「スタヴロギンの告白」の訳者に

 リルケの「M・L・ブリッゲの手記」を譯してゐると、神西清がきて、いきなり今晩中に何でもいいから自分宛に手紙を書いてくれと言ふのだ。何にするんだと訊いたら、それでもつて「スタヴロギンの告白」の新刊批評に代へたいと云ふのだ。何でもいいなら書くよ、と承諾した。それから今度一緒に譯すジィドの「田園交響樂」の打合はせなどして、神西は十時頃歸つていつた。さあ、一人になつたから、何でも手あたり次第に書いていつて、いい加減の枚數になつたらやめるつもりだ。
 僕が丁度いま、近いうちに詩の雜誌として再刊することになつてゐる「四季」のために飜譯しかけてゐる「M・L・ブリッゲの手記」は、その「田園交響樂」と妙な縁があるのだ。一月ばかり前に、僕はジャアマン・ベエカリイで或る男とはじめて會つた。その男はそのとき、僕のところによく遊びにくるT君と一緒のテエブルにゐた。店が混んでゐで他に空いたテエブルがなかつたので、僕もそのテエブルに割り込ませて貰つた。しかし始めて會ふ人にはどうも人見知りをする癖があるので、僕は默つて、買つてきたばかりの獨逸譯の「田園交響樂」をいぢくつてゐた。するとその知らない男はそれがジィドの本だと分かると、きふに親しさうに僕に口をきいた。二人の間にジィドのものの獨逸譯の話が出た。リルケも「放蕩息子の歸宅」かなんかを譯してゐるといふことを始めてその男から教はつた。それから話はリルケに移つた。その男はリルケがずゐぶん好きらしい。「M・L・ブリッゲの手記」の一節などを僕に話してくれた。僕はその時から急になんだかその本を讀みたくなつて、二三日後、そのとき傍にゐたT君に頼んで、その人の藏書を借り受けることにした。いま、僕の机上にあるのはその人の本なのだ。最近、ジィドもこの「M・L・ブリッゲの手記」の一節を佛蘭西語に譯してゐるといふことを人づてに聞いた。
 僕はこんな風に、偶然自分の手にころがり込んできたやうな本を讀むことが大好きだ。コクトオが病院でこの「M・L・ブリッゲの手記」を讀みたがつてゐたことを思ひ出した。しかし本屋に買ひにやらせたり、友人に借りたりするんでなしに、看護婦が偶然持つてゐたとか、患者がその病院に置き忘れていつたとか、そんな奴でコクトオも讀みたがつてゐたんだ。
「スタヴロギンの告白」を君が數ヶ月前に「作品」に譯し出したのを見て、僕はすぐあの水色の表紙の小さな英譯本を思ひ出した。一高時代だつた。よく二人で本郷から日本橋の丸善や白木屋(その頃洋書部があつた)へ散歩がてら行つたものだつたね。あの頃、買ひたくて、どうも高かつたりして買へなかつた本のなかに、その水色の小型な「スタヴロギンの告白」もあつた筈だ。しかし買へたところで、全部讀み通せはしなかつたかも知れないがね。――それきりすつかり忘れてゐたが、數年後、芥川さんの書庫を整理してゐるとき、その水色の表紙をした小さな本を見かけた。ちよつとなつかしい氣がした。しかし、その時はそのまま他の本と一緒に片づけてしまつた。
 君は今度これを譯しながら、あの水色の本のことを思ひ出さなかつた? ――あの頃は、どうもドストエフスキイが皆にへんな風に感心されてゐた頃だつたので、僕なんかはそのためドストエフスキイの小説はあまり讀みたがらないでゐたつけが、ドストエフスキイの他の赤い表紙のいやな英譯本と異つて、すつきりとした、氣持のいいその本だけは、妙に讀みたくてたまらなかつたもんだつたね。――今度、君の出した薔薇色の薄つぺらな本も、いままでへんな偏見からドスエフスキイを讀まうとしないでゐた人々に、君が氣持のいい日本語に移植したといふので、ちよつと讀む氣を起させ、それから急にいままでの非を悟らせて、以後ドストエフスキイに親しませ出すやうなことでもあればいいと思ふのさ。どうもそんな人達もありさうな氣がする。僕は特に、纖細な趣味のために、つまらないことからドスエフスキイを毛嫌ひしてゐる人々に、この君の小さな譯著を薦めたいものだ。
 君が今度譯すといふチェホフの「ノオトブック」だね。そいつも、あの頃ホガアス書肆から出た可愛らしい英譯本が丸善の棚にころがつてゐたものだね。あれも買ひたい本の一つだつたが、小さな癖に莫迦に高くて買へないでゐたつけね。――あれを君が譯すやうになつたのも、妙な縁だね。あの小さな本も、たしか芥川さんの書庫で見かけたぜ。
 この間、ドスエフスキイが「惡靈」についてアレクサンドル三世に宛てて書いた手紙をN・R・Fで讀んで面白かつたので、それへこの手紙を引つ張つて行きたかつたんだが、すつかり無駄話ばかりしてしまつた。しかし、無駄話で始めたのだから無駄話で終らせる方がいいだらう。

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行
初出:「作品 第五巻第七号」
   1934(昭和9)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年5月29日作成
2011年5月23日修正
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