更級日記など

 御質問にお答へするほど、日本の古典をよく讀んでゐませんので大變困りましたが、
 一、僅かに讀んだものの中では、「更級日記」などが隨分好きです。理由と云つても別にありませんが、彼女の小さな夢を彼女なりに切實に生きたらしい、この「更級日記」の作者などが、何となく僕には血縁のあるやうな氣がするからです。
 一、僕がそれから影響を受けたやうなものはまだ日本の古典の中にはありさうもありません。「源氏物語」などが樂にすらすら讀めるやうになつたら、或ひは大いに僕など影響を受けるやうになるかも知れません。しかし、生來註釋書などを讀むことは大嫌ひなので、いつになつたら讀めるやうになるのだか自分にも分りません。聞けば、谷崎さんが「源氏物語」の現代語譯を試みられていらつしやるとか、大いに期待してゐます。これは人の話などを聞いたり、その梗概を讀んだりして空想してゐるのですが「若菜」の卷のあたり、それから「宇治十帖」などは隨分好きになれさうです。前半よりもずつと。そこに出てくる柏木とか、薫大將とかは、光源氏なぞより僕には親しみ深いやうな氣がされます。それから「窄き門」のアリサを彷彿せしめるやうな女性なども出てくるからです。そのうちにゆつくり讀んで、ラジィゲが「舞踏會」をマダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公夫人」の影響の下に書いたやうに、僕も古雅な味はひのある小説を書いて見たいものです。
 一、僕も一しきり歴史小説を非常に書きたいと思つてゐたことがありました。その時は室町時代を背景にしたいと思つてゐました。僕は以前から西洋の中世期に一種の憧憬のやうなものを持つてゐますので、それに似た暗黒なる時代を、わが室町時代に求めようとしたのであります。そして僕の手本としてはクロオデルの「マリアへのお告げ」などを頭に浮べて居りましたが、中世期の詩を限りなく愛してゐただけで、加特力教に大して關心を有たなかつたやうに、佛教に對する素養が全然無かつたので、そんなことから僕の企ては他愛もなく蹉跌してしまひました。この頃、佐藤春夫さんの「掬水譚」を讀んで、さういふ點で大いに教へられるところがありました。僕もそのうちもう一度勉強し直して、さういふ歴史小説も手がけて見たいと思つてゐます。
 一、いづれもそのうちしたい、したいと云ふやうなものばかりで、只今やり出してゐるやうなものは一つもなく、お恥しい次第ですが、それでもときどき丸岡明君に誘はれて能などを見物に行く度毎に、急にさういふものに對する情熱などが湧いてきたりして、それを抑へつけるのに少々手こずる位になることもありますから、僕にもまづ脈があるものとお思ひ下さい。
 一、能といへば、僕には何度見に行つても能の見方はいつまでも極めて未熟です。大體、梅若万三郎が演らうが誰がやらうがそんなことは無頓着で、ただ能の樣式のもつてゐるその雰圍氣――特にそのアクセントのやうなもの、さういふものをしか見てゐないからです。で、寧ろ、何度も見てゐるうちに自分も見巧者にならうといふやうなことは考へずに、西洋人がはじめて能を見た場合などに感ずるにちがひない子供らしい新鮮な氣持――そんな氣持でいつも見てゐたいのです。クロオデルが「能」について書いたエッセイなとが、そんな僕には一番鑑賞の役に立つてゐる所以です。
 一、クロオデルと云へば、その能に關するエッセイの一節に、「我々の眼前にて一瞬間に構成せらるる彫像のごとく、夫が、その妻の前をふり向かうともせずに通り過ぎんとする刹那、その愛する者の肩の上に置くその腕のなかの何といふ優美さ、そして我々の繪入新聞の中に見かけらるるごときかかる悲哀の俗な動作も、それが緩やかに注意ぶかく、行はれるとき、何とそれは深い意味をもつことだらう、」と書いてゐますが――この數行などのうちに、きはめて暗示的にではありますが、あらゆる日本の古典の樣式美といつたやうなものが要約せられてゐるやうに思ひます。
 一、前にも述べましたやうに、いくら讀みたくとも「源氏物語」などは原文ではなかなか讀めさうもありませんので、只今のところ敬遠してゐる他はありませんが、能になりますと、ぼんやり見てゐればそれだけでも何か解つてくるものがある、それが何か僕には貴重なものに思へますので、ときどきこれからも機會ある毎に、丸岡君に連れていつて貰ふつもりです。甚だ勝手なことばかり書いてしまひましたが、どうか惡しからず。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「雉子日記」河出書房
   1940(昭和15)年7月9日
初出:「文藝懇話会 第一巻第五号」
   1936(昭和11)年5月号
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月17日作成
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