春浅き日に

 二三日前の或る温かなぽかぽかするやうな午後、僕はうかうかと三宅坂から赤坂見付まで歩いてしまつた。あそこの通りは前から好きだつたが、そんな風にぶらぶら歩いたのは實に何年ぶりかだつた。僕は青山にゐる友人の家を訪問する途中だつたが、三宅坂でいくら待つてゐてもバスが來ないし、それにいかにも春先きらしい氣持ちのいい天氣だつたので、あとで疲れるとは思つたけれど、ついうかうかと歩きだしてしまつたのである。一つはひさしく通つたことのないそのへんをちよつと歩いて見たいやうな氣がしたからでもある。……
 僕はごく小さい時分に一度母に連れられてこの近くの豐川稲荷までお詣りにきたことがあつた。(僕の母はときどきそこへお詣りをしてゐた。)そのとき僕の母は電車の窓から丁度このへんの或る小路を指して、あそこでお前が生れたのだと幼い僕に教へてくれたのであつた。この通りが何んとなく僕になつかしくなつたのは既にその時分かららしい。僕はいまはもうその小路がどれだつたのかすらてんで分らない。しかし分らないなりに、この近所は割合に昔のままになつてゐるやうに思へるので、ひよつとしたら僕の生れた家もどこやらそつくりそのまま殘つてゐさうな氣がされてならぬ……。
 で、その午後も僕はその通りをぶらぶら歩きながら、何氣なしに、しかし一軒一軒に目をやつてゐたものと見える。そのうちに或る一軒の古びた洋館が僕の目にはひつた。そこの窓には明治時代風な鎧扉が深く閉ざされてゐた。そして枯れた蔦のからんだその表札には下手な日本字で「マリ・マラレ」と横に書かれてあつた。僕にはそんな外國人の名前までもなつかしいやうな氣がした。
 僕の生れたのは事實そのへんだつたのだらうが、僕はごく小さい時分から向島に育つた。なんでも最初は土手下の小家に母と二人きりで住んでゐたのださうである。或る年の夏の夜、その土手の上で打ち上げてゐた花火が近所の茅屋根に落ちて、そこらの家々が火事になつた。そのとき僕の家も半燒けになつたのであつた。僕がまだ三つぐらゐの時のことだつたらしいが、僕の最初の記憶は實にその花火の夜に始まる。それを機會に僕たちの家はその土手下から須崎町の奧の方へ引越した。そしてそこに僕が小學校へはいる頃まで住まつてゐた。しかし明治四十何年かの洪水の折にその家は屋根まで浸つてしまつた。そのとき僕は縁のすぐ下まで水が上つてきてゐるのにおもしろがつて縁側から小さな網で目高を追つてゐたことを覺えてゐる。その洪水後、僕たちは水戸樣の裏の小梅町に引き移つた。その當時の家は震災のとき燒けてしまつたが、僕たちのいま住んでゐる家は以前と同じ場所にある。(そしてもとの水戸樣の屋敷はいま隅田公園の一部となつてゐる。)そんなやうに、幼い時からずつと隅田川のほとりで育つてきた僕だつた。……
 もう數年前になるが、吉村鐵太郎がはじめて僕の家に遊びに來てくれたとき、僕たちは一錢蒸氣に乘つてずつと千住あたりまで隅田川をさかのぼつたことがある。それが吉村鐵太郎には大へん愉快だつたらしい。その後彼が遊びにくる毎に、僕たちは一錢蒸氣に乘つたものだつた。そしてその一錢蒸氣の中で僕は彼からその頃彼のよく讀んでゐたイギリスのエッセイの話などを聞いたりした。そしてその時分だけ、僕もちよつとその沿岸の風景に對して或る新鮮な魅力を感じたことがある。が、それはかへつてそれらの風景を始めて見るところの吉村鐵太郎からの影響であつたらしい。
 僕が一時チェスタアトンやビイアボオムなどのエッセイに凝り出したのはその頃である。そして僕は小説など書くよりも、そんな風なのんびりしたエッセイを書いて見たいと思つてゐた。そして僕は或る日吉村鐵太郎とその一錢蒸氣に乘つてゐるうちに、ふと「一錢蒸氣に乘ることの面白さ」といふやうなエッセイの題を思ひついた。
 さういふ題の下で、僕はイギリス風のエッセイの面白さを論じて見ようとしたのである。つまり、さういふエッセイの面白さといふものが「一錢蒸氣に乘ることの面白さ」と似てゐることを論ずるのが僕の主題だつた。ぼんやりと船着き場で待つてゐる間に歩いたらば次ぎの船着き場まで行つてしまへさうなのんびりした一錢蒸氣と、どこまで讀んで行つても一體何を論じようとしてゐるのかさつぱりわからないやうな、のんびりしたエッセイと。すでにこの二つのものの對照の中に何かしらさういふエッセイ的なものがあるやうで、僕は少からず得意だつた。早速それを吉村鐵太郎に話したら、それは面白さうだから書いて見たまへと彼はいつてくれた。しかし僕はそれをとうとう書かずにしまつた。

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行
初出:「帝国大学新聞 第四百七十一号」
   1933(昭和8)年3月20日
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2013年8月8日作成
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