一八七五年

 十二月四日、ボヘミヤの首都プラアグに生る。古き貴族の後裔なりと云ふ。
 

一八八五年

 幼年學校に入學。五年在學の後、退學す。
 

一八九六年

 ミュンヘンに出づ。既に「人生と小曲」(Leben und Lieder, 1894)「家神奉幣」(Larenopfer, 1896)等の詩集を出版せしも未だ世間の視聽を集めるに足らず。それ等の詩風は概ねスラヴ民謠風のものなり、又ハイネを思はしむるもの少からず。この頃丁抹の作家ヤコブセンの作品を知りて私淑す。
 

一八九七年

 引き續きミュンヘンに滯在。春、初めて伊太利に遊ぶ。秋、伯林に赴く。この頃リリエンクロオン、ホフマンスタアル、デエメル等と交る。「夢を冠に」(Traumgekr※(ダイエレシス付きO小文字)nt, 詩集)を著す。
 

一八九八年

 再び伊太利に遊び、フロオレンス等に多く留る。「基督降誕節」(Advent, 詩集)「人生に沿ひつつ」(Am Leben Hin, 短篇集)を著す。
 

一八九九年

 四月末、ルウ・アンドレアス・サロメ夫人に伴はれて、初めて露西亞へ旅す。モスコウにてトルストイに會ふ。――又ドストエフスキイを愛讀し、その「貧しき人々」の飜譯などを試む(未定稿)。「二つのプラアグの物語」(Zwei Prager Geschichten, 短篇集)「我が祝に」(Mir zur Feier, 詩集)を著す。(後者は一九〇九年に「舊詩集」(Fr※(ダイエレシス付きU小文字)hen Gedichte)と増補改題せらる。)
 

一九〇〇年

 五月、再びサロメ夫人と共に露西亞へ放す。――この二囘にわたる露西亞滯在は彼の生涯に一轉機を劃せり。
「露西亞こそは私には眞の現實でありました、それと同時に、現實といふものは遠方にあるものであり、そして忍耐づよい者にのみ極めて徐々に近づいてくるものであると云ふ事を、深く、日常的に、私に認識させて呉れました。露西亞は孤獨者の國です。其處では各自が各自の世界を所有してゐるやうに見えます。山のやうな暗黒に充ち滿ちて。――各自は、非常に謙遜ぶかく、眞に信仰あるものとして、卑下することを一向怖れませぬ。」(エレン・ケイ宛書翰)

 是度はトルストイをヤスナヤ・ポリヤナに訪ひ、それより南露西亞を遍歴す。――露西亞より歸りて後、北獨逸の一寒村ヴォルプスヴェデに淹留す。其地に屯せるマッケンゼン、モオデルゾオン、フォゲラア等の青年畫家に共鳴したればなり。「愛する神の話その他」(Vom Lieben Gott und Anderes, 短篇集)を著す。
 

一九〇一年

 クララ・ウェストホフと結婚す。クララは嘗てロダンに學びしことある女流彫刻家なり。この頃より漸くロダンに傾倒し始む。
 

一九〇二年

 「家常茶飯」(Das t※(ダイエレシス付きA小文字)gliche Leben, 戲曲)「最終の人々」(Die Letzten, 短篇集)を著す。又、「形象詩集」(Das Buch der Bilder, 詩集)成る。
 八月末、始めて巴里に往く。獨逸の一書肆の乞によりロダンに關する評傳を書かんがためなり。ロダンを識る。先づ拉典區トウリエ街に假寓す。當時の状況は後年の作「マルテの手記」中に髣髴としたり。十月、ラベ・ド・レペ街に移る。
 

一九〇三年

 「オオギュスト・ロダン」(Auguste Rodin)成る。稍※(二の字点、1-2-22)健康を害し、三月より四月に至るまで伊太利ピサに近きヴィアレジオに靜養す。その後、一度巴里に戻りしも、間もなくヴォルプスヴェデに赴き、暫くその地及び近傍のオオベルノイランドに滯在後、是度は妻クララと倶に再び伊太利に往き、ヴェニス、フロオレンスを經て、十一月羅馬に至る。是年又「ヴォルプスヴェデ」(Worpswede, 畫家評傳)刊行せらる。
 

一九〇四年

 引き續き羅馬に滯在。キエルケゴオル、ヤコブセンを精讀す。「マルテの手記」の腹案成りしはその滯在中のことなり。ルウ・アンドレアス・サロメに宛てたる手柬に彼の將來の仕事のプランを述べたる一節あり。「第一、祈祷書。第二、一エポックを劃すべき嚴格精密なる散文。第三、戲曲試作。第四、詩人ヤコブセン及び畫家スロアガに關する評傳。」――以上四つの中、第一は即ち「時祷詩集」(1906)、第二は「マルテの手記」(1910)なるべし。されど他の二つは遂に計畫のみに終れるか。六月、エレン・ケイ等の招聘を受け、アシジ、ピサ、ミラノ、デュセルドルフ等を經て、瑞典に往く。十二月に至るまで瑞典及び丁抹に遊ぶ。
 

一九〇五年

 一月、オオベルノイランドに戻り、それより九月に至るまでヴォルプスヴェデ、ゲッティンゲン、伯林等に轉々としつつ殆ど無爲に過す。九月、ロダンの招聘により欣然として巴里に赴く。郊外ムウドンのロダン家に寄寓す。爾來、ロダンの祕書役のごときものとなる。
 

一九〇六年

 「時祷詩集」(Das Stunden-Buch)成る。「時祷詩集」は一九〇〇年の露西亞滯在中に萌芽せしものにして、その完成にまで數年を要したり。「修道院生活」、「巡禮」及び「貧困と死」の三卷より成る。神を求めつつ遂に神の應答を得る者の内的獨白のごときものなり。
「おお主よ、我等にみづからの死を與へ給へ。我等が愛し、理解し、苦しみし、其生より由つて來るところの死を我等に許させたまへ。何となれば我等は樹皮と葉とに過ぎずして、只我等がみづからの裡に持てる、大いなる死こそ、すべてのもののつて成りし果實なれば。」(貧困と死との書)

 三月、伯林、ワイマル等を巡りてロダンに關する講演をなす。旅中、父の死に遇ふ。五月、些細の事よりロダンの怒りを蒙つて、ロダン家を立退くべく餘儀なくせられ、カセット街の小さきホテルに假寓す。その後、一年餘ロダンと交を絶つ。「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」(Die Weise von Liebe und Tod des Cornets Christoph Rilke, 敍事詩)刊行せらる。但し、是は、一八九九年の作に係るものなり。「形象詩集」(1902)を補ふ。八月獨逸に歸る。秋の頃、伯林よりエレン・ケイ宛の書翰に、
「若し私の内部の欲求に從ふとしたら、いま私に一番よいのは巴里に往くことでせう。八月のはじめまで私は其處で眞面目に熱心に仕事して居りました。……重い心で、私はそれほど自分の仕事に適當な巴里を見棄てなければなりませんでした。」

 されどその巴里にては生計の途を見出し難かりしため、伊太利カプリ島の友人より聘せらるるまま、十二月其地に立つ。
 

一九〇七年

 五月に至るまでカプリ島に留る。五月未、漸く意を決して巴里に出で、カセット街の舊居に落着く。詩作に專心す。
 十一月、維納等に赴く。ロダンに關する講演のためなり。この頃より再びロダンとの文通始まる。「新詩集」(Neue Gedichte)を著す。「時祷詩集」のスタイルの頗る茫漠として殆ど無形なりしに反し、「新詩集」のスタイルは極めて堅牢にして彫塑的と云ふを得べし。ロダンの影響著し。
「それから私の新しい詩集でありますが、その中には謙讓な氣持で自然に即して仕事をした數篇のものがございます。いかにあなたの作品と生き方とが私に明白な進歩を促したかを、人々が其處に認めんことを。何故なら、若しも他日自然を立派に追及した人々の間に私も伍せられるやうなことがあるとしましたら、それは私が心からあなたの忠實な弟子であつたからに過ぎませぬ。」(ロダン宛書翰)

 又、「オオギュスト・ロダン」(1903)を補ふ。十二月オオベルノイランドに滯在。
 

一九〇八年

 三月、靜養のため、ナポリを巡りて再びカプリ島に遊ぶ。エリザベス・バレット・ブラウニングの「※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)葡萄牙詩抄」(Sonette nach dem Portugiesischen)を譯す。五月、巴里に出でカムパアニュ・プルミエェル街に居を構ふ。「新詩集別卷」(Der neuen Gedichte, anderer Teil)成る。この頃セザンヌの繪畫を知り、甚しく傾倒す。
 八月末、ヴァレンヌ街に居を移す。十一月頃より「マルテの手記」に筆を下す。十二月二十九日付のロダン宛の書翰に、
「詩をつくる場合は、いつも外部の事物のリズムによつて助けられ、すらすら運ばれるやうなことさへあります。何故なら抒情的抑揚は自然――水や風や夜――のそれと同じだからであります。が、散文をリズムづけるには、自分自身の内に潛入して、血のリズムを發見しなけれはなりませぬ。」

 

一九〇九年

 殆ど巴里を離れず、「マルテの手記」を書き續く。傍ら「鎭魂曲」(Requiem, 詩集)成る。
 

一九一〇年

 「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲの手記」(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge)公にせらる。當時ルウ・アンドレアス・サロメに宛てたる書翰に、
「あなたは私がこの本の背後に、恰も生き殘つた者のやうに止つてゐるのがお分かりになりますか? ……私はこの本の終りに近づけは近づくほど、それが何か一つのエポック――分水嶺――のやうなものを作るやうな氣がいたしました。が、今や、あらゆる水が向う側に流れて行つてしまひ、そして私だけが、この希望のない果てしなき乾燥の中に取殘されてゐることは、確かな事物であります。……私は私の全財産をこんな物に徒費するやうな莫迦げた事をしてしまひました。が、一方、この物の價値はかかる私の破産からのみ生じたのでありませう。そして私は、長い間マルテが私には敗北とは見えず、寧ろ天の見棄てられた領域への向う見ずな上昇として見えてゐた事を、思ひ出します。」

 是年も概ね巴里にあり。十一月、アルジェリヤ、テュニス、埃及への旅に出づ。
 

一九一一年

 三月甚しく健康を害して埃及の旅より歸り、ヴェニスにて暫く靜養後、巴里ヴァレンヌ街の舊居に落着く。夭折せる佛詩人モオリス・ド・ゲランの「サントオル」(Die Kentauer)及び聖ペテルスブルグ帝立圖書館の古文書中に發見せられたる説教文「マグダレナの戀」(Die Liebe der Magdalena)を譯す。秋より、墺太利アドリア海沿岸の一寒村にありしドゥイノ古城に逗留す。その古城はマリイ・フォン・トゥルン・ウント・タクジス・ホオフェンロオエ公爵夫人が彼のために提供せるものなり。
「いま、私はこの古い館に、全く一人きりで、住んでゐます。この館は、それがその上に屹立してゐる岩石のやうに、がつしりしてゐて、時間と海――その海の鹽は油斷も隙間もなくその館を蝕まうとしてゐるのです――に對して挑戰してゐます。この館の大きな壁は、私をまるで囚人のやうに閉ぢこめてゐます。が、ときをり私は、常春藤の群でもつてこの古い館を攻撃してゐる、急勾配をした庭園の中に、拔け出すことを許されます。ときどき小春日和のやうな數時間の續くこともありますが、日沒が早くて、四時頃から、もう冬の燈火に向はねばなりません。」(ロダン宛書翰)
 かかる古城にて全く孤獨に冬を過す。伊太利の女詩人ガスパラ・スタンパ等を愛讀す。
 

一九一二年

 一月、「ドゥイノ悲歌」の第一稿成る。他日、詩人自ら彼女に語りしとトゥルン・ウント・タクジス公爵夫人の記せる所に據れば、
「一月の或日、ドゥイノで、リルケは非常に面倒な用件の手紙を受取りました。それへ出す返事を考へるため、彼は戸外に出て行きました。それは風の強い日で、大陸は波立つた海を赫かせてゐました。彼は返事の文句を考へながら、海面から二百米もあるやうな絶壁の上をさまよつてゐました。突然、彼は立ち止まりました。風の音のなかに、一つの聲が彼にこんな問を發したやうに思つたからです。「たとへ私が叫んだとて、天使の仲間うちでは誰が私を聽いてくれよう?」彼は小さな手帳を出して、そのままそれを書き取りました。次いで數行の詩句が殆ど期せずに書かれました。……その晩、第一悲歌が成りました。第二悲歌も數日のうちに成りました。が、それきりで神の聲は聞えなくなりました。それから十年の長い年月、彼はその神の沈默にむごくも苦しまなければならなかつたのでした。」(「囘想のリルケ」)

 七八月の頃ヴェニスに遊ぶ。エレオノラ・ドウゼと交る。十月より西班牙に旅す。多くトレド及びロンダに居る。「ドゥイノ悲歌」を書き續かんとせしも成らず。
 

一九一三年

 二月遂に西班牙より空しく歸り、六月頃まで巴里に滯在す。「マリアの生涯」(Das Marien-Leben, 詩集)を著す。又、日頃愛讀せる葡萄牙尼僧マリアンナ・アルコフオラドの遺せる五通の戀文「ぽるとがる文」(Portugiesische Briefe)を譯す。
 六月シュワルツワルドに往きて保養す。八月より伯林に滯在。十月巴里に歸る。再びカムパアユニュ・プルミエェル街に住す。アンドレ・ジィドの「放蕩息子の歸宅」(Die R※(ダイエレシス付きU小文字)ckkehr des Verlorenen Sohnes)を譯す。
 

一九一四年

 ミケランジェロの詩を譯す。又、十六世紀中葉のリヨンの閨秀詩人ルイズ・ラベの遺せる二十四篇のソネット(Die vierundzwanzig Sonette der Lou※(ダイエレシス付きI小文字)ze Lab※(アキュートアクセント付きE小文字))を譯す。歐洲大戰勃起し、巴里を立退く。
 

一九一五年

 ミュンヘン、維納也等に於いて新聞班の一員として勤務す。
(大戰中、ドゥイノの古城は伊太利軍のために無殘にも破壞せられたり。)
 

一九一九年

 戰亂漸く治るや、數年間殆ど全く中絶せられし「ドゥイノ悲歌」を書き續くべく、瑞西に赴き、ジュネエェヴ、ソリオ、ロオザンヌ、ベルヌ、ロカルノ、ベルグ、エトワ等に轉々として滯在しつつ、空しく三年近き月日を過す。或時はもはや「悲歌」の完成は到底望み難く見え、已むを得ずんば斷片のまま是を公にせんかと欲せし事もありしごとし。ポオル・ヴァレリイの詩にいたく感動し、その飜譯を試みはじめしもその間の事なりき。
 

一九二一年

 七月、ヴァレエ州ロオヌ溪谷のシエルの近くに十三世紀頃の建立にかかはる古塔シャトオ・ド・ミュゾットを偶然發見す。修理を加へて、此に隱棲す。
「此のあたりの風物に不思議に西班牙とプロヴァンスとを想起せしめるもののある事が特に私を打ちました。何故かと申しますと、大戰前の二三年、私に他のもの以上に力強く話しかけてくれましたのはその二つの土地であり、そして今、こんな瑞西の山間の遠い溪谷にその二つの聲の融け合つてゐるのを發見したからであります。」(トゥルン・ウント・タクジス公爵夫人宛書翰)

 ポオル・ヴァレリイ、伊太利旅行の途次、此シャトオに詩人を訪れしことあり。

「恐ろしい山々の廣漠たる風物の中に全く孤立せる小さな莊。私はこれまでかかる孤獨な存在、かかる沈默との程度の親密を想像だに出來なかつた。親愛なるリルケよ、あなたは純粹なる時間の中に閉ぢ籠つてゐるやうに私に思へた。これ等の同じやうな日々を透して、向うにはつきりと死を見させて置くやうな、そんな單一な生活の透明さを私はあなたのために恐れた。が、あなたを氣づかつた私は、何と愚かであつたか!」(ポオル・ヴァレリイ「リルケ頌」)

 

一九二二年

 二月、「ドゥイノ悲歌」(Duineser Elegien)成る。十一日付のトゥルン・ウント・タクジス公爵夫人に宛てたる書翰に、
「遂に、公爵夫人よ、遂に祝福せられた時です。ああ、私があなたに、この悲歌の完結――さう私は思つて居りますが――をお知らせできる、この時は何んと祝福せられてゐることでせう。十篇です。……すべては數日の間に成りました。それは嘗つてドゥイノにおいてさうであつたやうに、いふべからざる颶風でした。心の嵐でした。私の裡に緯であり經であつたすべてのものは截ち切られてしまひました。その間何を糧にしてゐたのだか全く思ひもつかない位です。恐らく神樣だけが私の何を食べてゐたかを御存知でせう。……」

 傍ら「オルフォイスへのソネット」(Die Sonette an Orpheus)を作る。是は夭折せる一少女のための墓標として書けるものなり。
「ドゥイノ悲歌」完成後、健康いたく衰へはじむ。
 

一九二三年

 なほも若干の詩作(其等の詩は死後「後期詩集」(Sp※(ダイエレシス付きA小文字)te Gedichte, 1934)と題せられて公にせらる。)をなせし他、ヴァレリイの「詩集」(Gedichte)及び「ユウパリノス」(Eupalinos)を譯す。
 

一九二四年

 ラアガツに靜養す。この頃より佛蘭西語にて即興詩を試み、晩年に至るまで「果樹園」(Vergers, 1926)「薔薇」(Les Roses, 1927)「窓」(Les Fen※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tres, 1927)及び「手帖」(Carnet de Poche, 1929)の四つの小さき詩集を作る。
 

一九二五年

 巴里に最後の滯在をす。九月、瑞西に歸りしも、健康頓に衰へ、ヴァルモンの療養所に入る。
 

一九二六年

 十二月二十九日、ヴァルモンの療養所にて白血症のために死す。ロオヌ河上流の小さき村ラロンに葬らる。その墓碑銘は自ら撰みしものなり。
「薔薇よ、おお、純粹な矛盾、幾重ものまぶたの下に、
 誰れのでもない眠りを味つてゐる悦び。」

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店
   1951(昭和26)年6月15日刊
初出:「四季 第八号 リルケ研究」
   1935(昭和10)年5月20日刊
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年1月21日作成
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