姨捨記

「更級日記」は私の少年の日からの愛讀書であつた。いまだ夢多くして、異國の文學にのみ心を奪はれて居つたその頃の私に、或日この古い押し花のにほひのするやうな奧ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた。おそらく、その頃の私に忘れられがちな古い日本の女の姿をも見失はしめまいとなすつての事であつたかも知れない。私は聞きわけのよい少年のやうにすぐその日から、當時の私には解し難かつた古代の文字で書綴られたその日記のなかを殆ど手さぐりでのやうに少し往つては立ち止まり立ち止まりしながら、それでもやうやう讀みすすんでゐるうちに、遂に或日そのかすかな枯れたやうな匂の中から突然ひとりの古い日本の女の姿が一つの鮮やかな心像として浮かんで來だした。それは私にとつては大切な一瞬であつた。その鮮やかな心像は私に、他のいかなるものにも増して、日本の女の誰でもが殆ど宿命的にもつてゐる夢の純粹さ、その夢を夢と知つてしかもなほ夢みつつ、最初からあきらめの姿態をとつて人生を受け容れようとする、その生き方の素直さといふものを教へてくれたのである。
 さうやつて少年の日に「更級日記」を讀み、さういふ古い日本の女のひとりに人知れぬ思慕を寄せてゐたのは、しかし私の心の一番奧深くでだつた。私は誰にもその思慕については自分から言ひ出さうとはしなかつた。只一度、私は何かの話のついでに佐藤春夫さんの前でちよつとその事に觸れたが、そのとき佐藤さんもこの日記を大へん好んでゐられることを知ると、反つて私は何んだか氣まりの惡いやうな氣がして自分の思つてゐることを餘計しどろもどろにしか言へなかつた事をいまだに覺えてゐる。それから數年立ち、他の仕事などに取り紛れて、いつかこの日記からも私の氣もちの離れ出してゐた頃、保田與重郎君がこの日記への愛に就いて語つた熱意のある一文に接し、私は何かその日頃の自分を悔いるやうな心もちにさへなつてそれを感動しながら讀んだものだつた。それ以來、再びこの日記は私の心から離れないやうになつてゐた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 ここ數年といふもの、私はおほく信濃の山村に滯在して、冬もそこで雪に埋れながら越すやうな事さへあつた。それらの日々は、私のもつて生れたどうにもならぬ遙かなるものへの夢を、或は其處の山々に、或は牧場に、或はまた樺や樅などの木々から小さな雜草にまで寄せながら、自分で自分にきびしく課した人生を生きんと試みてゐた日々にほかならなかつた。私は或晩秋の日々、そこで「かげろふの日記」を書いてゐた。私がさういふ孤獨のなかでそんな煩惱おほき女の日記を書いてゐたのは、私が自分に課した人生の一つの過程として、一人の不幸な女をよりよく知ること、――そしてさういふ仕事を爲し遂げるためにはよほど辛抱強くなければならぬと思つたからであつた。そして私の對象として選ぶべき女は、何か日々の孤獨のために心の弱まるやうなこちらを引き立ててずんずん向うの氣持ちに引き摺り込んでくれるやうな、強い心の持主でなければならなかつた。しかもそれは見事に失戀した女であり、自分を去つた男を詮め切れずに何處までも心で追つて、いつかその心の領域では相手の男をはるかに追ひ越してしまふほど氣概のある女でなければならなかつた。「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし」とみづから記するときのひそやかな溜息すら、一種の浪漫的反語めいてわれわれに感ぜられずにはゐられないほど、不幸になればなるほどますます心のたけ高くなる、「かげろふの日記」を書いたやうな女でなければそれはどうしてもならなかつた。
 しかしさういふ不幸な女を描きかけながら、一方、私はそれとほぼ同じ頃に生きてゐた、もう一人のほとんど可憐といつてもいいやうな女の書き殘した日記の節々を思ひ浮べるともなしに思ひ浮べ、前者の息づまるやうな苦しい心の世界からこちらの靜かな世界へ逃れてきては、しばらくそれに少年の頃から寄せてゐた何んといふこともない思慕を蘇らせてゐたりした事もあつた。さういふ日の私にとつては、「更級日記」を書いたいかにも女のなかの女らしい、しかし決して世間竝みに爲合しあはせではなかつたその淋しさうな作者すらも何んとなく爲合せに見え、本當にかはいさうなのは矢つ張り「かげろふ」の作者であるやうな氣がした。さうしてそのとき私が一つの試煉でもあるかのやうに自分をその前に立ち續けさせてゐたのは、その何處までも詮め切れずにゐるやうな、一番かはいさうな女であつたのだ。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「かげろふの日記」を書き、さらにその女のやや心の落着いた晩年の一插話を描いた「ほととぎす」を書いた後、私もまた孤獨の境涯を去り、ひとりで信濃の山中に何かを思ひつめたやうにして暮らすやうなこともなくなつてしまつてゐたが、去年の夏にならうとする頃、或雜誌に依頼された短篇小説を書くために本當にしばらくぶりに一人きりでぶらつと信濃に出かけて往つた。そのときその山麓の古びた村と「更級日記」と――私が少年の日から別々にそれを懷しんできた二つのものが、不意にその折の私の餘裕のある心の裡で結び合はさり、私は再び王朝の日記から取材して小さな短篇を書いて見る氣になつた。なぜこの日記が信濃に因んで「更級日記」と題せられるやうになつたか、それまでそんな事には殆ど意を介しもしなかつたのに、そのとき突然私にそれがはつきりと分かつた。月の凄いほどいい、荒涼とした古い信濃の里が、當時の京の女たちには彼女たちの花やかに見えるその日暮らしのすぐ裏側にある生の眞相の象徴として考へられてゐたに違ひなく、そしてさういふ女たちの一人がその心慰まぬ晩年に筆をとつた一生の囘想録はまさにそれに因んだ表題こそふさはしいのだ。そして彼女の囘想録を讀み了らうとする瞬間に誰しもの胸裡におのづから浮かんで來るであらう信濃の更級の里あたりの佗しい風物、――さういふ讀後の印象を一層深くするやうな結末を私は自分の短篇小説にも與へたいと思つた。
 そこに私がこの「更級日記」を自分のものとして書き變へるための唯一のよりどころがあつたと云つてもいい。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「あづまぢの道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを……」と更級日記は書き出されてゐる。この日記の作者は、少女の頃から、自分がそのやうな片田舍に生ひ育つた、なんの見よいところもない、平凡な女であることを反省しつつ、素直に人生にはひらうとする。ただ彼女は既に物語を讀むことの愉しさだけは身にしみて覺えてゐて、京へ上るやうになつてからも、册子の類を殆ど手放さうとはしない。就中、源氏物語を一揃へ手に入れることの出來たときなどは、几帳のうちに打臥したきり、晝は日もすがら、夜は目の覺めたるかぎり火を近くともして、それをばかり讀んで暮らしてゐるやうな熱心さであつた。さういふ夢みがちな彼女にとつて、自分の前に漸く展かれだした人生はいかに味氣ないものに見えたことであらう。が、その人生が一樣に灰色に見えて來れば來るほど、彼女はいよいよ物語に沒頭し、そしてだんだん自分の身邊の小さな變化をもいくぶん物語めかしてでなければ見ないやうになる。私はいつもこの日記のそのあたりを讀むとき、その點に一つの重心を置きながら讀むことにしてゐる。こちらがそんな氣持ちでそれに向つて見ると、日記のそのあたりで、彼女がつぎつぎに出逢ふところの三つの死――侍從大納言のむすめの死、乳母の死、それから姉の死の前後を描いてゐるところなど、非常に省略した筆ながら、それが反つて效果的に見える位、驚くほど生彩を帶びてゐるのが感ぜられて來る。そこには特に人の心をそそるやうなところはないのに、しかもそこに作者の見出してゐる人生の小さな眞實がいかにわれわれに物語めいた濕やかな情趣をさへもつて感ぜられるか。私はそこにこの作者獨自の心ばへを見とめる。さらに日記のもう少し先きに行くと、作者自身でかういふ自白をしてゐるところがある、――ゆくゆくは光る源氏や薫大將のやうな人竝すぐれた男に見出され、浮舟の女君かなんぞのやうに山里にかくしすゑられて、「いと心細げにて」暮らしながら、年に一度ぐらゐその御方がお通ひになつてくだされば、あとはときをり御文などを頂戴するだけでもいい、そんな身分になら自分のやうなものだつてなれなくはなささうな氣もするがと若い女らしく夢みる、――さういふ心もちを半ば自嘲しながら打ち明けてゐる一節であるが、そんなしどけない心の中まで日記に書きつけずにはゐられなかつたその女の迷ひの美しさといふものは、寧ろその箇處でよりも、前に擧げたやうな身邊雜記的なものをさりげなく記した箇處に反つてその表面の何氣なさを通して一層あはれ深く感ぜられはすまいかと思ふのである。
 そんな物はかない日々のうちに、當時の女らしくときどき夢などに佛のすがたを見ては、信仰のない人間の不爲合せをはつとするほど衝動的に知らされ、その度毎にいままでのやうに物語のみに夢中になつてゐるやうな心境を棄ててひたすら信仰に生きようとも決意するが、いつのまにかそれも中途半端に終つてしまふ。そのやうに女らしい迷ひと覺醒との間にどつちつかずに漂つてゐるやうな不安げな氣分が、その日記の後半ともなると、屡※(二の字点、1-2-22)見出されがちになつてくる。
 が、遂に彼女にも「物まめやかなるさまに心もなりはてて」物語のことなども何かに取り紛れて次第に忘れるやうな中年の日々が近づいてくる。宮仕へもしたが、それもただ内氣な彼女にはつらく思へただけで、「光る源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは」と漸つとの事で知つた後、彼女はそのときはじめて「人がらもいとすくよかに世のつねならぬ人」に見えた奧ゆかしい同じ年頃の男に出會ふ。それは冬のくらい、しぐれ模樣の夜であつた。彼女は殿の戸口ちかくで、その男を相手に朋輩の女房と三人して、ときどき木の葉にしぐれの降りかかる音をききながら、世の中のあはれなる事どもをしみじみと物語りあふ。――そのしぐれの夜の對話はこの二人の中年の男女の心に沁み、互に相手を淡い氣もちでなつかしみあふが、それぎりで二人には再びゆつくりと語り合へる機會は來ずにしまふ。ただ二度ほど同じ殿中で互をそれとなく認め合ふ折もないではなかつたが、共に折惡しくて僅かに口頭で歌をとりかはすだけで別れる。が、その逢へさうで逢へずにしまつた刹那ほど、彼女は自分がそつくりそのまま物語のなかの女でもあるかのやうな氣もちを切實に味つたことはないのだ。さういふ氣もちにさせられただけで、そのやうな一瞬間の心と心との觸れ合ひを感じ得られただけで、既に物語そのもののこの世には有り得ないことを知つてゐる彼女は、いかにも切ないが、一方、その心の奧で一種の云ひ知れぬ滿足を感ずる。
 その後、彼女は宮仕へを辭し、或平凡な男と結婚し、何事もなかつたやうに靜かに一生を終へる。……
 いま私がここにその經過を語つて來たところのものは、半ば私の書いた短篇小説のそれであつて、「更級日記」の原文からはやや離れて來たものになつて來てゐるらしい事は私も認めないではゐられない。いま私の讀みとつたやうにこの「更級日記」を讀むのは、私の詩人としての勝手な讀み方で、或は原文を非常に歪めてゐるやうな懼れもないとはかぎらぬ。もしさうとすれば、それは私の不心得であらう。しかし、このやうな心の經過は私が早い日からさういふ風に讀み慣はして、いまでは私の裡にしつかりと根を下ろしてゐるこの女の心像と切り離せないものになつてしまつてゐるので、もはや、私としては如何んともなし難いことなのである。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 さらに私は不心得にも、自分の作品の結末として、原文ではその女は結婚後その夫が信濃守となつて任國に下つたときには京にひとり留つてゐるのであるが、そのときその夫に伴つて彼女自身も信濃に下るやうに書き變へてしまつた。これは自分でもそこを書くときまでは全然考へもしなかつたことで、書いてゐるうちにどうしてもさう書かずにはゐられなくなつてしまつたのだ。信濃への少年の日からの私の愛着が、自分の作品の女主人公をしてそんな遠い山國で暮らしてゐる彼女の夫の身の上を氣づかはしめる事によつてのみ信濃といふものと彼女とを結びつけるだけでは何んとなく物足りなくなつて、知らず識らずの裡に私の筆をそのやうに運ばせて行つたものと見える。が、もう一つ、それをさう改竄させた、ぬきさしならないやうな氣持ちも私にはいつか生じてゐたのだ。それは私が自分の作品の題詞とした、古今集中の

わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて
 といふ讀人しらずの歌への關心である。この古歌は、私には、どうしても自分の作品の女主人公とほぼ似たやうな境遇にあつた女が、それよりもずつと遠い昔に人知れず詠んだもののやうな氣がしてならない。「大和物語」や「無名抄」などで歌物語化せられてから人々の心にいろいろな影を投げてきた古歌ではあるが、さういふ境遇の女が自分の宿命的な悲しみをいだいた儘いつかそれすら忘れ去つたやうに見えてゐたが、或月の好い夜にそれをゆくりなくも思ひ出し、どうしやうもないやうな氣もちにさせられてゐる時におのづから詠み出したものとして、それを考へて、一番私の心にそのなつかしさの覺えられる歌である。――原文では、信濃に下つてゐた夫はそれから一年立つか立たないうちに病を得て歸京するが、その後間もなく身まかつてしまふ。あとに取り殘された女は「さすがに命はうきにもたえず、ながらふめれど」遂にまつたくの孤獨となつた自分の身の上を「をばすて」と觀じ、そのやうな感慨をその古今集よみ人知らずの歌を本歌とした一首の和歌に托してゐるのだが、私は彼女自身の詠んだその歌よりも、この古歌そのものをこそ彼女に口ずさませたいやうな氣がしてならなかつたのである。――それ故、私は自分の作品に特に「姨捨」といふ題を選び、その作品の中では女主人公をして夫に伴つて信濃に赴かしめるところで筆を絶ち、その代りにただ、その後の女の境涯それとなく暗示するかのやうに、そのよみ人しらずの古歌を題詞として置いておいたのである。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 今年の晩春の一日、私ははじめてその更級の里、姨捨山のほとりを歩いてみた。この山國のまなかでは、遠い山々にはまだかなり雪が殘り、里近い田畑はすべて枯れ枯れとしてゐて、いかにも春なほ淺い感じであつた。私は一册の小さな書物を携へてゐたが、その書物によると、多くの古歌に詠ぜられた平安朝の頃の姨捨山といふのは、實は私のさまよひ歩いてゐる低い山ではなく、その山のもう一つ向う側に半ば隱れながら山頂だけ見せてゐる現在の冠着山かむりきやまだつたのださうである。さうでなくてはならない。現在姨捨の驛のあるこのあたりがさうなのでは餘りにも感じが小さ過ぎる。この山の向うの、いかにも奧深い感じのする冠着山こそわれわれの姨捨山のやうに見える。
 なほ、その書物によると、それよりもつと古代の姨捨山は、その冠着山でもなく、やはり同じ更級郡にあつて昔小長谷山をはつせといはれてゐた山(現在の參謀本部の地圖には篠山と記載せらる)であつたらしいと云ふ。それは泊瀬はつせ即ち上古の葬所のあつたところであり、それが轉訛して「をばすて」となり、それへ古代の信濃でも行はれたらしい棄老の傳説が結びつきながら、丁度、その讀人しらずの古歌の詠ぜられた平安朝のはじめ頃を界として、現在の冠着山に移動したのであらうと考證せられてゐる。「大和物語」や「無名抄」などに傳へられてゐる有名な傳説の出來たのはその後の事であつたらしい。その後さらに、元禄の頃芭蕉が此地にやつて來て「更科紀行」などを書いた少し前に、その冠着山からもう一度現在の姨捨山に移動して來てゐるのださうである。――しかし、いまのところ私はそれらの諸説にはこだはらずに、自分の前にある古歌をただそれだけのものとして單純に味ひたい。――或はこの讀み人しらずの歌は、その更級の里にあつて近親を失つたものがそれを山に葬つた後、或夜その山に照る月をながめながら詠んだ哀傷の歌として味ふのが本筋かも知れないが、いまはその考へをさへ棄てて、私はそれをただわれわれの女主人公のやうな境遇の女がその里に佗び住みしながらふと詠みいでた述懷の歌としてのみ味ひたいのである。
 さうやつて半日近く姨捨山のほとりを歩いてから、私はまた木曾路へも行つて見た。その谷間の村々もまだ春淺い感じであつた。まなかひに見える山々はまだ枯れ枯れとしてをり、村家の近くには林檎や梨の木が丁度花ざかりであつた。其處でもまた私は古代から中古にかけての木曾路がいまの道筋とは全く異り、それらの周圍の山々のもつと奧深くを尾根から尾根へと傳つてゐたものであることを知らされた。私はそれらの山奧に、われわれの女主人公たちがさまざまな感慨をいだいて通つて往つたであらう古い木曾路が、いまはもう既に廢道となつて草木に深く埋もれてしまつてゐる有樣をときをり空に描いたりしては、何んといふこともなしに一人で切ない氣もちになつて、花ざかりの林檎の木の下などをぶらぶらしながら晩春の一日をなまけ暮らしてゐた。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
   1944(昭和19)年9月20日
初出:「文學界 第八巻第八号」
   1941(昭和16)年8月号
※初出時の表題は「姨捨記」、「曠野」養徳社(1944(昭和19)年9月20日)収録時「更級日記」と改題、底本の表題は初出時のものによる。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月17日作成
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