ヴェランダにて

 一九三五年晩秋。或高原のサナトリウムのヴェランダ。二人の患者の對話。
A 君はよくさうやつて本ばかり讀んでゐられるなあ。
B うん。どうも書くことを禁ぜられてゐると、本でも讀んでゐるより他に時間のつぶしやうがないからね。しかし、かうやつて本でも讀みながら、それとなく次の仕事のことでも考へてゐるうちが、僕等には一番愉快なのだよ。
A その本は何だい?
B これか。これはジャック・リヴィエェルの「フロオランス」といふ小説だ。これを書きかけで、この可哀さうな男は死んでしまつたのだ。
A リヴィエェルつて「エテュウド」を書いた奴かい?
B うん、あいつだ。あの「エテュウド」を飜譯した連中に云はせると、リヴィエェルなんていふのはまるで希臘神話の中の龜みたいな奴で、生れつき飛べないくせに自分でも飛ばうとして、鷲かなんぞに引張り上げて貰つたが、途中で墜落してしまやあがつたと云ふのだが、――ほら、そんな繪があの本の表紙についてゐたらう? ――隨分怪しからんことを云ふと思つて、すこしリヴィエェルが可哀さうになつてゐたが、どうもこの「フロオランス」なんか讀んでゐると、それも半ば肯定したくなつてくるね。……僕はずつと前から、この「フロオランス」といふ小説の草案のやうなものだけは知つてゐた。隨分面白いものになりさうで、大いに期待してゐた。それがやつと今年の春に――リヴィエェルが死んでからもう十年になるが、――單行本になつたので、早速取り寄せて貰つたのだが、讀んでみたら草案なぞで想像してゐたのとはまるつきり違ふ。期待が大きかつただけ、それだけ失望も大きいのだ。
A そんなにつまらないのかい?
B うん。つまらないと云へばつまらないけれど、さう簡單にも片づけられないね。ただ、どうも僕の想像してゐたのとまるつきり違ふんでね。どう違ふかといふと、その草案などで見ると、リヴィエェルは非常に小説らしい小説――例へばメレディスみたいな客觀的小説を書きたがつてゐるのだね、少くとも讀者を「リヴィエェルではない何物かの眞中に投ずる」やうな小説を意圖してゐる、――が、出來上つたものは、いや出來上りかかつてゐたものは、まるで論文みたいな小説なんだ。どこまでもリヴィエェルがつき纏つてゐる。「エテュウド」の臭ひがする。これはエテュウド・プシコロジックか。……しかし、途中でつまらなくなつて何度もはふり出さうと思ふんだが、それでもやつぱり最後までかうやつて讀んでゐる。何が僕にこの本を棄てさせないのかしらと、讀むのに倦いては考へて見るんだが、そんな時にひよつくり死を前にしながらこの小説を書いてゐるリヴィエェルの悲痛な姿が浮んでくることがある。……。僕は前に彼の妹の書いた囘想記を讀んだことがあるんだ。それに據ると、リヴィエェルは死ぬ一年ばかり前にこの仕事にとりかかつてからと云ふもの、それまで長いことすつかり失つてゐた少年時代の無邪氣な樣子、――殊に遊戲なんぞに夢中になつてたときのやうな樣子を取りもどし出し、さうしては口癖のやうに「僕にだつて小説が書けることを皆に分らせてやるんだ」と云つたり、「ああ早くこの本の出來上るのを見たいがなあ」と子供のやうに氣短かになつたり、又、ラジィゲの死んだ時は「僕もこんな風に死んでゆくんだよ」などと妹に云つたりしたさうだ。そんなに大事だつた小説を書きかけで死んで行かなけれはならなかつた男、しかもその書きかけの小説すら恐らく彼自身の期待からもひどく外れてしまつてゐたであらうこと、最後になつて遂に自分の才能を自覺しなければならなかつたこと、そんなことを考へたら誰でもこの小説を最後の頁(痛ましくも中絶されてゐる……)まで讀んでやりたくなるだらうぢやないか。すこし感傷的になつたが、もう止さう。さうして別の方から出なほさう。どうも僕はこんなことを喋舌つてゐるうちに、「フロオランス」にあるのはそんなものだけぢやないことに氣がつき出してきたんだ。――やつぱり、この小説なんぞでも、作者は本の中にちやんとした主題を置いてゐるね。眞劍になつて何か云ひたがつてゐることのあるのが、讀者にも知らず識らず通じてくるのだ。だから、それをすつかり聞いてしまはないうちは、やつぱり中途で止められないのだね。
A 西洋の作家はそこが日本の作家と違ふな。僕などはあまり讀まないが、ときどき日本の小説を讀む度毎に考へさせられるんだが、一體何か云ひたいものを持つてゐてそれで書いてゐる作家が幾人ゐるのだい?
B …………
A で、その「フロオランス」といふのは、何を書かうとしてゐるの?
B Le vent se l※(グレーブアクセント付きE小文字)ve, il faut tenter de vivre.(風が立つた、生きんと試みなければならぬ。)――ヴァレリイの詩句だが、これがこの小説の題辭エピグラフになつてゐる。一番簡單に云ふと、さういふ生きんとする試み――その苦しい試みをピエェルがいかに超えていつたかが、その主題だ。もうすこし精しく云ふと、ピエェルとフロオランスとの出會、彼等の戀愛、昔の戀人に奪囘されるフロオランス、彼の嫉妬、――さういつた人生との痛ましい苦鬪ののち、遂にピエェルは自己の快樂を犧牲にして再び元の自己へ、神の許へ歸つてゆく。(その結末のあたりは未完に終てゐるが、序文でリヴィエェルの細君がさう解説してゐるのだ。)――まあ、さういつたやうな境遇の心理的研究のやうなものになつてしまつてゐる。リヴィエェルのねらつてゐたやうな小説的興味などはちつとも起らない。フロオランスといふ女だつて、ちつとも描けちやゐない。……この間讀んだモオリアックの「テレェズ・デケルウ」なんぞに比べたら、まるでなつちやゐないのだ。……ただ、あの生眞面目で、氣どりやのリヴィエェルが人生に對して持つてゐた愛、生の悦びを味へるものなら何でもかんで手に入れようとしてゐた意慾、さういつたものだけが悲しいまでに僕を打つてくるのだ。さうしてそれだけだ。が、本當にそれは悲しいまでになのだ。……
A そのモオリアックの小説つて、どんなの? その何とかいふ……
B 「テレェズ・デケルウ」か。これはもう素晴らしい小説だ。數年前、僕がはじめて小説を書き出さうとしてゐた頃にコクトオやラジィゲの小説を讀んで非常に刺戟されたものだつたが、まるであの時分みたいに僕はこの小説を讀んで昂奮してゐる位なのだよ。この一二年といふもの、僕もなんか小説の上で行きづまりかけてゐてひどく心細かつたが、モオリアックを知つてからといふもの、急に行手が明るくなつたやうな氣がしてゐるのだ。――が、かういつたモオリアックのやうな行き方は、仕事としては一番難かしさうだが……
A 一體どんな行き方をしてゐるのだい?
B どんな行き方つて、さう、ごく大ざつぱに云ふと、ドストエフスキイやプルウストみたいな掘り下げ方をしてゐる。恐らく彼等から隨分影響を受けてもゐるのだらう。そしてかなり深くまで行つてゐる。が、ああいふ厖大なものぢやない。みんな二三百頁位の作品で、ごく澁い、クラシカルな額縁の中にちやんと嵌つてゐる。そんなところは、その古典的な形式を僕の愛してやまないジィドの「窄き門」を思ひ出させる。そんな一方では、モオリアックは口を極めてラジィゲの「舞踏會」を賞めてゐるし、コクトオの小説も愛してゐるらしい。コクトオの小説の中にある「夢のやうなものと悲痛なものとの混合」は珍重すべきだなどと云つてゐる。……ともかくも、今名前を擧げたやうな作家たちをまるで打つて一丸としたやうな作家なのだ。以上の作家たちは、いづれも僕のこれまで特に勉強してきた作家たちだ。――さういつた要素が何もかあるやうなこのモオリアックを、僕が好きにならざるを得ないぢやないか。ただ、すこし困ることがあるんだ。それはモオリアックがカトリック作家であることだ。それのために僕はいままでつい彼を敬遠してゐたのだが、それがまたいつか僕を彼から引き離すやうなことになるかも知れんね。どうも僕は一生カトリックにだけはなれさうもないからなあ。だが、僕のこれまで讀んだ彼の作品――ことに「テレェズ・デケルウ」なんかぢや、そんな宗教臭いところは何處にもないね。モオリアックがカトリックであることを知らなかつたら、全然そんな要素には氣がつかずにしまふのぢやないか知らん?
A でも、作家がカトリックである以上は、全然そんな要素のないわけではあるまい。
B うん、それが一番モオリアックを苦しめてゐる問題でもあるのだらうね。こんなことを云つてゐる、「私は作家だ、私はカトリックだ、そこに爭鬪があるのだ。」「カトリックであることは作家にとつては幸福だが、作家であることはカトリックにとつては甚だ危險なことだ」と。――ところで、そのカトリシズムなるものが、僕等にはなかなか解らないのだよ。ボオドレエルにしろ、ランポオにしろ、又、コクトオのやうなものまでが、最後にはカトリックになるね。あの氣持だな、あれがちよつと解るやうな解らないやうな氣がするのだ。恐らく誰に訊いてもはつきりとは答へられまい。ちやうど東洋の詩人が最後にはすべて虚無のやうなものに還つてゆく、ああいつた氣持にそれが何處か似てゐるやうでゐて、まるで正反對なのではないかと思ふ。たとへば、モオリアックだな、その「テレェズ・デケルウ」と云ふのは、夫を毒殺しようとして未遂に終る女のことを書いてゐるのだ。さういふ恐ろしい女主人公を、モオリアックは少しも憎まうとしてゐない。それどころか非常に優しい愛情でもつて包んでやつてゐる、自分の慘めなことを知つてゐるこの女が好きで好きでたまらないやうなところが僕等にも感ぜられる、そしてさういつたものがこの小説の調子をリリカルなものにさへしてゐる位だ。が、それに引きかへ、彼女の周圍の者は、ことにその俗人ではあるが善良な夫などは徹底的に冷酷に取り扱はれてゐる。むしろ戲畫化さへされてゐる。――恐らくモオリアックの愛してゐるのは、テレェズの痛々しいまでな不安なのであらうし、はげしく憎んでゐるのは、夫やその他の人々の世俗的な自己滿足なのであらうと思はれる。――そしてそれだけが僅かにカトリック的だと云へば云へないこともないだらう。
A それがどうしてカトリック的だと云ふのだい?
B 僕に相變らず解つたやうな解らないやうな始末なのだが、まあ、さういつたものがカトリック的なのだとして置いて貰はうぢやないか。この問題は、もうすこしお預けだ。そのうちだんだん解るかも知れん。――ともかくも、さういふ問題は拔きにしても、この小説は素晴らしいものだ。この可哀さうな毒殺女の氣持のよく描けてゐることと云つたら! 恐らく讀者には、テレェズ自身よりも、彼女の夫を毒殺するに至るまでの心理が、はつきりと辿れるのだ。何故ならテレェズには、彼女自身のしてゐることを殆ど意識してゐないやうな瞬間があるのだが、さういふ瞬間でさへ、讀者は、彼女がうつろな氣持で見つつある風景や、彼女の無意識的な動作などによつて、彼女がその心の闇のなかでどんなことを考へ、感じてゐるかを知り、感ずることが出來るのだ。――こんな工合に讀者を作中人物の氣持のなかへ完全に立ち入らせてしまふなんて云ふのは、君、大した腕だよ。それがこれほどまでに成功してゐる例は滅多にあるものぢやない。
A ラジィゲの「舞踏會」はさう云つたところがあるんぢやない? 僕などはあの女主人公の心理にぐんぐん引つぱられて行つたものだがなあ。
B さうだ、あれも大したものだつた。誰かが云つてゐたが、「この女は自分ではかうなのだと信じてゐる……が、實際はかうなんだ……」なんて云つた調子で、知らず識らずに自分の感情を間違へてしまつてゐる、それほど豐富で複雜な感情をもつた人々が實に微妙に描き分けられてゐたが、いま考へると、あの小説の唯一の缺點は、あまりにラジィゲが自分の作中人物を支配しすぎてゐたことだ。モオリアックを讀んだあとなどではそれが特に目立つ。モオリアックはむしろ反對に自分がその作中人物に支配されることを好む。いつのまにか作中人物が彼等の裡にある運命曲線を一人でずんずん辿り出す。作家はただそれについて行くだけになる。作中人物が生々としてくればくるほど、ますます彼等は作家の云ふことをきかなくなるものだ。しまひには作家をまるで思ひがけないやうなところまで引つぱつて行つてしまふ。それは作家にとつては大成功だ。――だが、モオリアックなどには、カトリックとしての立場から、それがまた隨分苦しい爭鬪になつてくるのだらうね。
A ぢや、さつき君の非難してゐた「フロオランス」などはどうなのだい?
B さう、あれはまるでぢつとしてゐる肖像畫みたいなのだよ。――才能の相違かな、作家としてのね。それが一番大きな問題だらう。――だが、それからもつと具體的な相違を抽き出して考へて見ると、例へばそれは兩者のモデルの扱ひ方にあるのだと思ふ。先づ、リヴィエェルの「フロオランス」だが、これには實在のモデルがあるのださうだ。一つにはそのモデルへの顧慮からも、發表をひかへてゐたのだが、そのモデルになつた女性が亡くなつたので、漸くこの遺稿が上梓されるやうになつたといふ話も聞いてゐる。それほど、リヴィエェルは、そのモデルを出來るだけそつくりそのまま生かさうとしたらしいのだね。生れつきさういふ性分であるらしい。批評の場合は、その對象に何處までも忠實について行かうとする、さういふ誠實さが誰にもましてリヴィエェルの批評の強味であり、屡※(二の字点、1-2-22)それが見事な成功を收めてゐるが、小説の方はなかなかさうは行かないのだ。小説にあつては、リヴィエェルに最も缺けてゐるもの――想像といふものが大きな力だからだ。その力なくして、モデルをそつくりそのまま生かさうとすればするほど、モデルは靜物化する――モオリアックは、小説の技術といふものは、さういふ現實の「再現ルプロデュクション」ではなくして、現實の「置き換へトランスポジション」であるとしてゐる。つまり現實は單なる出發點たるに止め、作家はその漠然たる可能性を實現さすべきであり、その結果人生がとつたのとは反對の方向をとるのも好いとしてゐる。「テレェズ・デケルウ」もその一例で、少年の頃、重罪裁判所で見かけた一人の痩せた毒殺女がそのモデルになつてゐる。贋の處方箋で毒藥を手に入れることだけ、現實から直接に借りたが、現實はそこで打ち切られ、それから先きは、實際の女とは全然別な、ずつと複雜な性格に仕上げたのだ。實際は、その女の動機は甚だ簡單で、他に情人があつたからなのだが、小説の「テレェズ」では、彼女自身は、何が彼女をそんな犯罪にまで驅りやつたのか全然意識してゐなかつたやうに、悲劇が仕組まれてあるのだ。
A 何故その女は自分の夫を殺さうとしたか、作者も一切説明してゐないのか?
B 何處にも説明らしいものは見あたらない。ただ前にも云つたやうに、その女をそんな行爲にまで驅りやつた漠然とした動機は、我々にはその女自身によりもいくらかはつきりと感ぜられる位のものだ。ただ、その小説の結末になつて、夫が遽にテレェズを許して、巴里に連れてゆき、其處に彼女を一人だけ殘して再び田舍へ歸つて行かうとする際、夫ははじめて優しく妻に「どうしてあんなことをしたのだ?」と問ひかけると、テレェズは「いましがたそれがやつと分りました。それは貴方のうちに不安を見出したかつたからかも知れません」と答へてゐるのだ。それからまた彼女に「私は私の手がためらふときしか自分を殘忍な女だとは思ひませんでした。……私は恐ろしい義務に負けたのです。さうです、それはまるで義務のやうでした」とも云はせてゐる。これらのテレェズの言葉が、見方によつては、小説全體の上に強い光を投げつけ、彼女のそれまでの憑かれたやうな行爲の一つひとつを異様に照らし出すやうに思へないことはない。さうしてテレェズの夫のやうな、自分に滿足し切つて、いくぢのない平和を貪つてゐる人間の裡に、はげしい不安を呼び醒まさずにはおかないやうな恐ろしい義務、テレェズをしてあんな慘めな行爲に驅りやつたもの、――さういつたやうなものが同時にまた、この「テレェズ・デケルウ」を書いたモオリアックのカトリックとしての唯一の口實なのではないか。そんな氣がする。少くともいまの僕にはそれだけしか解らん。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
底本の親本:「曠野」養徳社
   1944(昭和19)年9月20日
初出:「新潮」
   1936(昭和11)年6月号
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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