり僕になり過ぎぬために
無茶苦茶に歩く
僕はしまひに疲勞する
そして疲勞が増加するにつれて
僕の鼻が病的に鋭敏になる
ゴムの匂がしたりゴミの匂がする
よい匂と悪い匂とはよく混らないものだ
時々たまらない匂がする
その度に僕は鼻孔を閉ぢる
數分間の窒息
僕は何よりも休息を求めなければならぬ
僕は近くの酒場バアに入つて
テエブルに突伏す
それはすぐ酒のしみとタバコの吸殼で道路のやうに汚れる
そして僕に無理に思ひ出させようとするのだ
僕をそんなにも疲勞させたその夜の道筋を
それが再び僕の疲勞を蘇らせる
それからもはや僕には分らない
僕の横になつてゐるのが
自働車のクッションの上であるか
それとも何處だか知らぬホテルのベットの上であるか

 巡査の眼には、さつきの青年がガタガタしながら走つてゆく自働車の中にぐつたり倒れてゐる樣子が、妙にいきいきと浮んだ。それからまた出たらめに他の頁を開いた。

女の羞恥の方程式ほど難解なものはない。僕は或る少女が彼女の心臟の上にX2+2aX を持つてゐるのに出合つた。
それは彼女にすばらしく似合つてゐた。

 いくら讀み直して見ても、それはなんのことか、解らなかつた。また、ぱらぱらとめくつてゐるうちに、他は全部インキで書かれてあるのに、そこだけが鉛筆で書かれてある一箇處が眼にはいつた。

僕は昨夜インキを飮んでしまつた夢を見た。僕は、今日、インキが恐ろしい。そしてなんだか僕の靜脈が氣になつて仕方がない。

 こいつはすこしキの字だな、と思つた。そして最後に次のところを讀んだ時には、巡査は、この手帳を落していつた青年が氣狂であると、もはや斷定せずにはゐられなかつた。

ひと頃、夜になるとかならず發熱するので、僕は僕の部屋に閉ぢこもつてゐた。僕はぼんやりしてゐることが多かつた。夜は非常に長かつた。僕はときどき時計を見た。僕はもう時間がだいぶ撃たらうと思つてゐたのに、それが一分も過ぎてゐないことが屡々あつた。毎晩のことだつた。そのうちに僕はそれが毎夜一定の時刻に起ることを發見した。即ち、午後十一時四十七分になると、僕の時計が、それとも宇宙の時間そのものが止つてしまつて、長いこと動かないのである。僕はそれを僕の時計の故障のせゐにしようと思つたが、なんだかそれでは滿足出來ないやうな氣がした。そこで或晩、それがどちらであるかを決定するため、僕はその時刻になるや否や、一臺の自働車を雇つて、僕の住んでゐる大都會を一周するやうに命じた。自働車は非常な速力で走つた。僕はあつちこちの大時計を注意して見てゐた。そして僕はそのどれもが正確に十一時四十七分を示してゐるのを發見した。どんなに自働車が速力を出したつてA區の大時計からB區のそれまでは相當の時間がかかる筈だつたのに。それを知ると僕は狂ほしくなつた。それは僕の時計の周期的な故障ではなかつたのだ。そしてそれは大都會のあらゆる時計が、と云ふよりも宇宙の時間そのものが、その時刻になると一時的に停止してしまふのだ。何といふ神祕的な時刻だ。僕は町中を一周させてから、再び僕の家に歸つて、それから僕の時計を見ると、それはまだ十一時四十七分を示してゐた。

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行
初出:「1929 第二十一号」
   1929(昭和4)年11月1日
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2011年3月9日作成
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