萩原朔太郎

 萩原朔太郎は明治十九年十一月一日、上州赤城山の麓、利根川のほとりの小さき都會である前橋市に生れた。
* 彼はいつも自ら明治二十一年生れと記してゐたが、それは誤つてゐたのである。しかし、十一月一日に生れた長子であつたので、朔太郎といふ名をつけられたといふのは本當である。
 父萩原密藏は、大坂の人で、明治十五年東京醫學校を出られると、ただちに前橋に來られて、醫を業とせられてゐた。母は慶といつて、川越の八木氏の出である。そして長子である彼の他には、三人の妹と一人の弟とがゐる。
 彼はその兩親よりも、母方の祖父に一番似てゐると云はれる。その祖父八木はじめといふ人は、川越松平藩士で、會津戰爭のとき、越後法師温泉にて、敵方の隊長河合某を六連發のピストルにて打ちとつたことのある人である。非常に嚴格な人であつたさうだが、又なかなかハイカラな趣味の持主でもあつて、さういふ點でも將來の詩人となるべき彼の上には深い影響を與へたのであらう。
* 彼の晩年に書いてゐた一册の手帳に「ピストルの話」といふエッセイのための草案らしいものが二三頁にわたつて記せられてあるが、それはその祖父の若いころの話をすぐ私に聯想せしめた。
          ※(アステリズム、1-12-94)

 小學校にはひつてから、彼は少年雜誌「小國民」を毎號愛讀するやうになつた。それは當時(明治二十年代)の時代の思想を反映して、銅版畫などの插繪の豐富に入つた、すこぶる文明開化趣味の横溢した少年雜誌であつて、それが祖父の影響と相俟つて、後年の彼の特異なる趣味をつちかつたものといへよう。
* 彼の書庫の一隅にその明治二十七八年ごろの「小國民」が一束藏せられてある。しかし、これは晩年になつてから古本屋で見つけて新たに買ひもとめたものださうである。
 小學の學科のなかでは、これは父讓りで、數學が一番得意であつたといふことである。又、彼は幼時から大へん音樂が好きであつた
* 「四季」萩原朔太郎追悼號所載、萩原彌六「兄の事」參照。
          ※(アステリズム、1-12-94)

 彼は十四のとき前橋中學に入つた。(明治三十二年)その中學校は「利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓々より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉のいちめんに生えたれども……」と彼は後年故郷を望み見ながら書いてゐる。「……われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。」
「……我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、※(「木+無」、第3水準1-86-12)の類、むざんに白日の下に倒されたり。……」
 中學にゐたころの彼の孤獨な姿は、さういふ後年の彼自身の詩篇(「郷土望景詩」)によつて彷彿される。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 前橋中學を出ると、彼はこんどは第五高等學校に入つた。そして一年ばかり熊本に行つてゐたが、その翌年第六高等學校に轉校して、岡山に行つた。そこでは獨法科に籍をおいてゐたが、二年のときパラチブスに犯されて數ヶ月病臥した。そしてそのまま中途退學をした。
 それからは主に東京と前橋とで暮らしてゐた。(明治四十年代)
 その間、音樂家たらんと志して、上野音樂學校の入學試驗を受けるために、樂曲などの初歩を學んだが、遂にものにならないで止めてしまつたりした。
* 伊太利の音樂家ザルコニイについてマンドリンを學んだりしたのは、しかしもつと以前のこと、――十八九のときのことである。その頃はまだマンドリンといふものが、はじめて三個ばかり銀座の十字屋に舶來せられたばかりのときで、彼はそのうち一つを買つた。そして日本人でマンドリンを習つた二番目のものだつたさうである。
 前橋では、自分の家の小さい物置小屋を洋館に改築して、リノリウムなど敷きつめて、そこで無爲孤獨に暮らしてゐた。彼に漸く詩作の興の生じてきたのは、その頃のことであるらしい。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 丁度その頃(明治四十四年末)北原白秋の主宰する「ザムボア」(朱欒)が創刊せられた。それに彼は詩を投稿し、はじめてその詩が印刷されるやうになつた。
 そのおなじ雜誌に、まだ無名の詩人だつた室生犀星の「小景異情」といふ詩を見出し、彼が驚異やむことを知らなかつたのも、その頃である。
 彼はその時分のことを追想してかう記してゐる。「私は人眼をしのんで、利根川の石垣のかげや、砂丘の凹所にこつそり隱れてゐた。そこで私は悲しい感情にみちた詩をつくつたり、あるときは彼(犀星)の詩の載せてある雜誌を手にして、利根川ちかき松林の小路を旅びとのやうにどこまでも歩いていつた。」
 そして彼は屡※(二の字点、1-2-22)金澤にゐる犀星のところへ長い手紙を書いては、わづかに心を慰めてゐた。
 その頃彼の書いてゐた、やさしい詩が、他日「愛憐詩篇」として「純情小曲集」の中に入れられたものである。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 金澤から上京中、室生犀星が前橋に來て長く滯在していつたのは、大正二年の春から夏にかけてであつた。
 いまは、二人とも、「ザムボア」をはじめ「創作」「詩歌」「地上巡禮」「アルス」などの雜誌にいつも詩を出してゐる若い詩人の中の詩人になつてゐた。
 前橋の彼のところも、犀星と前後して北原白秋、山村暮鳥などが來遊した。
 三號きりで廢刊したが、「卓上噴水」といふ小雜誌が、彼と犀星との二人の手だけで創刊されたのも、此の頃である。
* 「卓上噴水」は大正四年三月から五月にかけて三册出た。三册とも、八つ折判の、すべすべしたアート紙に印刷された、薄い雜誌で、表紙には彼の好みらしくギリシヤの瓶の繪が刷られてあるかと思ふと、次には犀星の卷頭詩が載つてゐたりして、いかにも仲のいい二人の共同編輯らしく、その他には蒲原有明、高村光太郎、茅野蕭々、日夏耿之介、前田夕暮、山村暮鳥などが寄稿してゐる。
          ※(アステリズム、1-12-94)

 大正四年、室生犀星が郷里を去つて上京した。相次いで彼も上京し、二人で本郷あたりの下宿にごろごろするやうになつた。
「私は毎日毎晩、酒場の椅子にこびりついてはなれなくなつた。」と彼自らその頃の放浪生活を書いてゐる。「さうして忌はしい出來事のあとにくる恐ろしい懺悔から罪人の祈りのやうな暗い詩ばかり作つてゐた……」
「月に吠える」の中の數篇の詩の獨創性がそこに暗示せられてゐるやうにおもふ。
 やがて彼はさういふ生活に疲れ切つて、郷里に歸り、それから一年ばかり誰にも消息さへせずに、孤獨に暮らしてゐた。
 その間に、「卓上噴水」を廢めてから、再び犀星と二人で始終計畫してゐた雜誌がいよいよ刊行できるやうになつた機がきた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 それが雜誌「感情」である。こんどは大正五年六月に創刊してから、三十二册出して、大正八年にいたつて廢刊した。
 さうして同人として山村暮鳥、竹村俊郎、多田不二、恩地孝四郎などが加はつた。表紙は主として恩地孝四郎が描いてゐた。
 創刊號に對話詩「虹を追ふひと」を載せてから第十一號に「萩原朔太郎詩集」として詩五篇を載せるまで殆ど毎號作品を發表してゐたが、それ以後はときどき詩壇時言のやうなものを寄せるだけになつた**
* 「萩原は一年間書かず、通信もせずに暮らした。そのあひだに「虹を追ふひと」が生れた。……「虹を追ふひと」は戲曲でもあり、詩でもあり、對話でもある。……私には萩原がだれにも通信せずにゐた一年間の苦しい心持が見えるやうな氣がする。」(犀星、創刊號後記)
** 彼は毎號詩を二篇乃至五篇ぐらゐづつ發表してゐた。その間にまた處女詩集「月に吠える」を出したりしてゐる。が、第十二號以後は殆ど詩を發表しなくなつた。そのころの六號雜記に彼は書いてゐる。「兄(室生)がつかれてゐる以上に自分もつかれてゐる。自分はこの數ヶ月間全然外部との交渉を絶つてゐた。何物の影も扉にささなかつた。この孤獨について。」
          ※(アステリズム、1-12-94)

 處女詩集「月に吠える」の上梓されたのは、大正六年二月、著者三十二のときである。
 この二三年間に雜誌「地上巡禮」「アルス」「詩歌」などに發表した詩が主として收められ、「感情」に發表せられたものは數篇に止まる
* それ以前の「ザムボア」などに載つた初期の作品は、やや詩風を異にするためにこんどの詩集から除かれた。(それが第三詩集「純情小曲集」に收められた「愛憐詩篇」である。)又、「感情」の頃になると、詩風一變し、第二詩集「青猫」のスタイルに近づいてゐる。
 北原白秋が序文を書き、室生犀星が跋を書いてゐる。裝幀は故田中恭吉と恩地孝四郎との[#「恩地孝四郎との」は底本では「恩地孝との」]二人がし、若くして亡くなつた前者の非常に特異な插繪が數葉入つてゐる。
「處女詩集「月に吠える」は純粹にイマヂスチックのヴィジョンに詩境し、それに或生理的の恐怖感を本質した詩集であつた。」(定本「青猫」の序)さういふ言葉で詩人みづからその詩境をあきらかにしてゐる。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「月に吠える」刊行後、彼は多く郷里の田舍にあつて、孤獨に暮らし、沈默を守つてゐた。一時それに專心してゐたらしい自由詩論も遂に出版するまでにいたらなかつた。
 彼の結婚したのも、その間のこと(大正七年)である。しかし、結婚したことすら、殆ど友人には誰にも知らせなかつた位である。
 結婚後も、彼は相變らず、田舍に引籠つて、一見無爲にちかい生活を續けてゐた。
 しかし、その五六年の間、彼は默々としてショオペンハウエルやニイチェなどの哲學書に讀みふけり、思索的生活をし、かたはら人知れず詩作をしてゐたのであつた。
 大正十一年に、「月に吠える」の再版につづいて上梓せられた箴言集「新しき欲情」はそのながい思索的生活の結實であり、翌十二年に上梓せられた詩集「青猫」はその間の詩的勞作である。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 第二詩集「青猫」は前の詩集から約六年を隔てて上梓せられた。
「この詩集と「月に吠える」とは全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。」「……著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。この詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁が歌はれてゐるからだ。……」そして前者のやうなイマヂスムの詩集ではなく、「ポエヂイの本質が全くペーソスに出發し、」「私にとつての純一の感傷を歌つた詩集」である。しかし、この詩集のもつところのペーソスは「牙がなく、全く疲勞の椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀、」「意志を否定した虚無の悲哀」であつた。(以上定本「青猫」の自序による。)
* 定本「青猫」は初版を出してから十二三年立つて上梓せられた。初版本と定本とを此較して見ると「青猫」のスタイルの完成してゐる詩集の中ほどの部分はすこしも變つてゐず、「月に吠える」にすぐ隣つてゐる最初の部分と、次ぎの詩集「氷島」に近づいてゐる最後の部分とに著しい變更が見られる。たとへば、定本の最後の方には、初版刊行後に書かれた數篇の詩(「吉原」「大井町」など)が新たに加へられてゐるが、私の見るところでは、それらの詩は内容においては「青猫」にちかいけれど、スタイルはもうそれから離れんとしてゐる。それ故、それが定本の統一をかへつて破つてゐるやうにおもふ。しかし、一つの完成したスタイルから出て新しいスタイルに落著くまでの、詩人のいろいろの工夫などが分かるやうである。(なほ、「青猫」の「青」は英語の Blue を意味してゐるのである。The Blue Cat といふのは、つまり「物憂げなる猫」といふ意味である。)
          ※(アステリズム、1-12-94)

「人氣なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり
いかなれば故郷のひとのわれに辛く
……………………………………
つれなきものへの執着を去れ
ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ」

 ながいこと郷里の町にあつて、骨の折れる詩作と思索をつづけてゐた彼も、しかし故郷の人々には解せられなかつた。町などをものを考へ考へ歩いてゐると、屡※(二の字点、1-2-22)背後から人々に「馬鹿息子」と罵られることさへあつた。彼はそのため、家を出ると、いつも人氣のない公園などにいつて、そこにふところ手をして「鴉の如く」坐つてゐるほかはなかつた。
 さういふ彼には遂にその故郷を棄てるべく決意する日が來た。「郷土望景詩」は、その去らんとする故郷を目前に望みながら、それに對する云ひ知れぬなつかしさと烈しい怒りとを歌つた、いかにも悲痛なるものである。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 彼は遂に大正十三年、年三十九にして、はじめて妻子をかかへて、故郷を去つて上京し、一先づ、大井町の陋巷に寓した
* 「大井町」「郵便局の窓口で」などの若干の詩がそこで出來た。彼は大井町のやうな、襁褓の干してある下をくぐつて出入りするやうな、場末の佗しい町が好きだつた。
 そこに一年ばかり孤獨に暮らしてゐたが、翌年田端に居を移した。その頃田端には室生犀星、芥川龍之介などが住んでゐた。毎日のやうに犀星とは往復し、又、芥川龍之介との交友もむすばれた。
* それは田端といつても、もう動坂の電車通りにちかい、大きな味噌屋の横丁をはひつた、粗末な二階家だつた。その二階からは、本郷動坂あたりの町家の屋根が見え、木立を透いて赤い支那風な三角の旗が見えたりして、彼はその眺望を好んでゐた。
 この頃から文壇的な交友も増え、諸處の雜誌に論文などを執筆することが多くなつてきた。萩原恭次郎、中野重治、堀辰雄などの若い詩人たちと知つたのも此頃である。
 第三詩集「純情小曲集」が上梓された。これは前年郷里を辭するまへに書いた「郷土望景詩」と、それからはじめて詩を書いた少年時代の作品「愛憐詩篇」とを併せて一卷となしたものである。
 しかし、この一二年間の東京生活の裡に、やや健康を害して、一家とともに鎌倉材木座に轉地した。「詩の原理」の大體の腹案は、その鎌倉の一年間において成つたらしい。
* 彼の假寓してゐた家は、もう材木座のはづれの、漁師町にちかいところにあつたやうな氣がする。私は二三度その家を訪れた。蕪村論などをきいた。最後に往つたときは、芥川龍之介が鵠沼の東家に滯在中だつたので、一しよにそこへ訪れた。病床にあつて「點鬼簿」を書いてゐられたときで、書きかけの原稿を私達に讀ませ、しきりに意見をききたがつてゐられた。夕方、私はさきに歸京した。彼はそこに泊ることになつて、深夜まで、病氣にもかかはらず、二人で語り合つてゐたといふことである。
          ※(アステリズム、1-12-94)

 彼は昭和二年再び上京し、こんどは大森馬込村に居を卜した。そして或坂上の家に二年ばかり住んでゐた。
 彼は此の頃これまでのすべてに何か行きづまりのやうなものを感じ、先づ生活の空氣を一變せんことを求めた。毎日のやうに妻を伴つて、ダンス場などへ通ひ出した。四十二のときである。
 七月、伊豆湯ヶ島温泉に往つて、そこで梶井基次郎、三好達治と知つた。芥川龍之介の死に遇つたのは、その逗留中のことであつた。
 その頃から彼と妻との間にあつた不和はいよいよ深まり、妻が家をそとにして、若いダンス仲間と共に出歩くことは毎日のやうになつた。
 さういふ荒涼とした生活の中で、彼はこれまで十年ちかく考へ拔いてゐた「詩の原理」を、冬から春にかけて、殆ど寢食も忘れて書きつづけながら、遂に脱稿した。
 そして十二月になつてそれは上梓せられたのであつた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「昭和四年。妻は二兒を殘して家を去り、杳として行方を知らず。我れ獨り後に殘り、滄浪として父の居る上州の故郷に歸る。……既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。」
 かうして彼がその生活の立てなほしに拙くも蹉跌して、かなしい歸郷をしたのは、四十四の秋であつた。
 彼はしばらく郷里の家にゐたが、既に十歳と八歳とになつてゐた二兒を母に托して、單身上京し、暫く麻布三聯隊附近の崖の上にあつた乃木坂倶樂部といふアパートに假寓した
* 「一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て、唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長歎す」(「乃木坂倶樂部」小解)
「虚妄の正義」一卷をなすところの多くのアフォリズムが書かれたのは、さういふ生活の荒蕪のさなかであつたのである。
* 「すべてのこの書の思想を私は自分の日常生活から發見した。特に大部分のトピックは、たいてい戸外の漫歩生活で啓示された。……一種の日記帳みたいなものである。」この言葉は次の箴言集「絶望の逃走」の序のなかで云はれてゐるものであるが、それは前の「新しき欲情」についても、「虚妄の正義」についても、すべてかういふアフォリズムの形式をとつた彼の著書に對して、同じやうに云へることだと思ふ。
          ※(アステリズム、1-12-94)

「昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。……」
「國定忠治の墓」の一篇はこのときになつたものである。

ああ我れ故郷に低徊して
此所に思へることは寂しきかな。

 そして七月、父はとうとう亡くなつたのであつた。
 父の死後、こんどは母、末妹、及び二兒とともに東京に定住する計畫を立てて、先づ妹と共に牛込區谷町にしばらく假寓した。そのうちに世田ヶ谷東北澤に家が見つかつたので、そこに母や二兒をも迎へた。
 この間に異色ある古歌の研究「戀愛名歌集」(昭和六年刊)が成つた。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 かくて彼は齡五十に近くして漸く落著いた生活にはひることが出來た。
 先づ、世田ヶ谷代田に彼自身の設計によつて新しい家を建てた。既に妹は詩人佐藤惣之助に嫁し、いまはただ何物にも拘束せられないで母や二兒と共に暮らすことを得るやうになつた。
 それからながい間の懸案だつた個人雜誌を遂に出すことになつた。それにはいかにも彼らしい好みによつて「生理」といふ表題が選ばれた。創刊號には前述の「國定忠治の墓」その他一篇を發表し、又、「郷愁の詩人與謝蕪村」が連載された。
* 「生理」といふ語は、彼によれば支那に昔からあつたもので、杜甫の「北征行」中の「新たに歸りてしばらく意を慰む、生理いづくんぞ説くを得ん」の類であつて、人間生活の原理、即ち人生の實相といふやうな意味をもつてゐる。それと同時に、今一般に通用してゐる Physiology の譯語として持つてゐる意味を兼ねさせて、この一語のうちに東洋と西洋とにおける別々の觀念を一つに結び合はせて表はしたものだ、と云ふ。
 第四詩集「氷島」(昭和九年)がこの間に出版された。「「純情小曲集」以來の詩をまとめて第四詩集を出版する。」と彼は言つてゐる。「それが出たら、また一轉向で、すつかり詩のスタイルを變へてしまふ。今迄に僕の詩は三度變化してゐる。いまはその新しい詩形の樣式を創造するべく沒頭してゐる。それまでは當分詩は書かない。」
* 「氷島」は「青猫」と共に、「私にとつての純一の感傷を歌つた詩集」であつて、ただ後者のもつペーソスとは異りその悲哀は「意志の反噬する牙」を持つてゐる。(定本「青猫の序による)
          ※(アステリズム、1-12-94)

 詩集「氷島」を刊行した前後から、彼の周圍には、若い友人が非常に多く集つてきた。その中に、丸山薫、辻野久憲、保田與重郎、伊東靜雄、神保光太郎、伊藤信吉、津村信夫、田中克己、阪本越郎、立原道造などの若い詩人たちの名を擧げることが出來る。そして彼はそれらの「四季」や「コギト」に據る若い詩人たちの大いなる先輩として、それから數年の間に、主としてエッセイやアフォリズムの形式で、新しい詩のために實によく仕事をした。
 この五六年間における、彼の酒を愛した飄々とした生活、しかもその倦まざる仕事、それから彼の周圍に集つてゐた若い詩人たちへの深い影響、――さういつたものに就いては他の人たちによつてもいろいろと書かれることと思ふので、此處にはごく簡單に書いておくに止める
 先づ、彼が昭和十年から十五年までに出した主なる著書を見よう。
 詩論としては、
  「純正詩論」(昭和十年)
  「詩人の使命」(昭和十二年)
 評論集としては、
  「無からの抗爭」(昭和十二年)
  「日本への囘歸」(昭和十三年)
  「歸郷者」(昭和十五年)
 研究としては、「生理」に連載してゐた、
  「郷愁の詩人與謝蕪村」(昭和十一年)
 アフォリズムとしては、「虚妄の正義」に次いで、
  「絶望の逃走」(昭和十年)
  「港にて」(昭和十五年)
 隨筆集としては、
  「廊下と室房」(昭和十一年)
  「阿帶」(昭和十五年)
 その他には、
  「猫町」(散文詩風な小説)(昭和十年)
  「宿命」(散文詩集)(昭和十四年)
 などを上梓した。
 猶、もうすこしで完成しようとしてゐたものに、
  一、日本詩歌論
  一、小泉八雲に關する研究
 の二つの著作をあげることが出來る。
* この數年間は、私は病氣と仕事のために殆ど田舍でばかり暮してゐたので、却つて彼と會ふことが少なかつたのである。私はこの頃のことを他にもつと精しく語つてくれる人のあることを欲する。私はただ、一と頃彼に一人の愛人のあつたことを仄聞してゐる。その人こそ彼に「日本の女性」といふエッセイを書かしめ、又、小泉八雲の「或る女の日記」にあれほど感動せしめる機因となつた、いかにも日本の母らしい優しい女であつたらしく、彼の生涯を考へる上には忘れてはならない人であらう。しかしその薄倖の人は彼と知つてからまもなく病歿したのである。
          ※(アステリズム、1-12-94)

「氷島」以來、彼はとうとう新たに詩作しなかつたのであらうか。その後彼の工夫してゐた新しい詩のフォルムは遂に見出されなかつたのであつたらうか。
 昭和十二年十二月のはじめ、神保光太郎の結婚を祝するために十數人の先輩友人が集つた會合に、先輩の一人として列席してゐた彼は、その會の半ばに、突然立ち上つて、微醺を帶びたまま、自作の詩を朗讀した。

わが草木とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし
過失を父も許せかし

 これは彼がそのほど故郷に歸つて父の墓に詣でたをりの偶作で、これまで人に祕めてゐたものであると言つた。突然五年ぶりで彼の詩を聞いて、私達はみんな目をみはつた。彼が何度もその「過失を人も許せかし、過失を父も許せかし」といふ結びの二句を疊句リフレーンのやうに繰り返してゐるのを感動して聞きながら、また彼が詩を作り出したのかと思ひ合つた。
 しかし、彼はどうもそのとききりしか詩を作らなかつたらしい。その歸郷のをりには他にも二篇ほど小さな詩ができ、共に「物みなは歳月と共に亡び行く」といふ散文詩のなかに插入せられたが、今のところ、それが彼の書いた最後の詩であつたらうといふことになつてゐる**
* 昭和十四年になつてから、彼はみづから舊著「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」等から散文詩風のものを選び、それに若干の未發表のものを加へて、「宿命」一卷を編んだが、それの卷末に此の散文詩が載つてゐる。
** 保田與重郎の話によると、或日彼は新しい「方丈記」のやうなものを書いて見たい、それはかういふスタイルで書くのだ、といつてその數行を朗誦するのを聞いたさうである。まだ彼の遺稿は十分に整理せられてゐないが、もしさういふものの斷片でも殘つてゐたら、と思ふこと切である。
          ※(アステリズム、1-12-94)

 昭和十六年秋ごろから、五十の半ばを過ぎたばかりの彼は健康頓に衰へ、強度の神經衰弱の冒かすところとなつて、自家に引籠り、誰れにももう會はなくなつた。
 その間、自家にあつてかならずしも寢てばかりゐたわけではなく、ときどき一人で酒も飮み、讀書なども少しづつしてゐたらしいが、翌年三月末より遂に風邪氣味にてずつと寢ついた。
* 彼は小泉八雲全集の他に「平家物語」「日本開化小史」「利根川圖志」などを讀んでゐたさうである。又此の頃から新しい手帳に鉛筆にて何やら論文のノオトらしいものを十頁ほど書き散らしてゐる。前述の「ピストルの話」もその中にある。その西洋の武器の一つを中心にして東洋と西洋との道徳の差異などを考へてゐたらしい。又、或頁には「黒幕の影からいよいよ角を出し」といふのや「行列の行きつくはては餓飢地獄」といふ謎めいた句が何かの暗示のやうに其處に書かれてゐる。
 家人の話によると、彼はずつと寢つくやうになつてから、しきりに實物幻燈といふものを欲しがつた。天井などにいろいろな物體の像を映して、自分は寢ながらそれを見てゐようとしたのである。そこで、家人は東京ぢゆう搜してみたが、それは遂にどこにも見つけることが出來なかつた。
 そして四月半ばごろから俄かに病状が惡化して、五月十一日、肺炎のために遂に逝つた。
 その死の直前まで、彼は自分が死ぬといふことをすこしも考へないでゐたらしい、といふ家人の話である。
 彼の墓は、前橋市榎町、政淳寺にある。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 彼の死後、私達は彼の二階の書齋にはじめて入ることを許された。生前には誰をもそこには通さなかつた書齋である。階段を上がつて、右側にある小さな部屋が寢室で、そこに彼はずつと病臥してゐたのである。書齋はもとは一間きりの廣い洋室になつてゐたが、晩年にはそれをいくつにも仕切つて、その一つに疊を敷いてそこを仕事部屋にあててゐた。私達がその部屋に通されたとき、その机の上に書きかけの原稿のやうなものが、うづたかく積まれてあつて、その上には「手を觸るべからず」と彼の筆蹟で書かれてあるのを見て、なんの原稿かと思つてゐると、それは家人の言によると、全部奇術の種あかしを書きとめたものださうだつた。そしてそれは會の規則で、會員の死後は直ちに燒却しなければならないものであつた。
 晩年には特に彼は奇術とか催眠術とかいふものに深い興味をいだいてゐて、阿部徳藏の主宰してゐる奇術倶樂部に正式に入會してゐたことは私達も知つてゐたし、又醉餘その手品の二三を私達も見せられたりしてゐたが、いま考へると、それを單に彼らしい道樂とのみ考へてすますことは出來ないやうな氣がせられてくる。
 それから私達はその書齋から下りようとしたとき、廊下の壁に二枚の繪がかかつてゐるのを見た。その一つの大きい方のは明治初期の版畫らしく何處かの海港の圖だつた。それは三枚續きになつたものだが、どうもよく見てゐるとその續き具合がをかしい。やはり、それはもとは四枚續きのものでその一枚が缺けてゐたものを、彼は知らずに買つてきて、あとでそれに漸つと氣がついてがつかりしてゐたといふ話である。
 もう一つの小さい方の繪を見たとき、私はこれはと思つた。それがボッチェリイの描いた天使の顏の複製であつたからである。それは私も好きなマドンナの畫中の天使の一人の顏であつたが、それを彼の書齋のなかに見出したことはいくぶん意外であつた。が、すぐ彼にもロセッティの詩など愛してゐた一面のあつたことを思ひ出して、一人で首肯するものがあつた。

附記。「四季」で萩原朔太郎追悼號を出すことになり、同人中その編纂事務にあたつた丸山薫、津村信夫、堀辰雄及び日塔聰の四人が萩原さんのお宅に往つて、御母堂、弟彌六さん、妹幸さん(津久井氏夫人)などに交る交る萩原さんについてのいろいろなお話をうかがつた。そのお話をもととし、それを自分の記憶で補ひながら、且つは手もとにあつた故人の著作を參照しつつ、いま假りに、堀がおほよその年譜を作成しておいたのである。只今のところではまだ何も資料が手もとに揃つてゐないので、年代的な正確は期しがたかつた。そのために年譜とは云ひながら、かういふ大ざつぱなものしか作成できなかつたことを遺憾とする。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店
   1951(昭和26)年6月15日
初出:「四季 第六十七号」
   1942(昭和17)年8月27日刊
※初出時の表題は「萩原朔太郎年譜(未定稿)」、「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店(1951(昭和26)年6月15日)収録時「萩原朔太郎」と改題。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月9日作成
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