黒髪山

 源氏物語の「總角あげまき」の卷で、長患ひのために「かひななどもいとほそうなりて影のやうによわげに」、ふすまのなかにひいなかなんぞの伏せられたやうになつたきり、「御髮みぐしはいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕よりおちたるきはの、つやつやと」した宇治の姫君が愛人のかをるの君たちにみとられながら、遂に息を引きとつてしまふ。そのとき薫の君が「夢かとおぼして、御殿油おほとなぶらをちかうかかげて見たてまつり給ふに、隱したまふ顏もただ寐たまへるやうにて」、なんだかいつまでもその儘の姿にして、置いておきたい程のいぢらしい氣がしながら、「御髮をかきやるにさとうちにほひたる、ただありしながらのにほひに」何とも云へず切なくなる心もちを描いてゐる。私は其處を讀んだとき非常に感動した。
 若く美しい女のもう冷たくなつた亡骸を描いて、そのかき亂れた髮の毛だけがまだ生きてゐるときと同じやうに匂ふところを書き添へたのは實に效果的である。これほど簡潔で深い印象を與へる死の場面はさう他處にあるものではない。私達の遠い祖先は既にかういふ效果を知つてゐたのかと思つた。
 そこにはもう圓熟した物語作者がゐる。人間の死に對してもあまりひるまず、佛教などで鍛へ上げられた、透徹した觀念を既に持つた人の目であつたにちがひない。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 この頃私は萬葉集を屡※(二の字点、1-2-22)手にとつて見てゐるが、そんな源氏物語などの頃とは異り、宗教思想が未熟だつたせゐか、生と死との境界さへはつきり分からぬ古代人らしく、

秋山に黄葉もみぢあはれとうらぶれて入りにし妹は待てど來まさぬ
とか、又、

秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道やまぢ知らずも
 などといふ考へ方でもつて死者に對してゐる。これは歌といふものの性質上、わぎとさういふ原始的な素朴な死の觀念を借りて、山に葬られた自分の妻を、恰も彼女自身が秋山の黄葉のあまりの美しさに憑かれたやうにして自ら分け入つてしまつたきり道に迷つてもう再びと歸つて來ないやうに自分も信じてをるがごとくに歎いて、以つて死者に對する一篇のレクヰエムとしたのかも知れない。
 萬葉の頃の悼亡の歌には、直接に自分の歎きを痛切に吐露したものよりも、さうやつて死者の葬られた山を對象とし、或は空しくなつた家の日ごとに荒廢してゆく有樣や、故人の遺物である木や花や鳥などを對象としたものが多いやうである。肉體が死んでも魂は分離して亡びないことを信じてゐた古人は、深い山の中をさすらつてゐる死者の魂を鎭めるためにその山そのものの美しさを讚へ、又、死後彼等の居處や木々を拂はずに其處に漂つてゐる魂の落ちつくまで荒れるがままにさせ、ときをりその荒廢した有樣を手にとるやうにさながらその死者の魂に向つていふやうにいふ、――そんな事を私は萬葉の挽歌作者をよみながら考へる。萬葉人たちが實際の信仰としてさういふ考へ方をしてゐたか。或は、もつと古代の人たちの信仰の名殘りから、その中にある生活感情を再現しようとしたところに彼等の文學があつたのであらうか。

山吹の立ちよそひたる山清水やましみづ汲みにゆかめど道の知らなく
 これも挽歌の一つである。萬葉學者の一人が此歌の第一句から第三句までが「黄泉」の和譯であることを發見した。周圍に山吹の黄いろい花の咲いてゐる泉は即ち黄泉だといふことに氣がついたのである。さうなのかも知れない。さう云はれないでゐると、これでも悼亡詩なのかと思ふ位の、明るい感じをさへ此歌は誰にでも與へるだらう。しかし死んだ貴女のために、山の中にはひつて行かれた彼女の魂を鎭めるための祈りとしての合唱のやうな種類のものだとしたら、かういふ歌もそれが挽歌としてはつきり分かつてくる。そして死から來るじめじめとした感じのない、清冽な後味を跡に殘つた人達の上に與へることが出來るのである。
 萬葉人としても死後の人體の醜惡を知らないでゐたわけではなかつたらうが、否、それを後代よりもよく知り、それに對する恐怖の一層はげしかつたあまりに、彼等の死者を哭する歌はいよいよ切なく美しくならなければならなかつたのであらう。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 奈良へは、二年前の若葉の頃、神西清と一しよに往つた。
 誰でもさうするやうに、秋篠寺、唐招提寺、藥師寺、法隆寺などを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて歩いたが、古い佛たちを拜する傍ら、私は古い大和の村々や野や民家や、ことに里近くの山々を見ることを樂しんだ。
 萬葉びとがこれらの村や山々に彼等の謂はば前宗教的(pre-religious)な生活を托しながら小さな喜びや悲しみを歌ひ續けてゐた間に、一方では既に、今日もなほ殘つてゐるかういふ大きな寺が建立され、大きな佛たちが製作せられてゐたのだといふことは不思議な心もちがしてならなかつた。それほどその二つのもの――無智にちかい土俗的な信仰の中に隱れてゐる萬葉びとと、佛を製作しつつあつた本當の信仰に目覺めた人たちとの間には互に共通しあつたものが殆ど無かつたやうだからである。前者が後者のために遂に大和や山城から逐はれて、遠い國々を彼等の歌を携へたまま流浪し出す日はそのとき既に近づいてゐたのである。
 私は毎日のやうに古い寺々を歩き、古い佛たちを拜しながら、殆ど萬葉の歌を口に上らせなかつた。新藥師寺へ行く途中の、くづれた築泥ついぢがちの道などは好きで何度も歩いたが、私はそこを通りながら思ひがけず伊勢物語の一節などをなつかしく思ひ出すやうな氣分にさせられるやうなことはあつても、家持やかもちの歌ひとつ浮んで來なかつた。萬葉の歌はいまはもう大和の村々にも生きて居らず、寧ろ私達の平凡な日常生活の奧深くに反つてひよいと見出されるやうなときにだけ本當に私達に生きてくるのではないかとさへ思へた程だつた。
 だが、大和の村々を歩き疲れて宿に着き、夜ふけていつまでも目を覺まして晝間見てきたさまざまな事物を思ひ浮べてゐるやうなときなどには、どうかすると熱心に見てきた古い佛たちの顏よりも、木深い山の奧にいまだに奇蹟的にその儘埋まつたきりでゐるかも知れない死んだ古代人のひとり取り殘された淋しさうな姿などが、いまにも目に見えて來さうになつたりした事もないではなかつた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 神西が都合で先きに歸京し、私はそれから三四日ひとりで奈良に止まることになつたとき、私はもう古い寺々は訪れず、ただぼんやりとそこいらの村々を歩いて暮らすことにした。
 私は卷向まきむく山や二上ふたがみ山などの草深い麓をひとりでぶらぶらしながら、信州の山々を見馴れてゐる自分のやうな者にも、それ等の山そのものとしては何らの變哲もなく見える小さな山々に對して一種異樣な愛情の湧いてくるのを感じ出してゐた。いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬つた萬葉の人々が、そのとき以來それまで只ぼんやりと見過ごしてゐたその山々を急に毎日のやうに見ては歎き悲しみ、その悲歎の裡からいかにその山が他の山と異り、限りないそれ自身の美しさをもつてゐることを見出して行つたであらう事などを考へてゐると、現在の自分までが何かさういふ彼等の死者を守つてゐる悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出してゐるのだつた。さういふこちらの氣のせゐか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奧深いところに何か哀歌的なものを潛めてゐる。
 奈良を去る前日、私は「大和雜記」といふ本を讀んでゐたら、奈良山の一部に人麻呂歌集などにも出てゐる黒髮くろかみ山といふ山があり、そこから法華寺村の北方の歌姫うたひめといふ部落に出る舊道のある事を知つて、ちよつとその黒髮山とか、歌姫といふ美しい地名に心をそそられて、その山越えをしてみたくなつた。其處でその翌朝、私は奈良坂の上までバスで行き、元明、元正兩天皇の御陵のあたりから大體の見當をつけて、山のなかへはひつて行つた。二つのみささぎは通り過ぎた。もう昔の佐保山さほやまである。私は手にしてゐた參謀本部の地圖に大體黒髮山らしいものの印をつけておいたが、その山の中はまださほど深いとも思はれないのに、小さなそま道が多くて、私にはすぐその地圖が何んの役にも立たない事を知つた。私はもうあてずつぽうにそれらしい山を探して見るより仕方がなかつた。
 さうやつて少し歩いて見てゐたが、てんで見當がつかず、こんな工合では黒髮山を搜すことは先づ斷念した方がいいと思ひ、せめて歌姫の方へ出る舊道でも見つけようとして後戻りをしてみたりしてゐたが、どれがさつき通つて來た道かなんぞも分からなくなり、すこし困つた事になつてきたなと思つた。この儘、この山中に迷つていつまでも自分がさまよひ續けてゐるやうな事にでもなれば、私は萬葉びとに考へられてゐたやうな、山に葬られた死者の死後の姿そつくりではないか。ただあたりは若葉の明るい山で、私の上に一めんに黄葉もみぢばが浴びせられるやうに散つてゐないのがちよつと興を殺ぐ。と、そんな暢氣な事を考へながら、もうちよつと此の儘かうして自分をそんな死人に擬して山の中をさ迷つてゐて見たいやうな氣もしてゐるうちに、いくら歩いても同じところばかり歩いてゐるやうなので、私は一方ではなんだか本當に自分が佐保山の奧に迷ひ入つたやうな不安をさへ感じ出して來た。しかし、何處までいつても、山は若葉のせゐか、非常に明るかつた。明るいなりに、山は無氣味にしいんとしてゐた。誰一人にも行き逢はず、私は小一時間もそんな山の中をだんだん心細くなりながら歩きまはつてゐたが、ときどき古代人の幻想したやうな木の葉をいつぱい浴びた死者のあはれ深い姿が、自分の裡に氣味わるいほどまざまざと蘇つて來てならなかつた。
 漸く私は自分の行く手に大きな池の一部らしいものを認め、そつちへ近づいて行つて見ると、それが聖武天皇陵の近くの池であるらしい事を地圖で知り、自分の目標から大ぶ外れて來た事を認めたが、そこからはもう法蓮はふれんの村がすぐ近さうなので、半ばほつとした。
 結局、實際に存在してゐるのだかゐないのだか分からないやうな黒髮山は見當さへつかず、只そのまはりをうろうろと歩いてゐただけだつた。それでも、その山歩きは私には決して無駄ではなかつた。私はその小一時間ちかく「萬葉的に」自分が死んでゐたと云へば云へるやうな、子供らしく微笑ましい想像から、その奈良に於ける最後の日をいまだに忘れがたく思つてゐる。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
   1944(昭和19)年9月20日
初出:「改造 第二十三巻第十三号」
   1941(昭和16)年7月号
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2011年3月9日作成
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